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敬愛してやまぬKI流の御家元様から、房総半島の富山のことを教えていただいた。中腹に伏姫と八房が隠れ棲んでいた籠窟があるという。ご存知のように、南総里見八犬伝は滝沢馬琴の伝奇小説であるから、創作であるはずなのに、なぜかその籠窟は実在しているのである…事実も小説も、どちらも奇なるものでありますなぁ…。
さてそのような心ときめくお話を伺ったので、私共もかつて鳥取を旅した折、里見家末裔のお殿様のお墓に偶然往き合ったことをお話ししようと思ったのだが、なんという脆弱かつ情けない脳髄でありましょうや、具体的な固有名詞をすっかり失念してしまっていた。そこで、自分自身の欠落した記憶を補填するため、6年ほど以前、別名義にて書き留めていたブログ記事を確認してみた。
その記事を再編集してご紹介しようとも思ったのであるが、かつての情熱そのままを酌んでいただければとも感じたので、二重投稿にならぬよう先のブログを閉じて、ここに掲載させていただく。
当時、「戦国鍋TV」というTV番組に打ち興じていたので、かなり砕けた文体になっていることをお許しいただきたく…。
* * * * * * * *
【2012年11月3日付の報告書】
日本国中国地方の日本海側に在します鳥取県。
東は兵庫県、南は岡山県、西は島根県(ちょっとだけ広島県)に隣接しています。
そんな鳥取県は、旧地名を、因幡(いなば/東半分) あーんど 伯耆(ほうき/西半分)の国、の、二つの部分からなっています。 東京から手っ取り早く参りますには、羽田空港からつーーーーっと飛んで、鳥取空港へ。
鳥取空港は、秀吉くんの餓(かつ)え殺し(兵糧攻めのさらに凄惨なやつ)で有名な鳥取城や、砂丘、白ウサギがオオクニヌシノミコトに助けられた白兎海岸のある、因幡地方(因州ともいう)にあります。
戦国時代の因・伯両地域は、大まかに申しますれば、
室町時代の守護大名・山名氏→尼子氏→毛利氏(吉川)→信長くん&秀吉
な感じで、山名氏の内部抗争やらもあり、多数の武将がシノギを削る、抗争地域でした。
ですから、まー山城の多いこと。
この辺りの力関係の歴史は、横溝正史「八つ墓村」を想い出すと分かりやすいですね。八つ墓村の呪いの発端は、毛利氏との戦いに敗れた、尼子氏の落ち武者ですから…
そして、20世紀の頃の日本全国共通認識の、鳥取でおなじみの戦国武将キャラは、なんといっても、山中鹿之助(尼子氏の部将)です。
とくに戦前の修身(道徳)の教科書では、主君に仕える忠臣として圧倒的なヒーローだったわけです。
戦国鍋の戦国キャパクラでも登場しましたが、昔のイメージでは、目的に邁進するひたすら一心不乱でカッコイイ、悲運の武将…そして美剣士でした。
(小学生の私は、たしかいちばん好きな戦国武将だったりしました…最早あいまいな記憶ではありますが)
大阪の豪商・鴻池家(鴻池財閥の前身。幕末には、新撰組の近藤さんの強引な申し出により、隊服をつくる資金を出してくれたらしい)は、山中鹿之助の子孫だということです。
というわけで、2012年10月の月ずえに、鳥取県に赴きました私の当初の目的は、
1、山中鹿之助などゆかりの戦国時代の山城・城址をめぐる
2、20年前に行きそびれた、山陰の小京都・倉吉を訪れる
3、湯治
だったわけです。
鳥取空港を立ち出でて、因幡の国のお城を少しだけ廻り、さらに伯耆にある初日の宿へ向かう途中、レンタカー屋さんで頂戴した「山陰鳥取観光マップ」なる地図をしげしげと見、これから向かう打吹城(うつぶきじょう)がある倉吉の、白壁土蔵群・赤瓦のある、伝統的建物保存地域の詳細マップをつらつらと眺めておりました、その時のことでございます。
!!!
「南総里見八犬伝」のモデル里見忠義の墓
という、地図から飛び出たフキダシが目に入ったのは。
クラクラクラ~めまいがしました。…こりゃー空手じゃけえられねぇ…
ご存じのように山城は、山のテッペンにある城址で、トレッキング覚悟で挑まなければなりません。しかーし、もはや陽は西に傾き、走れメロス的強迫観念にとらわれた私は、打吹山を遠望し、満足げにうなずくと、
一路、里見忠義公のお墓のある大岳院へ…(つづく)
【2012年11月4日付の報告書】
それにつけても、どーして倉吉なん?
そして、里見忠義(ただよし) 公ってだれ??(殿様sideなのにチュウギとはこれいかに…)
そも、滝沢馬琴が28年間………文化11年:1814から天保12年:1841までですから、
11代将軍家斉(いえなり)公:第二の大御所時代を築いた徳川15代随一の子福者です。
ちなみに、着物の種類の一つ・お召し:織り地の種類による分類の呼び方~は、
家斉公がお好みでよくお召しになっていたところから、命名されたきものです。私も
ツルツルしない生地が着付け易く、紬ほどくだけないので、愛用してます…
から、
12代家慶(いえよし)公:父の横槍と内憂外患にアタフタし続け、天保の改革は大失敗、
ペリーが来た時にみまかられたという、ちょとカワイソウな将軍です…
の2代、年号にすれば文化~文政~天保の時代です。
この28年間にあった主な出来事といえば、
八犬伝の1巻目が発売されたころは、伊能忠敬が日本全国実測をそろそろ終え、
忠敬の死後、完成した地図が将軍家に献上され、
小林一茶が俳句を詠み、葛飾北斎が富嶽三十六景を描き、
お岩さまでおなじみ鶴屋南北「東海道四谷怪談」が初演されました…ザックリですょ、ざっくり…
そして完結goal!!する天保12年は、隠居の身なのに院政的影響を及ぼす大御所・家斉公が卒せられ、
やっとのびのび自分の治世で手腕を振るえることになった家慶公が、天保の改革に着手した、
出版・演劇関係者にはク ラ~い時代の始まりです。
…の長きにわたり執筆した、106巻・全篇184回におよぶ絵入り読み本ですから、
今でいえば…35年連載「こち亀」よりは短い、ジョジョの奇妙な冒険(あと数年続けば匹敵する?)よりは、ちょと長い、超大作なわけです。
そして伝奇小説…ファンタジーなわけですから、史実なんて知ったこっちゃない。
歌舞伎や映画で観る八犬伝は、八つの玉が伏姫の胎内より日本中に飛び散ったあとの、八犬士の活躍を描いたものが主流ですね。
しかーし、その冒険譚のプロローグは、1440年に起きた結城戦争(関東地方のとある豪族:結城氏が、
室町幕府:将軍足利義教←結局、翌年赤松氏に暗殺されちゃうのですが~これを戦国時代・下剋上の始まりとする学説もあります~に謀反を起こした時の戦争)の結城氏に加担した、里見氏のお話に拠っています。
里見家、すなわち、南総(なんそう・上総プラス下総=総州、そして総州プラス安房=房総半島の南部)の名家です。
安房(あわ)の国を本拠にしました。
このとき、結城戦争に出陣したのが里見義実(よしざね)&、お父さんです。
(ややこしくなるのでもう人名は出しません。そしてこのあたりは日本のクラシック音楽・長唄の「八犬伝」という3部作の曲に詳しい顛末が載っています。でも明治10年の作品なので、これもfantasyかもしれません)
ここまでは史実ですね。
ストーリーテラーの作家さんは、プロの詐欺師といっしょで、本当のことに、絶妙なウソの世界を織り込んできます。
八犬士のお母さんとも言える伏姫のお父さんが、この、里見義実なわけです。
だから、なんで里見八犬伝のモデルになった人=義実じゃないの?
