……そんなつもりじゃなかった。
私は、宵闇に沈みこんだ鶴岡八幡宮の社頭で、ドキドキしながら夜空を見上げた。
星は煌めくけれど、月は見えない。今日は旧暦十二月一日…つまり、平成廿三年、師走朔日。2011年12月25日聖誕祭当日。
左手前には、いつだったかの台風で倒れてしまった大銀杏が、根株から伸びた蘖(ひこばえ)の育ちっぷりがよいので、室の独活(うど)か、20世紀のSF映画やウルトラ・シリーズに必ず登場するマッド・サイエンティスティックな博士に巨大化された、エノキダケのようになって、暗がりの中で白く光っている。
仕事は必然で詰めていきたいものだが、遊びは偶然性がうれしい。凝り性の酔狂で、何事においても、よく「○×づくし」や、縁語・類語を果てしなく繋げていく符合遊びをしてしまうものだが、今日はそんな目途のある旅ではなかった。
食事に行けば必ず深酒へ…という、分かっちゃいるけどやめられない病の、気のいい友達を、ともに過ごすクリスマス・ディナーまで、日頃の慰労の意もあってドライブに誘ったのだ。
われら一行三人旅。三浦半島の西海岸で、天気晴朗なれども波高き、暮れの海を眺めていた。
さてさてこれから晩餐までどこへ行こうかねぇ…と皆でぼんやり懐手して、波の高さを測っていたときである。久しぶりに湘南へ出てみようか…主賓の彼女が、ポロリと言った。
それにアタシ、まだ、鎌倉に行ったことがないの。
ええええええええっつと、私は思いもよらぬことに驚いて…いやいや、それはそういうこともあろう…と、六段目のおかるの老母のように分別顔をしつつも…しかーし、鎌倉へ一度も行ったことがない…それは関東に住まいするものとしてはいささか不本意なことでもあろうから、ここは友達甲斐としても、やはり…いや、なんとしても彼女を鎌倉へ連れて行ってあげなくては…という義侠心、使命感が、突如私の中に芽生えた。
人であふれ返った日曜日の湘南なんて、目差すかたきを求めて好んで雑踏を歩く、旅の仇討ち主従でもない限り、絶対行きたくない場所である。
この世に人を突き動かす衝動があるとするならば、それは愛…それゆえでしかない。
今上天皇誕生日に続くクリスマスeveの連休を、浜町は明治座にて大江戸鍋祭に参戦、戦国鍋TVテイスト「忠臣蔵」で過ごした私は、まだ夢の中にいた。
なにしろ、旧暦の師走は今日からだから、まだまだ、赤穂浪士が討ち入りできますようおぉにぃ~♪と歌いながら街灯の根方で♪シングinザrain~ジーン・ケリーの真似して、ターンしたっていいわけだ。はしゃいでいるのが許される時節であるのだもの。
そういうわけで、弁天小僧ゆかりの江ノ島弁財天へ詣り、弁天様を守る龍神のレリーフに、おおっ、この意匠は年賀状に使えるのではなかろうか…などと思惑しながら、万事思うがままの卦が出た大吉の神籤を手土産に、江ノ島大橋端。
振り返った西の空が夕焼けに染まって、いかなる天然の配剤にや、空に聳える龍神の塔の遙か遠景の雲が、天昇する龍のかたちのまま流れて行く、まさに龍吐から龍。
歌舞伎十八番『鳴神』。結界が解けて天昇する龍神をきっかけに、破戒僧となった瞬間、ぶっかえった舞台の愉しさは格別だったなぁ。
それから鎌倉へ向かったが、渋滞に巻き込まれて、すでに陽はとっぷりと暮れていた。
鎌倉を西から攻めるなら、腰越状は置いておいて、まず大仏様ですかねぇ…あいにく閉園。
つい三日前の日本橋劇場で、金馬師匠の「大仏餅」にすっかり感銘を受けていた私は、何となく、この数日来の遊興の反芻を、江戸から場所を変えた鎌倉で、ふたたびなぞらえているような、不思議な感覚を覚えた。
作為的な行動による結果ではなく、無為無策で何もなさずに、その瞬間、心に囚われていたものが目の前に現れると、ことのほか嬉しい。
