長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

これを上げましては 明日より何の手業なし

2020年03月03日 03時05分25秒 | お稽古
 この度の騒動で、都民フェスティバル邦楽大会、第1部の子ども部門が中止になってしまった。
 長唄協会会員の小・中学生のお弟子さんで「末広がり」を演奏する予定で、当方からも来年度から中学校に進級するN君が、小学生最後の学年に、日頃のお稽古の成果を発表しようと楽しみにしていた催しであった。

 長唄「末広がり(末広狩)」は、例によって、狂言をもとに歌舞伎化されたものである。
 お習字に喩えれば、楷書体の曲と申しましょうか、手ほどきから二、三曲目ぐらいの教材になるのだが、山本東次郎さんファンの私としては、嬉々として歌詞説明を膨らませすぎるので、とにかく弾き込んで長唄という曲のスタイルの構造に慣れ親しんでほしい思いもある。
 小学三年生の別のお弟子さんにお手本で弾いたとき、♪太郎冠者、あるか~~というくだりで、目がキラキラキラ…と輝いたので、ぉぉ、やはり面白く受けとめてくれているのだろうか、と、うれしく感じたことがあった。

 太郎冠者が出てくる曲で、私が好きな長唄は「靭猿(うつぼざる)」である。
 このところ何かと見舞われる、ふさぎの虫…を払拭するために、やはり弾いているうちにウキウキ、憂き世が愉しくなってくる曲、そして、今年は何やらもう沈丁花が香ったり、シジュウカラが囀ったりしていたりもするのだが…梅が枝の清々しい匂いを風が運んでくれるこの季節にふさわしい曲、といったらやはり、靭猿…というわけで、久しぶりに引っ張り出してさらってみた。
 
 幾たび弾いても面白い。幾たび弾いても難しい。幾たび弾いても手に汗握るサスペンス・ストーリーで、調子のよいメロディに浮き浮きする一方、うっかり涙ぐむ場面もある。
 いにしえの価値観、歴史状況のもと誕生した古典作品には、それでも、人間を扱ったからには普遍のテーマ性がある。民主主義の世の中になった現代、いきなり縁もゆかりもない人からの理不尽な申し出によもや屈する目には遇わないだろうけれども、物事の関わり合いから生じる、この不変の情というもので、一般的な鑑賞曲としてお勧めしたい作品である。

 

 さて、名曲の上に大曲であるから、靭猿を稽古して頂けるまでには年季がいる。
 まだ昭和だった頃、お稽古場で姉弟子が唄をしごかれていた様子を、うらやましく聞いていたことを想い出した。
 そしてまた、20世紀の終わり頃、人形浄瑠璃文楽の公演で堀川を聴いたとき、ぁぁ…靭猿を…もっと稽古しておかなきゃいけなかったなぁ…と反省したこともあった。

 ♪げに豊かなる時なれや
  さらば我らはおいとまと もと来し道へ帰らんと
  花を見捨てて 帰る雁
  空も高嶺の富士筑波  
  名に負う隅田の春の夕 景色をここにとどめけり


追記:文末の詞章は長唄「靭猿」終章、写真は神代植物公園・うめ園にて2月の末、撮影したものです。


 
 
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