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いまから76年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・
・・・黙祷・・・
長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「広島・長崎の被曝の現況写真」の中の一枚・・・「焼き場に立つ少年」です。
カメラマンの名前はジョー・オダネル(1922~2007年)・・・米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、心に傷を負い、軍の許可なく私品のカメラで被曝の現状写真約300枚を秘かに撮影、帰国。秘密裡に持ち帰った写真はトランクの中に封印、44年後の1989年、67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。
★2017年8月11日のブログ➡クリック➡1945年被爆直後の長崎・・・焼き場に立つ少年・・・米軍カメラマンは見た
いまから76年前の1945年8月9日11時02分・・・長崎市松山町9番地上空500m。
米軍戦略爆撃機の落としたプルトニューム爆弾「ファットマン」・・・爆発。
一瞬で・・・死没者74000人 負傷者75000・・・
・・・黙祷・・・
長崎に原子爆弾が落とされた直後、長崎に進駐した米軍カメラマンが撮影した「広島・長崎の被曝の現況写真」の中の一枚・・・「焼き場に立つ少年」です。
カメラマンの名前はジョー・オダネル(1922~2007年)・・・米海兵隊写真班員として従軍、被爆直後の広島・長崎を爆撃効果確認のための記録写真撮影(撮影用カメラは軍の貸与品、命令以外の私的な撮影は禁止されていた)、日本軍憎しで固まっていたオダネルが佐世保から長崎に入って目にしたものは衝撃的で、心に傷を負い、軍の許可なく私品のカメラで被曝の現状写真約300枚を秘かに撮影、帰国。秘密裡に持ち帰った写真はトランクの中に封印、44年後の1989年、67歳の時、トランクの中の「広島・長崎の被曝の現況写真」の封印を解き、全米各地で写真展を開きます。・・・被曝犠牲者への思いをこめて・・・
原爆正当化論の根強いアメリカで強いバッシングを受け、奥様とは離婚、そんな環境に耐えながら、2007年85歳で亡くなるまで世界各地で写真展を開催し続けました。
★↑の写真と↓の文章は6月3日NHK BS1で放映された「焼き場に立つ小年」より。
「焼き場に立つ少年」・・・
焼き場に10歳ぐらいの男の子がやってきた。小さな体はやせ細りボロボロの服を着てハダシだった。
少年の背中には、幼いお男の子がくくりつけられていた。係員は背中の幼児を下し、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
わたしは彼から目をそらすことはできなかった。
少年は気をつけの姿勢で、じっと前を見つづけた。
急に彼は回れ右をすると、背筋をピント張り まっすぐに前を見てまま歩み去った。
もううしろを振り向かないまま。
焼き場に10歳ぐらいの男の子がやってきた。小さな体はやせ細りボロボロの服を着てハダシだった。
少年の背中には、幼いお男の子がくくりつけられていた。係員は背中の幼児を下し、足下の燃えさかる火の上に乗せた。
炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
わたしは彼から目をそらすことはできなかった。
少年は気をつけの姿勢で、じっと前を見つづけた。
急に彼は回れ右をすると、背筋をピント張り まっすぐに前を見てまま歩み去った。
もううしろを振り向かないまま。
★2017年8月11日のブログ➡クリック➡1945年被爆直後の長崎・・・焼き場に立つ少年・・・米軍カメラマンは見た
※コメント欄オープン。
あまりにも有名であまりにも悲しい写真ですね。
こんな事が2度と起こらないように語り継いで行かなければならないのだと改めて思いました。
貴重なブログをありがとうございました。
あまりにも有名なこの写真をもとに、山梨ではかって2006年に上演された「憲法ミュージカル」第1回公演で「少年がいて」で取り上げられ、県民100名の出演で広く皆さんに紹介されました。
あの時出演した子どもたち一人一人がきっと、平和を守らなくては!という気持ちを持ち続けてくれていると信じています。
今回もこうして書いていただき有難うございます。
声高に、平和を叫ぶより、このような静かに戦争の残虐さを知らせる写真に・・・世界の人々が感じてくれたらと思います。
コメントありがとうございました。
ラジオ体操公園に百日紅が真っ赤に咲き誇っています。
暑い暑い夏の日でした。
▼ 百日紅終戦の日や母なみだ (縄)
我が家には貧農で父が数年前に他界し、ラジオが無く隣家に聞きに行きて天皇陛下のお言葉を聞いて帰ってきた。
母の涙・・・・・・・。
国民学校1年生でしたが、我が脳裏には鮮明に覚えています…又めぐりくる終戦日!!
子供が子供を背中に”おんぶ”・・・・戦争・終戦・貧しい生活、衣料切符、隣組、銃後の守り・・・・、
▼ 残されて銃後の妻となる日近く
征かせともなき夫に寄り添う (富江)
≪昭和17年11月≫
従兄が出征するときの歌です。
幸い帰還して、数年前に他界しました。
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&帰還して書き残した歌集「命得て」が本棚にあり、目を通すと・・・。
=戦負ける=
▼米軍機撒きたるビラを拾い読みて
敗戦諾いし八月十四日 (柳)
▼戦い破れのに伏して聞く大黄河の
とよみ地獄の死者の響き (柳)
(とよみとは➡銃後の守り、妻富江のことか?)
▼戦破れ警報も命令もなき夕べ
遠き黄河の水音たかまる (柳)
自宅に辿り着いたときは、衣服は汚れそれは無残であったと・・・・『命得て帰還できただけでも幸せ。』
他にも歌集として残されていますが、「戦い・敗戦・戦地・振り返る・・・」惨いことでしょうが・・・・掲載させて記すこととしました。
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涙無くて見られませんです・
日本人として忘れない写真ですね。
こんなことがあった・・・こんなことは二度と起こしてはダメ・・・と語り継いでいきたい…
まだまだあついひがつづきます。
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あの大戦で亡くなられた人々のため、供養のような気持ちで、毎年、何か書かずにはおられません。
まだまだ暑い日が続きます。
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ねんごろに供養してやらねば・・・と思い、ブログに書いています。
縄文人さんの詠んだ句の数々で供養したい・・・