山口県周防大島物語

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大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1725年~1759年)

2023年01月29日 18時11分36秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1725年
亨保10年      防長寺社由来  ○毛利吉元の命による萩藩閥閲録編纂終了 (藩内1351家の系図・古文書の集大成)

亨保10年      防長寺社由来  ○毛利吉元の命による防長「寺社由来」録上が始まる。
亨保10年      山口県史整理年表  河野通昭等に命じ三田尻附近の海上明細図を作製せしむ 【防府の今昔】
亨保10年 1月19日  山口県史整理年表  諸郡に琉球櫨木栽培を命ず 【毛利十一代史】
亨保10年 2月    山口県史整理年表  山野火入れを禁ず 【毛利十一代史】
亨保10年 2月28日  山口県史整理年表  佐波郡鯖川仮橋落成す 【毛利十一代史】
亨保10年 3月7日   山口県史整理年表  岩国領、布木綿の他所売口銭改訂 【御用所日記】
亨保10年 4月1日   山口県史整理年表  在郷居住を請願したる諸士、萩居住の際は、規定の諸役所勤を命ず
                   【毛利十一代史】

亨保10年 4月12日  山口県史整理年表  両国内大雨洪水、田畠の損害三万千石余 【毛利十一代史】
亨保10年 4月16日  山口県史整理年表  岩国産の布木綿等は、領内売にも、口銭を課す 【御用所日記】
亨保10年 7月5日  山口県史整理年表  岩国錦見火事百六十二軒焼失す 【御用所日記】
亨保10年 8月2日  山口県史整理年表  長門地方大風・高潮 【毛利十一代史】
亨保10年 10月24日  山口県史整理年表  諸士の他国金銀米銭の借用を禁制す 【毛利十一代史】
亨保10年 11月16日  山口県史整理年表  諸士旅行の時の荷物宿札・公用荷物差札の様式を定む 【毛利十一代史】
亨保10年 12月2日  山口県史整理年表  両国、本年旱損虫枯にて、田畠高七万二千石余の被害あり。幕府に報告す
                   【毛利十一代史】
亨保10年 12月7日  山口県史整理年表  異国船阿武郡奈古浦に漂着す 【徳藩年表】


西暦1726年
亨保11年      山口県史整理年表  岩国領内絵図の調製に着手、同十七年春終る。同時に村記を改訂増補す
                   【享保増補村記】
亨保11年 1月27日  山口県史整理年表  諸士扶持方成の者に訓令す 【毛利十一代史】

亨保11年 4月8日   屋代今元系譜   ◎今元本家三代目直就歿 壽69歳

亨保11年 5月6日  山口県史整理年表   岩国城下に痘瘡流行す 【御用所日記】
亨保11年 7月5日  山口県史整理年表   両国大風雨洪水 【毛利十一代史】
亨保11年 7月6日  山口県史整理年表   家来細工人の内職細工を禁制す 【毛利十一代史】
亨保11年 7月19日  山口県史整理年表  赤間関阿弥陀寺における芝居興行を長府藩家士の見物するを厳禁す
                    【長府毛利家乗】
亨保11年 8月7日  山口県史整理年表  唐船一隻阿武郡須佐浦に到る。九日より砲撃十一日焼沈 【毛利十一代史】

亨保11年 9月8日  山口県史整理年表  諸寺院本末争論、その外俗縁の者の周旋を禁ず 【毛利十一代史】
亨保11年 10月   山口県史整理年表  幕命により両国の人口を録進す。男女合計四十六万千四十人。以後子午の歳を
                   定年とす 【毛利十一代史】
亨保11年 11月5日  山口県史整理年表  徳山城下出火。百六十九軒焼失 【徳山藩史稿】
亨保11年 11月24日  山口県史整理年表  吉川氏疱瘡遠慮定改訂 【御用所日記】

亨保11年 12月8日   屋代今元系譜   ◎今元本家三代目直就婦 マサ歿 壽69歳

亨保11年 12月11日  山口県史整理年表  両国本年旱魃虫枯の田畠被害調査。高四万石余 【毛利十一代史】


西暦1727年
亨保12年 1月27日   大日本史料綱文   ○天野屋直之(利兵衛)没。
亨保12年 閏1月晦日  山口県史整理年表  熊毛郡室津浦出火。二百二戸焼失 【毛利十一代史】
亨保12年 3月     山口県史整理年表  町村に令し不正秤の使用を禁ず 【毛利十一代史】
亨保12年 6月27日   山口県史整理年表  幕命により彫工河治友久および同友周に鍔を造らしめ進献す。幕府その精工
                     を賞す 【河治氏家譜】
亨保12年 8月15日   山口県史整理年表  明月上人生る 【豊浦三郡田畑現作高】
亨保12年 9月27日   山口県史整理年表  河野養哲死す。六七。越氏塾を郷学とし、その経費は郡方負担とす
                    【越氏塾由来(越氏塾沿革)】
亨保12年 11月21日   山口県史整理年表  諸士倹約に関し訓令す 【毛利十一代史】
亨保12年 12月11日   山口県史整理年表  両国内春来大風・旱魃・洪水による被害調査高五万石余 【毛利十一代史】

亨保12年       屋代今元系譜   ◎今元本家六代目直家(5代長男)婦 ツル(藤山新兵衛長女)誕生
亨保12年       屋代今元系譜   ◎今元本家五代目直康次男由右衛門(今元分家森元初代)婦 誕生

亨保12年       防長寺社由来   ○毛利吉元の命による防長「地下上申」上申始まる。


西暦1728年
亨保13年      山口県史整理年表  道松植継のことを令す 【御書附其外後規要集】
亨保13年 2月4日  山口県史整理年表  長府藩采地を有する藩士に令しその領民を労り農業に出精せしむ
                   【長府毛利家乗】
亨保13年 3月6日  山口県史整理年表  玖珂郡柳井出火百七十五軒焼失 【御用所日記】
亨保13年 3月6日  藩史大辞典     ○岩国藩領 柳井町火事 175軒焼失する。
亨保13年 5月27日  山口県史整理年表  佐波川洪水。沿岸諸村多く被害 【賞誉書抜】

亨保13年 6月2日   屋代大野系譜   ●60代大野直治室(家の女)歿 二十才 号浄雲寿邦大姉

亨保13年 6月12日  山口県史整理年表  萩洪水。川嶋堤防破潰唐樋町浸水す 【毛利十一代史】
亨保13年 8月    山口県史整理年表  重ねて新規の寺社建立を禁制す 【毛利十一代史】
亨保13年 8月19日  山口県史整理年表  座頭瞽女廻村のことに関し令す 【毛利十一代史】
亨保13年 12月16日  山口県史整理年表  長府藩財政逼迫のため藩士に対する馬代銀貸与の制を止む 【長府毛利家乗】
亨保13年       防長寺社由来   ○毛利吉元の命による防長「村絵図」の提出が始まる。


