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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

港町・・・ウミネコが舞う・・・気仙沼

2011-11-21 | 2011東日本大震災
「港町ブルース」で・・・ 港 宮古 釜石 気仙沼 ・・・と歌われた気仙沼。

港町といえばウミネコ、ユリカモメがつき物ですが出船入船が少ないのかあまり姿が見えません。

近くにウミネコが1羽いました。

漁港の岸壁にイカ釣り船が停泊しています。

海の向こうは水産加工工場、製氷会社、造船所など。

お魚いちばという観光市場の二階のテラスから。


気仙沼と大島を結ぶフェリー(306㌧)、この船は大島で岸壁から200m離れた陸地に打ち上げたれたものをクレーンで吊り上げ海に戻したもの・・・と思う。
大島フェリーは1日10数往復、大島と気仙沼を繋ぐ大島の人たちの生命線です。



余談1気仙沼市街と大島を結ぶフェリーが今回の震災で大きな被害を受けました。広島県江田島市愛媛県新居浜市からフェリーの無償貸与・譲渡を受けたことが報じられていました。
余談2そのむかし萩本欣一の人気テレビ番組「欽ドン!」に出演していた気仙沼ちゃんを覚えていますか。いまは大島で民宿の女将。震災で床上浸水、営業再開は数年後だそうですが頑張っているようです。

こうして海を見ていると何事もなかったように見えますが、フォトポイントの背中側は津波と家の倒壊と燃料タンクからのガソリン漏れによる火災の発生で大被害だったことがわかります。海にはイカ釣り船が浮かんでいますが漁船の被害も甚大、被災を免れた船はわずかでしょう。水産工場の被害も甚大、一刻も早い復興を祈ります。

流す涙で 割る酒は
     だました男の 味がする
      あなたの影を ひきずりながら
     港 宮古 釜石 気仙沼

 
     港町ブルース」(1969年 作詞 深津武志 補作詞 なかにし礼 作曲 猪俣公章)

追伸・・・2泊3日の旅、実際は中の1日だけが「見て歩き」になりました。見て歩きといっても表面だけです。お手伝いもせずに入り込めません。気仙沼まで来てこの地方の生活圏の一部ともいえる陸前高田、大船渡まで行きたかったのですが時間の関係でここでUターンです。ここより北の被害状況は下記に記しました。下記の数字はネット上で個人のHP,ブログでまとめられたのをつかわさせてもらいました。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

         津波の高さ     死者・行方不明者
気仙沼       7.7m        1405名
陸前高田      15.0m         1951名
大船渡        9.5m         452名
釜石         9.3m        1091名
宮古        12.2m         542名

三陸・・・天然の良港・・・気仙沼まで来た

2011-11-20 | 2011東日本大震災
11月9日、仙台から松島、石巻、志津川・・・そして気仙沼にやってきました。
気仙沼市は三陸の港町。
三陸沖のマグロ、カツオ、サンマの水揚げ漁港、中国料理の素材のフカヒレの生産地です。

街の風景です。説明は省きます。










《気仙沼市》宮城県と岩手県の県境、唐桑半島と岩井崎に挟まれたリアス式の気仙沼湾は真ん中に大きな大島、深く入り込んだ入り江の天然の良港です。
入り江の中の大島は周囲22km、人口3100人の文字通りの大きな島、この島が障壁になって古来、津波の被害は聞かなかったのですが今回は違いました。

フリーアナウンサー生島ヒロシさんの気仙沼の妹さんのことがテレビで伝えられていました。震災当日電話を交わし、そのご行方不明、5月に遺体発見、9月にDNAでようやく確認したとのことでした。

気仙沼港の方面に行きます

南三陸町・・・豊饒の海・・・志津川

2011-11-19 | 2011東日本大震災
11月9日、石巻から三陸自動車道で登米市(とめし)の登米・東和ICへ、ここで自動車道は終点、料金所はまだ設置されていない。ここから国道398号線本吉街道を南三陸町志津川へ。

志津川の市街地です。街そのものが瓦礫になりました。これから先の写真は説明ができません。









わずかに残った鉄筋コンクリート3階建ての建物、その屋根の上に瓦礫が残されています。 

南三陸町清水浜、小さな港を中心とした漁村です。
JR気仙沼線の橋梁。ほかには何もありません。明日から開店のコンビニに車を停め一息。


インフラ・・・テレビ・新聞でよく使われるカタカナ語です。直訳は「基盤」だそうです。人が共同体を営むうえで必要な社会的基盤と考えればいいのでしょうか。学校、病院、金融機関。光熱に関する電気、水道、石油、ガス。通信に関する電話、中継所。交通に関する鉄道、バス、道路、橋梁。生産に関する港湾、市場。ここではそのすべてがズタズタです。
新しい電柱が見られます。瓦礫撤去の作業が続いています。
時間がかかると思いますが必ず復興すると思います。

