比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

渡良瀬遊水地・・・谷中村跡・・・冬の風景

2011-01-17 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
1月14日、久しぶりに渡良瀬遊水地を歩きました。寒いのですが風のない日、旧谷中村跡・・・(といっても一面の葦の原とところどころにある屋敷のあったという標柱だけですが)・・・を8X双眼鏡と10Xデジカメを持ってブラブラと鳥見散歩です。

葦刈りの作業をする人たち。

旧谷中村の氏神様・・・雷電神社跡・・・今は小高い塚と標柱のみ。

標柱の下にお賽銭が・・・尊い。
旧谷中村の延命院跡。梵鐘と赤い鉄の箱(中に誰でも書くことのできる連絡ノートと手作りの谷中村たよりが入っています)。

1741年鋳造の梵鐘
久喜市の火の見櫓に使われていたものが里帰り。
実物は藤岡町(現栃木市)の歴史資料館に。これはレプリカです。
延命院の鐘から振りかえると旧谷中村の村びとたちの共同墓地跡です。
廃村になったのは1906年、もう105年たっています。
・・・新しい卒塔婆とその下にお花が。

共同墓地のランドマーク・・オオクヌギです。

渡良瀬川の最上流の足尾銅山、そしてこの谷中村をつなぐ線が近代日本の公害の原点です。
谷中村に関する過去ログです。
  2008年5月22日・・・「渡良瀬遊水地・・・延命院の鐘
  2008年5月27日・・・「渡良瀬遊水地・・・谷中村(終章)・・・墳墓の丘
  2008年3月20日・・・「渡良瀬遊水地・・・野焼き(終章)・・・谷中湖

延命院の赤い鉄の箱の中にある谷中村たよりを持って帰り読んでいます。ラムサール条約登録(湿地の動植物保護の国際条約)を申請してるそうです。次回の開催は2012年5月のようです。日本では37の登録地があります(尾瀬、奥日光の湿原、琵琶湖などですが有名でないところもいっぱいあります)。渡良瀬川の鉱毒の集積地として作られた人工的な湿地であり国際空港とか演習地とかそういう計画もあるようですが、今は貴重な動植物の宝庫のような自然湿地になりました。ぜひ条約登録が実現してほしいです。連絡ノートの抜粋も載せられています。小学生、九州から来た人、韓国姓、中国姓の人も書かれています。

ゆっくりと歩いても30分も歩けば一回りですが、帰りに高い木の枝の中にトンビが・・・さらに少し歩くとノスリもいました。いちおう猛禽ですから写真を撮ろうと車に戻って24Xのカメラを持ってふたたび木の下に。じっと待っていてくれました。

東洋一の鉱山だった神岡の町・・・そしてイタイイタイ病

2010-10-27 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
10月6日、朝の高山を散策、宮川に沿って越中街道を富山に向かう。古川を過ぎると宮川に沿って進む越中西街道、数河高原を越えて高原川の谷に出る越中東街道に別れる。神岡の町(現飛騨市)を見たかったので東街道(国道41号線)を選び、野口という集落から数河(すごう)高原に。約900mの(分水嶺)を過ぎると山田川に沿って下って高原川と合流したところが神岡の町。

神岡城址の高台から神岡の町を俯瞰してみました。高原川を渡る中央の橋が西里橋、橋の左岸が中心部、下流の橋のあたり右岸がかつての神岡鉱業亜鉛精錬所。橋の左岸に今は廃駅になった神岡鉱山前駅があります。
大きな町です(でしたというほうがいいかもしれません)。今から50年ぐらい前の鉱山最盛期には人口27000人、2004年には10000人という数字があります。現在の人口はわかりません。


神岡の町を俯瞰した神岡城址にある擬城。神岡城は戦国時代の1564年築城され、1615年一国一城の定により取り壊され石垣と堀のみが残されました。1970年三井金属鉱業100周年記念事業で模擬天主閣、模擬城門、鉱山資料館、郷土館が作られたのだそうです。

擬城ですから入城しませんでした。

城址を出て国道471号線を下りていき橋を渡ると廃駅の神岡鉱山前駅、ここからふたたび国道41号線で富山方面に、三井金属エンジニアリング、神岡鉱業所、道が狭く駐車するところが見つからないので、ちょっと遠いところで工場群を撮りました。

