比企の丘

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今から69年前の沖縄戦・・・終結の日から二日後の・・・轟の壕で

2014-06-25 | 語り継ぐ責任 沖縄のこと
いまから69年前の1945年6月23日は、第2次世界大戦の日米戦(太平洋戦争)の日本国土最初で最後の地上戦が行われた日本最南端の県・・・沖縄の摩文仁の丘の司令部壕の中で沖縄方面最高司令官牛島満中将が自決した日です。この日をもって沖縄戦の終わりと沖縄戦争史では位置づけています。
牛島中将の最後の命令は
・・・爾後、各部隊は各戦局における生存者の上級者、これを指揮し最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく悠久の大義に生くべし」と伝えられています。
作戦中止命令ではなかったため、6月23日以降も各地に立てこもった日本軍は米軍の投降勧告を拒否して抗戦します。

昨年の8月7日、TBS製作のドキュメンタリードラマを見ました。
テレビ未来遺産〝終戦”特別企画 報道ドラマ  
[生きろ ~戦場に残した伝言~」

テレビドラマで紹介された話を紹介します。1945年6月25日の話です。今日はその69年後の6月25日です。

沖縄県特高警察佐藤喜一課長・・・その日沖縄本島南部の轟の壕にいました。

1945年5月27日、第32軍司令部は首里からの撤退を決定、5月30日、摩文仁の壕に司令部を移動。那覇から首里に県庁機能を移していた沖縄県庁も南部に向い那覇と摩文仁の中間地点にある伊敷集落(現糸満市)の近くの轟の壕に入りました。轟の壕は東西に100m延びるガマ(ガマとは沖縄方言で石灰岩の鍾乳洞のこと)。
壕の中には那覇方面からの避難民、近在の避難民が数100人、県庁職員、日本兵も入ってきます。


島田叡沖縄県知事は6月9日、県庁職員、警察官を集めて「どうか命を永らえて欲しい」と訓示、県組織の解散を命じ、6月15日、摩文仁の軍司令部に赴きます。
6月23日、牛島満中将の自決。米軍は日本軍司令官の自決と司令部の壊滅の情報をビラ、スピーカーで壕に潜む日本兵、避難民に知らせ投降を呼びかけ、抗戦する日本軍に対しては火炎放射器などで掃討する作戦を続行します。各壕内は日本軍、住民が入り混じっていたためさまざまな悲劇が生まれました。
白旗の少女」の比嘉富子の写真にあるように投降した住民、兵士もいれば、徹底抗戦した兵士、集団自決した住民もいました。


数100人が立てこもる轟の壕では、日本軍によって住民は投降を許されなかったようです。
そのとき佐藤喜一特高課長は
自分が残るからみんなを外に出してくれ」と懇願、ようやく許されて住民600人余が救出されたのは6月25日のことでした。

※写真はすべてドラマ「生きろ ~戦場に残した伝言~」より。

佐藤喜一特高警察課長が壕から出たのを見た人はいない。日本兵に殺害されていたという証言もあるという。


島田叡知事の「「どうか命を永らえて欲しい
佐藤喜一特高警察課長の「自分が残るからみんなを外に出してくれ
後世に残る言葉です。


戦争というルールのない殺し合いの中で、パニック状態になった日本兵の住民に対する加虐行為、占領下の米軍のレイプ暴行、これもまた否定できない真実。住民を守るために尽くした日本兵、親切な米兵、そのほうが多かったはずです。同じ人間ですから。でもそれが免罪符にはなりません。

※特別高等警察・・・戦前の警察機構、内務省警保局保安課の管轄、普通の警察機構と分離している。思想警察とも呼ばれ、社会主義運動、労働運動、農民運動などを監視、小林多喜二拷問死などで知られ畏怖された。戦後の信条の自由など新憲法下で組織はなくなった。
※島田叡県知事、荒井退造警察部長、佐藤喜一特高課長、いずれも内務省の警察官僚です。畏怖される立場の人でしたが、住民のために尽くした官として語り継ぐべき人です。

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