小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

三谷幸喜、「清須会議」を観る:

2013年12月29日 | 映画・テレビ批評
三谷幸喜、「清須会議」を観る:
映画、「利休にたずねよ」が、秀吉の権力者になった後での「欲」を一つのテーマにしているのに対して、この映画は、若干、三谷幸喜によるひねくれた喜劇っぽいストーリーかと勝手に思い込み、余り期待せずに観たが、良い意味で、期待を裏切る結果になったかと思われる。羽柴秀吉役の大泉洋は、なかなか、若手中堅の喜劇役者の中では、実力も演技も面白いし、阿部サダヲの向こうを張れるような気がする。むろん、柴田勝家役の役所広司は、喜劇風演技でも実に、別格である。むしろ、そんな主役の役所を凌ぐような存在感があったのではないか?池田恒興役の佐藤浩市は、三谷とのインタービューの中で、奇しくも、本人自らが言っているように、マキャベリストとしての立ち位置が、確かに、難しい役柄だったのではないだろうか?むしろ、その中で、三谷が言っているように、彼の保持する未だ見せていない未知の引き出しを引きずりだすような部分があったのかも知れない。今後の役どころに期待したいものである。丹羽長秀役の小日向文世は、うってつけの役だったのかも知れない。生き残るためには、優柔不断も、勝ち馬を見つけるのも、才に長けたモノに取り込まれるのも、マキャベリストと呼ばれようが、兎に角「生き残るため」には、何でも構わないのであるのかも知れないし、又、それを一寸でも間違えれば、そこには、死と共に、滅亡が、待ち受けているのであることを本人自身が一番良く知っていたのかも知れない。逆説的に言えば、それを知っていても、それがどうしても出来ないということが、既に外堀が埋まってしまっていては、逃れる術がなく、むなしく、滅びる以外になかったことは、歴史が物語っているのであろう。前田利家も、そんな中で、描かれていようか?妻のマツは、どう思っていたのであろうか?現代では、殺す意思がないと言うことになれば、それだけで生き延びることが可能になるのに対して、この時代は、闘う意思がなくても、攻め滅ぼされたりする現実と理不尽が、不条理が、「勝った者の歴史」となってしまうのであろうか、歴史の裏に、女有りとは、謂われているが、その流れでは、お市の方(鈴木京香):寧々(中谷美紀):松姫(剛力彩芽)という3人の系譜の中で、やがて、それは、暗示的に、後の豊臣秀頼(茶々=淀殿)の滅亡という歴史の皮肉へと完結して行く訳であるが、誰も、この清須会議の時点では、黒田官兵衛ですら、想像もしてはいなかっただろうか、、、、、。歴史の中では、実は、勝者も敗者も、結局ないのかも知れない。あるのは、その時々での生き残りを懸けた生き様だけなのかも知れない。その意味では、この映画の主題である清須会議が、秀吉の「権力へのターニング・ポイント」であると云うのであれば、私達は、歴史を観るときには、いつでも、時間の歯車を逆廻しに論じてしまうものの、現在進行形の時に、現に、その時が、後から考えてみれば、ターニング・ポイントだったと、どれ程、自覚しうるのであろうか?自分の人生の中で、いつが、そして、何が、ターニング・ポイントだったのかと果たして、認識しているであろうか?秀吉関連の2本の映画を観ていて、そんな風に、感じたが、、、、、、、。
スター千一夜2013と題する宣伝HP:これは、後で観るとなかなか面白い!
http://www.kiyosukaigi.com/trailer.html