「以後、呉服屋に出入りすること、まかりならん!」
と、バアサンが遺言してくれたらよかったのだが、生憎、私に残されたのは三棹分の箪笥に入った着物だった。
…とはいえ、母方のバアサンが亡くなったのは昭和15年、叔父誕生時の産後の肥立ちが悪かった、ということだから、着物のあらかたは虫が喰っていた。
その遺品が私のもとに渡ってきたのは、平成の20年のことである。
母は商家に生まれながら、商売をやっていると一家揃って落ち着いてご飯が食べられない…という理由で、降るような縁談を断って公務員の父のもとへ嫁いできた。しかし、長男の甚六の父は、終業ベルと同時に宴席へ向かい、箏か三味線を習わせようと思っていた長女(我事也。当ブログ2010年3月21日付「マイ楽器」記事をご参照されたし)は、音楽系の稽古事に通わせれば号泣して通学拒否する始末。
そんなわけで母は、人生のほとんどを「失望」という言葉のもとで暮らしてきたので、女人特有の貪婪さを失い、自分が相続するべき物品への権利を主張することもなく生きてきたのだった。
有吉佐和子の『真砂屋お峰』は、大豪商の材木問屋に生まれた女性が、自分の代で生家を潰すことを決意し、代々の当主が蓄財した莫大な財産を費やし尽くして、空前絶後の着物道楽に没入していく話である。
『一の糸』だったか、『悪女について』だったのか…最初に手にした有吉佐和子の小説が何だったのかは忘れてしまった。23歳のとき、この本に度肝を抜かれた私は、有吉佐和子の小説をほとんど読破してしまった。
勧めたのは橋本治である。
書物を通してだが、橋本治は、二十代前半の私の人生の先生だった。
1985年に『チャンバラ時代劇講座』を読まなかったら、私は今でも大星由良之助と大石内蔵助の区別もつかない、目玉に銀紙を張った西洋カブレの日本人のままだったろう。
文庫本の『青空人生相談所』を口切りとして、怒濤のように橋本治の著作を読みつくしていた22歳のころ、橋本治が文中で勧めるままに、有吉佐和子の小説も読み尽くしてしまったのだ。
それからずっとのちに一冊本で刊行された『久生十蘭選集』の、解説を橋本治が書いていて驚いた。そして、好きなもののルーツが根っこでつながっていることを知り、喜びもした。
久生十蘭は、十代の私が一番愛し、崇拝していた作家だったからである。
二十代、お峰のド迫力を心に刻みつけていた私は、三十代のある時期、「粋(すい)は身を食う」という、格言そのままに暮らし、給金のほとんどを呉服屋さんに貢いでいた。
その放蕩もひと昔となった今、不思議なことに、うずたかく積み上げられた反物を目前にしても、胸騒ぎがするでもなく、食指も動かないのだ。
身の内の業火がすっかり、燃え尽きてしまった。たぶん、着物への執着は水素のような気体で出来ていたのだろう。燃えるとその残骸すらも残らないというような。消し炭からくすぶりだす埋み火のような未練すらない。
欲しいものがないのだから、仕方ない。…いや、素晴らしい品物はたくさんある。けれど欲望…という名の感情が無くなってしまったのだ。欲しい!死んでも欲しい!という、物に対する一途な執念が、どこからも沸き起こってこないのだ。
こりゃ、解脱ってやつだ。市川家の歌舞伎十八番にもあるじゃん。私はキモノに関して、すっかり悟りの域に達したのだ。煩悩から解放されたのだ。
…ああ、うれしくもない。
祖母の遺品が詰まった箪笥が私の手許にきたのは、そんなときだった。
衣喰う虫や時間の砂嵐から、かろうじて被害が少なかった三枚ばかりの羽織の裄と丈を直してもらい、私は久しぶりに、羽織の紐を買いに行った。
総務部の職員が文房具店に、事務必需用品を買いに行くようにしおしおと。
お勘定を済ませている間に、ふと後ろを見ると、博多織の展示会だ。
なにしろ、美しいものを放っておけない、オッサンのような性癖を持つ自分である。ついふらふらと近寄って、その美しい、繭玉から紡ぎだされた絹が、職人さんの手によって昇華された姿をみつめた。
すると、よく知っているいつもの博多の帯でないことに気がついた。傍らにおられた、作家ご本人が説明して下さる。
薩摩切子のグリーンの色みから着想を得たという、グラデーションの色彩感覚といい、昔日の博多とは、一味もふた味も違う献上柄。
新しい時代に生まれた若い職人たちは、その感性で、いま、こんにちの博多帯を模索し、創造しているのである。
また、可憐な花喰い鳥が、くっきりとした稜線で織り出されている帯もあった。伺えば、二挺杼(にちょうひ)、という手法で織り上げているそうなのだ。
緯糸を通す杼を二つ操り、かくも素晴らしい帯を織りあげるのだ。裏から見れば、二重織りのように仕上がっている。…美しい。感激した。
こういうすばらしい仕事は、もっと世間に流通しなくてはならない。
一目で値段と出所が分かってしまう、誰もが持ってるようなブランド品のバッグを買ってる場合じゃありませんぜ。
もっと安い対価で、この世にたった一つしかない、美しい芸術品が手に入るというのに。
…そういうわけで、日本橋高島屋の呉服売り場に行って御覧なさい。今度の火曜日までしか観られません。急ぐべし。
