もうじき仲秋の名月である。新暦の9月15日がそうだと勘違いしている方も多いが、あれは旧暦の八月十五日の月を愛でることを言う。新暦の15日は十五夜になるとは限りませんからネ。
それが、また面白いのだけれど、今年の仲秋の名月は満月ではない。月齢13,7日。
十三番目の月、プラスすることの一日弱。
翌十六日が月齢14,7日で、いちばん満月に近く、望月となる。この日は今年、2010年9月23日、秋分の日である。
だから、今年の仲秋の名月は、十四番目の月を愛でることになる。
…と、文中に数字が出るとつい読み飛ばしてしまうという性癖がある私は、ソロバン勘定ができないのだが、最近……突如、昨年から将棋の棋譜を読む、というわが人生始まって以来のあり得なかった状況を志向するようになって、少しはこんな数字にも関わってみようかという、勇気が湧いてきた。
高校のとき、英語の先生が映画『月蒼くして』の話をしてくれた。先生はそのタイトルからロマンチックなストーリーを期待して観たのだが、とんでもなくドタバタで変なコメディ映画だった、と言っていた。英語で「ブルームーン」は、あり得ない…という意味合いらしい。
ところで、その映画とは別の、タイトルは忘れてしまったけれど、一世を風靡した作曲家リチャード・ロジャースと組んで名曲を輩出した、作詞家のロレンツ・ハートの伝記のようなバック・ステージものの映画があった。
ハートが作詞した「ブルー・ムーン」という切ない、ジャズ・ナンバーが流れる。
お酒にのめり込んだハートが、「愛する人もいないのに…」とかいう、絶望的な歌詞だったように記憶しているのだけれど、改めて調べてみたら、そうではなかった。
昭和の終わりごろ、今はボウリング場になっている、たしか、荻窪オデヲン座で、版権か何かが切れるという関係で、MGM黄金期のミュージカル映画特集をやっていた。観客が私以外に一人か二人しかいなかった。「オズの魔法使い」の子役の印象が強かったジュディ・ガーランドが、成人してボーイッシュで格好よくなっていた。
「イースター・パレード」「バンド・ワゴン」「ショー・ボート」…etc. アステアは当然すばらしくカッコいいのだが、シド・チャリシーが美しかった。淡いブルーの半袖セーターに白いスラックスというスタイルを真似した。その時分、私は、クラリネットを吹きながらタップを踏める寄席芸人、というのを本気で目指していた。
…で、その後、三味線弾きに成りたいがため妄執の鬼となって婚家を出奔し、荻原井泉水の「空を歩む 朗々と月ひとり」という句を、二十代前半、心の拠り所として生きてきた私は、月を愛でることひとかたならず、白居易の「三五夜中の新月の色、二千里外の故人の心」…さんご十五夜の、地平線から顔を覗かせて、生まれたばかりの月を見ていると、遠く離れた僻地へ左遷されてしまった友人はどうしているのだろう、何を想って今頃、あの月を見ているのか……。
……そういえば、バブルの頃、シンデレラ・エクスプレスとか言って、遠距離恋愛が流行って(景気がよかった、つまり経済活動が世の中全般で活発で、全国的に商売の手を広げた会社が多く、支社が方々に出来て、それで転勤が多かったわけですけれども)、遠く離れた別々の場所で、同じ時間に同じ月を見よう、とかいうロマンチックな話をよく聞いたけれども。
…そんなふうに、漢詩を読んでしみじみとしたいところなのであるが…。
ちょっとまだ暑くて、先週あたり、新しくミンミン蝉が生まれて鳴いている状況下で、玲瓏たる青い月を称える、というすがやかな気持ちにもなれない。
そこで、今時分の季節感を表した長唄ってなんだろう…と、思ったところ、そうそう、ありましたョ、♪頃しも秋のならいにて、続く霖雨のやや晴れて~~という歌詞の曲が。
明治12年に作曲された長唄「筑摩川」。
加賀藩に起こったお家騒動をテーマにしたお芝居の、秋の大雨で川水が増して凄い状況になっている筑摩川を渡る、その機に乗じて、殿様を暗殺しようという場面に使われた大薩摩の曲。