神岡鉱山・・・奈良時代養老年間720年ごろから採掘が始まり、銀山として本格的に採掘が始まったのは江戸時代金森氏支配のころから。そのご幕府支配になり、明治の時代に三井組が零細な山師の持つ権利を買収していき、1886年和佐保抗(現神岡中心部)、1889年茂住抗を取得、神岡鉱山すべての事業者に。多額の資本投下と近代的な技術を導入して大規模の採掘を行い、2001年採掘を中止。東洋一の鉱山として栄えた神岡は三井金属鉱業の城下町でした。

上の写真の拡大写真です。


現在、スーパー・カミオカンデ・・・神岡鉱業茂住抗の坑内跡地地下1000mに世界有数の精密物理実験サイト、東京大学宇宙線研究所のニュートリノ観測装置が建設されている・・・といっても何のことかわからない。
さらに複数の団体が鉱山跡地の地下約100メートルにSun Modular Datacenterを用いたデータセンターを設置することを計画しているというが、何のことかわからない。

ここで神岡に住む人にとってたいへん辛い話ですが、イタイイタイ病について語らねばなりません。
イタイイタイ病・・・日本の公害病の政府認定の第1号
咳をしても重い布団をかけても骨が折れるという奇病です。
神岡を流れる高原川は富山県に入ると名前を変えて神通川に。その神通川の流域にイタイイタイ病と考えられる病気が江戸時代すでにあったようです。医師に病例として取り上げられるようになったのは大正期から昭和の始め頃ですが定かではありません。明治期に精錬技術が進歩して亜鉛が大量に生産されるようになってからかも知れません。1955年富山県熊野村(婦中町→富山市)の開業医萩野昇が富山新聞に「イタイイタイ病」と名づけて紹介、1957年富山医学会に「鉱毒説」の論文発表、1961年原因をカドミウムと発表。
富山県、厚生省、文部省も独自に原因究明、1968年神岡鉱業の亜鉛鉱石の処理活動から排出と認定、政府認定の公害病第一号に。
1968年三井金属を相手に訴訟が始まり、いずれも原告が勝訴、三井金属も上告を断念、損害賠償の和解に応じることになりました。
発生源対策として1972年から年に1度立ち入り検査も行われているようです。

新田次郎の小説「神通川」

富山県婦中町の「学問もない、地位もない、バックもない」開業医萩野昇と神通川の扇状地に広がる奇病との戦いがテーマです。水質検査、ウイルスの検査、没落地主のわずかに残った田畑まで処分し自費で研究に没頭します。岡山大学理学部の小林純の協力を得てカドミュームの存在を見つけ神通川の上流高原川の三井金属鉱業㈱神岡鉱山の亜鉛鉱石の精錬によるものであることをつきとめます。いつの世でもあることですが古い学閥の体制側からや企業に与する側から誹謗・中傷、脅迫・妨害、バッシングを受けます。1967年国会参議院で証言、1968年公害病の認定。三井金属は1968年提訴され、1971年原告が勝訴しました。

小説は太平洋戦争敗戦後、ビルマ戦線から帰還した医師萩野昇が爆撃により廃墟と化した富山市内を歩いて神通川の有沢橋の畔の川に下りて水を掬って飲み干し
「いかなる河川も、その美しさにおいて故郷の神通川に及ぶものはなかった」
と心の中でつぶやくところから始まり、ビルマ戦線の敗走中、軍医である彼に連れて行ってくれと手を差し出す重傷兵とイタイイタイと泣き叫び彼に手を差し出す患者の手が重なり合って見え神通川に白い虹が出るところで終わります。

小説はこの訴訟中の1969年学習研究社より発刊
石牟礼道子が「苦界浄土」の執筆を始めたのは1965年、水俣病が勝訴したのは1987年、イタイイタイ病に遅れること18年です。

日本における公害の歴史は明治時代の渡良瀬川上流の足尾鉱山から始まります。水俣病、第2水俣病、イタイイタイ病、四日市病、最近はアスベストも問題になっています。新しい技術で新しい物質を作るときそれがどのような結果になるか予測することは困難かも知れません。それにしても万全の体制をとって対処してもらいたいものです。それが国や企業の責任でしょう。



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渡良瀬遊水地・・谷中村(終章)・・墳墓の丘

2008-05-27 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
渡良瀬遊水地の中、旧谷中村の役場跡から葦原の間の道を雷電神社、延命院、そして共同墓地の跡にやってきました。大きなクヌギの木でしょうか。その樹の下に供養石塔と墓石が数基。つい最近のものと思われる板塔婆があります。

ただそれだけ。

ここは「谷中村唯一の物言わざる証人」「公害闘争の原点」、1972年(昭和47年)谷中湖造成計画に入っていたものを谷中村の遺跡を守る会の陳情運動によって残されたものだそうです。

光明真言」と刻まれた供養石塔、板塔婆と大クヌギ。
手前は墓石です。円柱で上がなめらかな円錐状です。
あたりの景色に圧倒されて墓石に刻まれた年号を確かめるのを失念しました。

画像クリック・・・谷中村共同墓苑の板塔婆。
  ・・・一切の有縁・無縁の精霊、仏様を遥か遠くより畏敬供養いたします・・・
板塔婆の文字は、そう読めるのでしょうか。新しい花が手向けられています。

春、三月の野焼きの光景です。今は見渡す限りの葦の原です。


   夏草に 有縁無縁 たま ほむら    比企の丘人

 (心象風景のイラスト)

谷中村・・まほろば(豊穣)の国。かつては反当り平均8俵(300坪で480kg、わからないでしょうね)、明治の時代ではたいへんな収穫です。1年の備蓄で7年しのげたといいいます。古河藩の領地でした。凶作、水害の年は救済策もとったそうです。
それが渡良瀬川の鉱毒事件で一変します。政財官が一体となっての集中攻撃。問答無用です。政商古河市兵衛(古河鉱業経営者)、農商務大臣陸奥宗光(息子が古河市兵衛の養子、二代目社長)との閨閥、陸奥宗光は国会で田中正造の質問を無視します。栃木県庁は河川修理と称して堤防決壊をして豊穣の国谷中村を壊滅させます。出版物の発禁など言論の弾圧も行います。政財官の悪のトライアングル。権力という凶器による無法、無頼、ナラズモノの政治です。為政者は国益のためと称しますが理由はともかく民に聞く政治ではなかったのです。
足尾銅山の鉱毒を巡る奥日光の森林から渡良瀬川流域、関東平野におよぶ公害事件、はるか100年のむかしになりましたが、現代に続く大きな課題(公害、薬害、地球温暖化など)を残しました。先輩たちが投げかけたこの課題を孫子の代のわたしたちがどう対処していくか、宿題は残ったままです。

《参考》
  渡良瀬遊水地・・野焼き(終章)・・谷中湖・・・08/03/20のブログ
渡良瀬遊水地外周堤外に作られた共同慰霊碑と足尾銅山・渡良瀬遊水地旧谷中村・田中正造の年譜をおっています。
  鹿児島から熊本への旅・・・水俣・・・07/12/20のブログ
  神通川・・有沢橋・・・07/10/03のブログ
  レイチェル・カーソン生誕百年・・・07/5/27のブログ

渡良瀬遊水地のことを啓発してくれたブログを紹介してお礼にします。
  「渡良瀬遊水池 その1」、「渡良瀬遊水池 その2
  「公害の原点を歩くⅠ」、「公害の原点を歩くⅡ」、「公害の原点を歩くⅢ」、
  「公害の原点を歩く(番外編)」、「公害の原点を歩くⅣ

最後にここの環境整備に尽くされている方々に感謝の意をこめてお礼申し上げます。

渡良瀬遊水地・・・延命院の鐘

2008-05-22 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
渡良瀬遊水地の中、旧谷中村の役場跡から葦原の間の道を雷電神社、延命院、そして共同墓地の跡にやってきました。
その遺構は小高い丘と位置を示す柱以外は何もありません。

雷電神社跡・・・かつて深い緑の杜に囲まれていたであろう社(ヤシロ)は1本の木と1本の柱だけです。ここは谷中村の鎮守様というだけでなく、公害にたいして田中正造がムラビトと一緒にたたかった砦のようなものでしょうか。

説明板の文章を読むと100年近くなる「公害の原点」とも言うべき谷中村のことが見えてきます
ムラビトたちの菩提寺・・・「真言宗雷臺山谷福寺延命院本宮跡地
延命院の梵鐘・・・伝言箱
この梵鐘は1741年鋳造のもの。ふとしたきっかけで埼玉県久喜市の火の見櫓の半鐘が延命院の梵鐘と判明(鐘の裏の刻印で鋳造年や郡村名が)、返還されて藤岡町の歴史資料館に、レプリカがここにおかれているようです。
伝言箱・・チョット邪魔な人物に遮られていますが鉄製の赤い箱があります。連絡ノートとそれをまとめた「谷中村たより」がありました。

連絡ノート」より・・「谷中村たより。
富山から来ました・・・
水俣から来ました・・・
主人も今年亡くなり思い出の地で鐘を鳴らして帰りました・・・
阿賀地蔵建立のために雲竜寺にやってきました・・・
戦争も公害もない年に、がんばりましょう・・・
主人と快気祝いのハイキングです・・
目をつむって耳をすませると心が落ち着きました・・・

渡良瀬川の最上流の足尾銅山、そしてこの谷中村をつなぐ線が近代日本の公害の原点です。そしてそれが富山神通川イタイイタイ病、水俣病、阿賀野川新潟水俣病、四日市喘息、アスベスト公害と続いてきました。近代日本の国力強化と人間の生命の大事さとどう折り合いをつけてきたのでしょう。

    ヨシキリと 延命院の鐘 ハ~モニ~
                            比企の丘人

延命院の鐘、ふりかえればムラビトたちの墳墓の丘です。

渡良瀬遊水地・・谷中村滅亡の跡

2008-05-21 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
渡良瀬遊水地、ハート型の谷中湖の中心部。
なぜハート型になったか。ここはいまから100年前、豊かな農村だったのです。いまは旧谷中村の先祖代々の墳墓の丘に眠っている方々がいる遺構として残されています。

なぜそうなったか、1冊や2冊の本では書き表せないでしょうし、わたしなどではとても思いもよせることもできません。往時を思いながら静かに歩いてみることにしました。

道しるべ」。
オオヨシキリのケタタマしい囀りが耳に響き道ばたにはハルジョオンがいまを盛りと咲いています。

画像クリック・・・谷中村についての説明板。
鎮魂譜」です。
旧谷中村役場跡・・・こんもりとした丘の上に柱が1本(ただそれだけです)。
オニグルミや桑の木に囲まれて。
旧谷中村民家跡。ここも丘の上に柱だけ。遊水地ですから冠水するのでしょうね。
桑の木の大木。桑の葉をお蚕さまが食べ、お蚕さまが繭を作る。
桑の木は「銭のなる木」だったのです。
豊かな米作と養蚕の村だったのでしょう。桑の木が見上げるような大木になってました。

桑を摘む 乙女が瞼に やなかむら             比企の丘人

雷電橋を渡って雷電神社跡、延命院跡、共同墓地跡に行きます。

鹿児島から熊本への旅・・・水俣

2007-12-20 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
鹿児島から熊本への旅です。鹿児島市を出て薩摩焼きのふるさと美山、これから天草の本渡まで行く予定です。鹿児島方面から熊本方面派のルートは美山から鹿児島に戻って九州自動車道を北上する道がたぶん時間的にはいちばん早いと思いましたが、薩摩街道3号線を海岸沿いを行くことにしました。急ぐことはないんです。
美山を後にして串木野、川内、阿久根、出水、水俣と続きます。東シナ海と柑橘類が実る山を見ながらのドライブです。

水俣市、人口28000人。港です。港の外は不知火海。何か静かです。
ここから天草の本渡までフェリーがありますが間に合いませんでした。
一休みして陸路を八代、松橋、そして天草五橋を渡って本渡に行くことにしました。

港の写真の右側に沿って進むと水俣病資料館があります。
さらに北側にはチッソグループの煙突が見えます。
ここはチッソ関係の企業城下町だったんです。今もそうなのでしょうか。