西暦1729年
亨保14年     山口県史整理年表  両国中座頭瞽女の他国出嫁を禁じ郡の臨時費の内をもって一人扶持下附
                  【毛利十一代史】
亨保14年 4月2日  藩史大辞典    ○徳山藩、江戸に向かう途中の象、徳山へ一泊する。見物人多数あり。
亨保14年 4月3日  山口県史整理年表  萩藩大阪負債月賦償還の協議を完結。用達鴻池善八外八人・三木権太夫・大黒屋
                  太郎右衛門・大塚屋源右衛門・鴻池善右衛門・鴻池善左衛門その他関係者に賞賜す
                   【毛利十一代史】
亨保14年 4月18日  山口県史整理年表  大津郡瀬戸崎失火。五百十三戸焼失 【毛利十一代史】

亨保14年 5月11日  山口県史整理年表  赤間関出火。百八十六戸焼失 【毛利十一代史】
亨保14年 6月18日  山口県史整理年表  町諸職人の賃銀を定む 【毛利十一代史】
亨保14年 8月    山口県史整理年表  旱魃のため蔵入給領とも凶作につき、検見に関し訓令す 【毛利十一代史】
亨保14年 8月19日  山口県史整理年表  この日および九月十四日風雨洪水 【毛利十一代史】
亨保14年 閏9月5日  山口県史整理年表  豊浦郡嶋戸出火。家数百十二戸焼失 【毛利十一代史】
亨保14年 9月19日  山口県史整理年表  長府毛利匡広死す。五五 【長府毛利家乗】
亨保14年 10月26日  山口県史整理年表  長府毛利師就、新墾田一万石を弟政苗に分知し、清末藩を再興す
                    【長府毛利家乗】

亨保14年 11月28日  山口県史整理年表  豊浦郡安岡浦出火。百九戸焼失 【毛利十一代史】
亨保14年 12月    山口県史整理年表  八組諸士の家計維持に関し訓示す 【毛利十一代史】
亨保14年 12月1日  山口県史整理年表  貸借および質物利息複利計算に関し訓令す 【毛利十一代史】
亨保14年 12月10日  山口県史整理年表  岩国産の布衣・羽織・縮・蚊帳に吉川氏の検印を押さしむ 【岩邑年代記】
亨保14年 12月28日  山口県史整理年表  新規借用銀利息定に関し訓令す 【毛利十一代史】


西暦1730年
亨保15年 2月18日  山口県史整理年表  豊浦郡室津浦出火。延焼百戸 【長府毛利家乗】
亨保15年 3月28日  山口県史整理年表  財政難渋につき今年馳走出米十七石懸り 【毛利十一代史】
亨保15年 4月15日  山口県史整理年表  幕府、諸侯の上米を禁じ、参勤の期を復旧す 【毛利十一代史】
亨保15年 2月26日  山口県史整理年表  年来大阪倉米蔵元米券を偽造し多大の公損を生ず。よって留守居以下逼塞。
                   家禄減少・隠居等処罰差あり。この事件財政困窮の一因となる
                   【毛利十一代史】
亨保15年 6月    山口県史整理年表  これより前、幕府、藩札を禁ず。この日、旧時通用せしものに限りこれを許
                   す。十一月朔日藩札を発行す。萩に三ヵ所・諸郡七ヵ所札座を置き流通せしむ。
                   この日札遺仕法制定 【毛利十一代史】

亨保15年 6月18日  山口県史整理年表  長府町出火。逢坂まで延焼百戸 【長府毛利家乗】
亨保15年 8月1日   山口県史整理年表  長府藩、赤間関附近居住の諸士および農民に令して、消防担当の区域を定め、
                    出火の時は直に赴援せしむ 【長府毛利家乗】
亨保15年 8月5日  山口県史整理年表  今明日、両国風雨洪水。被害夥し 【毛利十一代史】
亨保15年 8月15日  山口県史整理年表  幕府凶年手当のため諸大名に貯米を命ず 【毛利十一代史】

亨保15年 10月19日  筑前大野家墓誌  ●筑前大野家 大野氏勝没 法名 清流院殿山月秋水居士

亨保15年 10月    藩史大辞典    ○徳山藩藩債額多額のため、当年より五ケ年士庶に馳走米を命ずる。
亨保15年 11月    山口県史整理年表  御中間以下袴着用を禁止す 【毛利十一代史】
亨保15年 12月19日  山口県史整理年表  江戸郡夫奉公人の給銀を定む 【毛利十一代史】
亨保15年 12月26日  山口県史整理年表  岩国札銀使用法制定。錦見町および柳井町に札支配座を設置 【岩邑年代記】
亨保15年 12月26日  藩史大辞典    ○岩国藩 札違法制定 藩札支配座を錦見及び柳井町に設ける。


西暦1731年
亨保16年 1月11日  山口県史整理年表  吉川氏、札銀を発行す 【岩邑年代記】

亨保16年 2月4日   屋代今元系譜   ◎今元本家二代目直秀婦 ミネ(片山新六女)歿 壽91歳

亨保16年 2月21日  山口県史整理年表  財政困窮につき去年通りの馳走出米を命ず 【毛利十一代史】
亨保16年 2月25日  山口県史整理年表  徳山藩、藩札を発行す 【徳山藩史稿】
亨保16年 2月26日  山口県史整理年表  年来大阪倉米蔵元米券を偽造し多大の公損を生ず。よって留守居以下逼塞。
                    家禄減少・隠居等処罰差あり。この事件財政困窮の一因となる
                   【毛利十一代史】
亨保16年 3月    山口県史整理年表  右田毛利広政、山県周南を介し、滝鶴台を招き郷校時観園の儒役とす
                   【防府の今昔】
亨保16年 3月2日  山口県史整理年表  新規の寺社建立禁止。享保十三年の令に重ねて訓達す 【毛利十一代史】

亨保16年 4月16日  山口県史整理年表  江戸大火。萩藩桜田邸・新橋邸類焼す。向う五年間馳走米三石を増課
                   【毛利十一代史】
亨保16年 8月12日  山口県史整理年表  両国風雨。高七万三千石余被害あり 【毛利十一代史】
亨保16年 9月13日  山口県史整理年表  吉元江戸にて死す。五五 【毛利十一代史】
亨保16年 11月23日  山口県史整理年表  江戸玉川上水修復のため、防長石高に割り、年賦出銀を命ぜられる
                   【毛利十一代史】
亨保16年 12月28日  藩史大辞典    ○岩国藩 岩国札発行する。


西暦1732年
亨保17年      藩史大辞典    ○岩国藩 享保11年着手の領内地図が完成する。
亨保17年 2月    山口県史整理年表  長府領豊浦三郡一ヵ年の普請料を銀二貫三百匁と定め、池堤・橋梁等の修理或
                    は川浚等の経費に充てしむ 【治郡要領】
亨保17年 2月5日   山口県史整理年表  岩国川西火事。百三十二軒焼失 【御用所日記】
亨保17年 5月    山口県史整理年表  大雨数度。豊浦・都濃両郡最も被害甚し 【毛利十一代史】
亨保17年 閏5月3日  山口県史整理年表  宗広初入国、この日萩城に入る 【毛利十一代史】

亨保17年 6月12日  山口県史整理年表  近年諸士へ馳走米を重課したるにより、享保十四年以来貸与の銀七百五十貫三
                   百四十九匁、米一万千六石三斗の返済を免除し、かつ禄高百石につき、正銀二百
                   匁を限度として貸与す 【毛利十一代史】
亨保17年 8月    山口県史整理年表  両国の人口を幕府に報告す。合計四十八万六千四百八十五人 【毛利十一代史】

亨保17年 5~8月   愛媛県史     松山藩 餓死3489人、牛馬死3097疋、飢人18505人、藩主久松貞英は幕府よ
                   り咎め、国家老山内与右衛門切腹さる。

亨保17年 8月12日  山口県史整理年表  萩大雨。阿武川洪水大橋流失す 【毛利十一代史】
亨保17年 9月13日  山口県史整理年表  下松大火。百二十六軒焼失 【徳山毛利家記録類纂】
亨保17年 9月28日  山口県史整理年表  両国蝗害激甚。幕府に請願し、金二万両・米一万六千石を借り、賑救の資に
                   充つ 【御両国中就蝗枯御拝借金御救一巻記録】
亨保17年 11月9日  山口県史整理年表  岩国錦見町にて飢民に粥の施与を始む 【岩邑年代記】
亨保17年 12月5日  山口県史整理年表  徳山藩飢民を調査し救米を交付す 【徳山毛利家記録類纂】
亨保17年 12月5日  藩史大辞典    ○徳山藩内蝗害著しく、多数の飢餓者あり。町方地方約一万人に救米を支給する。
亨保17年 12月6日  山口県史整理年表  両国蝗害総額田畑高二十九万二千七百四十石七斗九升二合五勺なるを幕府に
                   報ず 【毛利十一代史】
亨保17年 12月20日  山口県史整理年表  赤間関阿弥陀寺炎上 【長府毛利家乗】


西暦1733年
亨保18年      山口県史整理年表  昨年来玖珂郡山代下畑の餓死者三百四人におよぶ。よってこの年、同村
                    東大寺境内に供養塔を建て、また、同村養専寺において、十巻読経の追善会
                    を行い、施主より虫枯記一巻を納入す 【山代誌】
亨保18年 1月7日   山口県史整理年表  去年未曽有の凶荒、悪疫流行、餓死者多く悲惨を極む。当職毛利広政諸郡を
                    巡察す。この月の飢人十二万四千六百人 【毛利十一代史】
亨保18年 1月15日  山口県史整理年表  幕府倹政令公布。蝗害につき当年より三ヵ年献上物の員数を減ず
                   【毛利十一代史】
亨保18年 2月    山口県史整理年表  両国内の飢餓を検す。正月以降十七万七千五百余に上る 【故事年表】

亨保18年 2月18日   山口県史整理年表  熊毛郡室積失火。民家二百二十六戸焼失 【毛利十一代史】
亨保18年 3月27日   山口県史整理年表  右田毛利広政死す。四七
亨保18年 5月5日   山口県史整理年表  岩国領米不足につき知行米に麦を混入 【岩邑年代記】
亨保18年 5月24日  山口県史整理年表  根来主馬、給領地虫枯検見の時、落米に関し不正あり。農民直訴におよぶ。
                    審問の結果、知行所を没収し、浮米を給す 【毛利十一代史】
亨保18年 7月    山口県史整理年表  岩国に痢病流行す 【御用所日記】
亨保18年 7月5日   山口県史整理年表  今明日風雨洪水。田畠被害高五万六千石余 【毛利十一代史】

亨保18年 7月23日  山口県史整理年表  御代初めなるも所帯難渋、去秋虫枯につき、近年の通り馳走米を課す
                   【毛利十一代史】

亨保18年 8月6日   ウイキ    ○天野屋利兵衛(九郎兵衛直之)没。73歳 松永土齋と称し墓は昆陽山地蔵院
                  (椿寺)と云われる。
亨保18年 8月6日  天野屋利兵衛傳  天野屋利兵衛(九郎兵衛直之)没、73歳 京・地蔵院(椿寺)に葬る。墓あり。
                  号 法正院空譽土斉善士
亨保18年 8月6日  地蔵院過去帳   法正院空譽土斉善士 / 八月六日  天野屋利兵衛
亨保18年 8月6日  地蔵院伝承    天野屋利兵衛辞世  『武士の猛き心の梓弓 我もひきぬる今日ぞ嬉しき』

亨保18年      屋代今元系譜   ◎今元本家三代目直就長女 ノブ(四代目河原重左衛門妻)没 壽52歳

亨保18年 9月27日  山口県史整理年表  阿武郡須佐浦失火。百十六戸を焼失 【毛利十一代史】
亨保18年 12月    山口県史整理年表  大津郡向津具浦出火。百余戸焼失 【毛利十一代史】
亨保18年 12月晦日  山口県史整理年表  歳晩諸士困窮により禄高百石に正銀二百匁を限度として救恤す
                   【毛利十一代史】


西暦1734年
亨保19年 2月3日  山口県史整理年表  赤間関伊崎浦失火。民家百十一戸焼失 【毛利十一代史】
亨保19年 8月11日  山口県史整理年表  馳走出米十五石懸り 【毛利十一代史】
亨保19年 9月2日  山口県史整理年表  春来しばしば風雨洪水。今明日最も甚し。秋収損亡高五万九千石
                  【毛利十一代史】
亨保19年 9月6日  山口県史整理年表  地下人去々年蝗害の救恤米に対し、蔵入給額とも石別三升宛馳走出米。鴻恩に
                  報ず 【毛利十一代史】
亨保19年 9月7日  山口県史整理年表  「授時暦諺解」の著者亀谷小兵衛死す 【防長歴史暦】
亨保19年 9月10日  山口県史整理年表  江戸加判国許加判順番の制を定む 【毛利十一代史】
亨保19年 10月10日  山口県史整理年表  吉川氏、幕府より朝鮮人蔘を得て、横山にて栽培を始む 【御用所日記】
亨保19年 12月    山口県史整理年表  去年の例により諸臣の貧困を賑救す 【毛利十一代史】
亨保19年 12月7日  山口県史整理年表  柳井出火。片側町・古市を焼き、鍛冶屋町半ば焼失 【御用所日記】


西暦1735年
亨保20年     山口県史整理年表  幕府両国の産物録上を命ず。仁保義方・烏田貫通これを調査す 【産物正控】
亨保20年     山口県史整理年表  益田元道その邑須佐に育英館を建つ 【萩史料】
亨保20年 2月8日  山口県史整理年表  長府瓊珠院祠堂米として米二十石を功山寺に寄附す。この日令して、これを従来
                  の祠堂米に加え、利息二割をもって郡中に貸付け、毎年その利米を功山寺に納め
                  しむ 【治郡要領】
亨保20年 4月22日  山口県史整理年表  長府毛利師就死す。三〇 【長府毛利家乗】
亨保20年 6月2日  山口県史整理年表  幕府諸侯に令し領民の金を強借するを禁ず 【毛利十一代史】
亨保20年 7月   山口県史整理年表  幕府難波船検査の制を定む 【毛利十一代史】

