こうなると、いっそ不憫というものである。
誰がって、史実の上の吉良上野介義央が、だ。
役者はいいよ。悪役、憎まれ役は役者冥利に尽きるほど、演っていて面白いらしいから、全然可哀想と思わない。虚構の世界の吉良上野介には。
そりゃ先に死んでしまったものは可哀想だ。自分も、忠臣蔵が何たるかよくわからない20代前半のころは、昼行燈の頼もしさとか、塩冶判官の悲愴とか、四十七士の艱難辛苦とか、討入り装束のカッコよさとか…無念を晴らす恍惚感に酔いしれた。
たとえそれがどんな目的であれ、何かの目標を遂行するために一心不乱になっている者たちは美しい。
しかし、である。いい加減、さまざまな忠臣蔵を観尽くして、吉良の旧領を訪れたりすると、とことん、一方的な悪者にされている、吉良本人があまりにもかわいそうに思えてきた。もう、講談ネタをベタで映像化している忠臣蔵の、見るに忍びないことといったら。
講談や落語は、仕手に愛嬌があるから噺として聴いていられるが、こと映像でまことしやかに描かれると、大ウソが際立って、なんかもう、救いようがなくメタメタに腹立たしい。
町人づれが、現代マスコミのストレイシープ叩きのように、自分たちとは無関係の上つ方々への悪口雑言。あり得ない。
むかしの映画はもう観ちゃったからいいけど、新たに再びそんな目に遭ったりするのは…忌々しくて私はもう見ません、そんな時代劇。
だいたい、勅使饗応役が粗相をして、その責任はすべて教育係の自分に返ってくるのに、そんなに浅野内匠頭に意地悪をする必要がどこにある?
燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや。
人にものを教えるってのは、労苦が伴う、実に大変なことなんですョ。
そしてまた、殿中で刃傷に及んだ、その罪科に対して、なんらの自責の念も持たず、幕府の手落ちだのエコひいきだの、ああしゃらくさい。片腹痛いとはこのことだわ。
それがどんなに重い罪だか判らないの?? かてて加えて綱吉くんの大切な母君・桂昌院の叙勲の行事なんですよ。即日切腹、当然です。
こうなったら私は、昭和のころ読んだ、とある有名歴史作家先生の、地道な考証研究からの「浅野内匠頭がキレ易いDNAを持つ男だった説」というのを披露したい、と思ったが、あいにくその本はどこかにやってしまった。その小説家が誰だったのかも…女流であったことしか想い出せない。
「キレやすい」というよりも「切りやすい」…「斬りつけやすい」性癖、ということではある。
そこで、自分が調べ直すことにした。全然関係ない事柄に一肌脱ごうという…これは、任侠である。吉良の仁吉に触発されたわけではなけれども。
浅野内匠頭長矩が、殿中で吉良上野介に斬りかかった元禄十四年(西暦1701)を遡ること20年ほど前。貞享元年(1684)、江戸城中、つまり殿中で刃傷事件がありました。
な、な、なななななんと…!! 時の若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊を、刺し殺したんです。こりゃあ、今で言えば、総理大臣を国務長官が殺したようなものだから、そりゃもう、たいへんな出来事です。
実を言えば、この稲葉正休は、浅野内匠頭の母方の親戚なんです。
具体的にどう親戚だったか忘れてしまった私は、えーーーー、調べました。吉良くんの名誉のために。
浅野長矩のお母さんは、徳川幕府の譜代大名・内藤忠政の娘です。でその、内藤忠政の奥さん、つまり内匠頭の母方のおばあちゃんは、やはり譜代大名・板倉重宗の娘です。そのおばあちゃんに、これまた譜代大名・太田資宗へ嫁いだ姉妹がいて、その姉妹が生んだ娘が稲葉正吉へ嫁ぎ、そして……くだんの事件の主、稲葉正休が生まれたと、そういうわけです。ああ、ややこしい。
だからね、浅野内匠頭が、かかる大騒ぎを惹き起したのとまったく同じ、江戸城内で、20年ほど前に、彼の遠縁の稲葉某が、同じように刃傷事件をおこしていたわけです。
慄然とするでしょう?