人はこれを「運命じゃないかしら…」と呼ぶ。
そして、いま気がついた。イチョウの大木を見て想い出したのだ。歌舞伎の大道具にも、この大銀杏はちゃんと存在するからだ。
『仮名手本忠臣蔵』の大序、あれは、ここじゃん。
赤穂浪士が本所・吉良邸へ討ち入った史実は江戸の話だが、浄瑠璃作者は例の如く、舞台を歴史上のとある時代に設定し直している。時は室町。「太平記」の世界。
だから、大石内蔵助は大星由良之助、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直。
全十一段の物語。昭和時代に誕生した芝居「元禄忠臣蔵」以前の歌舞伎において、もっともスタンダードな「忠臣蔵」は、室町幕府に弓引いた新田義貞の兜を鶴岡八幡宮へ献上するため、戦利品の兜の中からそれと選定する、兜改めの場から始まる。登場人物の主だったものが勢揃いする、実に様式的な序幕である。
もともとは文楽のために書き下ろされた芝居であるから、歌舞伎ではことのほか、役者たちを人形に見立てた演出がなされている。
この符合はいかなることか…!
ここについ昨日、私はいた。明治座の舞台のここに。
大江戸鍋祭の制作者の心意気や大したもので、芝居の序幕が、忠臣蔵の大序へのオマージュ仕立になっていた。つい24時間前まで浜町河岸で、爆笑と陶酔と興奮の十重二十重の波にたゆとうていた私は、ここまでくると、かえってこの偶然が恐ろし過ぎて……
何となく背筋が寒くなって、参拝ざま、私は神籤を引きに石段を下りた。
鶴岡八幡宮の紋・鶴の丸(むかしのJALのトレードマークでしたね…飛行機の尾翼に必ず宿っていた)が地紋についた、第十番、吉。
武蔵野は 限りも見えず かりそめの
草の庵に 心とどむな
世間は広く、また、長く遠く涯(はて)もない。そのなかに充ち足るものは、小さな自分の体に包んでいる心なのです。このことを理解して、いまのこだわりを捨て去ってください。
これはうつけ放題、遊興に浸りきっている今現在(今に限ったことでは無けれど)の私への、ご諫言なるや。
時計は暮れ六つを回り、帰路途上の首都高速。芝を過ぎ、いつものように東京タワーを望むと…クリスマス仕様の電飾になっていた。
降りかかった星が鉄梁にとどまって、まばゆくフラッシュのように交互に瞬いている。
…そして私は、昨晩、大江戸鍋祭で観た〈松の廊下走り隊7〉の歌「キラ☆キラ KIRA Killers」をくちずさむ。
私は、宵闇に沈みこんだ鶴岡八幡宮の社頭で、ドキドキしながら夜空を見上げた。
星は煌めくけれど、月は見えない。今日は旧暦十二月一日…つまり、平成廿三年、師走朔日。2011年12月25日聖誕祭当日。
左手前には、いつだったかの台風で倒れてしまった大銀杏が、根株から伸びた蘖(ひこばえ)の育ちっぷりがよいので、室の独活(うど)か、20世紀のSF映画やウルトラ・シリーズに必ず登場するマッド・サイエンティスティックな博士に巨大化された、エノキダケのようになって、暗がりの中で白く光っている。
仕事は必然で詰めていきたいものだが、遊びは偶然性がうれしい。凝り性の酔狂で、何事においても、よく「○×づくし」や、縁語・類語を果てしなく繋げていく符合遊びをしてしまうものだが、今日はそんな目途のある旅ではなかった。
食事に行けば必ず深酒へ…という、分かっちゃいるけどやめられない病の、気のいい友達を、ともに過ごすクリスマス・ディナーまで、日頃の慰労の意もあってドライブに誘ったのだ。
われら一行三人旅。三浦半島の西海岸で、天気晴朗なれども波高き、暮れの海を眺めていた。
