比企の丘

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秩父事件の足跡を追って・・・秩父金仙寺・・・秩父困民党総裁田代栄助の墓

2013-06-17 | 秩父事件を追って
6月9日、秩父市下影森・・・大聖山金仙寺(臨済宗建長寺派)。秩父七福神めぐりの寺、布袋尊が祀られています。開基は定かではありませんが南北朝のころの1358年といわれています。ネットでググっていきますともとは在地領主のお館から城郭みたいなものが構築されていたようです。このあたり歩けば空堀、土塁などが見られるようですが今回は素通りしました。
今回の目的は秩父事件の首謀者とされる秩父困民党総裁田代栄助の墓に詣でることです。

金仙寺山門。タチアオイの花がキレイです。

扁額の寺名が金僊寺になっています。の本字・・・知らなかった。
布袋尊が祀られている…七福神のお寺を・・・いつの時代に・・・どうやって決めたのか・・・知りません。

サイパン地蔵が本堂のすぐ前に(1946年建立)。太平洋戦争で犠牲になったかたがたの慰霊地蔵のようです。


田代栄助墓」・・・巨大な自然石に刻まれた文字は風食か石をもて打たれたのか損傷が激しく近くに寄らなければ読めませんでした。
振りかえりみれば昨日の影もなし 行く末くらし死出の山路」・・・墓石の裏にはこう刻まれているそうですが読めませんでした。 


武甲山が見えます。田代栄助、秩父大宮郷字熊木の生れ(羊山のすぐ西側の現在の市街地)。1885年処刑された田代栄助の墓は生れ在所のそばの羊山の中腹にありましたが戦時中の軍の地下壕計画で金仙寺に墓所を移したそうです。長い間、秩父事件の首魁として墓所も辛い目にあったようでフェンスに囲まれ鉄扉に鍵が施されていたそうです。いまは施錠されていません。新しい花が供えられていました。

※秩父困民党総裁田代栄助)(1834~1885年)・・・江戸時代には秩父大宮郷熊木の名主も務めた大百姓の家の生まれ。親分肌で人望があり貸借トラブルの仲裁など代言人(明治時代の弁護士みたいな職業)もしていたようです。自由民権運動の波に乗り、1884年2月自由党に入党します。やがて年長者、親分肌だったことから秩父の困窮した農民の政府への請願運動のリーダーに推されます。
武力蜂起にはかなり慎重派だったらしいのですが、燃え上がった炎は抑えることができず1884年11月1日の椋神社の決起集会で暴動へと進みます。秩父での騒動は11月3日に鎮圧され田代栄助は逮捕され処刑されます。


秩父事件の足跡を追って・・・最初に鬨の声をあげた風布の琴平神社下吉田の椋神社困民党副総裁井上伝蔵の商店跡石間の副総裁加藤織平の墓信州佐久の東馬流の秩父暴徒戦死者之墓秩父困民党散華之地・・・を尋ねて歩きました。
今回の田代栄助の墓に詣でて、この旅も一段落したような気がします。

江戸時代の徳川幕府という体制、明治時代に入り新政府という体制・・・農業者にとってどのような違いがあったのでしょう。天子様も将軍様も同じ感覚であったのかも知れません。年貢の納め先が変わった、年貢が物納から金納に変わったという程度でしか捉えていなかったかも知れません。唯一の換金生産物である生糸相場の暴落、明治政府のデフレ政策、増税、さまざまな要因が絡んで農地を手放すしかないという状況(小作農への転換、一家離散、身代限り、夜逃げ)に追いこまれます。債権の年数延長、学校費の負担延長、雑税、村税の軽減・・・など請願しますがすべて却下され・・・実力行使に向かっていきます。百姓たちにとって一揆という感覚だったかもしれません。。秩父騒動、暴動とか暴徒、逆賊と長い年月いわれ続けましたが、いまは研究者たちの検証により「秩父事件」といわれるようになりました。
暴力による問題解決・・・いつの時代にも許されませんが・・・国を治めるサイドが民の声を聴く姿勢は・・・いつの時代にも政治の基本です・・・秩父事件は民の声を聴くという姿勢が国を治める側にあればあんな悲劇的な結末にならなかったのでは・・・そんな思いがします。
そして、あの時代にいいたいことがあれば堂々とものをいった・・・そんな秩父人の百姓の強かさに・・・畏敬の念が湧きました。

フォトアルバム「秩父へ・・・秩父事件の原点を追いかけてもご覧いただければと思います。

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