豊饒の海といわれた不知火海が苦海と化してから60有余年になります。

1908年日本窒素肥料(株)水俣工場が操業を開始します。1942年(昭和17年)発症例。1953年発症が顕在化(猫踊病などと)、1956年チッソ付属病院長が5例を保健所に。1959年熊大が有機水銀説を。厚生省調査会が大臣に答申。1960年4省庁からなる連絡協議会(1年で消滅)。1965年新潟大が新潟水俣病を発表。1968年政府が因果関係を認める。1959年チッソは被害者側と見舞金協定を結んで見舞金を支払いますが責任については認めていません。その後訴訟が続いて1995年村山内閣のとき政治調停も行われていますが、その後も新たな認定を求める申請があり今日に至りました。(以上の経過、Wikipedia参考)。

石牟礼道子著>「苦海浄土」(講談社1968年刊)。
1965年から雑誌「熊本風土記」に「空と海のあいだに」という題で連載していたものを改題して出版したものです。
何回も読み返しましたがどう考えていいかわかりません。この本について語ることはわたしには難しすぎます。

この本の解説者の最後の言葉・・・
「学問は何のために、誰のためにするのか」「行政は何のためにあるのか」「専門家とは何か」「私たちの生きざまは何か」

わたしは化学者でもなければ医学者でもありません。なに一つわかりません。
実は科学者も医学者もなに一つわからなかったのです。原因を作った企業もわからなかったでしょう。近代科学の進歩の影の部分といえます。

こういう問題はどこにでも起こることです。そのとき市民はどう係わるのでしょうか。


富山市郊外・・・神通川・・有沢橋のたもとで   新田次郎の小説「神通川」の原点に立って

2007-10-03 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
9月26日の朝、富山市から立山室堂の散策に出発です。急ぐことはありません。街の中を走って神通川有沢橋に出ました。右岸堤防の上からの写真です。大きな川です。飛騨高山の街中を流れる宮川はこの川の上流です。

新田次郎の小説「神通川」の冒頭に「神通川と有沢橋」が出てきます。
ビルマ戦線から帰還した婦中町(現富山市)の医師熊野正澄(萩野昇)が爆撃により廃墟と化した富山市内を歩いてこの橋の畔に立ちます。川に下りて水を掬って飲み干し
「いかなる河川も、その美しさにおいて故郷の神通川に及ぶものはなかった」
と心の中でつぶやきます。

そんな風景を見たくてこの川の畔に立ってみました。大河です。

小説「神通川」は婦中町の「学問もない、地位もない、バックもない」開業医と神通川の扇状地に広がる奇病との戦いがテーマです。水質検査、ウイルスの検査、没落地主のわずかに残った田畑まで処分し自費で研究に没頭します。備州大学(岡山大学)理学部の大森教授(小林純)の協力を得てカドミュームの存在を見つけ神通川の上流高原川の三井金属鉱業㈱神岡鉱山の亜鉛鉱の精錬によるものであることをつきとめます。いつの世でもあることですが古い学閥の体制側からや企業に与する側から誹謗・中傷、脅迫・妨害、バッシングを受けます。1967年国会参議院で証言、1968年公害病の認定。三井金属は1968年提訴され、1971年原告が勝訴しました。

小説はビルマ戦線の敗走中、軍医である彼に連れて行ってくれと手を差し出す重傷兵とイタイイタイと泣き叫び彼に手を差し出す患者の手が重なり合って見え神通川に白い虹が出るところで終わります。

小説はこの訴訟中の1969年学習研究社より発刊(写真は新潮社「新田次郎全集)。
石牟礼道子が「苦界浄土」の執筆を始めたのは1965年、水俣病が勝訴したのは1987年、イタイイタイ病に遅れること18年です。

日本における公害の歴史は明治時代の渡良瀬川上流の足尾鉱山から始まります。水俣病、第2水俣病、イタイイタイ病、四日市病、最近はアスベストも問題になっています。新しい技術で新しい物質を作るときそれがどのような結果になるか予測することは困難かも知れません。それにしても万全の体制をとって対処してもらいたいものです。それが国や企業の責任でしょう。