という素朴な疑問が生まれるわけですが、そんなときは、日本系譜綜覧を調べましょう。
《里見家系図》
かなりの代数略→義実―成義―義通―義豊―義堯―義弘―義頼―義康―忠義(断絶)
きたっつ!!!!
こういうときにこそ使う言葉、キタコレなわけです。
この里見忠義公はなんでまた、断絶しちゃったんでしょう…(つづく)
【2012年11月6日付の報告書】
ところで、時代劇の「一心太助」シリーズはご存知でしょうか?
東映がその昔、「時代劇は東映!」というキャッチで売り、東映城と呼ばれていた頃。
たぶん、団塊の世代前後、昭和20~30年代に子どもだった頃の方々には、絶大なる人気を誇っていた、
中村錦之助:歌舞伎界から映画界に転身した俳優さん~
(昭和40年代に子どもだった私の、リアルタイムな錦之助はすでに萬屋錦之介になっていて、
テレビ時代劇「子連れ狼」「破れ傘刀舟」など、ニヒルでダークなオジサンでした。
そして、その頃の私のヒーローは「素浪人 月影兵庫」「花山大吉」近衛十四郎:松方弘樹のお父さんです。
~しかーしむしろ実のところ、コメディリリ-フ焼津の半次役・品川隆二がメッチャ好きでした~や、
「木枯らし紋次郎」だったりする
…時代は股旅や浪人=アウトサイダーがヒーローの時代になっていたのです。
で、錦之助=錦ちゃんはまだ、戦後、がれきの中から再出発した、
アウトローがヒーローになり得るほどそこそこ豊かになった日本ではなく、
3丁目の夕陽的時代の庶民的ヒーロー、みんな貧乏だけど明日があるさ、という時代の、
カタギのヒーローから出発していたんですね。
1950年代に、新諸国物語という子供向けのファンタジー時代劇映画シリーズがありまして、
「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」などの主人公をなさってました。
←1990年代大人になってからビデオ鑑賞しましたところ、無国籍時代劇な感じで、すこぶる面白かったです。
また、このシリーズは昭和50年前後にNHKで人形劇化され、リアルタイムで時々見てました。
彼のお兄さん役で、錦ちゃん千代ちゃんと呼ばれ、お神酒徳利のように、
常に一緒に出演していたのが、東(あづま)千代之介です。
熱血主役タイプの錦之助とはまた持ち味が違う、端麗な二枚目美剣士タイプです。
この方は映画スターは早めに引退なさって、その後日本舞踊の家元になられましたが、
1954年版「里見八犬伝」:映画版では自分にとって一番分かりやすく印象深い作品で、
1990年の半ばごろツタヤで借りて観たっきりでよく憶えてなかったりもしますが、
この作中では、錦ちゃんが犬飼現八、千代ちゃんが犬塚信乃でした)
~が演じていた、男の中の男の、魚屋さんです。
一本気でそそっかしくてけんかっ早いが明るくさわやか、へこたれない…一般的江戸庶民ですね。
今のドラマでいうと、GTO鬼塚ティーチャーでしょうか。
でも、あそこまでギラギラしてなくて、ひたすら爽やかなんですね、時代は明日を信じてましたから。
その鬼塚ティーチャーの身元引受人的理事長先生の役割だったのが、一心太助が慕っている旗本の、大久保 彦左衛門。
昭和時代、大久保といえば、幕×Japanのトシじゃなくて、圧倒的に、天下のご意見番・大久保彦左衛門でした。
(その後ご長寿番組・水戸黄門が天下のご意見番の称号を一手に引き受けますが、
昭和の40年代ぐらいまでは大久保彦左衛門だったのですね。
東映の映画では月形龍之介が演っています。
この方は渋くて、メチャかっこいい悪役でした。
テレビ時代劇の東野英治郎がリアルタイムのマイ水戸黄門ですが、東映城の頃は月形龍之介が水戸黄門でもありました。
水戸黄門は悪役出身者でなくては務まらない、というのが私の持論です。
清濁併せ呑み腹芸ができるオッサンが、好々爺になるところが、人生の機微というものでしょう。
(加藤武に演ってほしかったなぁ…)
ちなみに月形龍之介の子息・月形哲之介も、1954版八犬伝に出ています。犬山道節役でした。
余談が多くて困りますが、大久保彦左衛門のお墓は、白金の立行寺にあります。
まだ地下鉄の三田線や南北線が工事中だったころ、
泉岳寺へ赤穂浪士のお墓参りから、歩いて行ってお参りしたことがありました。たのしかったなぁ。
さて、この大久保彦左衛門という人の一族は、徳川幕府草創期に、たいへん重要な役割を果たした名家でした。
この人のお兄さんは、大久保忠世(ただよ)と申しまして、徳川家康が江戸に封じられたのにおともして、相州小田原城主になったという、家康くんにとっては艱難辛苦をともにした、かけがえのない家臣です。
で、この大久保忠世に、忠憐(ただちか)という長男がおりまして、家康くんに子どもの頃から近習として仕え、2代秀忠の重臣となり、大坂の秀吉くんがまだ存命のころに、小田原城主を継ぎました。
城持ち大名って、なったらなったで大変です。
要するに「テッペン取ってやる!」と息巻いてる連中が跋扈していたのが戦国時代で、その親方を決める権力闘争があらかた決着したら、次はナンバー2をめぐる争いですから…政治抗争ってむかしも今も変わりません。
1600年に関ヶ原で秀吉亡き後の大坂方を痛めつけて、
1603年に征夷大将軍に任命された家康くんが江戸幕府を開き、
1605年に、天下は豊臣家にはもう譲りませんょーだ!と、家康くんが意思表示するべく、
将軍職を2代秀忠に譲り、大御所さまとなって、
でも、まだいろんな大名家が存在していて、大坂には淀と秀頼がいて、
スペインやオランダやポルトガルやイギリスが、うるさく貿易したがったり、
キリシタンは、何度ダメと言っても信仰を捨てないし…
そんなふうに徳川幕府がまだそれほど安定していなかった頃、幕閣のあいだでも、熾烈な権力闘争が続いていました。
そんな、徳川将軍家の下でテッペン取ったる!抗争に巻き込まれましたのが、
この、大久保忠憐です…(つづく)
さてそのような心ときめくお話を伺ったので、私共もかつて鳥取を旅した折、里見家末裔のお殿様のお墓に偶然往き合ったことをお話ししようと思ったのだが、なんという脆弱かつ情けない脳髄でありましょうや、具体的な固有名詞をすっかり失念してしまっていた。そこで、自分自身の欠落した記憶を補填するため、6年ほど以前、別名義にて書き留めていたブログ記事を確認してみた。
その記事を再編集してご紹介しようとも思ったのであるが、かつての情熱そのままを酌んでいただければとも感じたので、二重投稿にならぬよう先のブログを閉じて、ここに掲載させていただく。
当時、「戦国鍋TV」というTV番組に打ち興じていたので、かなり砕けた文体になっていることをお許しいただきたく…。
* * * * * * * *
【2012年11月3日付の報告書】
日本国中国地方の日本海側に在します鳥取県。
東は兵庫県、南は岡山県、西は島根県(ちょっとだけ広島県)に隣接しています。
そんな鳥取県は、旧地名を、因幡(いなば/東半分) あーんど 伯耆(ほうき/西半分)の国、の、二つの部分からなっています。 東京から手っ取り早く参りますには、羽田空港からつーーーーっと飛んで、鳥取空港へ。
鳥取空港は、秀吉くんの餓(かつ)え殺し(兵糧攻めのさらに凄惨なやつ)で有名な鳥取城や、砂丘、白ウサギがオオクニヌシノミコトに助けられた白兎海岸のある、因幡地方(因州ともいう)にあります。
戦国時代の因・伯両地域は、大まかに申しますれば、
室町時代の守護大名・山名氏→尼子氏→毛利氏(吉川)→信長くん&秀吉
な感じで、山名氏の内部抗争やらもあり、多数の武将がシノギを削る、抗争地域でした。