亨保20年 7月16日  山口県史整理年表  今明日両国内大風雨洪水。田圃その他被害甚大 【毛利十一代史】
亨保20年 9月1日  山口県史整理年表  岩国札銀の通用を止む 【岩国沿革志】
亨保20年 9月25日  山口県史整理年表  梅月堂宣阿(香川景継)京都にて死す。八九 【香川記録】
亨保20年 9月29日  山口県史整理年表  岩国領酒・衣・羽織地・薪等口銭を定め、その他の品は口銭免除 【御用所日記】
亨保20年 10月6日  山口県史整理年表  美祢郡大田村失火。二百余軒焼失す 【毛利十一代史】
亨保20年 10月18日  山口県史整理年表  岩国領山代組の名称を藤谷組と改称 【御用所日記】
亨保20年 10月18日  藩史大辞典     ○岩国藩 山代組を藤谷組と改称する。
亨保20年 10月23日  山口県史整理年表  吉川氏訴訟箱(目安箱)を岩国錦見乗越に置く 【岩国沿革志】
亨保20年 11月21日  山口県史整理年表  賭勝負を禁制す 【諸御書附(郡作法)】


西暦1736年
元文元年      大龍寺由緒書(兼助版)  ○毛利吉元の命による防長「寺社由来」録上が大島宰判でも始まる。
                     (提出先 寺社奉行井上武兵衛)

元文元年     山口県史整理年表  両国内春来しばしば風雨あり。五月六日、十月五日・六日最も甚し。被害高八万
                  四千五百石余 【毛利十一代史】
元文元年 2月18日  山口県史整理年表  宍戸大学領地境界山野年来争論。審問の結果遠慮を命じ開作地を没収す
                  【毛利十一代史】
元文元年 3月18日  山口県史整理年表  他国鋳物師・細工師の両国内入込みを禁ず 【御書附其外後規要集】
元文元年 3月26日  藩史大辞典    ○徳山藩内、正銀不足の為、藩札の運用を停止する。


1736 元文 4月28日  改元・出典「文選」 げんぶん(代始改元による(桜町天皇-6年間)【勘申者 菅原在秀】

元文元年 5月26日  山口県史整理年表  金銭吹替につき両国中札銀を通用せしむ 【御書附其外後規要集】
元文元年 6月1日   山口県史整理年表  近年諸士の奢侈法に越ゆるもの多し。この日、享宴の制を定め、厳に倹省を令す
                   【毛利十一代史】
元文元年 6月15日  山口県史整理年表  この日より防長両国「文の字」金銀を通用す。古金百両につき、文の字金百六十
                   五両、古銀十貫目につき、文の字銀十五貫目それぞれ歩増 【毛利十一代史】

元文元年 7月5日   屋代島佐村系譜   初代佐村弥左衛門卒去する。

元文元年 8月2日   山口県史整理年表  馳走米十三石懸り 【毛利十一代史】
元文元年 9月1日   山口県史整理年表  文銀通用、文銀一匁につき五十四匁と定む 【御用所日記】
元文元年 12月    山口県史整理年表  御扶持方成の期間中仲間寄合に参会を停む 【毛利十一代史】
元文元年 12月5日   山口県史整理年表  豊浦郡安岡村・阿武郡大井村ともに百余戸を焼く 【毛利十一代史】
元文元年 12月11日  山口県史整理年表  御立山採用・芝居物許可等を慎重にすべきを令す 【毛利十一代史】


1737 元文2年 2月15日  山口県史整理年表  徳山毛利広豊遠石八幡宮に留記を奉納す 【徳藩年表】
元文2年 2月28日   山口県史整理年表  儒者小倉尚斎明倫館学頭十九年勤続、御什書御系図掛永田瀬兵衛十年勤労によ
                   り賞賜 【毛利十一代史】
元文2年 6月15日   山口県史整理年表  鳥田貫通「長防物産名寄(両国本草)」を著す
元文2年 9月2日   山口県史整理年表  強風高潮。竪ケ浜・柳井開作・岩国川下・同今津開作の土手決潰 【岩邑年代記】
元文2年 11月18日  山口県史整理年表  山県周南を明倫館学頭に任ず
元文2年 11月晦日  山口県史整理年表  見島郡に朝鮮の漁船漂着 【毛利十一代史】
元文2年 11月9日  山口県史整理年表  赤間関出火。百五十三戸焼失 【毛利十一代史】


西暦1738年
元文3年     山口県史整理年表  徳山藩領内虫損甚大。高一万三千石余におよぶ 【徳山藩史稿】
元文3年 1月   山口県史整理年表  岩国領「享保増補村記」および小村図全く成る
元文3年 6月1日  山口県史整理年表  両国風雨洪水 【毛利十一代史】

元文3年 6月11日  屋代大野系譜   ●58代大野直儀弟直親(杉原玄清七男)歿 七十五歳 号典獄宗隆居士
元文3年 8月   山口県史整理年表  御扶持方成近年増加して二百人におよび、勤番者減少す 【毛利十一代史】
元文3年 8月4日  山口県史整理年表  当年馳走出米八石懸り、地下馳走米石別二升 【毛利十一代史】
元文3年 9月12日  山口県史整理年表  両国の人口を幕府に報告。四十七万五千八百四十五人 【毛利十一代史】
元文3年 9月28日  山口県史整理年表  徳山藩領内下村を富田と改称す 【徳山毛利家記録類纂】
元文3年 10月1日  藩史大辞典     ○徳山藩、上納銀の半額は銀、半額は銭とする。
元文3年 10月9日  山口県史整理年表  石川源八の砲技熟達を表彰す 【毛利十一代史】

元文3年 10月25日  山口県史整理年表  畠方上納石貫銀、銀一匁につき、古法の通り銭八十文と定む
                   【諸御書附(郡作法)】
元文3年 12月   山口県史整理年表   諸郡地下内証小貫に関し、箇条を頒つ 【御書附其外後規要集】
元文3年 12月8日  山口県史整理年表  十五才未満の小児前髪をとり元服するを禁ず 【毛利十一代史】
元文3年 12月22日  山口県史整理年表  三田尻中野および中浜開作築立 【防府の今昔】

元文3年      大洲秘録      ○大洲藩士 人見甚左衛門栄智 「大洲秘録」を編纂する。


西暦1739年
元文4年     山口県史整理年表  萩城三郭の水路を浚渫し北海へ通ず 【故事年表】
元文4年     山口県史整理年表  萩藩士に家譜の録上を命ず 【萩藩譜録】
元文4年     山口県史整理年表  足軽以下の人員を調査す。総計六千二百四十八人 【もりのしげり】
元文4年 2月20日  山口県史整理年表  開作地拝領に関して訓令す 【毛利十一代史】
元文4年 2月25日  山口県史整理年表  二十番山に関し在国の老臣より意見書を提出 【毛利十一代史】
元文4年 2月25日  山口県史整理年表  明倫館寄宿生に関し訓令す 【毛利十一代史】
元文4年 4月22日  山口県史整理年表  両国備荒貯穀の法を設く 【毛利十一代史】
元文4年 6月8日  山口県史整理年表  岩国領訴訟箱、従来職役開封のところ、当主の開封となす 【御用所日記】

