比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

春三月の三陸海岸の旅・・・宮古市・・・浄土ヶ浜を尋ねる

2019-05-23 | 2011東日本大震災
信州上田の・・・六文銭の写真帳

早春の三陸海岸の旅です。岩手県下閉伊郡岩泉町神成の龍泉洞、田野畑村の三陸リアス式海岸北山崎絶壁を見て、二日目は三陸海岸を南に。かつては世界一の防潮堤と呼ばれた田老町の復興現状を見て、宮古市浄土ヶ浜へ。

岩手県宮古市・・・宮古湾に突き出した岬の臼木山(86m)の眼下の入り江「浄土ヶ浜」です。









※撮影日は3月25日。
2014年月22日のブログから
2011年3月11日、鉄筋コンクリート建ての浄土ヶ浜レストハウスは壁と柱のみを残した姿になりました。
2012年7月21日、リニューアルオープンしたレストハウスの前にその時の写真が銘板で。

レストハウス正面2階の左の庇の下に津波浸水ラインが印されています。津波高6.5m、浸水高10m。2階の天井まで達したようです。


※コメント欄OPEN。



春の三陸海岸の旅・・・田老町・・・世界一といわれた・・・防潮堤のいま

2019-05-22 | 2011東日本大震災
信州上田の・・・六文銭の写真帳

早春の三陸海岸の旅です。岩手県下閉伊郡岩泉町神成の龍泉洞、田野畑村の三陸リアス式海岸北山崎絶壁を見て、二日目は三陸海岸を南に。

岩手県宮古市田老・・・にやってきました。
万里の長城」といわれた世界一の防波堤の説明看板です。


高さ10.7m、長さ2.4㎞にわたって築かれた田老の防波堤のいま
津波襲来時、この防波堤の500mが崩壊、市街地に面していたため町は壊滅、町内の人口4400名、死者、行方不明者200名。
津波の高さは17m・・・防波堤の倍の高さに吹き上がり、底幅25mの防波堤が持ち上がったといわれます。
田老町(現宮古市)・・・田老川、養呂地川、神田川、長内川の河口の小さな平地、広い湾に面した漁村。1889年田老村ほか3ヶ村が合併、田老村に、1944年町制に。2005年宮古市に合併、合併時の町の人口4579人。
★1896年高さ14.6mの津波が襲い死者1859人、1933年津波により死者911人、このとき高所住宅移住案と巨大防波堤案が論議され村長ら村当局の推進する防波堤の計画に決定。漁港に山が遠いということ。山が急で造成が容易でなかったこともあった。1979年防波堤の長さ2.4㎞に。1960年チリ地震では死者0人。このことが今回の地震で避難を遅らせたとも。
★古くは最盛期4000人を擁する硫化鉱のラサ工業田老鉱山(1971年閉山)があった。
★「田老」の地名由来は・・・①「垂れる=山の崖地」が迫っている。②津波で若者がいなくなり老人ばかり残った→「多老」。③津波の襲来で「田が老いた」。④「平・・・たいら」河口が平地。などなど諸説あって定説がない。


復興が進んでいます。



震災の跡も痛々しい建物が見えます。津波は4階まで達し、2階までは鉄骨を残しすべて流失・・・

田老観光ホテル・です。3.11大震災遺構として・・2013年に保存決定。
※撮影日は3月25日。


2011年3月16日のブログ・・・「東日本大震災・・・津波・・・TUNAMI」より

3月9日午前、宮城県沖でM7.3の地震があり、震度5弱の揺れ。大船渡60cm、久慈50cm、釜石で40cmの津波を観測。関東地区でも震度3弱ぐらいを体感。
3月10日、知人との会話の中で前日の地震と陸中海岸の防潮堤の話が出ました。
翌3月11日、東北地方、太平洋沖大地震。

城壁でもなければ要塞でもありません。
全長2433m、高さ10.7m、世界一の防潮堤が田老町(現宮古市)にありました。

津波観測システムタワー、町の高所に人を導く避難通路標識も完備、結果はどうだったでしょう。
陸中海岸の町々はこのような防潮堤に囲まれていました。

TUNAMI」は世界語になっています。
三陸海岸の津波の歴史は枚挙に暇がありません。近代に入っての大きな津波の歴史。
1896年明治三陸地震、M7.6、津波の高さ最大38m。
1933年昭和三陸地震、M8.3、津波の高さ最大28m。
1960年チリ地震の津波被害。津波の高さ最大6.3m。

天災は忘れなくても来る」。津波常襲地帯、地震=津波と考えられている三陸地域、津波の歴史の中にいて十分な設備、心の備えがあっても、自然の力は時に想定をはるかに超えたものになるのですね。

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春三月の三陸海岸・・・田野畑村羅賀の朝・・・サンライズを見る

