コスミック・トリガー―イリュミナティ最後の秘密八幡書店このアイテムの詳細を見る |
宗教的な感情というものは、どんな無神論者にも存在する。
またいつの時代にも存在する。
つまり、人間は本来「宗教的な」動物なのである。
さて、超自然、超現実の前に人間が独り立たされた時、人間のとりうる態度は、つまるところ2つである。ひとつは、パラノイア的妄信か拒絶、もうひとつは、不可知論である。僕も筆者と同じくチャペル・ペララスから、不可知論者になって出てきた。
村上陽一郎氏の著作に書いてあったが、400年前のペリパトス学派たちは、「科学的」であるがゆえに、ガリレオの望遠鏡を覗くことを拒否したのである。ガリレオの説のように、当時「非科学的」と一蹴されたものも、現代からみれば、「科学的」真実だったのである。したがって、科学とはあらかじめ出来上がった一枚岩の知識体系などでは決してなく、時代の価値体系をそのまま反映したものなのである。それがあたかも辻褄があっているかのように見えるのは、歴史に現代を投影して見ているからにすぎない。
とすれば、現在科学に受け入れられていないものの中に、400年後の視点で見ればきわめて「科学的」な事実が含まれているかもしれないのである。
こう観ると、科学も、実に「宗教的な」ものであることがよくわかる。
無神論も唯物論も決定論もカオス理論もすべて、一種の「宗教的」信念に支えられている。
そもそも、人間の考えなど、大昔から大して変わっていないのだ。また、個性的たらんとして奇を衒うような態度もつまらない。ただ、興味をもつのは人に押し付けない限りかまわないと思う。
精神の遍歴を繰り返して、たどり着いた結論は、僕の場合は個の認識の限界に基づく不可知論という宗教なのだ。