小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

無用なリコールと過度な安全神話の呪縛:

2012年12月15日 | 社会戯評
無用なリコールと過度な安全神話の呪縛:
今から10年ほど前のことだったろうか、食品分野で、産地偽装とか、不当表示とか、異物混入とかにより、結局、過度な安全神話により、健康に直接的に、悪影響を及ぼさないような商品ですら、或いは、廃棄しないでもよいような商品ですら、分別することなく、グレー商品として、全ての商品を安心・安全という大義名分と社会的評判を死守するために、廃棄したり、メーカーに、一方的に、押しつけたりして、自分で、自分の首を締め上げ、結果として、日本は、いつの間にか、そのコスト・アップという自縄自縛に陥ってしまった。Product Liability (PL)自体は、決して、悪いことではないが、日本のように、只単に、包装が、傷ついていたとか、歪んでいたといった理由だけで運送会社自体が、モノを運ばないという。何でもかんでも、色々な理由をつけては、ラベルの表示を細かい文字で、警告とか、取扱注意などと、これまでであれば、消費者の誤使用で、済んだクレームすら、自主回収、自主規制とか、全く、止まるところを知らないのが、現実の動きである。大企業の社会的信用も、分からないことはないが、どこまで行ったら、「限界点」が見えるのであろうか?もうとうの昔に、そんな限界点は、通り越してしまっているのではないだろうか?賞味期限と消費期限と、3ヶ月前自主規制ルールといい、いつの間にか、過度なまでの本末転倒の自己目的化した「安全神話の呪縛」により、デフレ・スパイラルの中で、いつしか、知らぬ間に、自分で自分の首を締め上げて、結果的に、食品ロスやコスト・アップを、増大させようとしている。一方で、下請け企業の極端な合理化や部品の共通化を推進することにより、逆に、その不具合から、リコールの拡大を増幅させることにも、繋がっている。何とも「バランスの悪い」社会になってしまったものである。極端な合理主義と誤用を主たる原因とする過激なクレームは、決して、消費者にとっても、メーカーにとっても、更には、行政側も小売業者にとっても、その行き着く先は、当然、見えているであろう。ヤジロベエのバランスをどこに置いたら良いのであろうか?消費者も、もっと、賢くならなければならないと思うが、、、、、。本当に、消費者は、神様なのであろうか?



ネット選挙規制と新経連について:

2012年12月14日 | 社会戯評
ネット選挙規制と新経連について:
公職選挙法の一字一句を読んでみたことはないが、総務省の解釈に従えば、何でも、選挙期間中は、HPの更新も、指定された法定文書以外は、配布も禁止されているそうで、ツイッターなどによる選挙運動も、全て、違反扱いになるそうであるが、お隣の新IT立国の韓国では、今や、当たり前のことが、我が国では、まだ、先例がない(?)からだろうか、IT手段を活用した一定の選挙活動が、未だ、俎上にもあがってこない有様である。もっとも、なりすましや、スパイ・アイなどのセキューリティーが、あやふやな現状では、知らぬ間に、敵対候補を応援する推薦人に、登録されてしまう危惧はあろうが、、、、、、、。それにしても、時代錯誤的な、何とも、金持ちが金にものを言わせて、買収していたそんな昔の時代の遺物のような気がしてならないのは、私だけであろうか?流石に、まだ、いきなり、電子投票という具合にはゆかないであろうが、試みにも、試行錯誤を覚悟で、行ってみる必要はないだろうか?にこにこ動画で、演説会が視聴できるのに、何とも、摩訶不思議な法律の壁である。ビデオ・チャットや動画投稿サイト等による実質的な、なし崩し的な「みんなで渡れば怖くない」的な動きで、結局、やり得で、壁は、崩れ去っていってしまうのであろうか?もっとも、不作為の「一票の格差是正」と「違憲状態」は、そのまま、玉虫色で、身内の血を流さずに、喉元過ぎれば、、、、何とかではないが、法の改正もされずに、選挙さえ終わってしまえば、当選後には、平然と、当選証書が交付されるのであろうか、、、、、、。これらを打ち破ろうとする政党も政治家が出てこなければ、一人一人が、鬨の声を上げなければならないであろう。とりわけ、若い世代は、そうしなければならないであろう。ローマ法王ですら、初めて、ツイッターを始めたらしいが、、、、、。そんななかで、楽天などのIT企業中心に、これまでの経団連に馴染まない若手の経営者達が、新経済連盟(新経連)なる団体を創り出したそうである。日本の再生成長戦略が、自社にとって、大いなるメリットを有するこれらの会社は、確かに、経済政策にも、或いは、将来的には、政治への発言力、影響力を有したいという思惑は、分からぬではないが、どのような方向性に向かって舵を執ろうとしているのであろうか?注意と興味を持って、注視してゆきたいとおもうが、、、、、、、。二つの流れは、なかなか、興味深いと感じられる。



万国旗を見上げる:

2012年12月13日 | 社会戯評
万国旗を見上げる:
クリスマス・セールの飾りなのであろうか、商店街の街路灯に、万国旗が、垂れ下がって連なっている。小学校の運動会に、校舎の窓から、垂れ下がっていたのを想いだした。そう言えば、子供の頃、父の仕事の関係で、どこかの造船所の進水式で、万国旗が、船尾に、飾られていて、船が、ドックの船台の上を滑るように、進水してゆく瞬間を想い起こす。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、中国、ロシア、オーストラリア、韓国、タイ、この辺くらいまでは、国旗の判別が付くが、3色の色が、縦か、横に、なっている国は、一体何処の国だったろうかと、眺めながら、思案投げ首になってしまう。それにしても、万国旗というものは、何か、面白い子供の頃の郷愁のようなものを、感じさせるものである。日の丸の国旗が、林立して、一斉に、振られるのは、あまり、好きではない。まるで、それは、生きて帰ってくるなと、出征兵士を万歳三唱して送り出した時代の父の旧いモノクロ写真を思い出させて、好きではない。それに比べると、万国旗は、何とも、晴れやかな平和の場に、似合うような雰囲気がある。それは、多少、商業主義的な香りがしても、まだ、マシなような感じがしてならない。後、2-3週間もすれば、今度は、松門の飾り物に、変更されるのであろうが、、、、、、、、。



予期せぬ真夜中の出来事!:

2012年12月12日 | 動物・ペット
予期せぬ真夜中の出来事!:
既に、我が東京の小さな書斎には、消臭剤のスプレーとトイレット・ペーパーが、必需品である。今日は、午前中に、シャンプーも済ませて、その間中、いつもの如く、大きな声で、吠えまくり通しであったせいか、或いは、その興奮の為か、午前中の眠りにつくのも、ぐずぐずしていて、どうも、眠りが浅かったのであろうか?いずれにしても、その理由の如何を問わず、何故か、深夜遅くになって、突然、吠え始めた。こちらは、ほとんど、夢うつつで、完全無視を決め込んで、寝ていたものの、ただならぬその吠えかたに、仕方なく、部屋の電気をつけて、時間を確認すると、未だ、午前2時であった。寒いので、ガウンを着て、様子を見に行くと、「臭い!」、ウンチ臭いのである。ウンチをしたので、おむつを取り替えてくれと云う催促である。新しいおむつに取り替えてあげると、嬉しいのか、ペロペロ、手をずっと舐めている。少し、撫でながら、一緒に、いると、寝床に入ったのであるが、その後、再び、吠え始めた。今度も、また、異臭がする。まだ、ウンチが、し足りなかったのであろうか、おむつを外すと、今度は、柔らかいウンチがしてあった。これも、トイレで、処理して、「さぁさぁ、寝なさい」と寝床へ誘うと、素直に入って、就寝の体勢を整えた。「よし、これで、一安心!」と思って、人間様もベッドに、戻ると同時に、再び、吠え始めて、今度は、前夜食べたドッグ・フードを、口から戻し始めて、再び、それを全部、ひとかたまり、平らげている。狼の習性で、いつも、戻した未消化の餌を食べるのが、我が家の老犬の習性である。(外で、飼っていたときには、そうであった。)しかしながら、どうも、今回は、それでも納まらないらしい。未だ、クルクル時計回りに、廻りながら、吠えまくっている。そして、突然、お腹が、グーッと鳴って、ウンチの体勢をとるではないか、結局、お腹を下したためか、食べ過ぎか、分からないが、結果、オムツの軟便を、処理することになった。これで、この間、2度目のオムツのお召し替えである。そして、更に、その後で、もう一回、軟便の続きか、残りか?結局、3度目のお召し替えの後、やっと、気持ちよくなったのか?ご就寝に及ばれなされました。と思いきや、今度は、その食べたものを、ゲェーゲェーと、そこらに吐きだし始めた。踏まれぬように、汚されぬように、もう、戦場である。さすがに、こちらは、ストーブをつけていたので、臭いガス室部屋に堪えきれずに、寒い中で、シャッターを上げて、窓ガラスを開いて、換気をせざるを得なかった。これまで、お腹を下したことは、何度か、あったが、深夜に、こんな目に遭うことは一度も無かったが、いやはや、動物と一緒に、暮らすということは、大変なことであると、改めて、感じた次第である。我が老犬は、何事もなかったかの如く、すやすやと、眠りに入り始めている。吐き出したゲロは、まだ、固まっていないので、これを、処理しなければいけない。取り替えた4枚の臭いオムツも、併せて、処理しなければ、人間様は寝られない。ふと、時計に目をやると、もう既に、午前4時半である。何と、私の貴重な残り少ない人生の2時間半もの時間が、我が老犬如きに、費やされたのか?これが、仕事で、毎日、働いていたら、そんな風に思い、頭にくるところであるが、、、、、、。今は、立場が、異なるのであるから、まぁ、これも、人生、自分も、赤ん坊の時には、親に、そんな迷惑を掛けたり、自分の子供達が、同じような時に、女房殿が、やってくれていたのに、較べれば、大したことではないとも、思われよう。我が老犬は、そんなことまで、教えてくれたのであると思えば、、、、、、、、、もう、それで、良いではなかろうか、、、、、、、、。物言わぬ動物と共に暮らすことの覚悟と、同時に、そんなことも、気付かせられた。目の見えない人達は、パートナーである盲導犬がお腹を壊したら、どのように、対処しているのであろうか、、、、、、、、、とも。さて、人間様も、寝るとしようか、、、、、。どうか、朝まで、起きないで下さいと、願いつつ、、、、、、。