雄渾勇壮たるロック魂にあふれた名曲で、芝居に使われる下座音楽のいいところを盛り込んでいるので、これを一曲やると、時代物の歌舞伎のBGMの心得がつく、短いながらも何ともいえずカッコいい曲なのだ。
だんまりなどで使われる「木の葉落としの合方」、「凄みの合方」、合戦の雰囲気の「初月の合方」や、海や波の景色で使われる「千鳥の合方」。…たぶん、この「チドリ」は、そんなに邦楽のことを知らないお方でも、けっこういろいろな折に、耳にしているメロディだと思う。無声映画や女剣劇が流行った頃、「にわかに起こる剣戟の声~!」という弁士の言をキッカケにして、♪チャンチャンバラバラ…とBGMが入る、あの旋律だ。
その、川水が渦を巻いてものすごい状況になっている場面は、今のようにSFXというようなものもなく、なかなか芝居の大道具で具現化するのが難しいから、視覚に訴えるのではなく、聴覚でその世界に迫っていこうということで、音楽表現がどんどん凝っていった。
歌舞伎のBGMが簡素にして素晴らしい表現力を持っているのは、そんなところもあると思う。音を聴いて、その意図する世界を自分の身の内に感じ取り、生み出すことができる、観客側も感受性と想像力が豊かなのだ。
そういえば、絵にも描けない美しさ…だったものが、もう世の中にはなくなり、想像したものがそのまま映像化され、目の前に広がっていくという、凄まじい状況になっている。
すばらしいことでもあるのだが、これはある意味、人類にとって、不幸なことなんじゃぁないだろうか。
だって、目に見えているのに、実際に自分たちの肉体でもって、現実に創出したものではないからだ(もちろん、制作者側は夜を日に継ぐスケジュールの下、肉体を酷使して、その映像を世に生み出すのだが)。
存在していないもの。本当にあるものではないのに、まったく本当としか思えないように存在している二次元世界…、いや、三次元になりつつある、可視という状況。
…本当はないのに。現実にはないものなのに、目の前にあるというのは、ある意味、地獄だ。絵に描いた餅。すべてまぼろし。
目の前にひろがる風景は、錯覚でしかないのに。
音楽は、人間の想像力の「最後の砦」と、なり得るか。
それが、また面白いのだけれど、今年の仲秋の名月は満月ではない。月齢13,7日。
十三番目の月、プラスすることの一日弱。
翌十六日が月齢14,7日で、いちばん満月に近く、望月となる。この日は今年、2010年9月23日、秋分の日である。
だから、今年の仲秋の名月は、十四番目の月を愛でることになる。
…と、文中に数字が出るとつい読み飛ばしてしまうという性癖がある私は、ソロバン勘定ができないのだが、最近……突如、昨年から将棋の棋譜を読む、というわが人生始まって以来のあり得なかった状況を志向するようになって、少しはこんな数字にも関わってみようかという、勇気が湧いてきた。
高校のとき、英語の先生が映画『月蒼くして』の話をしてくれた。先生はそのタイトルからロマンチックなストーリーを期待して観たのだが、とんでもなくドタバタで変なコメディ映画だった、と言っていた。英語で「ブルームーン」は、あり得ない…という意味合いらしい。
ところで、その映画とは別の、タイトルは忘れてしまったけれど、一世を風靡した作曲家リチャード・ロジャースと組んで名曲を輩出した、作詞家のロレンツ・ハートの伝記のようなバック・ステージものの映画があった。
ハートが作詞した「ブルー・ムーン」という切ない、ジャズ・ナンバーが流れる。
お酒にのめり込んだハートが、「愛する人もいないのに…」とかいう、絶望的な歌詞だったように記憶しているのだけれど、改めて調べてみたら、そうではなかった。
昭和の終わりごろ、今はボウリング場になっている、たしか、荻窪オデヲン座で、版権か何かが切れるという関係で、MGM黄金期のミュージカル映画特集をやっていた。観客が私以外に一人か二人しかいなかった。「オズの魔法使い」の子役の印象が強かったジュディ・ガーランドが、成人してボーイッシュで格好よくなっていた。
