もう半月前のこと。
夕暮れ時の小休止に、地震速報のニュースを見ようとテレビをつけたら、耳になじんだメロディが流れてきた。長唄に親しんだ人なら誰でも知っている。
『秋の色種(いろくさ)』の前弾き。
おやおや、今時分、何の番組だろう、と、リモコンの手を休めて見入ると、子供向けの教育番組なのだった。
しかし、画面は、桜がはらはらと舞い散る宵の、はんなりした京の小路。道を急ぐ舞妓はんがすれ違う。そこへ朗読がかぶさる。
「清水へ 祗園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」
与謝野晶子の歌であった。
その瞬間、頭をハンマーで殴られたような衝撃が私を襲った。
…ちょ、ちょっと、ニイサン、季が、季が違(ちご)うとりますがな……!
び、びーっっ、ビックリした。
だって、その映像では三味線だけの旋律だったが、私の耳には、蔭囃子の虫の音が、リーリーと聞こえてくるのだもの。そのくらい、秋の情景をしっとりと典雅に表現した、スタンダードな名曲なのだ。
TVドラマの芸事指導でも、長唄にそんなに詳しくはないが、この曲をどうしても使いたいという脚本家がいた。当然、その意図にマッチしたシーンで使われた。
絶対に、春の描写のBGMとして使われるような曲調ではないのだ。
乱暴な話だなァ。長唄を知っている人が見ればこうこうと分かるけれど、この番組は何も知らない子供向けだ。
まっさらの耳に、「秋の色種」の象徴的なメロディを、春の風物として刷り込んでしまってよいものだろうか。
作曲者に対する冒瀆だ。
古典を、新しい感性で解釈して、現代の人にも楽しんでもらいたい、身近に感じてもらいたい、というのは、古典芸能に携わる者の、常々いだいている思いであり、願いだ。
でも、これはちょっと違うんじゃないだろうか。
同じ春でも、日本の春が西洋の春と違うように、日本の春は、移ろいゆく時の流れの、狭間の季節ではあるけれど、決して、秋と同じではない。
たしかに両者とも、うつろいゆく季節のなかで、「もののあはれ」をしみじみと感じるシーズンではある。
しかし、桜の花が散っても、次々と新緑が芽吹いてくる夏へ向かう春と、菊の花が咲いたあとにはもう、野には冬枯れの景色がひろがるばかりです…という秋とでは、明らかにもののあわれの、感じるところが違う。
もの言えば唇寒し…という思いはよくするが、天下の国営放送で、このような無道。なんと言いますか、これはもはや…。
もう、むちゃくちゃでござりまする。
ところで、横溝正史の『獄門島』。
金田一君が事件の謎を解くキーワードが、和尚さんがつぶやく、この、「季が違うておるが仕方ない」であった(記憶に依っているので、言い回しが若干違うかもしれません)。
浅井三姉妹に勝るとも劣らない、迫力の三姉妹が出てくる。
これは、公共の放送にはなかなか乗せられない…という制作者側の配慮もあって、原作どおりに映像化されたことはほとんどなかった。
20世紀の終わりに、京橋のフィルムセンターで、片岡千恵蔵主演の『獄門島』を観たときは、話の筋自体が違えてあって、啞然としたものだ。
私が中学生のとき、小学館の月刊誌「少女コミック」に、ささやななえが漫画化した横溝作品が何篇か連載された。毎号愉しみに読んだものだった。
横溝正史の探偵ものは、私にとってはビジュアルで見たほうが衝撃が薄められ、娯楽として楽しめる。「人形佐七捕物帖」や、軽い短編は文章で読んだが、長編のものは、あの情念というか禍々しさが、記憶に残りすぎて怖いので、ビジュアルで観るようにしていた。
『獄門島』の連載が終わったか、始まるかの次号か前の号が『百日紅の下にて』だった。予告編の絵面を今でも、何となく想い出せる。
もの憂い晩春が過ぎると、横溝ワールドの、陽炎立つ熱気の似合う季節。
もうすぐ、夏が来る。
夕暮れ時の小休止に、地震速報のニュースを見ようとテレビをつけたら、耳になじんだメロディが流れてきた。長唄に親しんだ人なら誰でも知っている。
『秋の色種(いろくさ)』の前弾き。
おやおや、今時分、何の番組だろう、と、リモコンの手を休めて見入ると、子供向けの教育番組なのだった。
しかし、画面は、桜がはらはらと舞い散る宵の、はんなりした京の小路。道を急ぐ舞妓はんがすれ違う。そこへ朗読がかぶさる。
「清水へ 祗園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき」
与謝野晶子の歌であった。
その瞬間、頭をハンマーで殴られたような衝撃が私を襲った。
…ちょ、ちょっと、ニイサン、季が、季が違(ちご)うとりますがな……!
