長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

壬寅、或いは令和長短。

2022年01月01日 14時29分29秒 | 近況
 “みずのえとら”の年がやって来た。
 昔、私が生まれた年と同じ干支である。
 なるほど、十二支十干とは、生きているものの時を数えるのに分かりやすい便利な指標である。
 短いようで、しかし悠久の暦日を表記するのに、人間の尺で出来ている。
 


 昨年暮れの強風から、揚羽蝶のお母さんが当家の檸檬樹に託した葉付きの卵のうち、一つだけが残った。









 我が家の四人の越冬サナギ。ファラオの墓におわすミイラにそっくりである。
 昆虫すごいぜ!の香川照之に教えられるまでもなく、人間の歴史における昆虫の存在は切っても切れぬものであるのだ。



 新年早々、台所仕事の耳のおともに、志ん朝の芝浜をかける。
 なんて巧い、そしてなんと面白い藝でありましょう。
 さげの、よそう、夢になるといけない…で、思わず泣きそうになってしまいました。

 20世紀中、私は談志のオッカケをしていて、生前の志ん朝には冷淡な落語ファンでありましたが、お二方が故人となった今、CDを何度聴いても面白い、飽きない、唸る(その上手さに)のは、志ん朝でありました。
 贔屓とは愛ですから、身びいきである余り、ほかの芸人に対してバイアスが掛かったり、目が曇ったりするのでしょう。

 思い入れが過ぎると、自分自身や贔屓の藝に対する、客観的な評価が出来なくなります。
 キャラクターに魅せられた贔屓というものは、対象者の存在だけで、また存在するものと空間を一とするだけで嬉しいと思ってしまう、私も含めて御目出度い人々なので、その魔法が解ける…ご本尊と同じ美意識・価値観を共有できなくなると離れていきます。
 普遍的な藝の力、というものは、誰が見ても聴いても、心をとらえ、感心させるものであるのです。

 それにつけても同じ文言だのに、どうしてこんなにも違うものか。
 長唄だって、おんなじ曲を弾いてるのにねえ…という思いはよくする。
 伝統芸能の恐ろしさよ。

 …志ん朝はなんであんなに早く死んじゃったかねぇ、
 「稽古のし過ぎじゃないの」 
 「ぅぅむ、落語に魅入られちゃったんだねぇ」
 「そうか、命懸けの芸だったんだね…」
 あーぁ、因果とアタシは長生きだ……
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする