上田市街地から北に国道144号線で菅平方面に・・・上田市に合併する前の真田町(その前は長村、その前のその前は真田村)。
戦国時代の雄・・・真田氏発祥の地・・・信濃国の豪族滋野氏、海野氏の血を引く真田氏初代幸隆がここに居を構え真田氏を名乗ったといわれています。
真田家の墓所を尋ねます。
※真田昌幸(1517~1611年)・・・真田三代の二代。信綱、昌輝の弟、武田信玄に臣従した真田家からの人質として武田家に仕え武田一門の武藤家の養子になり武藤喜兵衛と名乗る。兄二人が1575年長篠の戦いで討死したことから養子縁組を解いて真田家を継ぐ。1580年沼田城を攻めて版図に。1582年天目山の戦いで主家武田氏の滅亡。戦国武将として一本立ちの時機が。1583年真田郷を出て上田に進出し城を構え一国一城の主に。1585年第一次上田合戦・・・沼田城を巡る德川家康との戦い、8000の德川勢を2000の兵力で撤退させます。この時代、きのう関東管領上杉、きょう後北条、あしたは豊臣か德川かと生き残りをかけて臣従関係を変えていきます。1590年後北条滅亡、豊臣秀吉により沼田領支配を認められます。1600年第二次上田合戦・・・德川家康の要請で関東管領上杉勢との戦いのため下野国犬伏(現佐野市)に出兵中、石田三成から関ヶ原合戦の参戦要請を受け、昌幸、信幸、信繁と相談して進路を決める(犬伏の密約)。信幸が東軍、昌幸、信繁が西軍に与することを決断。昌幸、信繁は上田城に篭り関ヶ原に向けて行軍する德川家忠軍38000を迎え2500の兵力で足止めして家忠軍の関ヶ原行きを遅れさせました。
この二つの上田合戦が「上田といえば真田」が講談や物語になって真田氏の上田治世は数十年ですが上田市の観光ブランドになりました。第二次上田合戦あたりまでは史実のようですが・・・真田信繁(幸村)の活躍するそれ以降のことは・・・伝説となり虚構となっていきます。
※長村(おさむら)・・・真田町長という地籍を中心に回りました。長村とは・・・明治の大合併で大日方村、横沢村、横尾村、真田村の合併行政名です。オビナタのオ、サナダのサを合わせてオサ村とした合成地名のようです・・・わかりやすい。
※真田・・地名の由来は実田、早苗田、狭名田などあるようです。地名のほとんどが地理、地形からといわれ、かっこいい当て字にされた例が多いようです。
真田郷は歴史マニア、山城マニア、廃城マニアにとって興味は尽きないところです。お近くに来たらぜひ訪れてみてください。
戦国時代の雄・・・真田氏発祥の地・・・信濃国の豪族滋野氏、海野氏の血を引く真田氏初代幸隆がここに居を構え真田氏を名乗ったといわれています。
真田家の墓所を尋ねます。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
信綱寺・・・真田町長、室町期の創建、はじめ大柏寺、のちに大柏山打越寺。
1594年の真田文書で真田昌幸が兄たちの菩提寺にしたという記録が。大柏山信綱寺としたのはそのころでしょうか。
真田幸隆の長男信綱、次男昌輝(ともに武田軍の武将として1575年の三河長篠の戦いに参戦して討死)の墓所です。
このため真田家は三男昌幸が継ぐことになります。
信綱の首級が葬られたという墓前の桜。
真田幸隆、昌幸の菩提寺「真田山長谷寺」(しんでんざんちょうこくじ)・・・真田町長、創建は不明、種月院。1547年長谷寺に。
1622年上田城主真田信幸あらため信之が松代藩初代藩主として国替するとき松代に真田家の菩提寺「真田山長国寺」を創建、真田の長谷寺を末寺としました。
石門に六文銭が刻まれています。
真田幸隆、正室、真田昌幸の墓所・・・歴女が佇んでいます。
1594年の真田文書で真田昌幸が兄たちの菩提寺にしたという記録が。大柏山信綱寺としたのはそのころでしょうか。
真田幸隆の長男信綱、次男昌輝(ともに武田軍の武将として1575年の三河長篠の戦いに参戦して討死)の墓所です。
このため真田家は三男昌幸が継ぐことになります。
信綱の首級が葬られたという墓前の桜。
真田幸隆、昌幸の菩提寺「真田山長谷寺」(しんでんざんちょうこくじ)・・・真田町長、創建は不明、種月院。1547年長谷寺に。
1622年上田城主真田信幸あらため信之が松代藩初代藩主として国替するとき松代に真田家の菩提寺「真田山長国寺」を創建、真田の長谷寺を末寺としました。
石門に六文銭が刻まれています。
真田幸隆、正室、真田昌幸の墓所・・・歴女が佇んでいます。
※撮影は2016年10月16日 Panasonic LUMIX DMC-FZ100。
※真田昌幸(1517~1611年)・・・真田三代の二代。信綱、昌輝の弟、武田信玄に臣従した真田家からの人質として武田家に仕え武田一門の武藤家の養子になり武藤喜兵衛と名乗る。兄二人が1575年長篠の戦いで討死したことから養子縁組を解いて真田家を継ぐ。1580年沼田城を攻めて版図に。1582年天目山の戦いで主家武田氏の滅亡。戦国武将として一本立ちの時機が。1583年真田郷を出て上田に進出し城を構え一国一城の主に。1585年第一次上田合戦・・・沼田城を巡る德川家康との戦い、8000の德川勢を2000の兵力で撤退させます。この時代、きのう関東管領上杉、きょう後北条、あしたは豊臣か德川かと生き残りをかけて臣従関係を変えていきます。1590年後北条滅亡、豊臣秀吉により沼田領支配を認められます。1600年第二次上田合戦・・・德川家康の要請で関東管領上杉勢との戦いのため下野国犬伏(現佐野市)に出兵中、石田三成から関ヶ原合戦の参戦要請を受け、昌幸、信幸、信繁と相談して進路を決める(犬伏の密約)。信幸が東軍、昌幸、信繁が西軍に与することを決断。昌幸、信繁は上田城に篭り関ヶ原に向けて行軍する德川家忠軍38000を迎え2500の兵力で足止めして家忠軍の関ヶ原行きを遅れさせました。
この二つの上田合戦が「上田といえば真田」が講談や物語になって真田氏の上田治世は数十年ですが上田市の観光ブランドになりました。第二次上田合戦あたりまでは史実のようですが・・・真田信繁(幸村)の活躍するそれ以降のことは・・・伝説となり虚構となっていきます。
※長村(おさむら)・・・真田町長という地籍を中心に回りました。長村とは・・・明治の大合併で大日方村、横沢村、横尾村、真田村の合併行政名です。オビナタのオ、サナダのサを合わせてオサ村とした合成地名のようです・・・わかりやすい。
※真田・・地名の由来は実田、早苗田、狭名田などあるようです。地名のほとんどが地理、地形からといわれ、かっこいい当て字にされた例が多いようです。
真田郷は歴史マニア、山城マニア、廃城マニアにとって興味は尽きないところです。お近くに来たらぜひ訪れてみてください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます