前回にひき続き、キュウリの話です。…ではなくて、まじめに、音楽のお話を少々。
以前、若手ホープで売れっ子で美声で男前と、何拍子もそろった唄方の先生とご一緒させていただいた演奏会でのこと。タテ唄のイケメンの先生に、私は「何本にいたしましょうか?」と訊ねた。
三味線の調子を合わせるには、一の糸をタテ唄の唄方さんの唄いやすい音でとって、それから二と三の糸の調子を合わせますが、音の名称を「本(ほん)」で表すのです。
利休七哲の瀬田掃部によく似たイケメン先生、「4本半でお願いいたします」とお応えくださった。
さて、ここで問題です。
私はそのとき、どの音程で調子を合せたでしょうか? …はい、チッ、チッ、チッ、チッ………。
では、ヒントですョ。
1本が西洋でいうところのラ、A音です。2本はラのシャープ、3本はシ、B。4本はド、C。で、5本がドのシャープ…と以下続きます。
…あれ? 先生、4本半って、音がないですョ???
ドとド♯の間に、音は存在しないですよね????? ピアノだと鍵盤がないし、弾けましぇん。
と、あなたはそう不思議に思うかもしれません。
でも、音って、そうだな、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」とか聴くと分かるけど、最初のクラリネットの一声。グリッサンド。音は間断なく、つながってあるわけです。
12音階、各々の音の間に、無数の音が存在するわけですョ。忍者のように姿が見えない、でも、名もなき数知れぬ音の姿が、目に見えないけど現にあるわけですね。
それしかないって、誰が決めたの?
着物の尺は鯨尺という単位ですね。その昔、クジラのひげで作った物差しだったからそういうので、大工さんが使っていた曲尺(かねじゃく)とはちょっと長さが違います。
家紋の大きさを正しく、何センチ何ミリですか?…と呉服屋さんに問い詰めている人がいましたが(スミマセン…若かりしときの私です)だいたい何センチ、とかしか、言いようがないのです。
西洋生まれの尺度では、厳密にイコールで換算できるわけないんですよ。
だって、着物は尺でつくられてきたものであって、単位が先にあったのではなく、測られるものが先にあったわけで。
私は、八百万の神って、好きだなぁ。この世に存在する森羅万象、生きとし生けるもの、すべてのものに魂があって神性なものが宿っている、という考え方。
…つまり、物事をいろいろな立場、方向から捉え、考える柔軟性を持っている、ということでしょう?
そしてまた、どんなものに対しても、尊厳をもって接するということでもある。
価値観、ものを測る尺度がひとつしかなかったら、その物以外の価値観を認めないということになってしまう。そして、測れないものの存在をも。
光が一方向からしか出ていなかったら、影となる部分は、永久に影のままってことでしょう?
それって、いろいろなものが存在するこの世界で、ひどくかたくなで…人間が生きていくうえで、とても窮屈で残酷で、非人間的な発想じゃないかしら。
いま、日本全土を覆っている合理主義の考え方って、いったい何を目指しているのでしょうね?
コストの計算とか、生産に携わる人が自分の仕事に誇りを持てないほど、そんなにいろいろなものを切り捨てて、いったい何をしたいのでしょう??
コストを下げるために、労働賃金の安いところに工場をつくって…って、18世紀あたりの植民地政策と、なんら変わるところがないと思いませんかね。
アタシはヤだな。自分の労働に対する正当な評価がなされず、人間性をも買いたたかれているような現在日本の、資本至上主義的な社会通念の在りよう。
すべてを横文字的発想の一定の枠で括って、それに外れるものは存在すら許さないような、傲慢なもののとらえ方。
物差しがひとつしかないと思ったら、大間違いです。
以前、若手ホープで売れっ子で美声で男前と、何拍子もそろった唄方の先生とご一緒させていただいた演奏会でのこと。タテ唄のイケメンの先生に、私は「何本にいたしましょうか?」と訊ねた。
三味線の調子を合わせるには、一の糸をタテ唄の唄方さんの唄いやすい音でとって、それから二と三の糸の調子を合わせますが、音の名称を「本(ほん)」で表すのです。
利休七哲の瀬田掃部によく似たイケメン先生、「4本半でお願いいたします」とお応えくださった。
さて、ここで問題です。
私はそのとき、どの音程で調子を合せたでしょうか? …はい、チッ、チッ、チッ、チッ………。
では、ヒントですョ。
1本が西洋でいうところのラ、A音です。2本はラのシャープ、3本はシ、B。4本はド、C。で、5本がドのシャープ…と以下続きます。
…あれ? 先生、4本半って、音がないですョ???
ドとド♯の間に、音は存在しないですよね????? ピアノだと鍵盤がないし、弾けましぇん。
と、あなたはそう不思議に思うかもしれません。
でも、音って、そうだな、ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」とか聴くと分かるけど、最初のクラリネットの一声。グリッサンド。音は間断なく、つながってあるわけです。
12音階、各々の音の間に、無数の音が存在するわけですョ。忍者のように姿が見えない、でも、名もなき数知れぬ音の姿が、目に見えないけど現にあるわけですね。
それしかないって、誰が決めたの?
着物の尺は鯨尺という単位ですね。その昔、クジラのひげで作った物差しだったからそういうので、大工さんが使っていた曲尺(かねじゃく)とはちょっと長さが違います。
家紋の大きさを正しく、何センチ何ミリですか?…と呉服屋さんに問い詰めている人がいましたが(スミマセン…若かりしときの私です)だいたい何センチ、とかしか、言いようがないのです。
西洋生まれの尺度では、厳密にイコールで換算できるわけないんですよ。
だって、着物は尺でつくられてきたものであって、単位が先にあったのではなく、測られるものが先にあったわけで。
私は、八百万の神って、好きだなぁ。この世に存在する森羅万象、生きとし生けるもの、すべてのものに魂があって神性なものが宿っている、という考え方。
…つまり、物事をいろいろな立場、方向から捉え、考える柔軟性を持っている、ということでしょう?
そしてまた、どんなものに対しても、尊厳をもって接するということでもある。
価値観、ものを測る尺度がひとつしかなかったら、その物以外の価値観を認めないということになってしまう。そして、測れないものの存在をも。
光が一方向からしか出ていなかったら、影となる部分は、永久に影のままってことでしょう?
それって、いろいろなものが存在するこの世界で、ひどくかたくなで…人間が生きていくうえで、とても窮屈で残酷で、非人間的な発想じゃないかしら。
いま、日本全土を覆っている合理主義の考え方って、いったい何を目指しているのでしょうね?
コストの計算とか、生産に携わる人が自分の仕事に誇りを持てないほど、そんなにいろいろなものを切り捨てて、いったい何をしたいのでしょう??
コストを下げるために、労働賃金の安いところに工場をつくって…って、18世紀あたりの植民地政策と、なんら変わるところがないと思いませんかね。
アタシはヤだな。自分の労働に対する正当な評価がなされず、人間性をも買いたたかれているような現在日本の、資本至上主義的な社会通念の在りよう。
すべてを横文字的発想の一定の枠で括って、それに外れるものは存在すら許さないような、傲慢なもののとらえ方。
物差しがひとつしかないと思ったら、大間違いです。
自分でも変にくぐもった啖呵の切り方しちゃったかな…と自分の青さに若干反省していたのですが、本稿をご覧になって、計量法に関して面白いお話を教えて下さった方がいらして、とてもうれしく思いました。
尺貫法をメートル法へ移行するにあたり、かなり強硬な取締りが行われたそうで、私、若い頃名画座でよく見ていた、1950年代の東宝の映画とかで、久我美子や香川京子が「おばさん、お肉何貫目頂戴」とか買い物してるのをしばしば目にしてまして、なんでこうも急速にメートル法に変わったのか不思議に思っていたのです。
おばちゃまのご意見も、うれしく有難いです。
世の中が変わるとまた、いろいろ新しい考え方が生まれてくるのですね。
歴史って、輪切りにするとさっぱりわけが分かりませんが、こうして少しずつ違ってきちゃって現在に至っちゃったんだろうなぁ…と思うと、平安からのこの変わりよう、納得できます。
…でも人の心の持ちようは、全然変わってないですね。
業者の買い出しかい…(^_^;)てなもんで。
オキュパイド・ジャパンじゃなくなる前の年(1951)に計量法が制定されて、そのあと今日まで何回か改正されたようです。
昭和34年ごろ、鯨尺と曲尺を製造した人、販売した人たちが逮捕されて書類送検されたとか。
それに憤慨した人々の訴えが反映されたのち、改正されて、その後何度かの改正を経て現在に至る、と。
アナログ→地デジ化の移行期と同じような感覚で、お上がそうしなさい!というても、まだ使えるし、現に使っているものをバッサリと取り替える、というのはなかなか時間がかかると思います。
ましてや、生業で普通に使っている道具の場合。
一貫目は千匁ですから、お肉をキロ単位で買ってるわけで、香川京子のうちはシチュー屋さん??…てな感じになります。
小林正樹監督の「この広い空のどこかに」の久我美子の嫁いだ先はたしか、乾物屋さんだったかしら…もう20年ほど前にやはり名画座で観たのですが、泣けたな~。夫役の佐田啓二もよかったな~!でした。
成瀬巳喜男監督の「おかあさん」の香川京子のうちはクリーニング屋さんだったかしら…。ボーイフレンド役の岡田英次が爽やかで楽しかったですよ。町内のど自慢大会とかあったり。
昭和の商店街は生活に即していたから、面白かったですね。