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霧ヶ峰・・・新田次郎の小説「霧の子孫たち」

2007-07-20 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
夏の思い出です。
霧ヶ峰・・・霧と風と山と草原と湿原の拡がる台地です。
車山の西麓、コロボックルヒュッテのテラスでお茶しました。正面に霧ヶ峰湿原植物群落が広がり丘のような蝶々深山が続いています。この山小屋は1956年10坪の広さで開いたのだそうです。あたりに溶け込んだ佇まいがわたくしは好きです。ヒュッテという何語かわからない名前は気に食わないのですが。

このへんは海抜1800m弱、1817mの丘に上がって西の方角を眺めています。はるか遠くに槍ヶ岳、穂高連峰が見えます。その手前が常念岳から徳本峠に続く山なみ、そして鉢伏山、真下の草原が奥霧ヶ峰です。
中央に走る道路が「ビーナスライン」。この風景を眼にしたとき、むかしむかし読んだ新田次郎の小説「霧の子孫たち」(文藝春秋社、1960年刊)のことを思い出しました。

「美~無しライン」といわれたこの観光道路が長野県企業局で計画されたのは1950年代でしょうか。この小説は諏訪在住の人々が霧ヶ峰の貴重な財産を守るために繰り広げた闘い?を書いています。霧ヶ峰の財産、それは弥生時代の貴重な大コロシアム階段状遺構、御射山遺跡、諏訪神社、そして何万年も費やして形成された高層湿原、そして草原や湿原が作った花や樹木、小動物のすべてです。
計画はこの神聖な遺跡のど真ん中や湿原の真横に線が引かれていました。
イラストでは右の谷の中が聖域です。

新田次郎・・・気象庁の元技官。敗戦の年、朝満国境にいてたいへん苦労します。奥さんが子供を連れて命からがら帰国したことは藤原てい「流れる星は生きている」(日比谷出版社、1949年刊絶版、現中央公論社刊)で知られています。
新田次郎というペンネームは霧ヶ峰の南端の強清水から諏訪方面にわずかに下った角間新田という集落の出身から。シンデンの次男坊だったのです。
強力伝」という小説で世に出ますが、「八甲田山死の彷徨」「聖職の碑」「孤高の人」などが知られています。山国に生まれて富士山頂の気象観測所の仕事をしていますから山岳小説はリアルでこの人の右に出る人はいません。小説の話に戻ります。

新田次郎さんの霧ヶ峰に対するもの凄い思い入れです。数えた人によると、花26、山草・木の実22、樹木7、野鳥17が全編に亘って散りばめられているそうです。花が咲き鳥が啼いています。
三人の実在した方が登場します。考古学者の藤森栄一さん、諏訪地方の弥生時代の遺跡の発掘で有名な方です。医者でありアマチュア天文学者の青木正博さん、高校の生物教師牛山正雄さん。小説ですからこの三人の口を借りて新田さんは熱い思いを語っています。執念です。
県の修正案に対して議論が交わされます。いつの世にも賛否両論あります。この場合、長時間の議論を尽くして妥協案に落着きます。かくして計画路線に対して修正案が決定されて1966年~1980年114億円の計画が実行され、2001年有料道路は無料化されます。

小説ですがドキュメントです。観光公害に対する告発です。この告発のためかわかりませんが霧ヶ峰の貴重な自然はかろうじて守られています。車山のビーナスラインの下は別荘、プチホテル、レストラン、ペンションがひしめいていますがそのほかのところでは高層ホテルが立ち並ぶという光景は見られません。
県の計画自体悪かったかということはわたしにはわかりません。県は民間の観光デベロッパーから地元を守ったいうことも言えます。美しい風景が大勢の人に見られるということはイイことです。
そんなことを思いながらこの丘から霧ヶ峰、美ヶ原、飛騨山脈を眺めました。

自然っていいですね。どうか大事にしてやってください。

霧ヶ峰の略図です。
行く前や後からこういうのを描くのが好きです。
何回もイメージの中でトレッキングができます。
ビーナスライン」計画路線と決定路線を書き入れました。