《銀鮭の海》志津川湾は銀鮭、牡蠣、ホタテ、ワカメが育つ豊穣の海です。1976年遠藤昭吾というかたが銀鮭の養殖に成功。銀鮭は日本の川に上がらない鮭、アメリカ西海岸北部ワシントン州で採卵した卵を、三陸の山の淡水で育て海で養殖。志津川の海が銀鮭の成育にもっとも適していたのだそうです。
ふたたび銀鮭が育つ海が蘇る日をただ祈るのみです。

《志津川》若いころから会社帰りに寄った小料理屋さんのオバちゃん姉妹が志津川の出身でした。ふるさと志津川の話をよく聞かせてもらいました。満州帰りとかで苦労人でいろいろ勉強させてもらいました。人生の夜学校でした。

志津川から国道45号線東浜街道を気仙沼方面に。

追伸津波の高さ・・15.9m、死者・行方不明者901名

東日本大震災・・・宮城県・・・石巻(いしのまき)を・・・日和山(ひよりやま)から・・・俯瞰した

2011-11-18 | 2011東日本大震災
        石の巻 サーヨー 其の名も高い  (ハ コリャコリャ)
          日和山とエー   アレワエーエ エトソーリャ  大漁だエー
・・・・・(斎太郎節)


11月9日、石巻です。まずは高いところから街を俯瞰してみるのがいちばんわかりやすいと日和山(ひよりやま・海抜55m)に上がりました。ここは鹿島神社が祀られています(なぜ鹿島かというのは省略)
ここもまた日本各地から訪れている方が多くいらっしゃいました。
展望台の片隅で双眼鏡を構えている地元のかたと少しお話しました。わざわざおいでくださいましてといってくださったのが胸を痛めました。

日和山から南の方向を見ています。門脇町、南浜町、ここは市街地だったのです。

旧北上川河口。右岸に残った大きな建物は市立病院?津波は2階を通過したそうです。
日和大橋を渡った左岸に。石巻港、石巻漁港、水産物卸売市場がありました。

上の写真の中央下の建物。中の状態はわかりませんが奇跡のように残っています。

上の写真の右、西光寺というお寺の本堂が残っています。

日和山の上から市民病院、西光寺を見ています。
震災直後、流された自動車からガソリンが流失、あたり一面は火の海になったそうです。

日和山の東の裾。津波の水位がわかります。

旧北上川の左岸。造船所?の後ろに瓦礫の山が見えます。

日和山から旧北上川の右岸。仙石線石巻駅あたり・・・中心部です。
日和山が壁になり津波の力はなかったようですが水位の上昇は床上浸水に及んだそうです。


日和山から旧北上川の中洲(中瀬)、内海橋、その上流に見えるのは石巻大橋。
内海橋の欄干に津波に押し上げられた浮遊物がドカンドカンとぶっつかったそうです。
中瀬にはわずかな建物のみで何も残っていません。瓦礫は綺麗に片付けられています。



中瀬に見える丸いドームは漫画家石巻章太郎の萬画館
石ノ森章太郎・・・1938~1998年、石巻に近い石森町(現登米市)出身の漫画家(萬画と唱えた)。
サイボーク009、HOTELの作者。特撮テレビドラマの仮面ライダー、秘密戦隊ゴレンジャーの現作者といったほうがわかりがいい。
 

何事もなかったような松島から東松島市に入りますと様相が一変しました。東松島市矢本は航空自衛隊松島基地のある街です。JR仙石線は松島の高城町駅からはズタズタに分断されています。家内の友人の子どもさんは松島航空隊にいて家財家具すべてを失ったそうです。

石巻・・・青年のころこの街の出身の友だちのお宅に泊めていただきドンブリいっぱい生牡蠣を出していただいたのを思い出します。牡鹿半島の先端、鮎川まで行きました。
日和山・・・全国に11箇所、海を見下ろす場所にあり海の日和を見るための物見の山。
旧北上川・・・岩手県北部を源とする249kmの大河。江戸初期、伊達政宗の時代に川村孫兵衛が中流域で3つの河川を一本化

追伸津波の高さ・・・東松島市10.4m、石巻市5.8m、女川町17.6m、雄勝町16.7m、死者・行方不明者・・・東松島市1145名、石巻市3927名、女川町975名

南三陸町、気仙沼市に行ってみます。

東日本大震災の爪痕・・・宮城県南部太平洋岸を見る

2011-11-14 | 2011東日本大震災
11月8日、福島の相馬市から国道6号線に沿って仙台に向かいました。
国道6号線の東、海寄りに県道38号線がありますが入っていけるかどうかわかりませんのでしばらくは6号線を北上。

新地町から県境を越えると宮城県亘理郡山元町、東の方向に水田が広がっていますが稲が刈り取られたあとの秋の風景が見られません。海水侵食により今年は稲作は不可能だったようです。

県道38号線に入りました。坂元町亘理町、大震災のとき一帯は海水の中、塩水に浸かった水田が続きます。


阿武隈大橋から見た阿武隈川・・・福島県中通りのすべての水系を集めて宮城県亘理町・岩沼市で太平洋に注ぐ大河です。
亘理という地名は阿武隈川の渡り場があったことからと思います。


ここから県道10号線に。延々と塩水に浸かった水田が続きます。
海からかなり離れた道路を越えた半壊の人家の庭に船があります。船名の横に閖上港という文字が見えます。
名取市閖上(ゆりあげ)・・・門構えに水・・・漢字辞典にない日本で作られた国字です。「水が揺れ動く」という意味だそうです。古来、津波の危険地帯だったのでしょうか。


仙台空港の横を通りました。海から3~4km離れたところです。ここも震災時、海水漬けになったところと報道されていました。

塩水に浸かった仙台平野の穀倉地帯。田んぼの塩水の除去がこれからの課題のようです。
崩壊した人家も見られました。東の方向、浜辺に松林が見えます。時間があれば海辺まで行くのですがもう薄暮です。
県道10号線を仙台方面に向かいました。

今回走った国道6号線、県道38号線は平行してJR常磐線が走っています。JR常磐線はいわき方面からは広野駅まで、東北線の分岐点岩沼駅からは亘理駅まで運行しています。
広野駅から亘理駅までは運行休止状態、線路も分断されたところが多いです。

明日11月9日は松島、石巻、志津川、気仙沼に向かいます。

追伸1・・・11月25日朝日新聞で・・・阿武隈川から太平洋に注ぐ放射性セシウムの量が1日500億ベクレルにのぼっていることを報道していました。福島県中通りの阿武隈川流域に降り注いだ放射能が粘土などの微粒子に付着して浮遊して流下しているものという。
追伸2津波の高さ・・・山元町6.2m、亘理7.7m、名取仙台空港付近12m、仙台荒浜9.5m、死者・行方不明者・・・山元684名、亘理270名、岩沼183名、名取732名、仙台730名、多賀城189名

福島浜通り・・・相馬港の風景

2011-11-13 | 2011東日本大震災
11月8日、相馬港の風景相馬市の駅付近の市街地から5kmくらい離れています。
地理不案内で地図を頼りに相馬港あたりを車で回りました。













漁船の姿が見えません。

港付近はコンクリート造りの建物の残骸あるのみで木造、軽量鉄骨組みの家は見当たりませんでした。津波のパワーにただ呆然とするばかり。
写真撮影の背中側にガレキが何万坪か積み上げられています。

コンクリート造りでも壁など水の圧力で苦もなく壊されるのがわかります。
地震のエネルギー・・・いつ、どこに、どのくらいの力でやってくるのか、計算でわかるはずがない。

仙台から福島、茨城、千葉外房まで太平洋岸はリアス海岸ではなく大きな津波被害はないと考えられていました。天災は想定外のことでもおこる。
人は自然を制御できるというのは大きな間違い、おごりであろう。

この場所から10kmも離れていない南相馬市(旧鹿島町、原町市、小高町)、浪江町、飯館村は放射能警戒地域、故郷を離れた人たちがいた。いつ帰れるだろうか。

追伸津波の高さ・・・相馬市7.3m、福島第一原発14m以上、死者・行方不明者・・・相馬市、新地町の569名、南相馬市663名

国道6号線、通ることができたら県道38号線を仙台方面に向かいます。

震災の東北を行く・・・福島・仙台・石巻・気仙沼

2011-11-11 | 2011東日本大震災
ギックリ腰が完全復興ではないのですが・・・11月8・9・10日の2泊3日で福島から阿武隈山地を越えて、相馬仙台から石巻、気仙沼を尋ねました。
この目で東日本大震災の爪痕を見たかったのです。



息をのむ、言葉を失う・・・という風景が広がります。
こういう風景を見ていいのか・・・そういう思いもしました。

でも日本の人に、世界の人に・・・できるだけ多くの人に目を向けてもらいたい。
悲しみから目をそむけてはいけない。悲しみを共有しなければ。
そんな思いがしました。

まだ整理がついていません。数回にわたってブログをおこしたいと思います。

    TOHOKU revives
      without fail some time

「三陸海岸大津波」を読む

2011-06-10 | 2011東日本大震災
吉村 昭著[三陸海岸 大津波
・・・原題「海の壁ー三陸沿岸大津波」1970年中公新書、
・・・「三陸海岸大津波」1984年中公文庫、2004年文春文庫)