元文4年 6月12日  山口県史整理年表  三田尻官船鴻鶴丸に大砲を設備 【防府の今昔】
元文4年 6月26日  山口県史整理年表  当職山内縫殿に財政整理・諸士馳走米返付その他の公旨を達す 【毛利十一代史】
元文4年 8月5日  山口県史整理年表  今明日、両国暴風雨洪水 【毛利十一代史】
元文4年 9月21日  山口県史整理年表  両国の銅山六ヶ所を幕府に報告 【毛利十一代史】

元文4年 8月25日  筑前大野家墓誌  ●筑前大野家 大野貞廣没 法名 円成院殿正雲自覚居士

元文4年 9月21日  山口県史整理年表  両国の銅山六ヶ所を幕府に報告 【毛利十一代史】
元文4年 11月1日  山口県史整理年表  阿武郡須佐湾に朝鮮船漂着 【毛利十一代史】
元文4年 12月   山口県史整理年表  諸臣歳晩貧困者に禄高百石につき銀五十目を貸与す 【毛利十一代史】
元文4年 12月24日  山口県史整理年表  明春三月二十一日より十四日間、赤間関阿弥陀寺境内において歌舞伎・操芝居
                   の興行を許可す。予め長府藩士の見物を禁ず 【長府毛利家乗】


西暦1740年
元文5年 1月4日    山口県史整理年表  当職山内縫殿、財政用務に関し、下僚を率いて出府す 【毛利十一代史】
元文5年 3月      山口県史整理年表  旅役出米の外、馳走米返石を令す 【毛利十一代史】
元文5年 3月9日    山口県史整理年表  長府藩、三郡代に令し今後池堤の普請・樋の取替等は郡代役座において厳重に
                    その吟味を遂ぐることとし蔵入地以外は、願書の申達を中止せしむ
                    【治郡要領】
元文5年 閏7月22日  山口県史整理年表  両国内風雨洪水 【毛利十一代史】
元文5年 8月27日   山口県史整理年表  御扶持方成の期間中と雖も養子縁組を許可す 【毛利十一代史】
元文5年 9月23日   山口県史整理年表  藩主在国中諸士在郷請暇の諸規定に関し訓令す 【毛利十一代史】
元文5年 10月18日  山口県史整理年表  諸郡御立山町数木数大小付出を命ず 【諸御書附(郡作法)】


西暦1741年
寛保元年     山口県史整理年表  萩城二郭外に植林 【渡辺年表】
寛保元年     山口県史整理年表  春より夏にかけ岩国市外に痘瘡流行 【御用所日記】
寛保元年 1月20日  山口県史整理年表  大島郡安下庄・外人両浦網代葛藤に関し、同郡二老加藤九市郎、偏頗の処分をな
                   せしにより、遠島を命じ給米を没収す 【毛利十一代史】
寛保元年 2月   山口県史整理年表  この春、明倫館に石碑を建つ。山県周南、その文を撰す 【明倫館記】
寛保元年 2月16日  山口県史整理年表  寺社家官位等につき、上京または本山輪番の時、借銀願出に関し令す
                  【毛利十一代史】

寛保 2月27日  改元・出典「国語」 かんぽう(辛酉改元による(桜町天皇-4年間)【勘申者 菅原長香】

寛保元年 3月1日  山口県史整理年表  諸士馳走出米・旅役米の外免除 【毛利十一代史】

寛保元年 5月28日  萩藩伐閲録 ○村上図書元敬の手による「村上図書元敬譜録一、二」を萩藩に提出する。

寛保元年 6月19日  山口県史整理年表  徳山藩再興の功臣奈古屋里人死す 【防長歴史暦】
寛保元年 7月    山口県史整理年表  山口宰判は他国と異なり、藩費営繕の寺社多く、その他地下諸役繁多につき、
                   当島・三田尻宰判同様に諸士への配地を留む 【小箱旧記抜書】
寛保元年 7月    山口県史整理年表  徳山藩、領内町方目安書を作る 【御領内町方目安】
寛保元年 7月23日  山口県史整理年表  船木宰判代官役吉崎作右衛門大島・船木代官役中公益を増進す。この日辞職を
                   許し賞賜 【毛利十一代史】

寛保元年 8月7日   山口県史整理年表  厚狭赤川硯石を赤間硯の材料とす 【御書附其外後規要集】
寛保元年 8月24日  山口県史整理年表  文武師家の江戸番手を免除。明倫館稽古日には萩城番をも免除 【毛利十一代史】

寛保元年 10月   屋代大野系譜   ●59代大野直深(直儀弟)室(三戸半兵衛女)歿 五十七歳 号安室智性大姉

寛保元年 11月28日  山口県史整理年表  両国内春以来の洪水風雨損害の景況を幕府に上申す 【毛利十一代史】


西暦1742年
寛保2年 1月10日   屋代大野系譜  ●58代大野直儀妹オセン夫長谷川小十郎妻歿 号覚誉本貞信士

寛保2年 2月    山口県史整理年表  重ねて百姓町人の品定を公布 【毛利十一代史】
寛保2年 4月3日   山口県史整理年表  岩国領日積村・神代村に漆・五葉松・吉野杉・吉野檜等一万二千八百株を植う
                   【岩国沿革志】
寛保2年 6月29日  山口県史整理年表  徳山藩、家士の下女を妻に直すことを禁ず 【徳山藩史稿】
寛保2年 7月18日  山口県史整理年表  今・来年馳走出米旅役米ともに十二石懸り 【毛利十一代史】

寛保2年 9月4日   屋代大野系譜   ●60代大野直治妹ヲイト没 三十二才 号歓屋栄喜大姉

寛保2年 9月4日   山口県史整理年表  宗広両国初巡視 【毛利十一代史】
寛保2年 9月20日  山口県史整理年表  三田尻鯖川に船橋を架く 【もりのしげり】
寛保2年 10月6日  山口県史整理年表  幕命により関東利根川の堤防を修築。翌三年三月竣工 【毛利十一代史】
寛保2年 10月28日  山口県史整理年表  利根川堤防修築につき諸士馳走米十二石懸りの上に更に一石を増課す
                  【毛利十一代史】
寛保2年 12月19日  山口県史整理年表  両国内春来風雨洪水の被害高一万八千八百四十石余。これを幕府に報告 
                   【毛利十一代史】


西暦1743年
寛保3年     山口県史整理年表  山代楮石を廃止す 【防長造紙史研究】
寛保3年 1月   山口県史整理年表  雇人恩給銀に関し訓令す 【毛利十一代史】
寛保3年 2月20日  山口県史整理年表  利根川工事のため半知馳走米を賦課す 【毛利十一代史】
寛保3年 2月24日  山口県史整理年表  幕府菜種を増作し大阪へ輸出のことを令す 【毛利十一代史】
寛保3年 3月    山口県史整理年表  知行所榜示物切開作ならびに榜示の海面干潟開作願出のことに関し令す
                  【諸御書附(郡作法)】

寛保3年 6月    山口県史整理年表  岩国領の田帳改訂成る。総高七万七十五石余 【岩国沿革志】
寛保3年 6月    藩史大辞典     ○岩国藩 田帳改帳し、高7万3075石余となる。
寛保3年 6月    山口県史整理年表  婦人の櫛・笄に金銀類を用いることを禁ず 【萩史料】
寛保3年 8月   山口県史整理年表  長府藩、郡中掟を改定す 【長府毛利家乗】
寛保3年 8月5日  山口県史整理年表  長府藩目付役の職務条規を定む 【長府毛利家乗】
寛保3年 8月13日  山口県史整理年表  爆風。萩・徳山地方特に甚し 【毛利十一代史】

寛保3年 8月19日  屋代大野系譜   ●60代大野直治後室(家の女重縁)歿 三十才 号木覚妙性大姉
寛保3年 8月30日  屋代今元系譜   ◎今元本家五代目直康(四代次男)歿 壽43歳

寛保3年 10月6日  山口県史整理年表  両国内の風雨洪水被害高十三万五千五百二十石余、倒家三千四百八十四戸その他
                   を幕府に報告 【毛利十一代史】
寛保3年 11月1日  屋代今元系譜   ◎今元本家四代目直光歿 壽66歳


西暦1744年
延亨元年      山口県史整理年表  萩地河島より石屋町に至る小渠数百間を開鑿す 【毛利十一代史】
延亨元年      山口県史整理年表  岩国領内船改あり。五百四十三艘 【岩邑年代記】
延亨元年 2月7日   山口県史整理年表  長府藩、養子縁組の制を定め、財産目当の結婚を禁ず。また町屋敷に対する税役
                   賦課のことを令す 【長府毛利家乗】

延享 2月21日   改元・出典「芸文類聚」 えんきょう(甲子改元による(桜町天皇-5年間)【勘申者 菅原長香】

延亨元年 6月   山口県史整理年表  厚狭郡須恵西ノ浜開作築立 【旧耕調査】
延亨元年 7月28日  山口県史整理年表  馳走米・旅役米ともに十石懸りに減ず 【毛利十一代史】
延亨元年 8月10日  山口県史整理年表  春来両国風雨洪水数度。この日最も甚し。田畑損害高十二万二千二百二十石余・
                   家屋の倒覆総て五千八十余戸 【毛利十一代史】
延亨元年 9月13日  山口県史整理年表  幕令により両国の人口を報告五十二万千五百三十一人 【毛利十一代史】
延亨元年 9月14日  山口県史整理年表  長府藩、士卒の給禄米券決算の期を一二月二日と定む 【長府毛利家乗】
延亨元年 9月16日  山口県史整理年表  徳山藩、城下に武芸稽古場を造築。この日諸業を開始 【徳山毛利家記録類纂】

延亨元年 10月2日  屋代大野系譜    ●徳山大野四代直賢(大野三郎左衛門三男)歿 号野水軒浄広知足居士


西暦1745年
延亨2年     山口県史整理年表  長府藩、管内の畠銀・小物成銀・市街地の地租・その他の諸税を二割半増徴の制を
                  廃し旧に復す 【長府毛利家乗】
延亨2年 2月9日  山口県史整理年表  吉敷郡阿知須失火。二百三十余戸焼失 【毛利十一代史】
延亨2年 6月25日  山口県史整理年表  両国大雨洪水。七月十四日また洪水。田圃損害高十四万二千七十石余、家屋倒覆
                  大小二千八百五十七軒 【毛利十一代史】
延亨2年 10月18日  山口県史整理年表  水害のため半知馳走米を賦課す 【毛利十一代史】


西暦1746年
延亨3年     山口県史整理年表  佐波郡出雲神社焼く 【風土注進案】
延亨3年      山口県史整理年表  長府藩はじめて目安箱を忌宮神社の傍に設置す 【長府毛利家乗】
延亨3年     山口県史整理年表  春より岩国領内に痘瘡流行。冬に至り甚し 【御用所日記】
延亨3年 1月16日  山口県史整理年表  幕達により萩藩江戸詰の人数を報告す。総数二千百七十一人 【毛利十一代史】
延亨3年 5月24日  山口県史整理年表  幕府巡見使小幡又十郎・板橋民部・伊奈兵庫入国 【毛利十一代史】
延亨3年 7月24日  山口県史整理年表  倹政を令し、本年馳走米旅役米とも十二石懸り、翌年および翌々年、旅役米とも
                  十一石懸りとす 【毛利十一代史】
延亨3年 8月7日  山口県史整理年表  宗広明倫館に至り文武奨励の諭書を読知せしむ 【毛利十一代史】
延亨3年 8月13日  山口県史整理年表  春来、風雨洪水数度この日萩附近殊に甚し。田圃の損害高十三万五千三十余石
                  家屋倒壊三千六百七十余戸 【毛利十一代史】


西暦1747年
延亨4年     山口県史整理年表  佐波郡牟礼開作築立に着手、翌年成就 【風土注進案】
延亨4年 2月14日  山口県史整理年表  萩大照院炎上す 【毛利十一代史】
延亨4年 2月晦日  山口県史整理年表  山代宰判を前奥の二宰判に分つ 【役人帳】
延亨4年 3月21日  山口県史整理年表  岩国領痘瘡遠慮定改訂 【御用所日記】
延亨4年 5月   山口県史整理年表  長府藩痘瘡の伝染予防のため患者および看護人の遠隔期間を定む  
                 【長府毛利家乗】
延亨4年 7月7日  山口県史整理年表  徳山城下沖禁漁区設置。権現社沖に番船を出す 【徳山藩史稿】
延亨4年 9月   山口県史整理年表  八・九月頃両国感冒流行。諸郡に満願寺の芥子符を配布す
延亨4年 9月18日  山口県史整理年表  岩国家中に半知馳走の制を布く 【岩国旧記】
延亨4年 11月5日  山口県史整理年表  老臣山内広通死す。藩の財政整理に殊功あり

延亨4年 11月28日 屋代島 佐村系譜  初代佐村弥左衛門室卒去


西暦1748年
寛延元年 2月10日  山口県史整理年表  都濃郡譲羽村百姓二十人徳山藩政府に直訴す 【徳山藩史稿】
寛延元年 4月4日   山口県史整理年表  朝鮮信使来朝、赤間関寄港。7日上関寄港 【毛利十一代史】

寛延 7月12日   改元・出典「文選」 かんえん(即位改元による(桃園天皇-4年間)【勘申者 菅原為範】

寛延元年 8月4日  山口県史整理年表  明倫館講師および諸武芸師家に文武作興を訓令す 【毛利十一代史】
寛延元年 8月27日  山口県史整理年表  こと楮の他国出津を停む 【御書附其外後規要集】
寛延元年 9月2日  山口県史整理年表  両国内大風雨洪水。田圃損害高九万七千二百三十一石家屋倒壊六千八百三十戸
                  【毛利十一代史】
寛延元年 9月2日  藩史大辞典    ○徳山藩内、大暴風雨のため、1372軒倒壊する。
寛延元年 10月28日  山口県史整理年表  大阪運送米の大阪における渡方仕法を令す 【御書附其外後規要集】

寛延元年    屋代今元系譜    ◎今元本家五代目直康次男由右衛門(今元分家森元初代)長男森元好右衛門誕生

寛延元年 閏10月28日  山口県史整理年表  明倫館学頭山県周南辞職。講師津田泰・小倉実県廉両人に学頭を命じ隔年
                    交番に勤務せしむ 【毛利十一代史】


西暦1749年
寛延2年     山口県史整理年表  徳山藩東山に煙硝蔵を設く 【徳藩年表】
寛延2年 1月6日  山口県史整理年表  佐波郡宮市失火。家屋大小百四十六戸焼失 【毛利十一代史】
寛延2年 1月29日  山口県史整理年表  永田政純、先代以来担任の系譜を編修せるを賞す 【毛利十一代史】
寛延2年 2月18日  山口県史整理年表  吉川氏岩国横山に桜・楓、城山に松を植う 【岩邑年代記】
寛延2年 3月    山口県史整理年表  百姓地下暇のことを令す 【御書附其外後規要集】
寛延2年 3月1日  山口県史整理年表  馳走米・旅役米とも十石懸り 【毛利十一代史】
寛延2年 3月2日  山口県史整理年表  開作地仕法書・歩戻開作町数定・御馳走開作町数段分を公布す 【毛利十一代史】

寛延2年 3月9日  山口県史整理年表  婦人の衣服・櫛・笄および音信饗応に関し訓令す 【毛利十一代史】
寛延2年 5月14日  山口県史整理年表   両国内この日より十六日まで大雨洪水。田圃損害高七万七千三百五十石
                  【毛利十一代史】
寛延2年 8月24日  山口県史整理年表  犯罪人の死刑期日を改正す 【毛利十一代史】
寛延2年 9月19日  山口県史整理年表  長崎奉行、下関における俵物商売を長崎問屋小倉屋藤右衛門・紀伊国屋久次郎・
                  長崎屋弥兵衛に担当せしむ 【毛利十一代史】
寛延2年 12月   山口県史整理年表  萩市中その外各戸に戸主の名字を標せしむ 【毛利十一代史】
寛延2年 12月晦日  山口県史整理年表  諸郡社家中、偽造の吉田家裁許状を所持するものあり。春日大宮司波多野宮内両
                  国社家の棟梁として、疑わしき許状の審査をなさず伝達せしを罰し、家名断絶。
                  中麻原氏に春日社職を命ず 【毛利十一代史】


西暦1750年
寛延3年     山口県史整理年表  周防一宮を重建す 【防府の今昔】
寛延3年     山口県史整理年表  佐波郡出雲神社を再建す 【風土注進案】
寛延3年 3月9日  山口県史整理年表  長府藩士卒の農商より金を強借するを禁ず。また農商に令して藩士に対する不敬を
                  戒む 【長府毛利家乗】
寛延3年 3月12日  藩史大辞典    ○徳山藩、徳山村石高由来、境目書(地下上申)を録上する。
寛延3年 5月22日  山口県史整理年表  大照院の旧地に天樹院を再興、この日本堂および霊牌殿落成す 【毛利十一代史】
寛延3年 6月29日  山口県史整理年表  萩藩長崎屋敷名代周布俊右衛門罪あり、国元において処罰すべきも長崎町人たる
                   により長崎奉行所に交付す 【毛利十一代史】

寛延3年 7月17日  山口県史整理年表  吉川氏、勘渡押借の法を令す 【御用所日記】
寛延3年 8月5日  山口県史整理年表  岩国倹約方役所設置 【御用所日記】
寛延3年 8月5日  山口県史整理年表  美祢郡長登村銅山採掘かつ地下救済のため狂言芝居を許可す 【毛利十一代史】
寛延3年 8月21日  山口県史整理年表  両国人口幕府に報告。五十一万六千三百二十六人 【毛利十一代史】
寛延3年 9月1日  山口県史整理年表  大内義隆の二百回忌を山口竜福寺において修す 【毛利十一代史】

寛延3年 9月5日  山口県史整理年表  三田尻定市免許により、朔日より十五日まで市民救助のため、曲枕・芝居・軽業を
                  許可す 【毛利十一代史】
寛延3年 9月8日  山口県史整理年表  馳走出米・旅役米とも十五石懸り 【毛利十一代史】
寛延3年 11月18日  山口県史整理年表  萩浜崎宰判七ヶ浦の猟祭および明木市救済のため十五段の操芝居許可
                   【毛利十一代史】
寛延3年 12月15日  山口県史整理年表  両国今年数度大風洪水。田畑損害二万四千九十石余・倒家三百四十戸、その他
                   を幕府に上申す 【毛利十一代史】


西暦1751年
宝暦元年     山口県史整理年表  この頃厚狭郡藤山外開作・同藤曲第二次開作築立 
宝暦元年 1月   山口県史整理年表  岩国市街に疱瘡流行 【御用所日記】
宝暦元年 1月18日  山口県史整理年表  堺鉄砲師藍屋与三右衛門来萩。寸筒鉄砲一挺・じゅ鋳鍋二枚を献納す
                  【毛利十一代史】
宝暦元年 2月4日  山口県史整理年表  宗広萩城内にて死す。三五 【毛利十一代史】
宝暦元年 2月9日  山口県史整理年表  赤間関町人御手洗屋嘉右衛門、薩州船より唐物抜買の件に関し、大阪奉行所に
                  申告、幕府に内申す。薩州へ吏員を派遣す 【毛利十一代史】

宝暦元年 3月   山口県史整理年表  古田畠の外御立山、山野河川等の端々に櫨・楮植付、向後郡奉行に届出を命ず
                  【御書附其外後規要集】
宝暦元年 3月26日  山口県史整理年表  藩医栗山孝庵等、萩手洗川刑場においてはじめて屍体解剖を行う 【防長医学史】
宝暦元年 4月12日  山口県史整理年表  毛利匡敬、長府より入りて宗家を嗣ぎ、重就と改名 【毛利十一代史】
宝暦元年 閏6月15日  山口県史整理年表  冗費節約のため江戸邸勤務の人員を限定す 【毛利十一代史】
宝暦元年 閏6月21日  山口県史整理年表  重就、襲封のはじめ、諸士の負債を軽減し馳走米旅役米併せて十石懸り、また
                    貧困負債あるもの五朱利息十年賦償却の法を定む 【毛利十一代史】