真実なんて、本当のところ、当事者にしか分からない。
自分が実際に見聞きしたことでもないのに、単なる憶測や、一方的な見地から、見知らぬ他人を悪人と決めつけるのは…いかがなものでございましょう。
とかく人間は、自分がひいきにしている事どもからの話を、鵜呑みにしてしまう。
身びいきというのは誰しも持っていることだけれど、イメージからだけの人間の根拠のない思い込みって、これほど人を不幸にするものはない…恐ろしく罪深いものである…ということをよくよく考えてほしいなあ…と、久しぶりに忠臣蔵のことを想い出した辰歳の年頭、吉良家への判官びいきから、義憤に駆られた自分でした。
お芝居は、面白くてなんぼの世界だから、それはそれで、いいんです。
本当はそうじゃないんだって、分かってくれてればそれだけで、吉良の殿様も、多少なりとも、浮かばれよう…てなもんです。
ちなみに、元禄元年は1688年、戊辰の年。同年、柳沢吉保の身がタツて、側用人に登用されます。
その前年、貞享四年卯歳(1687)には、例の「生類憐みの令」発布。五代将軍職に就いて張り切っていた綱吉公、在職7年目の辣腕です。
伊達騒動の一因とされた有名な大老・酒井忠清は、延宝八年(1680)、四代将軍家綱公が亡くなり、弟の綱吉公に代替わりした途端、即座に免職されています。
さて、2012年辰の歳正月の話題として、おもだった関係者に辰年がいたら面白いところですが、ご存知のように綱吉公も柳沢吉保も戌年。吉良上野介は巳年。内匠頭はヒツジで、内蔵助はイノシシ。意外なところで、浅野大学(兄の弟)が、お犬様と同じイヌ年。堀部安兵衛も同い年の戌年生まれです。
綱吉公のお父さん、三代将軍家光公が辰年でした。余談ながら。
誰がって、史実の上の吉良上野介義央が、だ。
役者はいいよ。悪役、憎まれ役は役者冥利に尽きるほど、演っていて面白いらしいから、全然可哀想と思わない。虚構の世界の吉良上野介には。
そりゃ先に死んでしまったものは可哀想だ。自分も、忠臣蔵が何たるかよくわからない20代前半のころは、昼行燈の頼もしさとか、塩冶判官の悲愴とか、四十七士の艱難辛苦とか、討入り装束のカッコよさとか…無念を晴らす恍惚感に酔いしれた。
たとえそれがどんな目的であれ、何かの目標を遂行するために一心不乱になっている者たちは美しい。
しかし、である。いい加減、さまざまな忠臣蔵を観尽くして、吉良の旧領を訪れたりすると、とことん、一方的な悪者にされている、吉良本人があまりにもかわいそうに思えてきた。もう、講談ネタをベタで映像化している忠臣蔵の、見るに忍びないことといったら。
講談や落語は、仕手に愛嬌があるから噺として聴いていられるが、こと映像でまことしやかに描かれると、大ウソが際立って、なんかもう、救いようがなくメタメタに腹立たしい。
町人づれが、現代マスコミのストレイシープ叩きのように、自分たちとは無関係の上つ方々への悪口雑言。あり得ない。
むかしの映画はもう観ちゃったからいいけど、新たに再びそんな目に遭ったりするのは…忌々しくて私はもう見ません、そんな時代劇。
だいたい、勅使饗応役が粗相をして、その責任はすべて教育係の自分に返ってくるのに、そんなに浅野内匠頭に意地悪をする必要がどこにある?
