安土城(2)

2014年02月11日 | 滋賀百城

 

 




信長の夢 「安土城」発掘

●技術解放

 解放されたのは白壁だけではない。日本建築におい
て、朝廷や寺院の建築物以外に瓦が使われるようにな
ったのは、実は安土城からなのだという。今回復元さ
れたコンピューター・グラフィックスを見ていただく
とわかるが、安土の城下町でも町家の屋根は、瓦では
なく板ぶきになっている。一方、城内の武家屋敷の一
部や天主は瓦ぶきになっている。
 中世では、瓦をつくる技術者は寺社が囲いこんでい
た。その結果、瓦をつくる技術のノウハウは、寺社が
独占していた。その独占を信長は、安土へ技術者を連
れてきて、安土城を築かせることによって打ち砕いた。
 『信長公記』に、京都・奈良・堺から大工や職人を
召し寄せたと記されているのは、このことをさしてい
るわけである。
 安土城以後、他の城や武家屋敷でも、信長をまねて
瓦を使うようになり、その需要が全国に瓦職人の増加
をうながし、瓦をつくる技術の伝播をもたらし、やが
てはて殷の町家の屋根も瓦でふかれるようになってい
ったのである。



 今日では日本建築の家屋といえば、屋根には瓦がふ
かれているのが当たり前のようにも思うが、そのおこ
りは安土城にあったわけである。
 しかも信長は、単に職人たちを連れてきて働かせた
だけではなかった。優れた仕事を残した職人たちには、
しばしば天下一の称号を与えて、その腕前をたたえた。
天下一とは、つまり信長が認定して職人の技術力を保
証したことになる。それは技術を自分の膝下にとりこ
む目的をもっていたからだともいえるが、同時にそれ
は、技術というもののすばらしさを信長がよく知って
いて、それを正当に評価しようとした表れでもあるだ
ろう。
 信長は大船をつくったり槍を長くしたり、軍事面で
もさまざまな技術革新をした。安土城は、そういう信
長の革新性の建築への表れであり、当時の技術の粋を
集大成する場でもあったのではないだろうか。
 広大な直線の大手道といい、七尺二寸の柱間寸法を
もつ壮大な規模の本丸御殿といい、そしてなによりも
空前の高層建築物である天主といい、こうした建築物
を建造するにあたっては、さまざまなテクノロジーの
応用と統合が試みられなければならなかったはずだか
らである。
 安土城郭調査研究所の木戸さんは、信長は自分の頭
の中だけに存在するイメージを形あるものとして実現
するために、このような技術革新にとりくんだのだと
いう。
 「ある人によれば、ヨーロッパの宣教師から、ヨー
ロッパの城の姿みたいなものも聞いていて、そういう
ものに負けないようにということで日本の中にもそう
いう建築物をつくろうとしたのだという人もいらっし
やいますけれども、安土城は信長の頭の中のイメージ
というものの表れであることは確かだと思います。
 理念というのか、信長が築こうとしている世界の具
現化ではないかということです。
 安土城天主は、誰も考えてみたこともなく、実現し
てみせたこともないような、非常にきらびやかな建物
で、しかも七階建て、地下室もあるというような建物
です。今でいえば凄い高層のビルディングみたいなも
のを試しにつくってみたということではないかと思い
ます。
 問題は、その技術力の結集の仕方ですね。たとえば
京都の一流の大工を呼んでくる。それから奈良の瓦職
人を呼んでくる。日本中のそういう技術をここに凝縮
して、そこで新たなものとして華開かせる、そういう
ことをやったということです。
 それはなんのためかといえば、要するに信長のイメ
ージの具現化ですね。そのために非常に精力を費やし
てやったということだと思います」
 自分のイメージを具体的に手触りのあるものとして
実現するために、城を建設する。それは口で言うほど
たやすいことではない。建築とは、頭の中の夢想だけ
ではできない。論理的な設計と力学的な計算と、そし
て芸術的な発想を必要とする仕事である。
 逆にいえば、安土城のような他に類例のない独創的
な建造物を構築することができた信長という人物は、
芸術的なセンスと実務的な能力を兼ね備えた天才であ
ったということになるだろう。
 木戸さんは、安土城の発掘調査を進めていくあいだ
に、信長に対するイメージが大きく変わったという。
 「調査をすることによって、安土城とか信長に対す
る、十何年前からのイメージがかなり変わってきまし
た。
 昔からよく言われていますけれども、信長は人をた
くさん殺したとか、非人情なことをいっぱいやったと
か、神になろうとしたとか、そういうイメージが非常
に強い固定観念として植えつけられています。けれど
も、彼がおこなった城づくりの調査を実際にやってみ
ていくうちに、かならずしもそうではなくて、彼の頭
の中では緻密にいろいろなものが計算されていて、そ
の計算の中から自分の世界を具現化するための方法論
を見つけて、一所懸命やろうとしていたのではないか
と感じています。
 信長は実は意外と伝統的なものを重んじているとい
う面もあるし、今自分が置かれているレベルですね、
その当時の日本の技術力のレベルをふまえて、次は何
をめざすのかということを、彼はその時点で懸命に考
えたような人だったのではないかと思います。
 だから、信長は一つの時代の活気をリードする人間
として捉えるのが正しくて、彼もやはり一人の人間と
して一所懸命考えて当時を生きていたのではないかと
いうことを、調査を通じて実感しているのです」
 戦国時代という一つの時代-旧来の常識が機能しな
くなり、新しい変革が求められた時代。南蛮という海
外の文化と出会い、それまでにない芸術が草間いた時
代。その時代の活気を信長はリードした。そして、時
代の流れを収斂させ、日本の統一をなしとげるために、
スローガンをかかげた。
 「天下布武」というスローガンである。

 
         『第5章 信長の夢』pp.221-223      

                  この項つづく

 


【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .2.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会

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