ですから、まー山城の多いこと。
この辺りの力関係の歴史は、横溝正史「八つ墓村」を想い出すと分かりやすいですね。八つ墓村の呪いの発端は、毛利氏との戦いに敗れた、尼子氏の落ち武者ですから…
そして、20世紀の頃の日本全国共通認識の、鳥取でおなじみの戦国武将キャラは、なんといっても、山中鹿之助(尼子氏の部将)です。
とくに戦前の修身(道徳)の教科書では、主君に仕える忠臣として圧倒的なヒーローだったわけです。
戦国鍋の戦国キャパクラでも登場しましたが、昔のイメージでは、目的に邁進するひたすら一心不乱でカッコイイ、悲運の武将…そして美剣士でした。
(小学生の私は、たしかいちばん好きな戦国武将だったりしました…最早あいまいな記憶ではありますが)
大阪の豪商・鴻池家(鴻池財閥の前身。幕末には、新撰組の近藤さんの強引な申し出により、隊服をつくる資金を出してくれたらしい)は、山中鹿之助の子孫だということです。
というわけで、2012年10月の月ずえに、鳥取県に赴きました私の当初の目的は、
1、山中鹿之助などゆかりの戦国時代の山城・城址をめぐる
2、20年前に行きそびれた、山陰の小京都・倉吉を訪れる
3、湯治
だったわけです。
鳥取空港を立ち出でて、因幡の国のお城を少しだけ廻り、さらに伯耆にある初日の宿へ向かう途中、レンタカー屋さんで頂戴した「山陰鳥取観光マップ」なる地図をしげしげと見、これから向かう打吹城(うつぶきじょう)がある倉吉の、白壁土蔵群・赤瓦のある、伝統的建物保存地域の詳細マップをつらつらと眺めておりました、その時のことでございます。
!!!
「南総里見八犬伝」のモデル里見忠義の墓
という、地図から飛び出たフキダシが目に入ったのは。
クラクラクラ~めまいがしました。…こりゃー空手じゃけえられねぇ…
ご存じのように山城は、山のテッペンにある城址で、トレッキング覚悟で挑まなければなりません。しかーし、もはや陽は西に傾き、走れメロス的強迫観念にとらわれた私は、打吹山を遠望し、満足げにうなずくと、
一路、里見忠義公のお墓のある大岳院へ…(つづく)
【2012年11月4日付の報告書】
それにつけても、どーして倉吉なん?
そして、里見忠義(ただよし) 公ってだれ??(殿様sideなのにチュウギとはこれいかに…)
そも、滝沢馬琴が28年間………文化11年:1814から天保12年:1841までですから、
11代将軍家斉(いえなり)公:第二の大御所時代を築いた徳川15代随一の子福者です。
ちなみに、着物の種類の一つ・お召し:織り地の種類による分類の呼び方~は、
家斉公がお好みでよくお召しになっていたところから、命名されたきものです。私も
ツルツルしない生地が着付け易く、紬ほどくだけないので、愛用してます…
から、
12代家慶(いえよし)公:父の横槍と内憂外患にアタフタし続け、天保の改革は大失敗、
ペリーが来た時にみまかられたという、ちょとカワイソウな将軍です…
の2代、年号にすれば文化~文政~天保の時代です。
この28年間にあった主な出来事といえば、
八犬伝の1巻目が発売されたころは、伊能忠敬が日本全国実測をそろそろ終え、
忠敬の死後、完成した地図が将軍家に献上され、
小林一茶が俳句を詠み、葛飾北斎が富嶽三十六景を描き、
お岩さまでおなじみ鶴屋南北「東海道四谷怪談」が初演されました…ザックリですょ、ざっくり…
そして完結goal!!する天保12年は、隠居の身なのに院政的影響を及ぼす大御所・家斉公が卒せられ、
やっとのびのび自分の治世で手腕を振るえることになった家慶公が、天保の改革に着手した、
出版・演劇関係者にはク ラ~い時代の始まりです。
…の長きにわたり執筆した、106巻・全篇184回におよぶ絵入り読み本ですから、
今でいえば…35年連載「こち亀」よりは短い、ジョジョの奇妙な冒険(あと数年続けば匹敵する?)よりは、ちょと長い、超大作なわけです。
そして伝奇小説…ファンタジーなわけですから、史実なんて知ったこっちゃない。
歌舞伎や映画で観る八犬伝は、八つの玉が伏姫の胎内より日本中に飛び散ったあとの、八犬士の活躍を描いたものが主流ですね。
しかーし、その冒険譚のプロローグは、1440年に起きた結城戦争(関東地方のとある豪族:結城氏が、
室町幕府:将軍足利義教←結局、翌年赤松氏に暗殺されちゃうのですが~これを戦国時代・下剋上の始まりとする学説もあります~に謀反を起こした時の戦争)の結城氏に加担した、里見氏のお話に拠っています。
里見家、すなわち、南総(なんそう・上総プラス下総=総州、そして総州プラス安房=房総半島の南部)の名家です。
安房(あわ)の国を本拠にしました。
このとき、結城戦争に出陣したのが里見義実(よしざね)&、お父さんです。
(ややこしくなるのでもう人名は出しません。そしてこのあたりは日本のクラシック音楽・長唄の「八犬伝」という3部作の曲に詳しい顛末が載っています。でも明治10年の作品なので、これもfantasyかもしれません)
ここまでは史実ですね。
ストーリーテラーの作家さんは、プロの詐欺師といっしょで、本当のことに、絶妙なウソの世界を織り込んできます。
八犬士のお母さんとも言える伏姫のお父さんが、この、里見義実なわけです。
だから、なんで里見八犬伝のモデルになった人=義実じゃないの?
という素朴な疑問が生まれるわけですが、そんなときは、日本系譜綜覧を調べましょう。
《里見家系図》
かなりの代数略→義実―成義―義通―義豊―義堯―義弘―義頼―義康―忠義(断絶)
きたっつ!!!!
こういうときにこそ使う言葉、キタコレなわけです。
この里見忠義公はなんでまた、断絶しちゃったんでしょう…(つづく)
【2012年11月6日付の報告書】
ところで、時代劇の「一心太助」シリーズはご存知でしょうか?
東映がその昔、「時代劇は東映!」というキャッチで売り、東映城と呼ばれていた頃。
たぶん、団塊の世代前後、昭和20~30年代に子どもだった頃の方々には、絶大なる人気を誇っていた、
中村錦之助:歌舞伎界から映画界に転身した俳優さん~
(昭和40年代に子どもだった私の、リアルタイムな錦之助はすでに萬屋錦之介になっていて、
テレビ時代劇「子連れ狼」「破れ傘刀舟」など、ニヒルでダークなオジサンでした。
そして、その頃の私のヒーローは「素浪人 月影兵庫」「花山大吉」近衛十四郎:松方弘樹のお父さんです。
~しかーしむしろ実のところ、コメディリリ-フ焼津の半次役・品川隆二がメッチャ好きでした~や、
「木枯らし紋次郎」だったりする
…時代は股旅や浪人=アウトサイダーがヒーローの時代になっていたのです。
で、錦之助=錦ちゃんはまだ、戦後、がれきの中から再出発した、
アウトローがヒーローになり得るほどそこそこ豊かになった日本ではなく、
3丁目の夕陽的時代の庶民的ヒーロー、みんな貧乏だけど明日があるさ、という時代の、
カタギのヒーローから出発していたんですね。
1950年代に、新諸国物語という子供向けのファンタジー時代劇映画シリーズがありまして、
「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」などの主人公をなさってました。
←1990年代大人になってからビデオ鑑賞しましたところ、無国籍時代劇な感じで、すこぶる面白かったです。
また、このシリーズは昭和50年前後にNHKで人形劇化され、リアルタイムで時々見てました。
彼のお兄さん役で、錦ちゃん千代ちゃんと呼ばれ、お神酒徳利のように、
常に一緒に出演していたのが、東(あづま)千代之介です。
