関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が防長二州に封じ込められた時、因島義光、吉国親子も長州矢田間に
二千八百石で移るが、後辞して野間郡佐方へ移るとされます。
因島村上太左衛門家は周防屋代島に残り、三田尻の御船手組に出仕します。
関ヶ原の戦い前までは、因島村上家中給人二百八十余騎、上下老若男女小者に至るまで八千余人とされますが、
領地が二十分の一となり追々分散して減少すると能島村上家と同じ運命を辿ります。
この数からすると三島村上全体では3~5万人養っていたことになります。
騎数では全体で千騎程度と思われ、騎は陸上の戦闘最小単位なので通常一騎とは一人の武士に小者等が従い
一騎は10~15名とされます。とすれば三島で15000人の成人男子の戦闘員が居たことになります。
最大、50000人とすれば、半分は女子で残り10000人が元服前(13歳以下)の男児と45歳以上の非戦闘員の
老人とすれば構成比上は理に叶いますね。基本的には海賊衆は陸戦をしませんので騎数計算は変なのですが。
大船頭、船頭、舟子、カシキなどの多くの階層に分かれていたのでしょう。昔、昔は船が小舟だったので船長
【楫取】一人で済んだのでしょうが、安宅船のような大船になると多くの役割の船乗りが必要となります。
慶長五年以降、因島に残り続けた村上衆は千五百五十家に上るとされますので、因島は村上家だらけとなります。
その一部を戸籍(壬申戸籍カ)に従って例示すると、
① 中庄町(八十三戸) 平木十代 村上 鶴吉
元祖、村上主殿は新蔵人吉充の弟で、その子六右衛門の後、数代を経て三右衛門(正徳六年・1715)
帰農して以来二百五十余年相継代々大農として今日に至る。
② 外ノ浦町(三十五戸) 新し屋十八代 村上 庄左衛門
元祖、村上七郎左衛門(貞享二年・1865死)より二百七十年相継ぎ今日に至る。
③ 椋ノ浦町(十一戸)地本 十代 村上 峰子
元祖不明、五代村上嘉蔵 (嘉永二年・1849死)
④ 三庄 (四十二戸)平野屋十代 村上 正義
元祖、村上弥総左衛門より約三百年相継ぎ今日に至る。
⑤ 土生 (百二十九戸) 花戸 八代 村上 芳之助
元祖、村上卯太治は愛媛県越智郡大島余所国(よそくに)の酒造家(笹の井)の村上某の子息、故あって
当所に来住し、二代治良兵衛(明治七年・1770死)まで二百年間相継ぎ今日に至る。
⑥ 田熊(四百十四戸) 太田熊 村上 保則
元祖、竹島城主村上四郎左衛門尉直吉(文禄三年・1594死)は天文十八年(1549)田熊八幡宮を創建した。
以来四百年間相継ぎ多くは神官として今日に至る。
⑦ 重井(七百四十二戸) 宮本 十七代 村上 顕雄
中興の祖、村上弥左衛門(大永元年・1521死)は新蔵人吉充の孫元充の三男である。爾来約四百五十年
相継ぎ代々多くは神官として今日に至る。
⑧ 重井 丸本 十代 村上 司
新蔵人吉充の孫、某三郎左衛門と唱え、五代まで年代未詳、六代三郎左衛門(寛永二十年・1643死)
帰農して以来三百余年相継ぎ代々して大農として今日に至る。
⑨ 重井 伊浜 村上 長右衛門
元祖、長右衛門(正保二年・1645死)は寛永年間、重井村の庄屋を努め、その間、伊浜新開七町八反、
青木新開七町五反三畝歩、青木沖新開六町歩を新調した。その功労を称へて今にその徳を追慕している。
六代長右衛門(安永二年・1773死)は庄屋を辞して、後、京阪方面に行き分家す。
⑩ 大浜(五十四戸) 恵良 十七代 村上 享次
才崎城主村上丹後守吉房は、青影城主六代吉充の子息である。大浜内記、平左衛門、九郎右衛門と相継ぎ
太郎右衛門(元和八年・1622死)帰農して中興の祖となり、爾来三百五十年相継ぎ今日に至る。
因島村上十九代充昌は、幕末に外国船撃ち払い(下関)に参加し、二十代昌輔は明治十年の西南戦争や日清日露の戦役
に参加し陸軍少尉に任じられた。二十二代村上七郎は鎌倉に居るという。
大正五年五月五日、因島村上氏百余名は青影山頂に城址碑を建てて、中庄の金蓮寺で先祖の大供養を行った。
因島村上水軍で因島に残って土着した人々は船乗り業と造船業で異彩を放つようになる。
日立造船因島工場が出來、その隆盛は頂点にたっした。島民の多くは村上水軍の伝統にあることを自覚し
昭和三十九年二百八十九万円を投じて「因島市資料館」を建設した。
*余談ながら私も中学一年で日立造船因島工場の進水式を見る機会を得た。
敷地はせまいので、良く見える所はないかと尋ねたら船台の横に蜜柑畠があるからそこに登れと言われた。
社長令嬢のような別嬪さんが金の斧を振り下ろすとシャンパンが船首に炸裂し、同時に七万トンのタンカーが
するすると船台を下っていった。わずか20数秒で船は海に浮かんだ。
問題はそこからで初めての長距離旅行なので帰り路が心配でバスに乗り、渡船に乗り、汽車に乗り、また渡船に
乗り、またまたバスに乗り帰り着いた時はもうぐったりであったが、初めての経験なので今でも鮮明に目に浮かびます。
*因島市資料館は今どのようになってますかね?
