パク・チャヌクが初めて手掛けたTVシリーズ『リトル・ドラマー・ガール』は、どうにも借り物感の強い仕上がりだった。原作はジョン・ル・カレ。売れない舞台女優がモサドにリクルートされ、テロリストの愛人として潜入する…所々にチャヌクらしい美意識が見受けられたものの、トレードマークとも言える偏執性はほとんどなく、雇われ仕事に見えてしまった(ブレイク前のフローレンス・ピューが主演を務めている意味では一見の価値はあるのだが)。
聞けばチャヌク自身は“スパイもの”というジャンルが大好きで、最近のインタビューでも好んで見ているのがAppleTV+の『窓際のスパイ』だという。落ちこぼれスパイチームのサスペンスコメディとチャヌクの親和性は不明だが、なるほど、彼がこのジャンルを好む理由はよくわかる。『復讐者に憐れみを』から始まる“復讐3部作”、『お嬢さん』『別れる決心』、それに『リトル・ドラマー・ガール』も含め彼の作品では常に主人公が二律背反に引き裂かれる。復讐とモラル、本心と嘘、欲望と理性…他者を欺き、内なる葛藤を抱え続けるスパイものは最もチャヌクらしい題材でもあるのだ。
HBOとA24がタッグを組み、パク・チャヌクがヴィエトタンウェンの原作小説を翻案した『シンパサイザー』は、ようやく彼の作家性がTVシリーズに結実した傑作である。“大尉”と呼ばれる主人公(素晴らしいホア・シュアンデ)の回想によって進む本作の舞台は1975年。サイゴン陥落によってベトナム戦争は共産主義陣営の支援する北側の勝利に終わる。大尉は北ベトナムに生まれながら南ベトナムの特殊警察に従事する潜入スパイであり、さらにはCIAと内通して共産主義打倒の尖兵となった二重スパイでもあるのだ。初めにこの設定を理解できなければ、前半3話を終える辺りまでろくろくついていけなくなるが、めくるめくパク・チャヌク演出に身を任せるだけでも構わない。キャリア史上最大のバジェットを手にしたチャヌクの手腕は流麗そのもの。なおかつ第1話で見せたサイゴン陥落のスペクタクルはこれまでにない大作演出であり、巨匠の貫禄である。第4話では『シュガー』が好評を博したばかりのフェルナンド・メイレレスが登板、チャヌク組常連チョ・ヨンウクのスコアを介して合流していることも見逃せない。また終盤3話のマーク・ミュンデンがチャヌクのケレンを見事にフォローする好投ぶりで、シリーズ全体の均整を生んでいることにも刮目させられた。
チャヌクに触発されたのは監督陣だけではない。本作のエグゼクティブプロデューサーを務めるロバート・ダウニー・Jrは、おそらく『オッペンハイマー』でのオスカーに続き本作でエミー賞を獲得するだろう。なんと主要な白人キャストを全て1人で演じているのだ。CIAスパイ、大学教授、政治家、映画化監督、そして…チャヌクの演出意図に強く触発されたか、まさに性格俳優の面目躍如。大尉を囲んでダウニーJrが4人も揃い踏みする場面はいささか賑やかし感はあるものの、父シニアを彷彿とさせる破天荒監督に専念した第4話はベストアクトの1つと言っていいだろう。アジア人蔑視の邪悪な白人を果たしてどれほど自覚的に演じていたのか、興味は尽きない。
チャヌク自身もまたヴィエトタンウェンの原作小説に強くインスパイアされたのだろう。友情と使命、国家と理念の狭間で苦悩する大尉の姿は西洋列強によって蹂躙された近代アジア史そのものであり、チャヌクは南北に引き裂かれたベトナムの歴史に強いシンパシーを抱いたのではないか。名状し難い余韻を残す終幕は、そんな時代の荒波に引き裂かれ、彷徨う者たちへ捧げられた鎮魂なのである。
『シンパサイザー』24・米
監督 パク・チャヌク、マーク・ミュンデン、フェルナンド・メイレレス
出演 ホア・シュアンデ、ロバート・ダウニー・Jr、サンドラ・オー
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