①明治39年の津波、②昭和8年の津波、③チリ地震津波・・・3つの章から構成されています。

キワモノ出版ではありません。今から41年前に出された本です。新書からさらに一般の人に読んでもらうため27年前に文庫本に。7年前に再販。文庫本438円、図書館にもあるでしょう。1時間もあれば読めます。読んでみてください。

吉村昭(1927~2006年)・・・「戦艦武蔵」「陸奥爆沈」「零式戦闘機」など、戦記ではなく戦争記録文学、ノンフィクションの分野に入るでしょうか。調査と取材と検証、主観的な感情表現のない事実のみを追う独特のスタイル。解釈は読者に委ねるというスタンスです。

本書では岩手県田老(現宮古市)の津波のことが多く取材されています。
その田老町の全長2433m、高さ10.7mの世界一の防潮堤も津波は乗り越え破壊して莫大な被害を与えたようです。

TUNAMI」は世界語になっています。
記録によれば830年以降、東北地方にはM7.0以上の地震が51回数えられるそうです。23年に1回の割合です。
三陸海岸の近代に入っての大きな津波の歴史。
1896年明治三陸地震、M7.6、津波の高さ最大38m。
1933年昭和三陸地震、M8.3、津波の高さ最大28m。
1960年チリ地震の津波被害。津波の高さ最大6.3m。

地震、津波、水害・・・自然現象です。予知できるとか完全な対策ができるとかは人間の思い上がりかもしれません。

ただ原発と地震、津波の関係、予知したり、完全な対策を立てて備えないと亡国になります。
そのことを推進してきた政・財・官、容認してきたマスコミ、受け入れてきた地方公共団体、国民も沈黙を守っています。声を上げてきた少数の人がいますが。

東日本大震災・・・津波・・・TUNAMI

2011-03-16 | 2011東日本大震災
3月9日午前、宮城県沖でM7.3の地震があり、震度5弱の揺れ。大船渡60cm、久慈50cm、釜石で40cmの津波を観測。関東地区でも震度3弱ぐらいを体感。
3月10日、知人との会話の中で前日の地震と陸中海岸の防潮堤の話が出ました。
翌3月11日、東北地方、太平洋沖大地震。

城壁でもなければ要塞でもありません。
全長2433m、高さ10.7m、世界一の防潮堤が田老町(現宮古市)にありました。

津波観測システムタワー、町の高所に人を導く避難通路標識も完備、結果はどうだったでしょう。
陸中海岸の町々はこのような防潮堤に囲まれていました。


TUNAMI」は世界語になっています。
三陸海岸の津波の歴史は枚挙に暇がありません。近代に入っての大きな津波の歴史。
1896年明治三陸地震、M7.6、津波の高さ最大38m。
1933年昭和三陸地震、M8.3、津波の高さ最大28m。
1960年チリ地震の津波被害。津波の高さ最大6.3m。

天災は忘れなくても来る」。津波常襲地帯、地震=津波と考えられている三陸地域、津波の歴史の中にいて十分な設備、心の備えがあっても、自然の力は時に想定をはるかに超えたものになるのですね。

春の来ない冬はない」・・・辛抱して苦難を乗り越えていってもらいたい。

〇〇知事は14日、東日本大震災に関し、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。(A新聞朝刊24頁社会面)
なお〇〇知事は15日、この発言について「言葉が足りなかった。撤回し、深くおわびする」と述べ、謝罪した。(A新聞朝刊29頁社会面)

スゴイことを言う人だ。何回も読み直した。
日本人は「惻隠(不幸に遭った人を慮ること)の情」を大事にした。
我欲・・・云々」は個人の心情だからおっしゃるのは自由だと思うが、震災にあった人たちは「天罰」だろうか? こういうことを平然と言ってのける人がいることはひたすらに悲しい。

東日本大震災・・・ただ呆然とするばかり

2011-03-15 | 2011東日本大震災
東日本大地震・・・3月11日14時46分の埼玉比企地区の震度5の地震体験・・・いらい事の重大さがだんだんわかってきて呆然としています。
リアス式陸中海岸から石巻湾、仙台湾、福島浜通り、鹿島灘にいたる被害は筆舌に尽くせません。

自然の力に人間は無力であると思い知らされましたが、地震列島日本に数千年生きてきた人々はきっとこれからも農耕民族独特の和の心で力を寄せ合って自然と折合いをつけながら生きていくと信じます。

3月11日の「埼玉地区、地震体験の報告」のブログに多方面から的確な情報のコメントいただきました。ありがとうございます。
現代は情報化時代、風評などで誤った情報が飛び交う時代ではないと思いました。
大船渡に親戚を持つお隣の方もようやく3日後に携帯電話で連絡が取れたようでホッとしていました。

しばらくブログは自然や自然と人間のかかわりなどにテーマを絞り、時おり綴って行きたいと思います。