パネルディスカッション・・・番外編
前回ココに「パネルディスカッション」のことを書きましたら、好評でした。
続きも書きますが、その会は何人もの方がお話しされたので、ワタクシメ自身のことは別枠にします。
ぶたもおだてりゃ、木にのぼる 🐽 ぶー (笑)
就学期から青春期を振り返って
「東京の障害者教育史研究会」の機関紙、2001年6月頃書かせていただいたエッセーから抜粋します。
――「薫ing」を書いて・・・。
私のデビュー作「薫ing」(岩崎書店刊)は半実話的な物語です。
脳性まひの少女・薫が養護学校から普通の高校に進んで、様々な壁にぶち当たりながらも、「自分なり」の青春を謳歌していく。
一応「薫」は私自身がモデルになっていますが、私ができなかったことや夢や憧れも「薫」に込めて書きました。
だから私の中では〈薫=なおこ〉ではありません。
でも読んだ方の大半は〈薫=なおこ〉と思い、「養護学校から普通校に進んだ」部分に注目してしまうみたいです。
「薫ing」が出版されてから「障害児の就学問題」や「統合教育」についてインタビューされるようになりました。
質問する側は「絶対統合教育をするべきだ」とか、しいては「養護学校廃止論」を私の口から引き出そうとするんです。
「すごく短絡的な読み方をされてしまったなー」と悲しいですね、そういうときは。
「薫ing」を書き始めたときは「薫の頃」が自分の原点のように思えて「書き残そう」思っただけでしたが、
「どうしてココが原点なのか」考えてみたら「私なり」というキーワードが浮かんできたんです。
――「普通呪縛」からの脱出
正直な気持ち、養護学校にいた頃は「普通」への憧れが強かった、「普通=正しい」。こんな方程式にしばられていた気がします。
しかし「普通校」に入ってみると、完全に萎縮した自分が現われてしまったんです。
「私ったら、どうしちゃったの?」みたいな感じ。
「みんなと同じになる・同じにする」
「できない部分は隠す・ごまかす・我慢する」。
こういう思考パターンになってしまいました。
もともと豪快に育てられていた人間でしたから、自分の内面を見てしまって、表面的な自分とのギャップに戸惑いました。
高校生の頃は葛藤しながらも、毎日の生活に追われていたし楽しいことも結構あったから、なんとなく時間が流れた感じです。
本当に深刻に悩み始めたのは「在宅障害者」になってからです。
「普通」に憧れて選んだ高校だったのに、三年のとき進路指導をしてもらえなかったんです。
両親が教員だったから「親が考えるだろう」と担任は思ったのかも知れないし、わりと若い先生だったからヌケちゃったのか・・・?
今の私だったらこちらから申し出て話をしたでしょう。
「進路指導」にならなくても高校生活について腹を割って話し合えたと思いますが、
前に書いたとおり普通校では萎縮していましたから、担任に何も言えず卒業式を迎えてしまいました。
「進路指導」してもらっても、しばらくは「在宅」になったと思いますが、
三者面談をまったくしてもらえなかったことがキズになってしまいました。
それで今でいう「引きこもり」に近い状態の時期もありました。
ぐーっと落ち込んでわかったことは「普通」を目指すのではなく「自分なり」を模索しなければ障害者は生きていけない、ということ。
「私なりでいいんだ」に辿りついて、やっと楽になれたんです。
「普通呪縛」から脱出できたのは二十代の後半でした。
――なにが原因だったのか?
私は養護学校では障害は軽い方で優等生でしたから、両親は私が「お山の大将」にならないように、
「お父さんの学校の子はこういうドリルをやっているよ」とか、
「お母さんが教えた子たちは、こうだったよ」と日常的に話してくれました。
それが逆に私の中では「焦り」になった面もあります。
しかし決定的だったのは中学の担任のスタンスでした。
彼は私をなにがなんでも普通校に進ませたかったようです。
私の進路に関して途中までは担任と両親の足並みがそろっていましたが、
担任が私に「普通校で三年間やりぬかなかったら敗北者だ」と、こんなことを言うようになったんです。
両親は「そこまでしなくてもいいんじゃない」と担任の姿勢に対して反感を持ち、普通校進学に対して少し消極的になりました。
私は「普通校」への好奇心と「敗北者」という言葉が発する恐怖にはさまれて、
かなり不安定な状態で、養護学校から普通校にシフトしてしまいました。
担任の悪い所ばかり書いて申し訳ないけれど、
私の場合、「学校がどうこう」の問題ではなく、「担任がデリケートじゃなかった」というのが結論です。
――今後の教育に望むこと
最近私はゲストティチャ―の仕事もしていて、あちこちの学校に呼ばれます。
普通学級の中にいる障害児にもよく出会い、「統合教育」についていろいろ書きたいこともありますが、それはまたの機会に!
