長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

春に別れを…

2011年05月04日 01時50分00秒 | 折々の情景
   残る花あり 風吹けば顔をうつ   
 二十代にとてもとても好きだった荻原井泉水の回顧展に、行くことができた。先月半ばの最終日に。これまた、ふと地震速報を見ようと思ってつけたテレビが、会期終了の三日前に、フェードインざま教えてくれたのだ。
 ありがとう、TVKテレビ。震災以降、私の心の支えは戦国鍋だけじゃなかった。
 この一節は、そのときの展示の井泉水の絶筆から、抜粋したものだ。
 神奈川近代文学館から出て港を望めば、丘の下方に本牧、彼方にベイ・ブリッジ。
 そういえばこの公園に来たのは昭和の六十年ごろ以来だから、なんともう、あれから四半世紀あまりの月日が流れていた。
 花見の盛りを過ぎた園内は人もまばらで、うらうらと午後の陽ざしに温(ぬく)まっている。

 私はよく思い違いをする。
 たとえばユトリロを、ずいぶん長い間ユリトロだと思っていて、でもその間違いに気付いたのは、高校のとき、修学旅行で訪れた岡山の大原美術館で、であった。
 中学生のときは美術部にいたのに…自分は印象派びいきで、ルノアールやドガもどきの油絵ばかり描いていたが、そのとき、エコール・ド・パリとか無頼派的な画家とかの議論をする友人がいなかったのは、不幸中の幸いだった。
 そうして私は誰にも知れず、赤面しながら、モネの「睡蓮」の手前の回廊で、自分の思い違いをそっと修正することに成功した。

 それから、中原中也の「よごれつちまった悲しみに」。
 もうずっとずっと、わたしは、この「よごれつちまった」が「かなしみ」そのものにかかる意味だと思っていた。つまり、かなしみが汚れてしまった、というふうに解釈していたのだ。かえって、すごく思索的で難解になっちゃってるけど。
 これっぽちも、自分自身がよごれちまったことだったとは、思いもせなんだ。

 その自分の間違いに初めて気がついたのは一昨々年のこと。
   かくまでも黒くかなしき色やある
          わが思ふひとの春のまなざし
 という北原白秋の歌そのままのような、深く清冽で、透き通った眼をしている人にめぐり会ったからだった。
 そうして私は、ずいぶん長いこと忘れていた、青春のころの潔い初心を思い起こした。

 先月に続き、また訃報が届く。ずいぶんとよくしてくれた先輩だった。寂しい。
 長唄が、一部の好事家のものではなく、現代のエレキギターのように普及していた時代があった。それは明治35年(1902年)壬寅の歳。
 芝居や舞踊から離れた、純粋に聴く対象である音楽として、長唄を新生させる運動というのが始まって、そのこころざしを抱く先人による演奏会が、頻繁に行われた。その行動が実を結んだものだ。

 「長唄の趣味好尚はあまねく一般社会に及び、各階級家庭に入り、民衆音楽としての本領を発揮することになった…(中略) そうして多くの新曲も出来た」。
 中内蝶二は、昭和4年の著作にこう書いている。

 青春のころ、そういう活気あふれる長唄に親しんで、芸事・稽古に対する姿勢、筋の通った生き方を持っていた諸先輩方が、ひとり、またひとりと、旅立っていく。
 失われていく前時代の美風。

 きのう平成23年5月2日は、旧暦の平成廿三年弥生晦日で、三月尽。今日から四月。季節は夏。
 行く春に、別れを告げるつもりだった。
 でも、to‐springではなく、in‐springになってしまった。

 春に別れを……。
 
 
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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
明治のころに (oba)
2011-05-15 23:29:00
あらあ! 明治35年ごろに? へえ! そうなんだ。うーん、もっと知りたい。日露戦争前なのね。そういうことがあったと。そうなんでしょうねー、きっと。ひどく感心してます。
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戦争の前まで (徳桜)
2011-05-18 08:48:34
江戸からの文化が、欧米文化を触媒として化学反応を起こして、日本の音楽は面白いことになっていたのです。
明治の終わりごろから、太平洋戦争のころまで、長唄はかなり流行しておりました。
そして戦後の昭和30年代ぐらいまででしょうかしら。

戦前に青春時代だった橘屋命の姉弟子から、風呂敷包みにして、戦火をくぐって肌身離さず持ち歩いていたという『演芸画報』ひと抱えを、20年ほど前に受け継ぎました。私が耳年増(耳だけじゃないですけど)なのは、そんな先輩方からの聞きかじりもあります。

山口瞳『江分利満氏の優雅な休日』の、岡本喜八監督の映画で、小林桂樹が、一家の家計収支を語っているとき、「妻の長唄の月謝、三千円也」とかいうセリフがあって、その映画を観た二十代だった私は、ああ、長唄の稽古はこんなふうに一般的だったんだ、と、ひどく嬉しい思いがしたのを覚えています。

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なるほどねえ (oba)
2011-05-28 21:47:52
演芸画報をひと抱えねえ。あなた、それ受け継いだのね。
ああ、そういうせりふが出てたのね? なるほどね。ますますしみじみ。
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1950年代は映画から。 (徳桜)
2011-05-30 07:47:54
素の演奏会のほかにも、長唄界に強い追い風となったのは…おばちゃまは同時代なのでご存じでしょう。
特に東映を頂点とする、週一封切られていた時代劇映画黄金期。

現代のテレビと同じ、映像で全国を同時制覇できるという即時性。いまの殺陣とは違う、日本舞踊を基礎とした歌舞伎の立ち回り。
踊りは日本舞踊が基本でしたから、附随して、地方(じかた)の長唄連中も大忙しだったのです。
うちの師匠は、明治座の大川橋蔵公演など、ご一緒させていただいていたようです。

特に覚えているエピソードでは、東千代之介の稽古場が全国主要都市にあり、飛行機で移動して教え回っていたとか。
いまでいえば、マスコミの寵児であるお料理やフラワーアレンジメントの先生のカルチャーのような感じでしょうかしら。
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