“みずのえとら”の年がやって来た。
昔、私が生まれた年と同じ干支である。
なるほど、十二支十干とは、生きているものの時を数えるのに分かりやすい便利な指標である。
短いようで、しかし悠久の暦日を表記するのに、人間の尺で出来ている。
昨年暮れの強風から、揚羽蝶のお母さんが当家の檸檬樹に託した葉付きの卵のうち、一つだけが残った。
我が家の四人の越冬サナギ。ファラオの墓におわすミイラにそっくりである。
昆虫すごいぜ!の香川照之に教えられるまでもなく、人間の歴史における昆虫の存在は切っても切れぬものであるのだ。
新年早々、台所仕事の耳のおともに、志ん朝の芝浜をかける。
なんて巧い、そしてなんと面白い藝でありましょう。
さげの、よそう、夢になるといけない…で、思わず泣きそうになってしまいました。
20世紀中、私は談志のオッカケをしていて、生前の志ん朝には冷淡な落語ファンでありましたが、お二方が故人となった今、CDを何度聴いても面白い、飽きない、唸る(その上手さに)のは、志ん朝でありました。
贔屓とは愛ですから、身びいきである余り、ほかの芸人に対してバイアスが掛かったり、目が曇ったりするのでしょう。
思い入れが過ぎると、自分自身や贔屓の藝に対する、客観的な評価が出来なくなります。
キャラクターに魅せられた贔屓というものは、対象者の存在だけで、また存在するものと空間を一とするだけで嬉しいと思ってしまう、私も含めて御目出度い人々なので、その魔法が解ける…ご本尊と同じ美意識・価値観を共有できなくなると離れていきます。
普遍的な藝の力、というものは、誰が見ても聴いても、心をとらえ、感心させるものであるのです。
それにつけても同じ文言だのに、どうしてこんなにも違うものか。
長唄だって、おんなじ曲を弾いてるのにねえ…という思いはよくする。
伝統芸能の恐ろしさよ。
…志ん朝はなんであんなに早く死んじゃったかねぇ、
「稽古のし過ぎじゃないの」
「ぅぅむ、落語に魅入られちゃったんだねぇ」
「そうか、命懸けの芸だったんだね…」
あーぁ、因果とアタシは長生きだ……
昔、私が生まれた年と同じ干支である。
なるほど、十二支十干とは、生きているものの時を数えるのに分かりやすい便利な指標である。
短いようで、しかし悠久の暦日を表記するのに、人間の尺で出来ている。
昨年暮れの強風から、揚羽蝶のお母さんが当家の檸檬樹に託した葉付きの卵のうち、一つだけが残った。
我が家の四人の越冬サナギ。ファラオの墓におわすミイラにそっくりである。
昆虫すごいぜ!の香川照之に教えられるまでもなく、人間の歴史における昆虫の存在は切っても切れぬものであるのだ。
新年早々、台所仕事の耳のおともに、志ん朝の芝浜をかける。
なんて巧い、そしてなんと面白い藝でありましょう。
さげの、よそう、夢になるといけない…で、思わず泣きそうになってしまいました。
20世紀中、私は談志のオッカケをしていて、生前の志ん朝には冷淡な落語ファンでありましたが、お二方が故人となった今、CDを何度聴いても面白い、飽きない、唸る(その上手さに)のは、志ん朝でありました。
贔屓とは愛ですから、身びいきである余り、ほかの芸人に対してバイアスが掛かったり、目が曇ったりするのでしょう。
思い入れが過ぎると、自分自身や贔屓の藝に対する、客観的な評価が出来なくなります。
キャラクターに魅せられた贔屓というものは、対象者の存在だけで、また存在するものと空間を一とするだけで嬉しいと思ってしまう、私も含めて御目出度い人々なので、その魔法が解ける…ご本尊と同じ美意識・価値観を共有できなくなると離れていきます。
普遍的な藝の力、というものは、誰が見ても聴いても、心をとらえ、感心させるものであるのです。
それにつけても同じ文言だのに、どうしてこんなにも違うものか。
長唄だって、おんなじ曲を弾いてるのにねえ…という思いはよくする。
伝統芸能の恐ろしさよ。
…志ん朝はなんであんなに早く死んじゃったかねぇ、
「稽古のし過ぎじゃないの」
「ぅぅむ、落語に魅入られちゃったんだねぇ」
「そうか、命懸けの芸だったんだね…」
あーぁ、因果とアタシは長生きだ……