比企の丘

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彩の国深谷・・・ぶらり歩きの最後は・・・日本煉瓦

2015-02-19 | 道をゆく 埼玉イイなっ
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。
深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、深谷市血洗島の近代資本主義の父「渋沢栄一」の生家、栄一の従弟であり義兄でもある深谷市手計の尾高惇忠の生家、最後は渋沢栄一が設立に携わったといわれる深谷市上敷免の「日本煉瓦」。
栄一の生家、尾高惇忠の生家からほど近い、深谷市上敷免(1889年に上敷免村から大寄村、1955年深谷市に)、上敷免とは雑色(律令時代の技術職、テクノラート)集団がいて租税を免除されていたことから地名になったといわれる。

さて、深谷といえば「日本煉瓦」です。煉瓦需要の減少、安価な輸入煉瓦の影響で2006年廃業になりましたが、明治の夜明けに東京駅、日本銀行、赤坂離宮、法務省旧日本館、中央線万世橋高架橋、信越本線碓氷峠眼鏡橋、トンネル・・・など、数々の近代建築に建材を提供した先端技術の工場でした。いまはひっそりと4つの国指定重要文化財が残るのみ。

埼玉県道275号線の際にひっそり日本煉瓦旧事務所(1887年ごろ建造か、国指定重要文化財)が金網フェンスの向こうに(公開は土・日のみ)。
招聘したドイツ人の煉瓦製造指導技師チーゼの住宅、チーゼ帰国後は事務所に。

旧事務所の裏側に回り込むと旧変電所(1906年建造、国指定重要文化財)。後方の煉瓦張りの建物は深谷市浄化センター。
その後の煙突はかつての工場、いまはホフマン窯6号機のみ(1907年建造、国指定重要文化財)、(公開は土・日団体予約のみ、年1回一般公開)。

日本煉瓦製造株式会社・・・1886年明治政府は現在に霞ヶ関に官庁集中化計画を立て臨時建設局(総裁井上馨)を設立、ドイツ人建築家を招聘、彼らは建築資材の煉瓦工場を作ることを政府に進言、1887年深谷市上敷免に日本煉瓦製造が辰野金吾(東京駅設計者)設計によって建設された。良質な煉瓦用土の産すること、利根川水路を使っての輸送が容易なことが立地条件になった。設立の中心になったのは渋沢栄一、三井物産の益田孝、利根川運河の池田栄亮、本庄の実業家諸井恒平らである。1888年ホフマン1号機完成、1889年本格的操業開始、動力源は最初は石炭、1906年より電力に。
製品の輸送は、小山川から利根川に、関宿から江戸川へと舟運で運ばれて東京に、1895年、工場と深谷駅間4㎞に上敷免鉄道が敷かれた(1975年廃線、線路跡は自動車進入禁止のあかね通り)。

近代日本を作り上げた産業遺産群の一つです。


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