さてさてこれから晩餐までどこへ行こうかねぇ…と皆でぼんやり懐手して、波の高さを測っていたときである。久しぶりに湘南へ出てみようか…主賓の彼女が、ポロリと言った。
それにアタシ、まだ、鎌倉に行ったことがないの。
ええええええええっつと、私は思いもよらぬことに驚いて…いやいや、それはそういうこともあろう…と、六段目のおかるの老母のように分別顔をしつつも…しかーし、鎌倉へ一度も行ったことがない…それは関東に住まいするものとしてはいささか不本意なことでもあろうから、ここは友達甲斐としても、やはり…いや、なんとしても彼女を鎌倉へ連れて行ってあげなくては…という義侠心、使命感が、突如私の中に芽生えた。
人であふれ返った日曜日の湘南なんて、目差すかたきを求めて好んで雑踏を歩く、旅の仇討ち主従でもない限り、絶対行きたくない場所である。
この世に人を突き動かす衝動があるとするならば、それは愛…それゆえでしかない。
今上天皇誕生日に続くクリスマスeveの連休を、浜町は明治座にて大江戸鍋祭に参戦、戦国鍋TVテイスト「忠臣蔵」で過ごした私は、まだ夢の中にいた。
なにしろ、旧暦の師走は今日からだから、まだまだ、赤穂浪士が討ち入りできますようおぉにぃ~♪と歌いながら街灯の根方で♪シングinザrain~ジーン・ケリーの真似して、ターンしたっていいわけだ。はしゃいでいるのが許される時節であるのだもの。
そういうわけで、弁天小僧ゆかりの江ノ島弁財天へ詣り、弁天様を守る龍神のレリーフに、おおっ、この意匠は年賀状に使えるのではなかろうか…などと思惑しながら、万事思うがままの卦が出た大吉の神籤を手土産に、江ノ島大橋端。
振り返った西の空が夕焼けに染まって、いかなる天然の配剤にや、空に聳える龍神の塔の遙か遠景の雲が、天昇する龍のかたちのまま流れて行く、まさに龍吐から龍。
歌舞伎十八番『鳴神』。結界が解けて天昇する龍神をきっかけに、破戒僧となった瞬間、ぶっかえった舞台の愉しさは格別だったなぁ。
それから鎌倉へ向かったが、渋滞に巻き込まれて、すでに陽はとっぷりと暮れていた。
鎌倉を西から攻めるなら、腰越状は置いておいて、まず大仏様ですかねぇ…あいにく閉園。
つい三日前の日本橋劇場で、金馬師匠の「大仏餅」にすっかり感銘を受けていた私は、何となく、この数日来の遊興の反芻を、江戸から場所を変えた鎌倉で、ふたたびなぞらえているような、不思議な感覚を覚えた。
作為的な行動による結果ではなく、無為無策で何もなさずに、その瞬間、心に囚われていたものが目の前に現れると、ことのほか嬉しい。
人はこれを「運命じゃないかしら…」と呼ぶ。
そして、いま気がついた。イチョウの大木を見て想い出したのだ。歌舞伎の大道具にも、この大銀杏はちゃんと存在するからだ。
『仮名手本忠臣蔵』の大序、あれは、ここじゃん。
赤穂浪士が本所・吉良邸へ討ち入った史実は江戸の話だが、浄瑠璃作者は例の如く、舞台を歴史上のとある時代に設定し直している。時は室町。「太平記」の世界。
だから、大石内蔵助は大星由良之助、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直。
全十一段の物語。昭和時代に誕生した芝居「元禄忠臣蔵」以前の歌舞伎において、もっともスタンダードな「忠臣蔵」は、室町幕府に弓引いた新田義貞の兜を鶴岡八幡宮へ献上するため、戦利品の兜の中からそれと選定する、兜改めの場から始まる。登場人物の主だったものが勢揃いする、実に様式的な序幕である。
もともとは文楽のために書き下ろされた芝居であるから、歌舞伎ではことのほか、役者たちを人形に見立てた演出がなされている。
この符合はいかなることか…!