二千八百石で移るが、後辞して野間郡佐方へ移るとされます。
因島村上太左衛門家は周防屋代島に残り、三田尻の御船手組に出仕します。
関ヶ原の戦い前までは、因島村上家中給人二百八十余騎、上下老若男女小者に至るまで八千余人とされますが、
領地が二十分の一となり追々分散して減少すると能島村上家と同じ運命を辿ります。
この数からすると三島村上全体では3~5万人養っていたことになります。
騎数では全体で千騎程度と思われ、騎は陸上の戦闘最小単位なので通常一騎とは一人の武士に小者等が従い
一騎は10~15名とされます。とすれば三島で15000人の成人男子の戦闘員が居たことになります。
最大、50000人とすれば、半分は女子で残り10000人が元服前(13歳以下)の男児と45歳以上の非戦闘員の
老人とすれば構成比上は理に叶いますね。基本的には海賊衆は陸戦をしませんので騎数計算は変なのですが。
大船頭、船頭、舟子、カシキなどの多くの階層に分かれていたのでしょう。昔、昔は船が小舟だったので船長
【楫取】一人で済んだのでしょうが、安宅船のような大船になると多くの役割の船乗りが必要となります。
慶長五年以降、因島に残り続けた村上衆は千五百五十家に上るとされますので、因島は村上家だらけとなります。
その一部を戸籍(壬申戸籍カ)に従って例示すると、
① 中庄町(八十三戸) 平木十代 村上 鶴吉
元祖、村上主殿は新蔵人吉充の弟で、その子六右衛門の後、数代を経て三右衛門(正徳六年・1715)
帰農して以来二百五十余年相継代々大農として今日に至る。
② 外ノ浦町(三十五戸) 新し屋十八代 村上 庄左衛門
元祖、村上七郎左衛門(貞享二年・1865死)より二百七十年相継ぎ今日に至る。
③ 椋ノ浦町(十一戸)地本 十代 村上 峰子
元祖不明、五代村上嘉蔵 (嘉永二年・1849死)
④ 三庄 (四十二戸)平野屋十代 村上 正義
元祖、村上弥総左衛門より約三百年相継ぎ今日に至る。
⑤ 土生 (百二十九戸) 花戸 八代 村上 芳之助
元祖、村上卯太治は愛媛県越智郡大島余所国(よそくに)の酒造家(笹の井)の村上某の子息、故あって
当所に来住し、二代治良兵衛(明治七年・1770死)まで二百年間相継ぎ今日に至る。
⑥ 田熊(四百十四戸) 太田熊 村上 保則
元祖、竹島城主村上四郎左衛門尉直吉(文禄三年・1594死)は天文十八年(1549)田熊八幡宮を創建した。
以来四百年間相継ぎ多くは神官として今日に至る。
⑦ 重井(七百四十二戸) 宮本 十七代 村上 顕雄
中興の祖、村上弥左衛門(大永元年・1521死)は新蔵人吉充の孫元充の三男である。爾来約四百五十年
相継ぎ代々多くは神官として今日に至る。
⑧ 重井 丸本 十代 村上 司
新蔵人吉充の孫、某三郎左衛門と唱え、五代まで年代未詳、六代三郎左衛門(寛永二十年・1643死)
帰農して以来三百余年相継ぎ代々して大農として今日に至る。
⑨ 重井 伊浜 村上 長右衛門
元祖、長右衛門(正保二年・1645死)は寛永年間、重井村の庄屋を努め、その間、伊浜新開七町八反、
青木新開七町五反三畝歩、青木沖新開六町歩を新調した。その功労を称へて今にその徳を追慕している。
六代長右衛門(安永二年・1773死)は庄屋を辞して、後、京阪方面に行き分家す。
⑩ 大浜(五十四戸) 恵良 十七代 村上 享次
才崎城主村上丹後守吉房は、青影城主六代吉充の子息である。大浜内記、平左衛門、九郎右衛門と相継ぎ
太郎右衛門(元和八年・1622死)帰農して中興の祖となり、爾来三百五十年相継ぎ今日に至る。
因島村上十九代充昌は、幕末に外国船撃ち払い(下関)に参加し、二十代昌輔は明治十年の西南戦争や日清日露の戦役
に参加し陸軍少尉に任じられた。二十二代村上七郎は鎌倉に居るという。
大正五年五月五日、因島村上氏百余名は青影山頂に城址碑を建てて、中庄の金蓮寺で先祖の大供養を行った。
因島村上水軍で因島に残って土着した人々は船乗り業と造船業で異彩を放つようになる。
日立造船因島工場が出來、その隆盛は頂点にたっした。島民の多くは村上水軍の伝統にあることを自覚し
昭和三十九年二百八十九万円を投じて「因島市資料館」を建設した。
*余談ながら私も中学一年で日立造船因島工場の進水式を見る機会を得た。
敷地はせまいので、良く見える所はないかと尋ねたら船台の横に蜜柑畠があるからそこに登れと言われた。
社長令嬢のような別嬪さんが金の斧を振り下ろすとシャンパンが船首に炸裂し、同時に七万トンのタンカーが
するすると船台を下っていった。わずか20数秒で船は海に浮かんだ。
問題はそこからで初めての長距離旅行なので帰り路が心配でバスに乗り、渡船に乗り、汽車に乗り、また渡船に
乗り、またまたバスに乗り帰り着いた時はもうぐったりであったが、初めての経験なので今でも鮮明に目に浮かびます。
*因島市資料館は今どのようになってますかね?