比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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武州ときがわ町・・・多武峰神社(とうのみね)

2009-09-15 | 道をゆく 埼玉イイなっ
武州ときがわ町を都畿川ぞいに遡って西平の宿という交叉点を左に曲がると氷川の流域に、ここはむかしの椚平村・・・馬生という集落から左岸の山に登っていきます。目的は多武峰神社
山の中の林道を行くと三叉路があって1軒の大きな家が。多武峰神社の由来を書いた看板があります。道順の案内板はありません。

この大きな家で多武峰神社のことを聞くことにしました。大きな芭蕉の木、大きな土蔵、護摩堂らしき建物。大きな門構えから中を覗くとご婦人がいらっしゃったので道を教えていただきました。「五分ぐらいで行けますよ」とのことで歩いていくことにしました。


由来を書いた看板をあとから読むと、この家は由来書にある武藤家ではないかと思いますが、今は一般家庭のようですのであれこれ聞くわけにはいきません。

大きな家から野中集落への道を少し下り、そこから山に入ります。
鳥居です。ここからの道は今日は誰も通っていないらしく蜘蛛の糸がいっぱい
ストックを持っていって振り回しながら歩くことだ。

瓦を使った土留めのような階段。

階段を登りきると本殿。ここ本殿に覆い殿のように屋根があります。どうしてかはわかりません。
ここは海抜368m、川沿いの道は海抜150mぐらいでしょうか。その比高差200m。
木が繁っていてわかりませんが塔のような尖った山の上にあるようです。

帰りです。蜘蛛の糸はもう大丈夫。
左側は99丈(300m?)の断崖だそうです。左側の斜面に転がると断崖からマッ逆さまということになります。

多武峰神社・・・由来書によると706年この地を管理する武蔵国の藤原氏が大和国桜井の多武峯(現談山神社)より藤原鎌足の遺髪をいただき多武峯大権現を建立し守護神としたとあります。706年といえば藤原鎌足の子、不比等の全盛期。なぜ藤原鎌足の遺髪が・・・ということは説明不足で・・・謎は深まります。
藤原鎌足・・・645年の大化の改新(乙巳の変)・・・後の天智天皇と仕組んで蘇我一族を虐殺した政権交代劇場の中心人物・・・この事件を契機として豪族支配の天皇制から官僚(公卿)支配の天皇制へと改革されていきます。
鎌足の生地は諸説あり常陸国鹿島という説もありますがこの地から離れすぎています。武蔵国の藤原氏の系譜については書いてありません。
時が移りこの地は福聚寺観音堂に変わり1649年徳川家から五石の御朱印状をいただきます。藤原家は京都聖護院系の慈眼坊という修験道場を営んでいたようです。
明治維新を迎えて神仏分離により多武峯神社に。藤原家は武藤家に。冒頭の写真の大きな家は武藤家であろうか。観音堂は三間四間の朱塗りの堂宇であったそうですが山火事で焼失、現在のものは1926年。
説明版によると武藤家の母屋は17世紀の建立。8世紀の瓦塔(がとう)片、徳川家の御朱印状、板碑、など重要文化財を管理されているようです。

貴重な文化財であり、またここを訪れた人に見てもらいたいスポットです。道路案内板の充実、重要文化財の公開などお願いしたい。
特に道路案内は整備不良で通り過ぎてしまいます。

ここからさらに山の腹を辿って南に進むとシュウカイドウ群落のある椚平の日向根集落に出ます。
花見物のあとは都畿川の建具会館に寄って俎板を買って帰ろう

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