ここについ昨日、私はいた。明治座の舞台のここに。
大江戸鍋祭の制作者の心意気や大したもので、芝居の序幕が、忠臣蔵の大序へのオマージュ仕立になっていた。つい24時間前まで浜町河岸で、爆笑と陶酔と興奮の十重二十重の波にたゆとうていた私は、ここまでくると、かえってこの偶然が恐ろし過ぎて……
何となく背筋が寒くなって、参拝ざま、私は神籤を引きに石段を下りた。
鶴岡八幡宮の紋・鶴の丸(むかしのJALのトレードマークでしたね…飛行機の尾翼に必ず宿っていた)が地紋についた、第十番、吉。
武蔵野は 限りも見えず かりそめの
草の庵に 心とどむな
世間は広く、また、長く遠く涯(はて)もない。そのなかに充ち足るものは、小さな自分の体に包んでいる心なのです。このことを理解して、いまのこだわりを捨て去ってください。
これはうつけ放題、遊興に浸りきっている今現在(今に限ったことでは無けれど)の私への、ご諫言なるや。
時計は暮れ六つを回り、帰路途上の首都高速。芝を過ぎ、いつものように東京タワーを望むと…クリスマス仕様の電飾になっていた。
降りかかった星が鉄梁にとどまって、まばゆくフラッシュのように交互に瞬いている。
…そして私は、昨晩、大江戸鍋祭で観た〈松の廊下走り隊7〉の歌「キラ☆キラ KIRA Killers」をくちずさむ。
思いの外に息子にウケて、「川中島」に大笑い。「これ、もろ『○○』だよねぇ~!」と嫁さんと納得しているが、本家を知らないわたしには、どこがパロディなのか分からない。
その後、嫁さんが、「これを見るのは初めてだけど、そういえば、明治座で何かやってましたよねぇ」と。
そうだ、それを観ると言っていた、これを貸してくれた人は旧暦で生きているから、討ち入りはまだ先だと言っていた、と言えば、おお、と合いの手が入り、ダンナが、旧暦十四日、つまり新暦一月七日の日に、本所松坂町を朝の五時に出発して、泉岳寺まで歩くのだ、と言う。それじゃあ、始発では間に合わないではないですか、どうするんですといへば、近くに宿を取る、という。(おや、だんだん、明治文学に近くなってきたな……)
ということで、六日の夜に両国当たりに宿を取って、朝五時から歩くんですと!
酔狂だねえ…… (と言いながら、羨ましくもありますな)
何事も思い立ったときに実行しないと、結局、出来ず仕舞いになってしまいますもの~勢いって重要ですよね。
前日からNHK大河「赤穂浪士」のテーマ曲を聴き詰めて脳内BGMも準備したいところ(芥川也寸志の映画作品集CDって出てるのでしょうか…?あったら欲しいですね)。
前夜は蕎麦屋の二階で集まって(むかし、12月14日は蕎麦屋の2階で忠臣蔵特集を聴きたいですよね、と、とある噺家さんに申し上げたら、
かのお方は本当に四谷倶楽部〈四谷三丁目にあった貸し席で、満留賀という蕎麦屋の2階にあった〉を借りて、忠臣蔵落語会を挙行して下さったということがありました)、
吉良邸跡前ではまず「ホノホノ方…」と言ってほしい。
楽しそうですねっ!!!