「近頃は 哀れいかにと問ふ人も 問はれる人も 涙なりけり」
という歌を、むかし、戊辰戦争のころの逸話をまとめた本で読んだことがある。
慶応四年の江戸の街角で知人に会って、近ごろはほんとにもう…無惨だよね、あなたのほうはどんな具合ですか…?と訊くほうも訊かれるほうも、ただただ涙…なのである。
記憶頼みに書いているので、少し違っているかもしれない。
昨年の六月、友人の演奏会が仙台であり、その機会に便乗して、ほんの一日半だったが、仙台平野を電車で旅した。それまで海産物の美味しい街というイメージが強かった仙台だったのだが、車窓に広がる仙台平野は、豊かな穀倉地帯だった。ササニシキ誕生の地…と大きな文字がサイロに掲げられ、遙か地平の彼方まで、青々とした美しい耕作地が拡がっていた。
仙台から東北本線に乗り、小牛田で陸羽東線に乗り換えて有備館で降りる。伊達政宗が青葉城に移るまで居城としていた岩出山城へ登り、しずかな城址で小鳥の囀りを聞いてから岩出山駅まで歩き、再び陸羽東線、石巻線を乗り継ぎ、石巻まで来た。
残念に思いながら時間の都合でそのまま急ぎ仙石線に乗り、松島湾のうつくしい海岸線を眺めながら多賀城。いにしえの国府跡へ向かい、路肩の赤いヒナゲシに古代の面影を結ぶ。そうして東北本線の塩釜からバスに揺られ、愛宕山もかくや、何段あるか数えきれない急な石段を、狛犬に励まされながら上り、塩竈神社を参詣。神社の境内からみはるかした湊町は、夕焼けに染まっていて本当にうつくしかった。
さらに歩いて仙石線の本塩釜にたどりつき、再び仙台に戻ってきたときには、日はとっぷり暮れていた。私もすっかりくたびれていたが、塩釜の鮨屋で巻いてもらったお土産を手に、ほろ酔い加減でいい心持ちになっていた。
仙石線から新幹線への乗り換えコンコースの中に「伊達な警察官になろう!」という県警のポスターを発見したときには、旅の興、しっかりその映像をカメラに収めたものだった。
一昨日からのニュース映像を見るにつけ、あの愉しかった旅の想い出が胸を締め付ける。
そうして涙ぐんでいる私の身の回りも、まだ時折ゆさゆさと、余震で部屋が揺れている。
今日から輪番制の停電だという。あまりに都会生活の便利さに慣れ過ぎると、かえって不便なのだった。
そういえば、お月さまが九曜紋に見えるほど乱視でド近眼の私は、二十代のころ、コンタクトレンズも眼鏡もない無人島に漂着してしまった時の用心に、裸眼で生活できる訓練を、時々していたものだった。
…すっかり忘れていた。
もはや、どんな慰めの言葉も、私には安易に口にできない。
ただただ、みなさん、どうぞ、ご無事で…。
という歌を、むかし、戊辰戦争のころの逸話をまとめた本で読んだことがある。
慶応四年の江戸の街角で知人に会って、近ごろはほんとにもう…無惨だよね、あなたのほうはどんな具合ですか…?と訊くほうも訊かれるほうも、ただただ涙…なのである。
記憶頼みに書いているので、少し違っているかもしれない。
昨年の六月、友人の演奏会が仙台であり、その機会に便乗して、ほんの一日半だったが、仙台平野を電車で旅した。それまで海産物の美味しい街というイメージが強かった仙台だったのだが、車窓に広がる仙台平野は、豊かな穀倉地帯だった。ササニシキ誕生の地…と大きな文字がサイロに掲げられ、遙か地平の彼方まで、青々とした美しい耕作地が拡がっていた。
仙台から東北本線に乗り、小牛田で陸羽東線に乗り換えて有備館で降りる。伊達政宗が青葉城に移るまで居城としていた岩出山城へ登り、しずかな城址で小鳥の囀りを聞いてから岩出山駅まで歩き、再び陸羽東線、石巻線を乗り継ぎ、石巻まで来た。
残念に思いながら時間の都合でそのまま急ぎ仙石線に乗り、松島湾のうつくしい海岸線を眺めながら多賀城。いにしえの国府跡へ向かい、路肩の赤いヒナゲシに古代の面影を結ぶ。そうして東北本線の塩釜からバスに揺られ、愛宕山もかくや、何段あるか数えきれない急な石段を、狛犬に励まされながら上り、塩竈神社を参詣。神社の境内からみはるかした湊町は、夕焼けに染まっていて本当にうつくしかった。
さらに歩いて仙石線の本塩釜にたどりつき、再び仙台に戻ってきたときには、日はとっぷり暮れていた。私もすっかりくたびれていたが、塩釜の鮨屋で巻いてもらったお土産を手に、ほろ酔い加減でいい心持ちになっていた。
仙石線から新幹線への乗り換えコンコースの中に「伊達な警察官になろう!」という県警のポスターを発見したときには、旅の興、しっかりその映像をカメラに収めたものだった。
一昨日からのニュース映像を見るにつけ、あの愉しかった旅の想い出が胸を締め付ける。
そうして涙ぐんでいる私の身の回りも、まだ時折ゆさゆさと、余震で部屋が揺れている。
今日から輪番制の停電だという。あまりに都会生活の便利さに慣れ過ぎると、かえって不便なのだった。
そういえば、お月さまが九曜紋に見えるほど乱視でド近眼の私は、二十代のころ、コンタクトレンズも眼鏡もない無人島に漂着してしまった時の用心に、裸眼で生活できる訓練を、時々していたものだった。
…すっかり忘れていた。
もはや、どんな慰めの言葉も、私には安易に口にできない。
ただただ、みなさん、どうぞ、ご無事で…。