2019-05-20 | 2011東日本大震災
信州上田の・・・六文銭の写真帳

早春の三陸海岸の旅です。ツアーのはじまりは新幹線で盛岡駅に。バスで岩手県下閉伊郡岩泉町神成の龍泉洞へ。そこから田野畑村へ、島ノ越漁港から三陸リアス式海岸北山崎絶壁を見る観光船、船を下りてホテル羅賀荘へ。

岩手県下閉伊郡田野畑町羅賀・・・日出る宿ホテル羅賀荘から・・・太平洋・・・三陸の海に・・・サン・ライズ。


弁天崎・・・



北山崎と並ぶリアス式三陸海岸の景勝地鵜の巣断崖が遠くに見えます。
※撮影日は3月25日。

★2011.3.11大震災の羅賀のYoutubeです→クリック→東日本大震災 岩手県田野畑村の津波被害 羅賀周辺
★田野畑村公式サイト→クリック→「田野畑ジオワールド 特集津波

※コメントOPEN。

3月11日・・・今日は何の日・・・あれから7年・・・東日本大震災の日

2018-03-13 | 2011東日本大震災
2011年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の大地震が三陸海岸、仙台湾、福島浜通りから茨城の鹿島灘など太平洋岸に起こり、その約50分後に大津波が押し寄せました。
3月12日15時36分、福島第一原発メルトダウン水素爆発。

2011年11月8日福島県相馬港から北上、11月9日、仙台から石巻、気仙沼と震災のあとを歩きました。
写真は石巻市日和山の上から見た俯瞰。


自然の力のもの凄さを目のあたりにしました。

亡くなられたかたがたのご冥福をお祈りします。


3.11東日本大震災そして福島原発メルトダウン‥・フォトチャンネルです。


※「ふるさと」に「帰りたくても帰れない」かたがたが、まだ74000名いらっしゃるそうです。

天災には・・・悲しみがこみあげる。
人災には・・・怒りがこみあげる

天災に対しては自助努力で人々は立ち向かえます。
人災・・・放射能に対して人はどう立ち向かえばいいのでしょうか。



※コメント欄開いています。

3.11東日本大震災・福島原発メルトダウン・・・フォト・アルバム・・・作成しました

2017-03-12 | 2011東日本大震災
2011年3月11日東日本大地震・・・福島原発メルトダウン(炉心溶解)水素爆発大量の放射能物質拡散・・・
現場30㎞圏内の避難開始。わたしの町にも避難者が。
その年の11月、福島県相馬中村から海岸線に沿って気仙沼まで。
あれから6年、3.11になるとメモリアルブログを書き起こしてきました。
そんなブログに残した記憶と記録を・・・アーカイブとして残しておきたい・・・フォトアルバムにしました。

未完成です・・・わからないことが多すぎます。
画像に添えるコピーは・・・誰が見てもわかりやすいもの・・・できるだけワカッテほしい・・・

とりあえずのアップです。
時間をかけて仕上げていきたい。

3.11・・・東日本大震災・・・福島原発メルトダウン


※フォトアルバムの画像はブログ内にあります。画像のご利用はご自由に。


※コメント欄オープンしています。

三陸海岸を行く・・・浄土ヶ浜のいま

2014-02-22 | 2011東日本大震災
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
彩風人の旅は・・・函館から青森に戻り、八戸から久慈へ、久慈から三陸鉄道で宮古へ。

三陸海岸・・・ここは極楽浄土か・・・浄土ヶ浜の夜明け・・・1月23日 AM6:45。

2011年3月11日、鉄筋コンクリート建ての浄土ヶ浜レストハウスは壁と柱のみを残した姿になりました。
2012年7月21日、リニューアルオープンしたレストハウスの前にその時の写真が銘板で。

レストハウス正面2階の左の庇の下に津波浸水ラインが印されています。津波高6.5m、浸水高10m。2階の天井まで達したようです。

水産のまち・・・宮古・・・鮭。秋刀魚は全国有数の水揚げを誇ります。

3.11・・・宮古市・・・死者420人、行方不明94人、家屋倒壊4005戸、漁船2606隻被害、被害総額229億円。

浄土ヶ浜・・・年間100万人が訪れる観光地です。かつて訪れこのレストハウスにも寄り観光船でカモメと遊びました、
3月11日、宮古ではまだ冬、浜辺の状況はどうだったでしょうか。人的被害は伝えられていません。浜辺より50m近い比高のパークホテルは緊急避難所として機能したと聞いています。