「イースター・パレード」「バンド・ワゴン」「ショー・ボート」…etc. アステアは当然すばらしくカッコいいのだが、シド・チャリシーが美しかった。淡いブルーの半袖セーターに白いスラックスというスタイルを真似した。その時分、私は、クラリネットを吹きながらタップを踏める寄席芸人、というのを本気で目指していた。
…で、その後、三味線弾きに成りたいがため妄執の鬼となって婚家を出奔し、荻原井泉水の「空を歩む 朗々と月ひとり」という句を、二十代前半、心の拠り所として生きてきた私は、月を愛でることひとかたならず、白居易の「三五夜中の新月の色、二千里外の故人の心」…さんご十五夜の、地平線から顔を覗かせて、生まれたばかりの月を見ていると、遠く離れた僻地へ左遷されてしまった友人はどうしているのだろう、何を想って今頃、あの月を見ているのか……。
……そういえば、バブルの頃、シンデレラ・エクスプレスとか言って、遠距離恋愛が流行って(景気がよかった、つまり経済活動が世の中全般で活発で、全国的に商売の手を広げた会社が多く、支社が方々に出来て、それで転勤が多かったわけですけれども)、遠く離れた別々の場所で、同じ時間に同じ月を見よう、とかいうロマンチックな話をよく聞いたけれども。
…そんなふうに、漢詩を読んでしみじみとしたいところなのであるが…。
ちょっとまだ暑くて、先週あたり、新しくミンミン蝉が生まれて鳴いている状況下で、玲瓏たる青い月を称える、というすがやかな気持ちにもなれない。
そこで、今時分の季節感を表した長唄ってなんだろう…と、思ったところ、そうそう、ありましたョ、♪頃しも秋のならいにて、続く霖雨のやや晴れて~~という歌詞の曲が。
明治12年に作曲された長唄「筑摩川」。
加賀藩に起こったお家騒動をテーマにしたお芝居の、秋の大雨で川水が増して凄い状況になっている筑摩川を渡る、その機に乗じて、殿様を暗殺しようという場面に使われた大薩摩の曲。
雄渾勇壮たるロック魂にあふれた名曲で、芝居に使われる下座音楽のいいところを盛り込んでいるので、これを一曲やると、時代物の歌舞伎のBGMの心得がつく、短いながらも何ともいえずカッコいい曲なのだ。
だんまりなどで使われる「木の葉落としの合方」、「凄みの合方」、合戦の雰囲気の「初月の合方」や、海や波の景色で使われる「千鳥の合方」。…たぶん、この「チドリ」は、そんなに邦楽のことを知らないお方でも、けっこういろいろな折に、耳にしているメロディだと思う。無声映画や女剣劇が流行った頃、「にわかに起こる剣戟の声~!」という弁士の言をキッカケにして、♪チャンチャンバラバラ…とBGMが入る、あの旋律だ。
その、川水が渦を巻いてものすごい状況になっている場面は、今のようにSFXというようなものもなく、なかなか芝居の大道具で具現化するのが難しいから、視覚に訴えるのではなく、聴覚でその世界に迫っていこうということで、音楽表現がどんどん凝っていった。
歌舞伎のBGMが簡素にして素晴らしい表現力を持っているのは、そんなところもあると思う。音を聴いて、その意図する世界を自分の身の内に感じ取り、生み出すことができる、観客側も感受性と想像力が豊かなのだ。
そういえば、絵にも描けない美しさ…だったものが、もう世の中にはなくなり、想像したものがそのまま映像化され、目の前に広がっていくという、凄まじい状況になっている。
すばらしいことでもあるのだが、これはある意味、人類にとって、不幸なことなんじゃぁないだろうか。
だって、目に見えているのに、実際に自分たちの肉体でもって、現実に創出したものではないからだ(もちろん、制作者側は夜を日に継ぐスケジュールの下、肉体を酷使して、その映像を世に生み出すのだが)。
存在していないもの。本当にあるものではないのに、まったく本当としか思えないように存在している二次元世界…、いや、三次元になりつつある、可視という状況。
…本当はないのに。現実にはないものなのに、目の前にあるというのは、ある意味、地獄だ。絵に描いた餅。すべてまぼろし。
目の前にひろがる風景は、錯覚でしかないのに。
音楽は、人間の想像力の「最後の砦」と、なり得るか。