☑ こ
♗ 河野 李由
☑生誕:1662年/近江国
☑死没:17050年08月11日
☑宗派:浄土真宗本願寺派
☑分野:俳諧/俳句
河野李由(こうの りゆう)は、寛文2年(1662年) -
宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸時代前
期の僧・俳人、近江蕉門。浄土真宗本願寺派の彦根明
照寺(光明遍照寺)14世住職、律師。字は買年、諱は
通賢と言い、釈名を亮爾と号す。近江国の生まれ。父
は河野通仁。子に河野通惠(自蹊)。李由は伊予河野
氏の末裔と伝えられる。寛文2年(1662年)に生まれ、
かねてから松尾芭蕉の風雅を慕い、修行中に法用と称
して元禄4年5月1日(1691年5月28日)京都嵯峨野の向
井去来別荘落柿舎で「嵯峨日記」執筆中の芭蕉を訪れ
入門]。
蕉門十哲の一人森川許六は度々明照寺に遊び、芭蕉も
李由入門直後に寺を訪れた。芭蕉と李由の師弟関係は
「師弟の契り深きこと三世仏に仕ふるが如し」と伝え
られている。芭蕉死去後、渋笠を形見に貰い受け、明
照寺境内に埋め笠塚を築く。元禄15年(1702年)、森
川許六と共に「韻塞(いんふたぎ)」、「篇突(へん
つき)」、「宇陀の法師」を編む。その後、宝永2年6
月22日(1705年8月11日)李由死去する。生前明照
寺の庭に4本の梅の木があることに因み「四梅廬」と、
また「月沢(つきのさわ)同人」とも称す。
李由は伊予河野氏の末裔である(実際に明照寺には河
野氏由来の書状が伝来している)と称し、父方には安
芸国の国人領主で、後に毛利氏の一門となった宍戸氏
の出であると伝えられている。当時の彦根藩には安芸
宍戸氏の一族が仕官しており、森川許六の娘は宍戸四
郎左衛門と結婚。
行く春を近江の人とをしみける
上は俳聖・芭蕉の句で、この句を収めた『猿蓑』集に
は、「湖水を望みて春を惜しむ」と詞書がつけてある。
複数の近江の人が詠みこまれていることにある。背景
には晩春の春霞にたゆたう琵琶湖の風景が見え、大き
な句――「近江の人」は大津市近辺の芭蕉の弟子たち
や、その周辺の人を指し、元禄三年(1890)一月下旬
に、唐崎近くの湖上で詠まれたものである。近任国に
は芭蕉の人柄や俳諧の指導に共感する門人が多く、膳
所藩の重臣からは大津の山中に「幻桂庵」(げんじょ
うあん)まであてがわれている。
彦根藩士・森川許六は蕉門十哲のひとりで、俳諧を学
んだ許六は、師の芭蕉に請われて絵画を教えている。
また、彦根市平田町にある明照寺には、「百歳の景色
を庭の落葉かな」の芭蕉の句と、庭に「笠塚」が残さ
れ、当時の住職で弟子・河野李由は、芭蕉重病で大坂
に急行している。
上の句には、芭蕉がしみじみと感じた近江国の人情が、
時間や空間を越えているのではなかろうかということ
であり、その日一緒に琵琶湖を逍遥(しょうよう)し
た門人たちだけでなく、古代から近江国の春を愛で、
それを歌に詠んだ古人たちもいたはずだ。そして、多
くの風雅を愛した人たちの心もまた、行く春を惜しん
だに違いない。と『近江の埋もれ人』の「河野手由
一芭蕉の足を彦根に運ばせた俗僧-」でこのように随
想している。
秋の野を 遊びほうけし 薄かな
いつの時 人に落ちけん 白牡丹
稲むしろ 近江の国の 広さかな
踊るべき ほどには酔て 盆の月
草刈よ それが思ひか 萩の露
雲の峰 石臼を挽く 隣かな
竹ノ子や 喰残されし 後の露
ちか道を 教へぢからや 古柳
菜の花を 身内に付けて なく蛙袴
きぬ 聟入もあり としの昏
春近き 三年味噌の 名残かな
【脚注及びリンク】
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- 妙法山明照寺 Wikipedia
- 近江蕉門 Wikipegdia
- 森川許六 Wikipedia
- 河野李由 Wikipedia
- 2017年03月:角省三著「近江の埋もれ人―中川
禄郎・河野李由・野口謙蔵」サンライズ出版/
紀伊国屋書店 - 近江学研究所 公式ホームページ
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