4月18日・・・東京にオノボリサンで出てきました。新宿御苑からオバアチャンの原宿こと巣鴨・庚申塚・・・都電荒川線に乗って・・・そして王子に。駅前の音無親水公園から広い道を跨道橋で横断すると飛鳥山公園。
桜の名所として有名ですがはじめての訪問です。JRの線路に沿って400m、幅は100m弱かな。それほど広くはありません。西洋庭園でもなし日本庭園でもなし遊園地でもなし武蔵台地の崖の上の丘に桜を植えた散歩道という感じ。
桜の散った広場に思い思いにシートを敷いて楽しんでいます。地域住民の憩いの場です。
18世紀のはじめ、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環だったのでしょうか市民に憩いをとここを整備して桜1700本を植えたのだそうです。今と違って上野の森の花見は飲み食いご法度、ここは無礼講あり、長屋の花見ですね。庶民の閉塞感のガス抜きだったのでしょうか?
1873年、太政官布達で上野、芝、深川、浅草とともに公園となります。むかしはこの山の上から瓦投げなるものがあったそうです。庶民のフラストレーションの解消(ガス抜き)ですね。
公園の中に飛鳥山博物館、紙の博物館(王子は洋紙抄造の発祥の地)、澁澤記念館があります。どこにも寄りません。疲れました。
日本の近代資本主義企業の父・澁澤栄一の邸宅跡があります。公園の土地か私有の土地かわかりませんが1877年澁澤栄一はここに別邸を作り1901年ごろから本邸(本邸は港区三田綱町にありますがここもまた本邸?)として住みました。戦災で焼失、今は庭園と2つの建物(青淵文庫、晩香廬)を残すのみ。
青淵文庫・・・1925年澁澤翁傘寿の祝いに建造。書庫、接客用。八重桜が美しい。土曜日の12:30~15:30一般公開。
澁澤栄一(1840~1931年)武州血洗島村(現深谷市)に生まれた幕末から明治、大正を。昭和を生き抜き500以上の企業の設立、経営にかかわり近代資本主義の父といわれた人。この人のことは偉人伝とか郷土の偉人とかで本がいっぱいあります。偉人には間違いありませんからここでは省略。
《偉人伝には書かれない話》この人は論語の精神で企業を起こし経営したといわれますが聖書は読まなかったのか男女の倫理観がなく妻妾同居、その子は20人を超えたそうです(明治という時代はそれが不道徳ではなかったようです・・・そして近代資本主義の父としての業績と関係ありません)。嫡子篤二さんはそれを見習ったのか放蕩三昧、ついには禁治産者扱いのように廃嫡されています。祖父、父を反面教師として育ったのでしょうか孫の敬三さんはマジメなかたで家業をついで第一銀行副頭取、日本銀行総裁、第二次世界大戦直後の大蔵大臣を務め、新円切り替え、財産税導入、財閥解体などを手がけ、公職追放、自ら導入した財閥解体ですべての財産を国家に物納。この人の顔は財界人の顔より民俗学者としての顔のほうが光っていますが・・・省略。
飛鳥山公園の崖を下りてJRの鉄道線路の上の橋を渡り東側に出て都電荒川線の王子駅方面に向います。
桜の名所として有名ですがはじめての訪問です。JRの線路に沿って400m、幅は100m弱かな。それほど広くはありません。西洋庭園でもなし日本庭園でもなし遊園地でもなし武蔵台地の崖の上の丘に桜を植えた散歩道という感じ。
桜の散った広場に思い思いにシートを敷いて楽しんでいます。地域住民の憩いの場です。
18世紀のはじめ、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環だったのでしょうか市民に憩いをとここを整備して桜1700本を植えたのだそうです。今と違って上野の森の花見は飲み食いご法度、ここは無礼講あり、長屋の花見ですね。庶民の閉塞感のガス抜きだったのでしょうか?
1873年、太政官布達で上野、芝、深川、浅草とともに公園となります。むかしはこの山の上から瓦投げなるものがあったそうです。庶民のフラストレーションの解消(ガス抜き)ですね。
公園の中に飛鳥山博物館、紙の博物館(王子は洋紙抄造の発祥の地)、澁澤記念館があります。どこにも寄りません。疲れました。
日本の近代資本主義企業の父・澁澤栄一の邸宅跡があります。公園の土地か私有の土地かわかりませんが1877年澁澤栄一はここに別邸を作り1901年ごろから本邸(本邸は港区三田綱町にありますがここもまた本邸?)として住みました。戦災で焼失、今は庭園と2つの建物(青淵文庫、晩香廬)を残すのみ。
青淵文庫・・・1925年澁澤翁傘寿の祝いに建造。書庫、接客用。八重桜が美しい。土曜日の12:30~15:30一般公開。
澁澤栄一(1840~1931年)武州血洗島村(現深谷市)に生まれた幕末から明治、大正を。昭和を生き抜き500以上の企業の設立、経営にかかわり近代資本主義の父といわれた人。この人のことは偉人伝とか郷土の偉人とかで本がいっぱいあります。偉人には間違いありませんからここでは省略。
《偉人伝には書かれない話》この人は論語の精神で企業を起こし経営したといわれますが聖書は読まなかったのか男女の倫理観がなく妻妾同居、その子は20人を超えたそうです(明治という時代はそれが不道徳ではなかったようです・・・そして近代資本主義の父としての業績と関係ありません)。嫡子篤二さんはそれを見習ったのか放蕩三昧、ついには禁治産者扱いのように廃嫡されています。祖父、父を反面教師として育ったのでしょうか孫の敬三さんはマジメなかたで家業をついで第一銀行副頭取、日本銀行総裁、第二次世界大戦直後の大蔵大臣を務め、新円切り替え、財産税導入、財閥解体などを手がけ、公職追放、自ら導入した財閥解体ですべての財産を国家に物納。この人の顔は財界人の顔より民俗学者としての顔のほうが光っていますが・・・省略。
飛鳥山公園の崖を下りてJRの鉄道線路の上の橋を渡り東側に出て都電荒川線の王子駅方面に向います。
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