比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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彩の国・・・青年期の渋沢栄一にもっとも影響を与えた・・・尾高惇忠の生家を尋ねた

2015-02-17 | 古民家の風景
彩の国深谷市岡部、埼玉に18年ぶりで訪れた渡り鳥ナベヅルを見に行ったときの、その土地の見て歩る記です。
深谷宿の常夜燈、岡部藩の陣屋跡、長屋門、江戸時代初めに開削された備前渠川、そして深谷市血洗島の近代資本主義の父「渋沢栄一(1878~1942年)」の生家。それから渋沢栄一の従弟であり義兄でもある深谷市手計(てばか)の尾高惇忠の生家にやってきました。
手計(1889年、8ヶ村が合併して手計村に、1890年八基村に改名、1954年豊里村に、1973年深谷市に合併)。
手計(てばか)地名の由来には諸説がありますが、①手墓と表記されていた時代もあったようで、戦いで切られた武士の腕の血を洗ったのが血洗島、その腕を葬ったのが手墓(手計)、②関東地方で崩壊地、崖を表すバケ(古日本語)、③アイヌ語説・・・②が正解・・・と思う。

さて尾高惇忠の生家です。血洗島から数100m、むかしの下手計村
埼玉県道14号線下手計交差点そば、深谷宿から中瀬河岸に、島村の渡しに向かう幹線街道。「油屋」という屋号で商家を営んでいたそうだ。

江戸時代後期に建てられた商家建築といいますが2階の屋根に煙出しが見られますから養蚕農家でもあったようです(深谷市指定史跡)。

煉瓦造りの倉庫、日本煉瓦(㈱)のある上敷免の刻印を残す煉瓦が使われており、日本煉瓦の創立(1887年)以降の建造の倉庫。


尾高惇忠(1830~0901年)・・・通称新五郎、号は藍香。渋沢栄一は「藍香ありて栄一あり」と語ったといいますが、はて、どんな人物でしょう。明治5年(1872年)に創設された官営富岡製糸場初代場長・・・というぐらいしか知りません。
渋沢家「東ノ家」から栄一の父親元助が「中ノ家」に養子で。元助の姉が「尾高家」へ嫁いで惇忠を生む。惇忠と栄一は10歳違いの従兄妹にあたり、惇忠の妹が栄一に嫁いだことから義兄弟にもなり、さらに惇忠の弟平九郎が栄一の養子見立てになっており・・・ややこしい。むかしはみんなそんなものだったらしい。
惇忠は学問に優れ自宅で塾を開き近隣の子どもに教えていて栄一もその門下生。惇忠はそのころ流行りの「水戸学」(尊王攘夷思想)を信奉、栄一ら子弟に大いに勤皇思想をアジテーション。1863年、栄一、惇忠、従兄妹の渋沢喜作と惇忠宅の2階で討幕のための決起行動を謀議。まず高崎城(大河内松平藩)を乗っ取り、横浜に進軍して異人館を焼き払い異人を切り殺す。過激な学生運動など足下にも及ばない劇画のような荒唐無稽のクーデーター計画。その年の秋に最終謀議が図られ、惇忠の弟長七郎が反対して解散を促した。京都にいて天下の情勢を冷静に判断したことからだったらしい。議論は朝まで続いたが惇忠は結局中止を宣言、この荒唐無稽な計画は回避された。
栄一と喜作はその後、一橋家に仕官、栄一は川慶喜の弟、昭武の随員としてヨーロッパへ、喜作、惇忠は彰義隊上野戦争、飯能戦争(1868年)に加わり、その後、喜作は函館五稜郭に、惇忠は飯能戦争からどうにか逃れ故郷へ。惇忠の弟、栄一の見立て養子平九郎は飯能戦争で敗れたのち越生山中で自決。
激動の明治維新前夜にヨーロッパにいて維新後に帰国した栄一が新政府に仕官したのは1869年。華麗なる転身です。
その後、新政府が計画した官営富岡製糸場、農民出身の栄一がそのプロモーションを一手に引き受け、惇忠ら養蚕をよく知るスタッフに建設計画から参加させます。大きなプロジェクトですから個人的な功績は何ともいえませんが、惇忠は難航した工女の募集に娘の勇を第1号として、それがために全国からの工女志願者が集まったといわれます。工場完成後の1872年から1876年までの4年間、工場長として誠意を尽くした運営を行い退任後、第一国立銀行岩手支店支配人、仙台支店支配人を歴任。謹厳実直の人だったらしい。曾孫にNHK交響楽団正指揮者尾高忠明。
栄一は富岡製糸場の完成した1年後の1873年に大蔵省を辞職、第一国立銀行を創立。変わり身の早い人です。

尾高惇忠・・・多感な少年期から青年期の渋沢栄一の思想に影響を与えた人、この人がいなかったら栄一は田舎の百姓オヤジで身代を潰していたかもしれません。
※尾高惇忠の写真は深谷市パンフレットから。


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