「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

本多忠勝の話

2018-07-04 07:30:00 | 日記
5月8日に話してきたのは、東尋坊にいると言っていた本多忠勝(ほんだただかつ)でした。


のーーーーりーーーーとーーーー(祝詞)ありがとう。

どなたですか?

東尋坊にいた本多忠勝だ。
「からくれないに水くくるとは」と「スミで消された」と、何度も言われていたよ。
魂は、味方も敵もないからな。
私は徳川家康様の四天王と言われていたが、たーーーーすーーーー(足す)だけの戦術から、掛ける戦術を目指していた。
掛ける戦術とは、三人一組にして、常に行動させたのだよ。


私は、戦国時代の戦術について調べてみましたが、よくわかりませんでした。
鉄砲隊は、三人一組で鉄砲を撃っていたようですが、そのことを言っていたのでしょうか。


続きです。


気が合うとか合わないとかは、 私がわかったからだ。
人は、気が合うと力を発揮するが、合わないととたんに力を失うからな。
それがわかるか、わからないかは、わかっている大将には敵わないということだよ。
織田信長様も豊臣秀吉様も、それがわかっていた。
徳川家康様は、わからなかったが、わかっている人を使うのがうまかったということだな。
信頼関係は、沢山の人の中にいないとわからないものだ。
家康様の生い立ちが、見抜く力を作ったと思うよ。


徳川家康は、江戸時代250年の礎(いしずえ)の人とは思っていましたが、どんな生い立ちであるかは知りませんでした。
子供の時は、人質暮らしだったようですね。
そして、その時その時のトップに使えていた感じです。


・1542年(0歳)
三河国(今の愛知県の東側)を治めていた松平広忠の長男として生まれました。
生まれた時は「竹千代」(たけちよ)と呼ばれていました。

・1548年(6歳)
駿河国(今の静岡県の東側)を治めていた今川義元の人質になる予定でしたが、尾張国(今の愛知県の西側)を治めていた織田家に捕らわれてしまいます。

・1550年(8歳)
織田家から解放され、駿河の今川義元の人質となります。

・1555年(13歳)
元服して松平元信、後に松平元康と名乗りました。

・1560年(18歳)
桶狭間の戦い。仕えていた今川義元が亡くなったことをきっかけとして、今川家から独立する事に成功します。

・1562年(20歳)
織田信長と同盟を結びます。

・1566年(24歳)
名前を「徳川家康」と改めました。

・1568年(26歳)
かつて仕えていた今川家を、甲斐国(今の山梨県)の大名、武田信玄と協力して滅ぼすことに成功します。

・1572年(30歳)
三方ヶ原の戦い。武田信玄と戦い敗北します。

・1575年(33歳)
長篠の戦いで、織田信長と共に武田信玄の子、武田勝頼を破ります。

・1582年(40歳)
織田信長と共に、武田勝頼を滅ぼします。

・1582年(40歳)
本能寺の変が起こり、同盟していた織田信長が亡くなってしまいます。

・1584年(42歳)
小牧・長久手の戦い。織田信長の跡を継いだ羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と1年以上にわたって戦います。

・1586年(44歳)
秀吉の家来になります。

・1590年(48歳)
秀吉の天下統一。恩賞として関東地方をもらいます。

・1598年(56歳)
豊臣政権の元で五大老(ごたいろう)に就任します。
秀吉が亡くなり、その子供である秀頼の後見を任されます。

・1600年(58歳)
関ヶ原の戦いで石田三成を破り、事実上の天下人となります。

・1603年(61歳)
征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きます。

・1615年(74歳)
大阪夏の陣で秀吉の子、豊臣秀頼と戦い、秀頼と豊臣家を滅ぼします。
日本全国の大名に対する決まり事である「武家諸法度」 (ぶけしょはっと)と、天皇や公家に対する決まり事である「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定し、徳川幕府の支配を盤石なものにします。

・1616年(75歳)
病気で亡くなります。家康の死後、江戸幕府は1867年まで250年間続きました。


いつも、誰かと協力して、敵を倒している姿がありますね。


本多忠勝の話の続きです。



本多忠勝様は、なぜ東尋坊にいたのですか?

三河の私が東尋坊にいたのは、本多家ゆかりの加賀百万石のところだったからだ。
和倉温泉の娘は、私の友達の子孫だったから、咎(とが)が取れてよかったよ。
Iという人がいなかったら今のようにはいかなかったと思うよ。
見つかってよかったな。
忘れないでいてくれてありがとう。


本多忠勝は、

🌟生誕天文17年2月8日(1548年3月17日)

🌟死没慶長15年10月18日(1610年12月3日)

で、徳川家康と同い年だったのだと思いました。


ここでIさんのブログの抜粋を入れておきます。


「ちょっと聞きたいんだけど、、、忙しいところごめんなさい。
ヒミコの家って、前田利家、もしくは、加賀藩との繋がりが深い家柄?
もしかして?
そんな感じのことを言っていた様な記憶があるんだけど、
その話はちゃんとしていなかったから記憶が曖昧で、、縁は無い家柄?」

「うちは父方が尾張から前田藩と共に金沢に来て鍛冶屋(刀)だったみたいで、
その後、大聖寺藩に配属されたそうです。
だから前田藩との繋がりはあると思います。
剣術士の先祖っぽい人も大聖寺藩史に出て来ます。
何かありましたか?」



はい。何かあります。



なるほど。そういうことなのか......



まとめると、ヒミコさんの家の伝承は、そのまま三河本多氏の流れで。
きっと、加賀、前田氏に仕える為に動いて来た、恐らくは......本多政重さんの一派。
その武士団や武将達の武器担当の職人さんだった方がヒミコさんのご先祖様で。
そして、その政重さんと共に加賀、前田氏に使え来る以前には、
本多氏のお膝元である現在の名古屋一帯の氏族皆の為に武器を作っていた
職人さんであった可能性も。
特に政重さん一派に入る以前には、
もしかしたら本多忠勝さんとの繋がりが深かった方でもあり、
ヒミコさん家の伝承では大まかに「尾張」となっているようですが、
動いて来た大元の地は忠勝さんの直轄地「桑名」であった可能性も。


抜粋終わり

🐷東尋坊徒然 6

彼は、とても納得が出来たようですね。

ヒミコさんは、今は白山の世界遺産登録に向けて、活躍していると聞いています。

私は、最近世界遺産になった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の中に、私達が昨年11月に行った、無人島の野崎島が入っていたことに喜びを感じました。

🐶五島列島の旅 その2









やっぱり、神様が大事にしている場所を知らせてくれているのかと思ったからですね。

私の願いは、天草の原発はこのことで、作れないようになって欲しいということです。


🆕2018年6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に正式登録された。バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)による第42回ユネスコ世界遺産委員会が決定したもの。日本では18件目の世界遺産となる。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産とは、17世紀から19世紀にわたる禁教政策の下で、潜伏キリシタンが密かにキリスト教を伝えた歴史を物語る遺産。
長崎と天草地方に所在する12資産から構成される。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする