2月20日は本ブログを開設してちょうど2年が経過した日でした。
1年前の一周年の時も、記念のご挨拶を残すでもなく何事もなく
過ごしてしまったので、2年目こそと思いつつ、改めて何を・・・・と
思うと考えがまとまらずまたもや、アップすることなく過ごしてしまい
ました。
この所何をするでもなくただ毎日幾つかの韓国ドラマを見、その
合間合間に家事や読書、週末には私たち両親のご機嫌伺いに
来てくれる娘を迎えて共に過ごし、また次の一週間が始まる。
時折このように無為に過ぎる時間を、これでいいのだろうかとじたば
することもあります^^;多分何度行っても止められない韓国訪問は
そのあがきなのかもしれません。
しばらく行かないと、もぞもぞ動きだしたくなる私の韓国の旅への欲求、
家をほおって、というより夫に任せて一人出かけて行くことが申し訳なく
韓国語を忘れないためにとか、国同士の関係が悪化するばかりだから、
せめて個人のレベルでの親交を深めたいとか、なにか理由づけしたく
なります。
でも、何のとりえもない平凡なハルモニの私に、何が出来るということもなく
韓国まで出かけても、やはり無為に過ごしていることには変わりなく、なら
わざわざ出かけることもない無いではないかと・・・・暇にまかせてごちゃごちゃ
考えて落ち込んだりします。
ところで、気になって‘無為’という言葉の意味を調べてみました。
そしたら‘無為’とは、中国古代の道家(どうか)思想の術語で
「処世のうえでことさらな作為をしないこと、自然にあるがままのふる
まいでいること。世事にとらわれ私欲にひかれて、人間的なこざかしい
知恵を巡らすところに、かえって人間の不幸が生まれると考え、現象の
奥にある根源的な「道(どう)」の立場に立ち返って、その絶対的な理法
性に拠(よ)り従い、人間的なさかしらを捨てた自然なあり方に従うことに
よって、個人的な平安と政治的な成功が得られるという。「無為であれば
すべてが成し遂げられる」「為政者が無為であれば民は自(おの)ずから
に治まる」などといわれる。「無為を為す」ということばもあるように、文字
どおり何もしないことではなく、ことさらなしわざの跡を残さないあり方を
することである。「自然」「無知」「無欲」などの語と連用され、また人間を
超えた「道」や「天」の働きとして、無私の公的な性格において理想化して
説かれる。〈無為〉とは人為の否定を意味するが、けっして何もしないと
いうことではない。それはいっさいの人間的営為を〈偽〉として否定した
うえで、天地自然の理法にそのまましたがった真の〈為〉を実現すること
であり、正確には〈無為の為〉なのである。
最近の自分の日常が、何事も為すことなく漫然と過ぎていくことを自嘲して
思い浮かべた言葉でしたが、深い意味を内包する言葉でもあるようです。
まあごちゃごちゃ思うことは相変わらず時々思いますが、お隣の国への
関心がまだ衰えずあること、行きたいときにすんなり行かせてもらえる
環境にあることを単純に喜ぼうと思います。(감사해요, 우리 딸 우리남편^^)