熱血主役タイプの錦之助とはまた持ち味が違う、端麗な二枚目美剣士タイプです。
この方は映画スターは早めに引退なさって、その後日本舞踊の家元になられましたが、
1954年版「里見八犬伝」:映画版では自分にとって一番分かりやすく印象深い作品で、
1990年の半ばごろツタヤで借りて観たっきりでよく憶えてなかったりもしますが、
この作中では、錦ちゃんが犬飼現八、千代ちゃんが犬塚信乃でした)
~が演じていた、男の中の男の、魚屋さんです。
一本気でそそっかしくてけんかっ早いが明るくさわやか、へこたれない…一般的江戸庶民ですね。
今のドラマでいうと、GTO鬼塚ティーチャーでしょうか。
でも、あそこまでギラギラしてなくて、ひたすら爽やかなんですね、時代は明日を信じてましたから。
その鬼塚ティーチャーの身元引受人的理事長先生の役割だったのが、一心太助が慕っている旗本の、大久保 彦左衛門。
昭和時代、大久保といえば、幕×Japanのトシじゃなくて、圧倒的に、天下のご意見番・大久保彦左衛門でした。
(その後ご長寿番組・水戸黄門が天下のご意見番の称号を一手に引き受けますが、
昭和の40年代ぐらいまでは大久保彦左衛門だったのですね。
東映の映画では月形龍之介が演っています。
この方は渋くて、メチャかっこいい悪役でした。
テレビ時代劇の東野英治郎がリアルタイムのマイ水戸黄門ですが、東映城の頃は月形龍之介が水戸黄門でもありました。
水戸黄門は悪役出身者でなくては務まらない、というのが私の持論です。
清濁併せ呑み腹芸ができるオッサンが、好々爺になるところが、人生の機微というものでしょう。
(加藤武に演ってほしかったなぁ…)
ちなみに月形龍之介の子息・月形哲之介も、1954版八犬伝に出ています。犬山道節役でした。
余談が多くて困りますが、大久保彦左衛門のお墓は、白金の立行寺にあります。
まだ地下鉄の三田線や南北線が工事中だったころ、
泉岳寺へ赤穂浪士のお墓参りから、歩いて行ってお参りしたことがありました。たのしかったなぁ。
さて、この大久保彦左衛門という人の一族は、徳川幕府草創期に、たいへん重要な役割を果たした名家でした。
この人のお兄さんは、大久保忠世(ただよ)と申しまして、徳川家康が江戸に封じられたのにおともして、相州小田原城主になったという、家康くんにとっては艱難辛苦をともにした、かけがえのない家臣です。
で、この大久保忠世に、忠憐(ただちか)という長男がおりまして、家康くんに子どもの頃から近習として仕え、2代秀忠の重臣となり、大坂の秀吉くんがまだ存命のころに、小田原城主を継ぎました。
城持ち大名って、なったらなったで大変です。
要するに「テッペン取ってやる!」と息巻いてる連中が跋扈していたのが戦国時代で、その親方を決める権力闘争があらかた決着したら、次はナンバー2をめぐる争いですから…政治抗争ってむかしも今も変わりません。
1600年に関ヶ原で秀吉亡き後の大坂方を痛めつけて、
1603年に征夷大将軍に任命された家康くんが江戸幕府を開き、
1605年に、天下は豊臣家にはもう譲りませんょーだ!と、家康くんが意思表示するべく、
将軍職を2代秀忠に譲り、大御所さまとなって、
でも、まだいろんな大名家が存在していて、大坂には淀と秀頼がいて、
スペインやオランダやポルトガルやイギリスが、うるさく貿易したがったり、
キリシタンは、何度ダメと言っても信仰を捨てないし…
そんなふうに徳川幕府がまだそれほど安定していなかった頃、幕閣のあいだでも、熾烈な権力闘争が続いていました。
そんな、徳川将軍家の下でテッペン取ったる!抗争に巻き込まれましたのが、
この、大久保忠憐です…(つづく)
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