燕雀いずくんぞ大鵬の志を知らんや。
人にものを教えるってのは、労苦が伴う、実に大変なことなんですョ。
そしてまた、殿中で刃傷に及んだ、その罪科に対して、なんらの自責の念も持たず、幕府の手落ちだのエコひいきだの、ああしゃらくさい。片腹痛いとはこのことだわ。
それがどんなに重い罪だか判らないの?? かてて加えて綱吉くんの大切な母君・桂昌院の叙勲の行事なんですよ。即日切腹、当然です。
こうなったら私は、昭和のころ読んだ、とある有名歴史作家先生の、地道な考証研究からの「浅野内匠頭がキレ易いDNAを持つ男だった説」というのを披露したい、と思ったが、あいにくその本はどこかにやってしまった。その小説家が誰だったのかも…女流であったことしか想い出せない。
「キレやすい」というよりも「切りやすい」…「斬りつけやすい」性癖、ということではある。
そこで、自分が調べ直すことにした。全然関係ない事柄に一肌脱ごうという…これは、任侠である。吉良の仁吉に触発されたわけではなけれども。
浅野内匠頭長矩が、殿中で吉良上野介に斬りかかった元禄十四年(西暦1701)を遡ること20年ほど前。貞享元年(1684)、江戸城中、つまり殿中で刃傷事件がありました。
な、な、なななななんと…!! 時の若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊を、刺し殺したんです。こりゃあ、今で言えば、総理大臣を国務長官が殺したようなものだから、そりゃもう、たいへんな出来事です。
実を言えば、この稲葉正休は、浅野内匠頭の母方の親戚なんです。
具体的にどう親戚だったか忘れてしまった私は、えーーーー、調べました。吉良くんの名誉のために。
浅野長矩のお母さんは、徳川幕府の譜代大名・内藤忠政の娘です。でその、内藤忠政の奥さん、つまり内匠頭の母方のおばあちゃんは、やはり譜代大名・板倉重宗の娘です。そのおばあちゃんに、これまた譜代大名・太田資宗へ嫁いだ姉妹がいて、その姉妹が生んだ娘が稲葉正吉へ嫁ぎ、そして……くだんの事件の主、稲葉正休が生まれたと、そういうわけです。ああ、ややこしい。
だからね、浅野内匠頭が、かかる大騒ぎを惹き起したのとまったく同じ、江戸城内で、20年ほど前に、彼の遠縁の稲葉某が、同じように刃傷事件をおこしていたわけです。
慄然とするでしょう?
真実なんて、本当のところ、当事者にしか分からない。
自分が実際に見聞きしたことでもないのに、単なる憶測や、一方的な見地から、見知らぬ他人を悪人と決めつけるのは…いかがなものでございましょう。
とかく人間は、自分がひいきにしている事どもからの話を、鵜呑みにしてしまう。
身びいきというのは誰しも持っていることだけれど、イメージからだけの人間の根拠のない思い込みって、これほど人を不幸にするものはない…恐ろしく罪深いものである…ということをよくよく考えてほしいなあ…と、久しぶりに忠臣蔵のことを想い出した辰歳の年頭、吉良家への判官びいきから、義憤に駆られた自分でした。
お芝居は、面白くてなんぼの世界だから、それはそれで、いいんです。
本当はそうじゃないんだって、分かってくれてればそれだけで、吉良の殿様も、多少なりとも、浮かばれよう…てなもんです。
ちなみに、元禄元年は1688年、戊辰の年。同年、柳沢吉保の身がタツて、側用人に登用されます。
その前年、貞享四年卯歳(1687)には、例の「生類憐みの令」発布。五代将軍職に就いて張り切っていた綱吉公、在職7年目の辣腕です。
伊達騒動の一因とされた有名な大老・酒井忠清は、延宝八年(1680)、四代将軍家綱公が亡くなり、弟の綱吉公に代替わりした途端、即座に免職されています。
さて、2012年辰の歳正月の話題として、おもだった関係者に辰年がいたら面白いところですが、ご存知のように綱吉公も柳沢吉保も戌年。吉良上野介は巳年。内匠頭はヒツジで、内蔵助はイノシシ。意外なところで、浅野大学(兄の弟)が、お犬様と同じイヌ年。堀部安兵衛も同い年の戌年生まれです。
綱吉公のお父さん、三代将軍家光公が辰年でした。余談ながら。
今借りているDVD、七本槍しかでてこない…… ちょっと寂しい……
その前の戊辰の歳は明治元年の戊辰戦争の年で、
さらにその前の戊辰の年は…竹本座で「仮名手本忠臣蔵」が初演された年…Σ(@_@;)
120年はひと昔。あっという間の出来事ですね…。
4巻目に入ると、天正遣欧少年使節が出て参りますので、お楽しみに~~!
(近々お持ちしますです、ハイ)
それとも飛んで、徳川十五代将軍の巻がいいでしょうか…? 賑やかですよー。
昭和3年、市川左團次一座訪ソ公演…はおいておいて、文化5年のフェートン号事件もおいておいて、
「かな手本忠臣蔵」初演の前の戊辰の年は、因縁めいて元禄元年。西鶴「日本永代蔵」刊。
日本史は十干十二支でくくったほうが、なんとなく、なんとな~く、面白い。