小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「小沢昭一的こころ」が、、、、、、、、、、:

2012年12月11日 | 社会戯評
「小沢昭一的こころ」が、、、、、、、、、、:
又、昭和と言う時代が、個性的な名脇役俳優が、逝ってしまった。民衆芸能への関心が高じて、大道芸や紙芝居、露天商、見世物小屋、等と云う放浪藝を、録音や資料として、研究・収集に尽力した功績は、まるで、民俗学の柳田国男にも劣ることのないストイックな、且つ、エキセントリックな、一寸、助平なストリップ好きな俳優であり、同時に、民俗学者であると云っても、過言ではなかろう。昭和の高度成長期に、或いは、それ以降の過疎化や高齢化の全国的な進展により、逝きし世の、或いは、滅び去ろうとしていた民衆藝を、その風俗と芸能という分野を通じて、かろうじて、その最期の語り部として、残そうとした努力は、「江戸の粋」を、或いは、「昭和という時代の臭い」を、まるで、文化遺産的遺跡を保護するような防波堤的な役割であったような気がする。昭和の懐かしい童謡を、あの哀愁に富んだ名調子で歌いあげ、あのもの悲しいハーモニカの音色を奏でつつ、まるで、出征兵士を見送るようなまなざしで、「小沢昭一的こころ」は、シャボン玉と一緒に、天へと、飛び去り、消えて行ってしまったのだろうか?今観られる大道芸も、紙芝居も、昔のそれとは、その雰囲気がおおいに異なり、それを演じる芸人も、又、それを見守る子供達も、互いに、どこかで、変わってしまった。それが、時代という、時間軸なのであろうか?歌舞伎という元々、カブキモノだった民衆藝が、今日、その継承者自身と共に、文化的なエスタブリッシュメントになったのに、較べると、何とも、皮肉なことではないだろうか?きっと、あの世とやらで、勘三郎や、森光子とも、談義していることであろう、、、、、、、、。「小沢昭一的こころ」とは、何か?と後世、尋ねられたら、どのように、説明したらよいのだろうか?