信州上田の・・・六文銭の写真帳
長野県下高井郡小布施町、人口10500人、長野県一の小さな自治体・・・
江戸時代初期は高井野藩。廃藩後は幕府天領に。越後魚沼に抜ける谷街道の宿場として市場町を形成、菜種油、綿布、莨などの生産物の物流問屋を中心に大いに栄えたようです。明治以後、鉄道が千曲川左岸、長野市市街地を通るようになって園芸を中心とする静かな町に変わっていきましたが、1976年の葛飾北斎美術館の開館を機に、芸術の町、フルーツの町、栗の町として脚光を浴びるようになりました。
葛飾北斎の大天井絵「八方睨み鳳凰図」で有名な「岩松院」にやって来ました。
仁王門です・・・本堂が見えます。
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曹洞宗梅洞山岩松院本堂(1472年開基)。北斎の「八方睨み鳳凰図」はこの本堂の天井に。
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境内にある江戸時代初期の信濃国高井野藩主・・・福島正則公靈廟・・・を尋ねました。
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信濃国高井野藩?・・・福島正則?・・・知らない人のほうが多いかもしれません。
※福島正則(1561~1624年)・・・尾張国二つ寺村(現あま市)に生まれる。加藤清正と並ぶ豊臣秀吉子飼いの武将。1600年関ヶ原の戦いで德川家康の東軍に加担して功を上げ、1601年安芸国、備後国合わせて498000石の広島藩主に、1619年台風のため広島城の石垣が損壊、幕府の修復認可が下りる前に修復工事を開始したことを咎められ信濃国高井野藩45000石(川中島20000石、越後魚沼25000石)に減封され転封。陣屋は高井郡高井野村(現高山村堀之内)。1624年死去。夏の盛りであり腐敗が進むため幕府の検死の前に火葬に付したことを咎められ改易。正則の子正利は3000石の旗本に。豊臣秀吉子飼いの武将であり、家康にとって油断ならない外様大名。計画的に倒産されたとも思える。その計画を見ぬけなかったのは愚直だったゆえか。武闘派といわれるが広島藩でも高井野藩でも検地、治山、新田開発、用水開削など、民政に尽くしたといわれる。以後、高井野藩は廃藩に、幕府領、松代藩預かり地に。
境内に小さな池があります・・・小林一茶が・・・
痩せ蛙 負けるな一茶 ここにあり
と詠んだ、池だそうです。毎年、アズマヒキガエルの蛙合戦が行われるそうです。
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栗拾ひ ねんねんころり 云ながら 一茶
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小布施を尋ねる機会がありましたらぜひ寄ってみてください。
※撮影日は10月8日。
※コメント欄閉じていますオープン。
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▼ お母ちゃんアッタあったと笑みの栗 (縄)
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一茶の生い立ちから江戸への奉公時代、複雑で江戸では田舎者と馬鹿にされたようです。俳諧師の路を目指し、やがて帰郷、波乱万丈ですね。
俳句は・・・確かな描写、繊細、思いやり・・・鬼才ですね。
葛飾北斎・・・小布施へ出向いたのは80歳代のとき、化け物です。絵は鬼才です。
小布施は鬼才の集まる町のようです。