とにかく教師一人一人がきめ細かく生徒と接してほしいと思います。
教師にとって生徒は何人もいるでしょうが、生徒にとっては「○○先生」は唯一の存在なのです。
たとえ複数担任であっても「先生」の役割の重さには変りはありません。
養護学校の先生も普通校の先生も条件はは異なるでしょうが「人間を育てていく」原点は一つ。
そこに立ち返っていただきたいと願ってやみません。
つづく
写真と記事はまったく関係ありません(笑)
前回ココに「パネルディスカッション」のことを書きましたら、好評でした。
続きも書きますが、その会は何人もの方がお話しされたので、ワタクシメ自身のことは別枠にします。
ぶたもおだてりゃ、木にのぼる 🐽 ぶー (笑)
就学期から青春期を振り返って
「東京の障害者教育史研究会」の機関紙、2001年6月頃書かせていただいたエッセーから抜粋します。
――「薫ing」を書いて・・・。
私のデビュー作「薫ing」(岩崎書店刊)は半実話的な物語です。
脳性まひの少女・薫が養護学校から普通の高校に進んで、様々な壁にぶち当たりながらも、「自分なり」の青春を謳歌していく。
一応「薫」は私自身がモデルになっていますが、私ができなかったことや夢や憧れも「薫」に込めて書きました。
だから私の中では〈薫=なおこ〉ではありません。
でも読んだ方の大半は〈薫=なおこ〉と思い、「養護学校から普通校に進んだ」部分に注目してしまうみたいです。
「薫ing」が出版されてから「障害児の就学問題」や「統合教育」についてインタビューされるようになりました。
質問する側は「絶対統合教育をするべきだ」とか、しいては「養護学校廃止論」を私の口から引き出そうとするんです。
「すごく短絡的な読み方をされてしまったなー」と悲しいですね、そういうときは。
「薫ing」を書き始めたときは「薫の頃」が自分の原点のように思えて「書き残そう」思っただけでしたが、
「どうしてココが原点なのか」考えてみたら「私なり」というキーワードが浮かんできたんです。
――「普通呪縛」からの脱出
正直な気持ち、養護学校にいた頃は「普通」への憧れが強かった、「普通=正しい」。こんな方程式にしばられていた気がします。
しかし「普通校」に入ってみると、完全に萎縮した自分が現われてしまったんです。
「私ったら、どうしちゃったの?」みたいな感じ。
「みんなと同じになる・同じにする」
「できない部分は隠す・ごまかす・我慢する」。
こういう思考パターンになってしまいました。
もともと豪快に育てられていた人間でしたから、自分の内面を見てしまって、表面的な自分とのギャップに戸惑いました。
高校生の頃は葛藤しながらも、毎日の生活に追われていたし楽しいことも結構あったから、なんとなく時間が流れた感じです。
本当に深刻に悩み始めたのは「在宅障害者」になってからです。
「普通」に憧れて選んだ高校だったのに、三年のとき進路指導をしてもらえなかったんです。
両親が教員だったから「親が考えるだろう」と担任は思ったのかも知れないし、わりと若い先生だったからヌケちゃったのか・・・?
今の私だったらこちらから申し出て話をしたでしょう。
「進路指導」にならなくても高校生活について腹を割って話し合えたと思いますが、
前に書いたとおり普通校では萎縮していましたから、担任に何も言えず卒業式を迎えてしまいました。
「進路指導」してもらっても、しばらくは「在宅」になったと思いますが、
三者面談をまったくしてもらえなかったことがキズになってしまいました。
それで今でいう「引きこもり」に近い状態の時期もありました。
ぐーっと落ち込んでわかったことは「普通」を目指すのではなく「自分なり」を模索しなければ障害者は生きていけない、ということ。
「私なりでいいんだ」に辿りついて、やっと楽になれたんです。
「普通呪縛」から脱出できたのは二十代の後半でした。
――なにが原因だったのか?
私は養護学校では障害は軽い方で優等生でしたから、両親は私が「お山の大将」にならないように、
「お父さんの学校の子はこういうドリルをやっているよ」とか、
「お母さんが教えた子たちは、こうだったよ」と日常的に話してくれました。
それが逆に私の中では「焦り」になった面もあります。
しかし決定的だったのは中学の担任のスタンスでした。
彼は私をなにがなんでも普通校に進ませたかったようです。
私の進路に関して途中までは担任と両親の足並みがそろっていましたが、
担任が私に「普通校で三年間やりぬかなかったら敗北者だ」と、こんなことを言うようになったんです。
両親は「そこまでしなくてもいいんじゃない」と担任の姿勢に対して反感を持ち、普通校進学に対して少し消極的になりました。
私は「普通校」への好奇心と「敗北者」という言葉が発する恐怖にはさまれて、
かなり不安定な状態で、養護学校から普通校にシフトしてしまいました。
担任の悪い所ばかり書いて申し訳ないけれど、
私の場合、「学校がどうこう」の問題ではなく、「担任がデリケートじゃなかった」というのが結論です。
――今後の教育に望むこと
最近私はゲストティチャ―の仕事もしていて、あちこちの学校に呼ばれます。
普通学級の中にいる障害児にもよく出会い、「統合教育」についていろいろ書きたいこともありますが、それはまたの機会に!
とにかく教師一人一人がきめ細かく生徒と接してほしいと思います。
教師にとって生徒は何人もいるでしょうが、生徒にとっては「○○先生」は唯一の存在なのです。
たとえ複数担任であっても「先生」の役割の重さには変りはありません。
養護学校の先生も普通校の先生も条件はは異なるでしょうが「人間を育てていく」原点は一つ。
そこに立ち返っていただきたいと願ってやみません。
つづく
写真と記事はまったく関係ありません(笑)