「小沢昭一的こころ」が、、、、、、、、、、:

2012年12月11日 | 社会戯評
「小沢昭一的こころ」が、、、、、、、、、、:
又、昭和と言う時代が、個性的な名脇役俳優が、逝ってしまった。民衆芸能への関心が高じて、大道芸や紙芝居、露天商、見世物小屋、等と云う放浪藝を、録音や資料として、研究・収集に尽力した功績は、まるで、民俗学の柳田国男にも劣ることのないストイックな、且つ、エキセントリックな、一寸、助平なストリップ好きな俳優であり、同時に、民俗学者であると云っても、過言ではなかろう。昭和の高度成長期に、或いは、それ以降の過疎化や高齢化の全国的な進展により、逝きし世の、或いは、滅び去ろうとしていた民衆藝を、その風俗と芸能という分野を通じて、かろうじて、その最期の語り部として、残そうとした努力は、「江戸の粋」を、或いは、「昭和という時代の臭い」を、まるで、文化遺産的遺跡を保護するような防波堤的な役割であったような気がする。昭和の懐かしい童謡を、あの哀愁に富んだ名調子で歌いあげ、あのもの悲しいハーモニカの音色を奏でつつ、まるで、出征兵士を見送るようなまなざしで、「小沢昭一的こころ」は、シャボン玉と一緒に、天へと、飛び去り、消えて行ってしまったのだろうか?今観られる大道芸も、紙芝居も、昔のそれとは、その雰囲気がおおいに異なり、それを演じる芸人も、又、それを見守る子供達も、互いに、どこかで、変わってしまった。それが、時代という、時間軸なのであろうか?歌舞伎という元々、カブキモノだった民衆藝が、今日、その継承者自身と共に、文化的なエスタブリッシュメントになったのに、較べると、何とも、皮肉なことではないだろうか?きっと、あの世とやらで、勘三郎や、森光子とも、談義していることであろう、、、、、、、、。「小沢昭一的こころ」とは、何か?と後世、尋ねられたら、どのように、説明したらよいのだろうか?



ダメ林檎でリンゴジャムを作る:

2012年12月10日 | 男の手料理・食
ダメ林檎でリンゴジャムを作る:
果樹園で、鳥等に、つつかれて、穴の空いたダメ林檎を、正規品と共に、格安で、大量に、もらい受けたので、リンゴジャムを作ってみた。例によって、男の手料理だから、ネットのレシピーをベースに、如何に、簡単に、失敗が少なくて作れるかが、ポイントであることに変わりはない。どうやら、皮付きと、皮なしで、ジャムの色が違うらしい。銀杏切りは、8等分にカットした後で、スライサーで、カットすることにしてみた。すると、レシピーには、摺りおろし林檎を一部使ったり、煮る前に、レンジで、加熱しておくと、果汁がそのまま、使用できるとも、、、、、、、なかなか、理にかなっている。しかも、手間が掛からず、調理時間の節約にもなる。コンポートの要領で、一寸、大人風の味のジャムを作ることにしよう。何せ、樽ではないが、瓶で4半世紀も経過したサイド・ボードには、所蔵のデフレでその価値が、今や、4分の1程に下落した飲まれないコニャックが、たっぷりあるので、、、、、、、。コンポートを作る要領であれば、その先には、アップル・パイも、延長線上に、考えられないこともない。いよいよ、この次は、アップル・パイであろうか?僅かに、鳥につつかれただけなのに、中身は、しっかり、蜜も入っていて、フジとしては、味は、問題ないのに、見た目だけで、可哀想なものである。何故、訳あり、料理用で、売られないのだろうか?
PS: 何でも、野鳥につつかれたものは、鳥インフルエンザに感染する可能性が否定できないので、販売は、されないそうである。成程、そのリスクは、自己責任だそうです。くれぐれも、ご注意を、、、、、。それにしても、皮肉なことである!




「家事力」という「無形資産」に気付かされる:

2012年12月09日 | 社会戯評
「家事力」という「無形資産」に気付かされる:
フリーライターの金子由紀子さんが、新聞の「お金のミカタ」というコラムに、書いていた記事を、さりげなく、山の神が、切り抜き、机の上に、置いてあったのが目にとまった。その説明に従えば、何故、今日、私達は、こんなにも、暮らしに関わる出費が、昔に較べて、多くなってしまったのだろうか?、、、、、、と、それは、サービスや便利さを買わないで、(もっとも、昔は、無かったり、乏しかったりしたのかもしれないが、、、、)自分でやり、「暮らす技術=家事の能力」を、いつしか、失ってしまったからではないかと、、、、、、。総菜をすぐに買い求めたり、一日しか着ないワイシャツをクリーニングに出したり、水廻りの修繕補修も、、、、、、、等々。「家事」とは、給与支払いの生じない「シャドー・ワーク」で、母や妻による「無償の行為」であるから、恐らく、数字に換算してみたら、確かに、大変な経済上の縁の下の力持ち的な存在であろう。考えてみれば、家庭の中で、リタイヤーでもしてみれば、本当に、どのような「無形資産」が、自分には、残されているのであろうかと省みずにはいられない。衣類管理、畳み方、整理・整頓・後片付けの仕方、食器洗い・乾燥の仕方、裁縫や料理、風呂の掃除の仕方、アイロンの掛け方、部屋掃除の仕方、栄養学の知識、調理・料理の技術、健康管理、買い物の仕方、ゴミの分別まで、こうしてみると、無形の知的財産が、どれ程、あるのであろうかと、、、、、、、、。同女史によれば、資産家とは、お金をたくさん持っている人であろうが、家族全体の総合的な家事力という尺度を加味してみたら、本当の意味での家の中の資産価値を見直せるのではないかと、、、、、、。会社が無くなっても、貯金がゼロになっても、家事力という無形の資産さえ、保持していれば、資産がなくなることはないと、、、、。身の回りのことくらいは、できるようになっておきませんか?、、、、、と。目には見えない「埋蔵金」だそうである。「へそくり」と云わないところがうまい。そう言えば、子供の頃には、父と一緒に、ノコギリで、木を切って、風呂を沸かしていたものであるし、母が、よく、父のワイシャツを、アイロン掛けしていたのを想い起こす。暮らすこと、生きること、とは、どうやら、何でも、やっておかなければならないようで、実に、耳が痛い話である。



災害用伝言板を試す:

2012年12月08日 | 社会戯評
災害用伝言板を試す:
未明に、夢うつつの中で、地震があったように思えたが、その夕方には、結構、大きな本格的な揺れが、徐々に、その強さを増しながら、襲ってきた。思わず、去年3月の大震災の記憶が蘇ってきた。早速、災害用伝言板を思いだし、試してみようとしたものの、携帯の操作のやり方を想い出せなかったのは、何とも、実に情けない話である。あの時は、帰宅途中に、何件も、地方からの携帯への着信が多くあり、皮肉にも、都内のネットワークは、全く頼りにならないことが、後で分かった。歩きながら、携帯のテレビ報道を観つつ、情報を入手したものであったが、その日から、グーグルのPerson Finderを利用して、海外から依頼された日本人の安否確認を行ったものである。今回は、既に、去年、登録してあったものの、災害用伝言板サービスを利用するのに、皮肉にも、やり方を失念してしまっていた為に、アクセスに時間が掛かってしまった。何とも、情けない限りである。今一度、再確認、訓練ではないが、「その時」に、再び、備えておかなければならないと、つくづく、思い当たった次第である。安全確認の登録入力を終了すると、探す人の安否確認も、確かに、出来るものである。(自分で、自分の安否確認をしてみたら、チャンと出来た。) これなら、確かに、便利である。それにしても、先般の縦揺れといい、今回の大きな余震と云い、これが、まだ余震では、再びあるであろう巨大地震か、或いは、新たな東京湾直下型地震や、南?トラフを巻き込んだ3連動地震などは、どんな規模になるのかと、全く、想像も付かない。今一度、自らの対策を思い返してみないといけないのではないかと思うが、、、、、、。大きな津波も被害もなかったことが、幸いである。我が老犬は、それでも、しっかりと、その時も、泰然自若として、というよりも、爆睡して気がつかないようでいたが、、、、、、。主人共々、情けない話である。



Jリーグの降格・昇格におもう:

2012年12月07日 | スポーツ
Jリーグの降格・昇格におもう:
三原・水原、ON世代の野球少年だったから、必ずしも、男子サッカーのファンではないので、どのチームが、降格したとか、昇格するとかには、熱烈なサポーターには、申し訳ないが、あまり、関心がない。たまたま、テレビをつけたら、ガンバ大阪の試合が、行われていて、どうやら、その結果、降格が確定的になってしまったらしい。何とも、人生の縮図を見るかのようで、複雑な思いである。名門と云われたチームが、何故、そういう憂き目に遭わなければならないのか、或いは、得失点差が、プラスであるにも関わらず、何とも、不思議な感じがする。その辺の原因や対策の解析は、専門家や熱烈なサポーターにお任せするとして、こういう「昇格と降格」という取り決めがあること自体、興味深いモノがある。確かに、スポーツと言っても、勝負事である以上、それは、成果主義・結果次第であり、致し方のないことなのかも知れない。それに較べると、日本のプロ野球は、何とも、万年最下位でも、宣伝・広告費だと思えば、安いモノであるとばかりに、気の入らぬプレーでも、レッド・カードが、突きつけられることがない。Jリーグでも、終盤の降格・昇格時期の試合が、一番盛り上がるとも云われているが、何とも、情けないものである。「こういう仕組み以外」に、真に、試合を盛り上げるような方策は、野球にもサッカーにも、無いものなのであろうか?相撲には、逆に、番付という昇格・降格が、つきものであるとは云うものの、、、、、、。新横綱の結果も、厳しいモノがあったと思われるが、、、、、、。降格ではなく、引退しか残されていないのが、現実ではある。まるで、人生ゲームのプレイヤーのように、ただ結果に翻弄されてしまうが、真のサポーターだけが、再びの「復活と再生」を信じて、熱心に、応援してくれるのだろうか?何か、そこには、自分の人生や国の興亡を、選挙戦すら、重ね合わせてしまうとなると、考えすぎだろうか?ふと、試合の推移と結果を見ていて、そんなことを思った。



我が老犬に、連休・祝日の概念は通じるのか?:

2012年12月06日 | 動物・ペット
我が老犬に、連休・祝日の概念は通じるのか?:
11月のことである。世間様は、三連休である。もっとも、こちら様は、「毎日が日曜日」ではあるが、、、、、、。久しぶりに、ゆっくりと、自宅で、家族共々、美味しい地酒を愉しむことにしよう。そんな訳で、夜、寝る時間が一寸、普段よりも、遅くなってしまった。一体、人間は、いつの頃から、「暦と時間」の概念を編み出して、使用し始めたのであろうか?翌朝は、例によって、ぐっすり、ゆっくり起きようと考えていたのに、、、、、、、、。何やら、隣の書斎から、カサコソ、ゴソゴソ、ヒタヒタと、跫音らしきものが聞こえてくる。暗い中で、時計を見るとまだ朝6時半ではないか、既に、我が老犬殿は、身支度を調える準備活動の開始なのであろうか?それとも、オムツが、濡れているので、早く、替えてくれというのか、はた亦、散歩は、一体、いつになるのか?朝食の準備は整っているのか?とでも、問わず語りに、催促しているのであろうか、とうとう、唸り声から、大きな声で吠え始める始末である。こちら様はと言えば、祝日だから、ゆっくり、しかも、前夜、美味しい地酒も飲み、ぐっすり心地よくまだ寝ていたいのに、、、、、、、、。結局、ボスのわたくしめは、又、ウトウト寝てしまい、女房殿の出番になってしまった。それにしても、介護犬や盲導犬などは、一体、どのように、「時間の概念」を学んでいるのであろうか?実に、興味深いところである。そんなことを考えつつ、さて、もう一寝入りすることにしようか?、、、、、、、、、、、、。



トンネル崩落事故に考える:

2012年12月05日 | 社会戯評
トンネル崩落事故に考える:
子供の頃、三河島などの大きな鉄道事故があり、その後、原因究明と技術的な研究対策の結果、ATS等の安全対策が講じられたりしたが、又、「隔壁」などという言葉を聞くと、御巣鷹山で遭難した日航機の墜落事故を想い起こす。それにしても、フェイル・セーフとか、経年劣化を想定した部品の耐用年数基準とか、自動車や列車であれば、当たり前のことが、「構造物」というものでは、専門家でも、安全性に関して、考え及ばないのであろうか?何とも、心細い限りである。コンクリートから人へと云うキャッチ・レーズをどこかで聞いたような記憶があるが、人は、信用できなくても、固いコンクリートくらいは、お願いしたいものの、それすらも、今や、疑ってみる必要があろうとは、何とも、危なくて、運転すらできない。しかも、全国、49本ものトンネルが、同じ型であるそうである。首都高速道路などは、走っている間に、突然、崩れ落ちないかなどと心配になる。上信越高速の八風山トンネルも、どうやら、リストを見ると該当しているそうである。アクアラインなどは、未だ、走ったことはないが、怖くて、走れそうにない。トンネルも橋も、道路も、経年劣化が激しく、どこもかしこも、補修・管理維持費が、掛かりそうである。安心安全という神話は、もうとうの昔に、崩れ去ってしまったのであろうか?水と安全は、タダみたいなものであると思っていた日本人は、国防のみならず、日常生活のなかでも、またもや、ドスを脇腹につきつけられたような感じがする。国土交通省の身内に甘い検査体制や事故対応には、実に、ガッカリさせられる。それにしても、土木工学やトンネルなどの専門家と称するテクノクラートにも、これ又、原子力工学の専門家ではないが、よく、これまで、大事故が起こらなかったのが、不思議であると、失望を禁じ得ないのは、私一人だけであろうか?建設するときに、修繕・保守点検とか、パーツの交換とか、基本的な要素を、考慮せずに、作られているのであろうか?震災以降、次々に、これでもか、これでもかと、これまでの常識とか、既成概念というものを、再度、疑ってみて、再構築してみる必要が、見られるが、、、、、、。まるで、日本という国、インフラ・生活システム自体が、壊れてゆくような感じすらしないではない。ボルトの劣化とか、検査体制云々や、物流の迅速な回復だけでは済まされない。当面は、碓井峠バイパスを迂回しながら、じっくり考えてみることにするとしようか?東名高速の都夫良野トンネルは、どうしたものか?確か、NHKのテレビ番組で、以前、トンネル内のひび割れを、超音波で、点検・補修している作業を観たことがあるので、安心していたが、どうやら、トンネルにも、色々な型があるようである。エレベーターの事故も、自動車の共通部品化によるリコールの増大と云い、これまで信頼していた何物かが、いずれも、はかなくも、崩れ去るような感じが禁じ得ない。「杞憂」という言葉を、想起してしまうが、まさに、天が崩れてくることを想像もしたくないが、、、、、、、。トンネルを走行するときは、前だけではなくて、今後は、天井も見ながら、走るなければいけないのだろうか?



広告に主婦の心理をみる:

2012年12月04日 | 社会戯評
広告に主婦の心理をみる:
世間では、安倍晋三ではないが、インフレ・ターゲットを設けて、デフレ脱却を何としても、達成したいともがいている。しかしながら、相変わらず、スーパーの広告を見ていると、何とも、消費者心理というのは、まだまだであるように感じとれる。とりわけ、主婦の心理は、侮れないモノがあろう。これまでは、マーケティング調査の観点から、広告やチラシを分析したり、山の神に、濡れ落ち葉宜しく、買い物に、一緒に、くっついてゆき、最近では、広告の目玉商品の買い出し要員として、動員されてしまう受け身の立場になり下がってしまった。何でも、週末が、一巡して、週初めであるから、新たな目玉商品の提供を、開店早々から、決め打ちで、狙い買いするという。しかも、お一人様一点限りだから、もう、総動員体制である。(と言っても、二人ぽっきりだが、、、、、、)何も、そこまでやらなくても、生活に困窮している訳ではないから、しなくても良さそうだが、どうやら、長年のベテラン主婦の心理は、そうもゆかないらしい。やはり、「在庫の平均原価」を何としても下げなければ、気が済まないらしいし、又、そうしなければ、何か、勿体ないような、自分だけが損をしたような錯覚か、或いは、そうした努力が足りないのではないかという義務感からか、自己心理的な後悔の念が、そこには、生じているのではないだろうか?決め打ちで、目玉だけ買って、後は、はい、さようならの主婦達を、実際、多く見かけることになるのであるが、、、、、、。先日も、人気衣料品店の冬物バーゲンの広告を見ていたら、もっとも、流石に、朝6時からの無料の菓子パンとブランケット進呈というキャンペーンへの参加は固辞したが、それでも、開店と同時に、店内になだれ込むとそこには、整理券に殺到する主婦や年寄りで、あっという間に、見事に、消化されてしまった。恐るべし、このパワー!最も、色やサイズは、多少、難があろうが、箪笥在庫の平均原価を下げるのには、アウターでなければ、全く、問題ないだろう。XL等は、取り放題、選り取り見取りである。それにしても、このタイミングが、絶妙で、これを逃すと、早すぎても、遅すぎても、どうやら、駄目なようであると。売り場で、携帯で、子供や旦那に、連絡して、再確認している姿を、そこここに、散見されました。年末に向けて、消費者心理と店の闘いは、まだまだ、止まるところをしれない熾烈な抗争が、果てしもなく、続きそうである。広告のビラの企画も、大変だなぁと眺めながら思う。私は、一度、買ったら、後から実施されたビラは、見ないことにしているが、、、、、、、、。(更に、値引されていたりすると、全く、ガッカリするので、、、、、、、)



小布施と湯布院に共通するまちづくりの極意:

2012年12月03日 | 社会戯評
小布施と湯布院に共通するまちづくりの極意:
「小布施まちづくりの奇跡」と、「湯布院の小さな奇跡」を読みながら、地域まちづくりの共通性を考えながら、小諸市や東御市などのまちづくりについて、一寸、考察してみたくなった。ブログだから、論文や著作という訳ではないが、基本的な方向性のようなものは、うっすらと、見えてくれば良いのではないだろうか?
まちづくりは、根本的に、どうやら、地域を担う「ひとを創り出すこと」のようである。そして、そこには、単なる観光都市というものではなくて、「生活に根ざした文化や歴史」が「まちづくりの核」でなくてはならないようである。ベトナム人の友人達が、初めて、小諸の里山に、やってきたときに、彼らが、まず、驚いたことは、クリーンな空気・おいしい水・緑豊かな自然な景観・音の静けさ(夜、物音ひとつしないことの驚き)・朝採りの新鮮な安全な野菜・温泉・文化・歴史、等が、そこに現に、あったことである。医食同源・美食同源ではないが、確かに、小諸の里山での私の個人的な体験でも、美味しい空気と水と食は、互いに、密接、不可分な関係で、それは、自然な景観の維持と農業や林業、畜産・酪農業等とも深く関わりが、きちんと底流にあるのではないかと確信する。福祉ですら、セラピーですら、そこに、温泉という健康や肉体的、精神的な癒やしの横断的な中核媒体が入ることで、更に、それは、地域まちづくりの大きな流れへと誘われることになろう。それは、決して、湯布院がモデルとしたドイツの小さなバーデンヴァイラーのようなまちにも、勝るとも劣らないモノがあると思うが、、、、、。小諸の御牧ヶ原台地の風景、画家の小山敬三が、描き出した浅間山や台地の景観、或いは、著名な昆虫写真家、海野和男が魅せられた自然豊かな大地に生息する蛍や蝶や昆虫、野鳥が育まれる等の環境、更には、朝鮮人参や白土馬鈴薯などの火山灰台地独特の農産品、農業・林業などをベースにした多様性に富むまちづくり、等、生産者、そして、その野菜や果物・米などの商品を加工する料理人、フランス・イタリア料理、創作和食料理人、蕎麦打ち職人、パティシエ、パン作り・チーズ工房、或いは、陶磁器や食器・箸や家具の木工工房、広葉樹林の薪や炭焼き小屋、等…、多様性に富んだ分野で、作ること、食べること、紅葉樹林の杜や田んぼの畦道、溜め池を散策すること、景観や空気や陽の光や音の静けさを愉しむこと、真っ暗闇の中で、ろうそくの光や蛍の光と陰を見出したり、四季折々の自然の中で、歴史や文化を五感で感じながら、一緒に、地元の人々と、内・外を問わず、互いにオープンに交流でき、和やかな人間関係が構築でき、且つ、日常生活を感じられるそういう地域を、絵を描いたり、詩を読んだり、絵本を読みながら、音楽を身近に聴いたり、唄ったり、楽器を叩いたり、踊ったり、一緒に、体験を通じて、子供から、若いパパ・ママから、お年寄りまで、「地産地消」のコンセプトの下で、労働し、モノを作り・食べ・飲み・笑い・そして、健康に、肉体的、精神的に、癒やされて、明日への生きる希望を充足できるようなそうした雰囲気がある生活を感じる地域づくり、まちづくりを目指す。そんな所に、イジメやひきこもりや鬱病などの精神疾患などは、無縁である。農村、里山の原風景・景観を大切にして、しかも、小さくても、こぢんまりとした地域産業を創出して、地域に根ざした生活環境が保全され、自然に抱かれる中で、若者から、おばちゃん、おじさん、年寄りまで、外部からの来る人間も含めて、ボランティアでも、元気に働けるような、将来へ繋げられる、いつでも、「更新中」の持続的なサポート体制の構築を、地域に根ざした人材育成や行政組織との協同で、構築して行く。狭小な閉鎖的なワン・ストップ・ショッピング的な箱物ではなくて、空間を尊重して、景観と建物の調和を、多様性の中で調和させて、水平的に、拡がりを持ちながら、まち歩きや散策により、回遊・分散・拡散できるようなまちづくりを目指す。そこには、自由な自主・独立・進取の精神に富んだ内部・外部の人材育成をする仕組みがなければならない。こぢんまりでも、小さいながらも、そこには、自然な生活の場が、感じられるような雰囲気をもった、自然な風合いを大切にしてゆく地域づくり、人づくりが、なければならないであろう。そういうNPOも含めた人脈ネットワ-クづくりも大切なことであろう。単なる箱物的な美術館や文化財保護、建物遺産の保護ではなくて、生きた芸術・文化・歴史を感じられ、映画や音楽や絵画や祭り、ウォーキング、マラソン・サイクリングなどのてづくりスポーツ・イベントで、お互いに、地域ファンつくりを出来る仕組み、決して、小さな京都や別府温泉や熱海温泉にしてはいけない。個々の地域としての点の点の展開から、もっと、広域的な点と点との繋がり、線へ、そして、面へ、旧信州北国街道沿いというような信州横断ルートのような横への地域的な融合・連携とオーバーラップに至れば、東信ワイン・バレー回廊のような面白い地域活性化構想が、可能なものになってこよう。それは、産業だけでなくて、新しい文化と地域発展に、まちだけでなくて、地域全体が、結実してゆくのではないだろうか?そういうものに、最新のIT技術を取り入れて、道の駅や日帰り温泉施設・産直販売施設での無料WiFi整備とか、携帯スマホ、タブレット端末向けなどへのネット情報網の整備、インフラの整備を、鉄道・道路交通網とともに、構築してゆけば、必ずしも、新幹線の誘致から取り残されても、「独自の地域発展モデル」が、作り出せるのではないかと思われるが、、、、、、。むしろ、健全な形での「日本の成長戦略」のモデルケースにもなる可能性が大きいと信じるが、、、、、。信州サーモンだけでなく、皮ごと食べられる種なしブドウのシナノ・パープルとか、加工用の青い林檎、プライムリーとか、ワイナリーの拡大、等、林業・農業・水産養殖の新興などと有機的に連携して、十分、まちおこしが進行できるのではないだろうか?決して、閉鎖的な考え方ではなくて、むしろ、具体的な新しい成長戦略のビジネス・モデルを創出するくらいの気構えで、取り組みたいものである。高齢化や過疎化や、商店街のシャッター街化などの喫緊の課題は、この中で、初めて、議論されなければならないのではないだろうか、、、、、、、。そして、それらの解決策も、その中には、一つのヒントとして、あるのではないだろうか、、、、、、とも。夜、物音一つしないことや、真っ暗闇であること自体が、今や、24時間サービス全盛の都会に、対峙する武器になるのかも知れないことを、未だ、そこに住んでいる人達は、気が付いていないのかも知れない。



「ノマド」という言葉を考えてみた:

2012年12月02日 | 社会戯評
「ノマド」という言葉を考えてみた:
随分と昔のことになるが、いつの頃だったろうか、「ミッシー」という言葉が、一人歩きして、まるで、丸の内に勤める独身OLが、米国流の独立自尊心に富むアクティブで、スキルも、能力も高く、高収入で、一流の人間であるかのような幻想の下に、マーケティング・コンセプトを纏めて、実際に、店舗の改装から、商品の宣伝・仕入れを大々的に行なったが、その数年後には、散々な結果と失敗に陥り、この目標とした客層の修正を行ったある会社を知っている。頭の中で、或いは、本や情報の中で、描かれるものと現実のそれとは、全く違ったものであることが、自身で、認識・実感されるのは、いつも、10年くらい経過してからのことであろうか?その時には、もう、時間という万人に等しく、差別することのない、冷徹な人生の歯車は、決して、逆戻しが出来ない。それは、又、自明の理である。最近、「ノマド」という言葉をよく見聞きするようになったが、本当に、そのようなフリーランスの、組織に拘泥されないような自由なタフな精神力と活動力と自主的なクリエイティビティーな能力に富む独立自尊の何処でも、場所と時間と人間関係に拘らない人間が、社会的な信用力もあり、その対価としての資産形成をも可能にするような若者が、実際、多いのであろうか?どうも、マスメディアなどの新しいモノ好きの無責任な、理想を現実化と混同するような種類の存在ではないかとも思われるが、、、、、、。90年代の前後に、リクルートなどが、喧伝した「既成概念を打ち破るような新自由人種、敷かれたレールをそのまま走るのではなくて、夢を持ち続け、社会を浮遊する究極の仕事人」等という「フリーター」も、今日では、お笑いやバンドや演劇人を目指す一部の若者ですら、30代・40代になろうとしていて、早朝の電車には、そういう人達が、ほとんど、夜勤帰りで帰宅するのであろうか、決まって、眠りこけている姿をよく、出張の際に、見かけたものである。或いは、その後、更に、「派遣でより自由な時間と暮らし」と残業のない職場を求めて、「本当の自分探し」の旅と称して、その結果、永遠の不安定な非正規雇用と貧困層化の罠へと向かって行ってしまった。それにしても、情報化社会というものは、怖いものである。本当に、目の前にあるように思わせたり、逆に、そんなものが一部にしか、存在し得ないのに、あたかも、まるで、それが、全てに、敷衍されて実際に、存在するかのように、喧伝されると、そんなものかとも、錯覚しがちである。我々、もう年寄りは、若い人に、実は、そうではないということを、マニフェストや昨今の威勢の良い、耳障りの良い言葉ではないが、その「言葉の有する幻想性と現実」をもう一度、立ち止まって、疑うことを勧めるべきではないだろうか?本当の覚悟を以て、真のノマドを目指すのであれば、別であるが、、、、、、、。



ニコニコ動画で、党首演説会を視聴する:

2012年12月01日 | 社会戯評
ニコニコ動画で、党首演説会を視聴する:
無料視聴できるとかで、アクセスしてみたら、一度は、アクセスが、集中しすぎて、駄目で、二度目で、アクセスできると席の番号が、表示されていた。もっとも、有料会員様が最優先だから、いつでも、席を譲らなければならなくなるという警告文が、表示されるのは、致し方あるまいか?もっとも、こうした討論会の放映は、ある種の公共性があるのであるから、その点、何とも、金さえ払わないと見れないモノか、、、、、、、、とも、ひがみ根性ともとれなくはない本音が、出てきてしまう。そのせいかどうかどうかは、不明であるが、音声が、途切れ途切れでしか、聞こえないのは、致し方ないのか?それとも、単なる技術的なスピードの問題なのか?それにしても、テレビ放映がなく、来客数の表示が、50万に暗いから、最後には、110万人以上に、表示されていたことに、驚かざるを得ない。一部、九時のNHKニュースで、放映されていたが、時代の趨勢は、確かに、「ネットとテレビのメディア融合」の方向に、或いは、当面、相互補完するような方向に、向かっているような気がしてならない。それにしても、ネット・ユーザーと称する人間のリアル・タイムでの書き込みの内容は、ネット・リネラシーとは、全く、無縁の何ともお粗末なものが多すぎる、むろん、NGコメント規制を故意に外して、視聴したせいなのだろうが、、、、、、(それは想定内としても)、それを差し引いても、レベルが低く、これでは、「リアルタイムの双方向性」という本来のやり取りの目的とは、程遠いように感じられてならない。もっとも、そもそも、その双方性とは、何を、相互に、リアルタイムで、コミュニケートしようとしているのだろうか?論点が噛み合わないのは、仕方ないが、、、、、。コメントとは、確かに、短い字数で、言葉を凝縮しなければならないが、俳句や短歌のように、何度も推敲を重ねた結果の言葉ではないことは、自明の理であろう。所詮、つぶやき以下のモノなのかもしれない。それに、期待すること自体が、そもそも、幻想かも知れないが、、、、。「双方向性」という事であれば、やはり、ネットからの質疑応答ができるような体制を望みたいところであるが、技術的に、可能かどうかは、門外漢の私には、分からないところである。どこの党首が良かったとか、勝ったとか、負けたとか、維新がでなかったとか、内容的に、云々するのは、ここでの本意ではないので、メディアの論評に任せるとして、新聞の解説で、888888という表示が、「パチパチ」という応援であったことを初めて知ったのには、笑ってしまっった。初めての試みとしては、それなりの試行錯誤があったものの、それはそれで、評価されて良いのではないかと感じる。とりわけ、テレビで、放映されない以上、それを「補完する別の媒体」という選択肢が存在すると言う事自体だけでも、十分ではないだろうか?その意味では、新聞・活字の後追いよりも、ネットの即時性・公共性という一面は、もっと、活用して然るべきかも知れない。もっとも、選挙演説のようなものの規制解除は、ある程度、考慮しても良いかも知れないが、ネット投票までとなると、セキューリティーや思想・信書・通信の自由・秘匿性が、議論されなければ、一挙に、そこまで、行くのは当面難しいかも知れないだろう。いずれにせよ、既存マスメディア、とりわけ、テレビにとっては、うかうかしておれない状況ではないであろうか?もう、「メディアの融合」は、待ったなしに、ヒタヒタと、そこまできているような気がする。