八島ヶ原高層湿原・・・車の窓から見えません。
駐車場から数10mのトンネルを歩いて抜けると眼前にひろがります。
感動です。


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沈黙の春・・・レイチェル・カーソン生誕百年・・続き

2007-05-27 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
レイチェル・カーソン・・・海洋生物学者。化学者ではありません。「沈黙の春は化学式を並べた本ではありません。化学的にどのくらいの説得力のあるものであるのか無知な私にはわかりません。しかし効力抜群の農薬が両刃の剣であることを説いたこの本は自然に対する祈りにも似たバイブルとして今も読まれています。
レイチェルの生きた時代、農業害虫に対する画期的な有機塩素系農薬が発明されます。DDTは1939年に製品化されました。敗戦後の日本にも移入され日本の家庭からノミ、シラミ、南京虫が消えます。沖縄西表島のマラリアが終息したのはDDTといわれます。抜群の効果です。DDTは1946年、BHCは1949年農林省登録、ともに20数年後の1971年失効。

いつの時代にも環境問題は企業との戦いです。農薬業界は巨額の資金を使って反カーソン活動を展開します。バッシングです。しかし、この本の大きな波紋で1963年ケネディ大統領が科学諮問委員会を立ち上げ有機塩素系の農薬は使用禁止の方向に進みました。

話は変わります。あるところにゴルフ場があります(写真はウチから眺めたゴルフ場)。開場するとき近辺の住民と環境問題を話し合い環境保全協会を設置、残留検査、影響調査などを盛り込んだ協定を結びました。バブルがはじけ今どこのゴルフ場も経営は大変です。協定の緩和を求めてきました。金のかかることは抑えたいのかな。それも分かります。
提案に基づいて農薬安全云々の議論が住民同士で始まります。協定遵守派とか協定改定派とかが生まれます。最悪。農薬安全云々は企業が説明しなければなりません。でも大学の研究員だって分からないのです。DDTBHCも国が認めたものです。水俣のアセトアルデヒドの生産も国が認めたのです。結果はどうなったでしょうか。
環境保全協定、そんなことどこのゴルフ場もやってません。でもやったっていいジャン。

農薬、有害産業廃棄物、工場からの有害物質の流出、環境問題は様々な問題を抱えています(企業が悪玉と言ってるわけではありません)。家庭菜園をやってる人はほとんど農薬を使わないでしょう。虫も死ぬんだから人間に安全のはずはないといいます。スミチオンとかマラソンとか普通に売ってる農薬、有機リン系です。説明書を見れば収穫何日前までに使用とか使用回数の制限があります。農薬によっては身分証と印鑑が必要です。

レイチェルは「沈黙の春」の最終章でこう述べています。

私たちの住んでいでる地球は自分たち人間だけのものではない―――
《自然の征服》――これは、人間が得意になって考え出した勝手な文句に過ぎない。


沈黙の春・・・レイチェル・カーソン生誕百年

2007-05-27 | 語り継ぐ責任 公害・被ばく・環境
2007年5月27日、今日は何の日?
「沈黙の春」レイチェル・カーソンの生誕100年です。
私はこの人のことを知りません。「沈黙の春」にしても流し読みにした程度です。

1962年 「Silent Spring」が発刊されます。レイチェル55歳のときです。
1964年 「生と死の妙薬」という題で邦訳されます。
1974年 原題のままに「沈黙の春」と改題されて再発行。

1965年 石牟礼道子が水俣病について執筆を開始。1969年「苦界浄土」として刊行。
1969年 新田次郎が富山県神通川のイタイイタイ病について小説「神通川」を発表。
1974年 「複合汚染」という小説を有吉佐和子が発表。

「沈黙の春」(Silent Spring)の序章です。

          1. 明日のための寓話
アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘が盛りあがり、斜面には果樹がしげっていた。・・・・・・(中略)
ところがどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままでで見たこともきいたこともないことが起こりだした。若鶏はわけもわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。・・・・・・(中略)
アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いったいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。


1960年代 私の家内の父がポリドール(パラチオン)中毒で入院騒ぎを起しました。
有機リン系農薬です。稲の害虫に画期的な農薬でした。1952年農水省登録、1971年失効。各地で死者も出た恐ろしい毒薬です。

人と自然は共存しているというのは幻想でしょうか。人間の作ったもののために自然が破壊されてきたという事実。鉄などの金属を作るため緑を破壊し毒物をタレ流してきたのはもう数千年になります。日本では足尾銅山が19世紀末に、三井神岡鉱山のイタイイタイ病が20世紀初頭に、チッソの水俣病が報告されたのが1956年です。

この話の続きは次回を読まれよ。