び、びーっっ、ビックリした。
だって、その映像では三味線だけの旋律だったが、私の耳には、蔭囃子の虫の音が、リーリーと聞こえてくるのだもの。そのくらい、秋の情景をしっとりと典雅に表現した、スタンダードな名曲なのだ。
TVドラマの芸事指導でも、長唄にそんなに詳しくはないが、この曲をどうしても使いたいという脚本家がいた。当然、その意図にマッチしたシーンで使われた。
絶対に、春の描写のBGMとして使われるような曲調ではないのだ。
乱暴な話だなァ。長唄を知っている人が見ればこうこうと分かるけれど、この番組は何も知らない子供向けだ。
まっさらの耳に、「秋の色種」の象徴的なメロディを、春の風物として刷り込んでしまってよいものだろうか。
作曲者に対する冒瀆だ。
古典を、新しい感性で解釈して、現代の人にも楽しんでもらいたい、身近に感じてもらいたい、というのは、古典芸能に携わる者の、常々いだいている思いであり、願いだ。
でも、これはちょっと違うんじゃないだろうか。
同じ春でも、日本の春が西洋の春と違うように、日本の春は、移ろいゆく時の流れの、狭間の季節ではあるけれど、決して、秋と同じではない。
たしかに両者とも、うつろいゆく季節のなかで、「もののあはれ」をしみじみと感じるシーズンではある。
しかし、桜の花が散っても、次々と新緑が芽吹いてくる夏へ向かう春と、菊の花が咲いたあとにはもう、野には冬枯れの景色がひろがるばかりです…という秋とでは、明らかにもののあわれの、感じるところが違う。
もの言えば唇寒し…という思いはよくするが、天下の国営放送で、このような無道。なんと言いますか、これはもはや…。
もう、むちゃくちゃでござりまする。
ところで、横溝正史の『獄門島』。
金田一君が事件の謎を解くキーワードが、和尚さんがつぶやく、この、「季が違うておるが仕方ない」であった(記憶に依っているので、言い回しが若干違うかもしれません)。
浅井三姉妹に勝るとも劣らない、迫力の三姉妹が出てくる。
これは、公共の放送にはなかなか乗せられない…という制作者側の配慮もあって、原作どおりに映像化されたことはほとんどなかった。
20世紀の終わりに、京橋のフィルムセンターで、片岡千恵蔵主演の『獄門島』を観たときは、話の筋自体が違えてあって、啞然としたものだ。
私が中学生のとき、小学館の月刊誌「少女コミック」に、ささやななえが漫画化した横溝作品が何篇か連載された。毎号愉しみに読んだものだった。
横溝正史の探偵ものは、私にとってはビジュアルで見たほうが衝撃が薄められ、娯楽として楽しめる。「人形佐七捕物帖」や、軽い短編は文章で読んだが、長編のものは、あの情念というか禍々しさが、記憶に残りすぎて怖いので、ビジュアルで観るようにしていた。
『獄門島』の連載が終わったか、始まるかの次号か前の号が『百日紅の下にて』だった。予告編の絵面を今でも、何となく想い出せる。
もの憂い晩春が過ぎると、横溝ワールドの、陽炎立つ熱気の似合う季節。
もうすぐ、夏が来る。