長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

蟇股(かえるまた)

2010年11月14日 14時40分00秒 | 凝り性の筋
 四十前後ぐらいだったろうか、あれほど好きだった歌舞伎がなんだか私の血をたぎらせてくれなくなった。
 好きだった役者もあちらの世界へ旅立ったり、舞台世界の様子が少しずつ変わって来たり、泣くべきところで笑う観客が増えて来たりして…安直にたとえれば、贔屓の花魁が遣り手婆になっちゃって、なんか、足が遠のく…とでもいうのでしょうかねぇ。
 いつまでも惚れたはれた、切った張ったでもなかろう、という気持ちになってきたのだ。
 つまり、歌舞伎にシンクロできなくなってきた。
 逆に、能の主人公の、あのころはよかった…的な心境が、とても身にしみて共感できるようになってしまったのだ。

 長唄は能によく似ている…というか、題材を能から頂いているものが多い。
 二十~三十代のころは、能を観ながら、何か別のことをぼんやりと考えているのが好きだった。なにしろ、歌舞伎に行くと、五感が歓び過ぎて、アドレナリンが発散されすぎて…まぁ、要するに若者がロックフェスに行くように興奮してしまうのだが、能楽堂へ行くと癒される。
 歌舞伎座で聞くお囃子はもうとにかく心が浮き立ってワクワクして仕方ないのだが、能の調べは厳かな感じがして、芸能世界のリビドー的情動や俗世間にまみれた世俗の垢とは隔世の隔たりがあって、声明のような謡と四拍子のシャワーに、私は身も心も清められたような気になりながら、能楽堂のすみでぼんやりしていた。

 ところがである、四十を過ぎてそんな具合に、歌舞伎から♪バイバイ、love…というような塩梅で自分の棲みなれた世界に別れを告げる「オール・ザット・ジャズ」のロイ・シャイダーのように…つい数年前には「ジョーズ」でサメと格闘してやたらと凄かったのに…この感覚って、能の修羅ものに似てるなぁ、と今改めて思いましたが……揚幕を開けたら、私の目の前には花道ではなく、橋掛りが開けていたのだった。

 でもね、これは、枯れたとか年取ったとか老境に達したとか、そんなことじゃあ、無いンです。
 昔、市川雷蔵の「新・鞍馬天狗」を観たとき、雷蔵の倉田典膳が、「鞍馬天狗」を低く謡いながら、鞍馬山の山中に消えていった…ぅぅぅ…あまりのカッコよさに私はうめいた。
 これだ!これを私も絶対やってやるのだ!と、三十ちょっと前だった私は、強く心に誓った。

 その願いがかなったのは、その映画を観てから十数年近く経っていた。
 長唄には謡がかりという技法があり、そのためにも謡をよく知っていなくてはならない。
 心にかなう先生を見つけるまで、私はほうぼうの能楽堂へ出掛けた。ご流儀の好き嫌いなく。好き嫌いはまず、自分の目で確かめなくては。

 この、ご流儀というもの、古典芸能に携わると、必ずどのジャンルにもある。それはどんなものかよく聞かれることが多いが、要するに、演出の違いとでも申しましょうか。
 分かり易く現代劇に当てはめてみますれば、脚本を変えずに「ハムレット」を、俳優座や文学座がやるのと、唐十郎がやるのと、つかこうへい事務所でやるのと、劇団四季でやるのと、野田版やクドカンでやるのとの、それぞれの違いみたいなものですね。
 私が心を入れ替えて、ウロウロしていた21世紀初頭の能の観客は、九割方が、自分も謡か仕舞を習っている、その筋に心得のある方々だった。だから、客席でぼんやり観ていると、詞章のある部分までくると、一斉に謡本のページをめくる音がする。…教会で賛美歌うたってるみたいやなぁ…と私は思った。
 お稽古をしている方々は、どうしても勉強という観点から舞台を見るので、自分の習っているご流儀以外の舞台を観ない。
 でも私は部外者の自由な観客だったから、流儀によってどう演り方を替えるのか、そんなところも面白く、ウキウキとしていた。

 無論、退屈で死にそうになるほど耐えられない舞台を観たこともある。
 洗濯一つするにも、川でドンブラコと、桃が流れてくるのを長閑に眺めていたのと、全自動でパパッとやっつけちゃうのと、どうしたって室町時代と現代とでは、時間の流れに対する感覚が違うから仕方ない。

 とにかく、自分がこの人だ!と見込んだ好きな謡の先生に教わりたい、と思って、自分なりのメガネでほうぼうの能を観に行き、一生懸命探していたとき、とあるご流儀のご宗家の仕舞を観た。そのとき、意外なことに、私が今まで観てきたイメージの能楽とは違っていて華麗に舞台でパシッと飛んだ。そんな風に飛んだりするんだ、とビックリして、なんかそれが忘れられなくて…と、そのころ偶然にも面識を得た、とある大学の能楽研究をしていらっしゃる教授にご相談申し上げたら、
 「それは、惚れちゃったンだわねぇ」と、その先生はおっしゃった。
 ……え、そ、そーなんですかっ!?
 
 そんなこんなで、かつて、能舞台の上のほうの、蟇股をぼんやりと眺めていた私が、今は、シテのマーベラスな演技に胸ときめかせ、血をたぎらせているのだった。枯れちゃったよね…と思っていた能舞台のほうが、私をワクワクさせる要素が潜んでいるのだった。
 
 人間、歳月を経ると、今まで何気なく観てきたものに、突然シンクロできることがある。
 謡曲の「山姥」の終章。
…山また山に、山めぐりして、行方も知らずなりにけり。
 そんな老婆に、私も成りたい。
コメント (2)
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