浄土ヶ浜の風景をもう少し見ています。

2011年3月24日のブログのリンク・・・クリック→三陸海岸・・・宮古・・・いま浄土ヶ浜では・・・地震発生から13日目のブログです。

宝永の富士大噴火からの再興と・・・東日本大震災を重ねあわせて見る

2013-03-13 | 2011東日本大震災
3月6日22:00~22:43、NHKテレビの歴史秘話ヒストリアシリーズで次のような番組が放映されました。
江戸の復興代官 奇跡の4年  巨大地震・富士大噴火からの復興」
※写真コラージュはテレビからの抜粋。


東日本大地震から2年を迎えるころの時期を得た番組だったと思います・・・深夜放送であったことが残念です。

さて3月6日の放映日以来、私が2012年8月23日にブログアップした怒る富士・・・神様になった関東郡代・・・伊奈忠順に閲覧者が訪れるようになりました。初日は161PV、7日121PV、以後はわずかですが今日まで続いて合計400PVを超えています。拙ブログではありますが読んでくれたことはうれしいことであり訪れたかたがたにお礼申し上げます。。

この話の主人公は伊奈半左衛門忠順・・・徳川家4000石旗本、大老、老中などの政務中枢閣僚ではなく、関東郡代・・・実務官僚です。宝永大噴火で小田原藩領の富士山麓が壊滅的被害を受けたとき復興担当を命じられ、さまざまな苦難ののち復興の糸口を開きますが謎の死を遂げています。
この話に興味を持ち昨年8月、富士山麓須走の伊奈神社を訪ねました。

伊奈神社の一隅に立つ伊奈忠順の彫像です。「御厨の父 伊奈半左衛門忠順公之像」と書いてあります。
御厨とは・・・中世平安時代における皇室、有力神社の荘園(神領)、いまも地名で残る地区もある。御殿場、小山地区は中世は御厨荘園だった?

須走の中心街の北側の裏通り、徳川家康江戸入府以来の関東郡代七代目伊奈忠順(ただのぶ)を祀った伊奈神社です。いまから400年くらい前の生身の人間、しかも体制側の人を神に祀り上げて民衆側の人々が作った神社です。

話の内容はNHKテレビ歴史秘話ヒストリアで詳しく紹介されましたが、番組を見ていなかった人、違った見方で知りたいという人のために昨年の私のブログをダイジェストして紹介したいと思います・・・といっても・・・新田次郎の小説「怒る富士」の紹介ですが。

小説は1707年「宝永の大噴火」から始ります。噴火は小田原藩大久保家の領地の御殿場、須走、小山などの駿東59ヶ村から相模の足柄下郡、上郡に甚大な被害を及ぼします。幕府は大久保家の被災所領地を直轄領に変更(大久保家には幕府の他の直轄領を代替地に与えます)。被災地の復興に向けて関東郡代伊奈忠順を任命。
復興資金として全国の士分に対して禄高100石につき2両の義捐金(強制的)を上納させます。全国の士分から集めた義捐金は40万両、そのうち16万両を復興資金に回し、残りは使途不明金に。大奥の運営資金、朝鮮通信使の接待費用、皇室勅使の接待費用に流用されたといいますが定かではありません。
駿東地区で除去した降砂は雨が降れば鮎沢川から酒匂川に流れ出し河床を上げ、大雨が降れば川が氾濫、二次被害を起こします。大規模な川攫い工事も復興のための公共事業になります。この公共事業の請負は伊奈忠順の手の及ばないところで江戸の商人が入札していきます。
さらに幕府の直轄領とした被災地を亡所宣言します。亡所とは領民に税金は取らないから好きなようにせいということです。行政放棄され飢えに苦しむ百姓の悲惨な状況を見て忠順は駿河の幕府米倉から米を持ち出し被災農民に与えます。

震災から5年後の1712年に忠順は死亡します、病死であったか幕府から切腹を命じられたか自ら死を選んだかは不明です。
小説では自ら死を選び、幕府は病死として伊奈家は跡目を認められます。

忠順がお倉米を持ち出し領民を救ったということも切腹したことも記録には残っていないそうです。「徳川実記」には「忠順死ければ養子十蔵に家を継がしめ父の原職を命ぜられる」と書いてあるだけだそうです。忠順が死したのは1712年、それから江戸中期、後期、駿東の民百姓は忠順を神と崇め祠をつくりひそかに詣でてきました。忠順公は記録にはなくても記憶に残り農民の口から口への伝説となりやがて伊奈神社の祭神になります。

忠順の自死が犬死であったか。その後、駿東地区は年に数町歩の田畑が復帰されていったそうです。元に復帰するまで数十年の年月がかかったそうですが百姓は強かに生き延び亡所にはなりませんでした。

義捐金の流用、復興公共事業の指名入札、被災で飢えに苦しむ農村を亡所にして政争、派閥争いに明け暮れる幕府閣僚、高級官僚。
もう30年も前に書かれた小説ですがいまの社会に問題提起しています。

亡所・・・ふるさとを離れるしかない状況の場所のことを言います・・・帰りたい・・・帰れない


関東郡代伊奈家のについての私の過去のブログ・…こちらクリック

※コメント欄オープンしています。
・URL無記入のコメントは削除します。

大震災の石巻の今・・・日和山から見た津波の跡

2013-02-03 | 2011東日本大震災
・・・彩風人の写真帳・・・
※写真撮影者へのギャラリー提供です。
 

2013年1月25日、大震災からやがて2年の宮城県第2の都市…石巻市の今です。海岸から1㎞の日和山公園から見ています。

上は北上川の河口の中瀬から左岸の風景です。
下段は北上川の出口から石巻湾の風景です。震災日、津波は日和山の下まで押し寄せ、水勢を弱めて山の裏側の石巻駅方面に及びました。。今は瓦礫の片づけは終わっていますが復興は始まっていないようです。日和山の下のすぐ右に門脇小学校があります。





※石巻の写真は東北に旅した「彩風人」に依頼して撮ってきてもらったものです。仙台から石巻に通じるJR仙石線は松島海岸駅から矢本駅(東松島市)までバス代行になっています。石巻市内はタクシー1時間コース。タクシーの運転手さんありがとう。「旅人君」レポートありがとう。

2011年11月3日、石巻を尋ねました。その時の報告です。
2011年11月18日のブログ…→クリック…「石巻を俯瞰した

2011年11月、震災から8か月後に福島市から阿武隈山地を横断して相馬市、宮城県山元町、亘理、岩沼、仙台と北上して、さらに石巻、志津川、気仙沼と震災被災地を見て回った…呆然と見て回っただけだが。
石巻湾と北上川を見下ろす日和山の上で、雄勝町で被災されたという方と並んで、慰めの言葉もかけることもできずただ黙っていただけだった。
ここ石巻から女川原子力発電所まで道路で30㎞、直線距離で18㎞ぐらい。女川原発は震災直後に送電線が切れましたがバックアップ用のディーゼル発電機が破壊されなかったため作動して冷却を続行できました。僥倖というほかありません。ディーゼル発電機の建屋が津波で破壊されていたら三陸海岸一帯は福島原発の周辺地域と同じ運命をたどったかも知れません。

追伸津波の高さ・・・東松島市10.4m、石巻市5.8m、女川町17.6m、雄勝町16.7m、死者・行方不明者・・・東松島市1145名、石巻市3927名、女川町975名

大震災の跡の石巻…門脇小学校を見た

2013-02-02 | 2011東日本大震災
・・・彩風人の写真帳・・・
※写真撮影者へのギャラリー提供です。
 

2013年1月25日、東日本大震災から1年10か月後の石巻市日和山の下、石巻港から約1㎞の門脇小学校です。震災当日、生徒約270人が日和山方面に裏の墓場の階段道を通って避難して全員無事だったそうです。昨年のNHK紅白歌合戦で長淵剛がここでライブで歌ったそうです。


※門脇小学校…明治6年創立の小学校です。大震災の日、津波が押し寄せ、流れ出したガソリンにより火の海になりました。損壊の跡が3階まで及んでいます。
YahooのWEB画像をリンクします→クリック・・・・・・・どのくらいの被害であったか画像を通じてわかってきます。

※石巻の写真は東北に旅した「彩風人」に依頼して撮ってきてもらったものです。仙台から石巻に通じるJR仙石線は松島海岸駅から矢本駅(東松島市)までバス代行になっています。石巻市内はタクシー1時間コース。

石巻市・・・北上川河口の中瀬・・・

2013-02-01 | 2011東日本大震災
・・・彩風人の写真帳・・・
※写真撮影者へのギャラリー提供です。
 

2013年1月25日、東日本大震災から1年10か月後の石巻。
JR仙石線石巻駅です。石ノ森章太郎のアニメの主人公のフィギュアが飾られています。

石巻市中瀬…旧北上川の河口の中州です。2011年3月11日、旧北上川を遡って津波が押し寄せました。

丸いドームは石ノ森萬画館…郷土出身の漫画家石ノ森章太郎の記念館、。2001年7月23日開館。東日本大震災の影響による長期休館を経て、2012年11月17日に再開館しています。

石巻ハリストス正教会教会堂…日本に現存する木造教会堂建築の最古級(1880年建造)、1980年移築復元、石巻市に寄贈され市有形文化財として一般公開。 津波の直撃を受け、大きな損傷を受けました。現在、修復中。




※石巻の写真は東北に旅した「彩風人」に依頼して撮ってきてもらったものです。仙台から石巻に通じるJR仙石線は松島海岸駅から矢本駅(東松島市)までバス代行になっています。石巻市内はタクシー1時間コース。
次回は門脇小学校です。