と、バアサンが遺言してくれたらよかったのだが、生憎、私に残されたのは三棹分の箪笥に入った着物だった。
…とはいえ、母方のバアサンが亡くなったのは昭和15年、叔父誕生時の産後の肥立ちが悪かった、ということだから、着物のあらかたは虫が喰っていた。
その遺品が私のもとに渡ってきたのは、平成の20年のことである。
母は商家に生まれながら、商売をやっていると一家揃って落ち着いてご飯が食べられない…という理由で、降るような縁談を断って公務員の父のもとへ嫁いできた。しかし、長男の甚六の父は、終業ベルと同時に宴席へ向かい、箏か三味線を習わせようと思っていた長女(我事也。当ブログ2010年3月21日付「マイ楽器」記事をご参照されたし)は、音楽系の稽古事に通わせれば号泣して通学拒否する始末。
そんなわけで母は、人生のほとんどを「失望」という言葉のもとで暮らしてきたので、女人特有の貪婪さを失い、自分が相続するべき物品への権利を主張することもなく生きてきたのだった。
有吉佐和子の『真砂屋お峰』は、大豪商の材木問屋に生まれた女性が、自分の代で生家を潰すことを決意し、代々の当主が蓄財した莫大な財産を費やし尽くして、空前絶後の着物道楽に没入していく話である。
『一の糸』だったか、『悪女について』だったのか…最初に手にした有吉佐和子の小説が何だったのかは忘れてしまった。23歳のとき、この本に度肝を抜かれた私は、有吉佐和子の小説をほとんど読破してしまった。
勧めたのは橋本治である。
書物を通してだが、橋本治は、二十代前半の私の人生の先生だった。
1985年に『チャンバラ時代劇講座』を読まなかったら、私は今でも大星由良之助と大石内蔵助の区別もつかない、目玉に銀紙を張った西洋カブレの日本人のままだったろう。
文庫本の『青空人生相談所』を口切りとして、怒濤のように橋本治の著作を読みつくしていた22歳のころ、橋本治が文中で勧めるままに、有吉佐和子の小説も読み尽くしてしまったのだ。
それからずっとのちに一冊本で刊行された『久生十蘭選集』の、解説を橋本治が書いていて驚いた。そして、好きなもののルーツが根っこでつながっていることを知り、喜びもした。
久生十蘭は、十代の私が一番愛し、崇拝していた作家だったからである。
二十代、お峰のド迫力を心に刻みつけていた私は、三十代のある時期、「粋(すい)は身を食う」という、格言そのままに暮らし、給金のほとんどを呉服屋さんに貢いでいた。
その放蕩もひと昔となった今、不思議なことに、うずたかく積み上げられた反物を目前にしても、胸騒ぎがするでもなく、食指も動かないのだ。
身の内の業火がすっかり、燃え尽きてしまった。たぶん、着物への執着は水素のような気体で出来ていたのだろう。燃えるとその残骸すらも残らないというような。消し炭からくすぶりだす埋み火のような未練すらない。
欲しいものがないのだから、仕方ない。…いや、素晴らしい品物はたくさんある。けれど欲望…という名の感情が無くなってしまったのだ。欲しい!死んでも欲しい!という、物に対する一途な執念が、どこからも沸き起こってこないのだ。
こりゃ、解脱ってやつだ。市川家の歌舞伎十八番にもあるじゃん。私はキモノに関して、すっかり悟りの域に達したのだ。煩悩から解放されたのだ。
…ああ、うれしくもない。
祖母の遺品が詰まった箪笥が私の手許にきたのは、そんなときだった。
衣喰う虫や時間の砂嵐から、かろうじて被害が少なかった三枚ばかりの羽織の裄と丈を直してもらい、私は久しぶりに、羽織の紐を買いに行った。
総務部の職員が文房具店に、事務必需用品を買いに行くようにしおしおと。
お勘定を済ませている間に、ふと後ろを見ると、博多織の展示会だ。
なにしろ、美しいものを放っておけない、オッサンのような性癖を持つ自分である。ついふらふらと近寄って、その美しい、繭玉から紡ぎだされた絹が、職人さんの手によって昇華された姿をみつめた。
すると、よく知っているいつもの博多の帯でないことに気がついた。傍らにおられた、作家ご本人が説明して下さる。
薩摩切子のグリーンの色みから着想を得たという、グラデーションの色彩感覚といい、昔日の博多とは、一味もふた味も違う献上柄。
新しい時代に生まれた若い職人たちは、その感性で、いま、こんにちの博多帯を模索し、創造しているのである。
また、可憐な花喰い鳥が、くっきりとした稜線で織り出されている帯もあった。伺えば、二挺杼(にちょうひ)、という手法で織り上げているそうなのだ。
緯糸を通す杼を二つ操り、かくも素晴らしい帯を織りあげるのだ。裏から見れば、二重織りのように仕上がっている。…美しい。感激した。
こういうすばらしい仕事は、もっと世間に流通しなくてはならない。
一目で値段と出所が分かってしまう、誰もが持ってるようなブランド品のバッグを買ってる場合じゃありませんぜ。
もっと安い対価で、この世にたった一つしかない、美しい芸術品が手に入るというのに。
…そういうわけで、日本橋高島屋の呉服売り場に行って御覧なさい。今度の火曜日までしか観られません。急ぐべし。