宝暦元年 6月26日  山口県史整理年表  財政整理諸士救済。大阪表、藩債償却方法に関し、閣老に陳情書を提出す
                  【毛利十一代史】
宝暦元年 7月10日  山口県史整理年表  両国内正午より夜半まで大風雨 【毛利十一代史】
宝暦元年 7月21日  山口県史整理年表  長府藩市街地の法令を公布す 【長府毛利家乗】
宝暦元年 7月21日  山口県史整理年表  重就、黒印の令状を長府の老臣に授け、また法令数十条を公布して庶政を正す
                   【長府毛利家乗】
宝暦元年 9月18日  山口県史整理年表  佐波郡宮市天満宮来年二月八百五十年祭執行につき、前後三年間社祭の時、三十
                   日間曲鞠・曲枕等の興行を許可す 【毛利十一代史】

宝暦 10月27日  改元・出典「貞観政要」 ほうれき(変異改元による(桃園天皇-14年間)【勘申者 菅原為範】

宝暦元年 11月21日  山口県史整理年表  三田尻町に毎月三斎の市日の興行を出願、この日許可。美祢郡長登村銅山採掘地
                   方救済のため春秋両度芝居あるいは操歌舞伎を許可す 【毛利十一代史】


西暦1752年
宝暦2年     山口県史整理年表  重就、阪時存・長沼正勝・山県昌貞三老臣に治財の道を問う。三老合議して意見書
                  を上る 【三老上書】
宝暦2年      山口県史整理年表  吉敷郡佐山村遠波開作築立 【風土注進案】
宝暦2年 1月15日  山口県史整理年表 三 田尻櫨方の作業を開始す 【防府の今昔】
宝暦2年 2月21日  山口県史整理年表  岩国領内諸所山野の端に唐櫨の植付を勧奨す 【御用所日記】
宝暦2年 3月5日  山口県史整理年表  佐波郡中関鶴浜開作築立 【毛利十一代史】

宝暦2年 3月19日  山口県史整理年表  長府藩市街地および公道において調馬を禁ず 【長府毛利家乗】
宝暦2年 4月21日  山口県史整理年表  大阪表、負債のために入質したる米切手、債主より各所に散乱す。入質米切手の
                  現米交換に関し、大阪町奉行所への訴訟事件起きる 【毛利十一代史】
宝暦2年 5月29日  山口県史整理年表  徳山藩領内の野山あるいは川端にて切添新田を禁止す 【徳山毛利家記録類纂】
宝暦2年 6月1日   山口県史整理年表  重就、初入国。この日萩城に入る 【毛利十一代史】

宝暦2年 10月9日  山口県史整理年表  玖珂郡和木村与惣地川浚渫 【岩邑年代記】
宝暦2年 10月15日  山口県史整理年表  見島郡に朝鮮の漁船三隻漂着 【毛利十一代史】
宝暦2年 10月21日  山口県史整理年表  重就 大津郡瀬戸崎の捕鯨を見る 【毛利十一代史】
宝暦2年 11月23日  山口県史整理年表  萩城下禁猟区における殺生を禁ず 【毛利十一代史】
宝暦2年 12月21日  山口県史整理年表  厚狭郡後潟開作築立


西暦1753年
宝暦3年     屋代今元系譜  ◎今元本家五代目直康次男由右衛門(今元分家森元初代)長男森元好右衛門婦 誕生

宝暦3年     山口県史整理年表  毛利広漢(蘭陵)その邑豊浦郡阿川に学習館を建つ 【萩史料】
宝暦3年 1月24日  山口県史整理年表  百姓町人謁見人数定を令す 【毛利十一代史】
宝暦3年 3月3日  山口県史整理年表  長府藩、この月、在郷諸士私有の山を無断にて伐採するを禁ず 
                  【長府毛利家乗】
宝暦3年 4月29日  山口県史整理年表  幕府、諸藩の石高一万石につき、籾千俵の貯穀を令す。萩藩、籾一万二千九百
                   二十九石三斗五升貯蔵の旨を上申す 【毛利十一代史】
宝暦3年 5月    山口県史整理年表  諸士家計窮迫のものの扶持方成請願に関し訓令す 【毛利十一代史】

宝暦3年 5月29日  山口県史整理年表  岩国領麻疹遠慮定改訂 【御用所日記】
宝暦3年 7月29日  山口県史整理年表  藩札通用年限の延長を幕府に申請し、二十五ヵ年延長の許可あり
                  【毛利十一代史】
宝暦3年 8月1日  山口県史整理年表  財政困幣により、馳走米旅役米を増課して十八石懸りとす 【毛利十一代史】
宝暦3年 8月6日  山口県史整理年表  財政整理に関し五年間非常の倹政を布く 【毛利十一代史】
宝暦3年 8月25日  山口県史整理年表  藩札を発行し、札遣仕法書・札銀と銭との兌換その他の仕法書を公布。藩士禄高
                  百石につき、銀札百匁を貸与。 【毛利十一代史】
宝暦3年 8月25日  山口県史整理年表  規式省略に関し訓令す 【毛利十一代史】
宝暦3年 9月   山口県史整理年表  倹政につさ、品定に関し訓令す 【毛利十一代史】
宝暦3年 11月7日  山口県史整理年表  岩国領川舟艘別銀・投網その他猟札請銀の制を定む 【御用所日記】

宝暦3年 12月4日  屋代今元系譜   ◎今元本家四代目直光婦 ヤス(三代目小林七三長女)没 壽73歳


西暦1754年
宝暦4年      山口県史整理年表  徳山藩虫損甚大。減収高一万六千石余におよぶ 【徳山藩史稿】
宝暦4年 閏2月   山口県史整理年表  長府藩、赤間関出入船の条規を定め、その取締りを厳にす 【長府毛利家乗】
宝暦4年 2月9日   山口県史整理年表  幕府去年如く、諸藩の籾租十分の一を貯蔵せしむ 【毛利十一代史】
宝暦4年 3月18日   山口県史整理年表  岩国横山講堂成り、儒者樋口東里に預く 【御用所日記】
宝暦4年 8月2日   山口県史整理年表  江戸白金台町亀五郎抱屋敷千九百四十坪を買う 【毛利十一代史】
宝暦4年 8月27日  山口県史整理年表  長府藩管内の櫨実買上げの法を定め、田上源五兵衛をその主任とす
                  【長府毛利家乗】

宝暦4年 11月    山口県史整理年表  長府領豊浦三郡の普請銀の制を改め、川浚・地堤・内堀等の定郡夫扶持米とし
                   て、西豊浦郡八十石・豊浦郡七十石・東豊浦郡五十石。合計二百石を定額とし
                   て、その費に充てしむ 【治郡要領】
宝暦4年 11月3日  山口県史整理年表  両国内春来風雨洪水あり。被害状況を調査す 【毛利十一代史】
宝暦4年 11月17日  山口県史整理年表  長府藩財政逼迫のため、三年間士卒に馳走米を課し、百姓よりも石別一升五合を
                   徴収す。農民に対する臨時加徴の始めとす 【長府毛利家乗】
宝暦4年 11月19日  山口県史整理年表  長府藩、財政逼迫により、作付農料米・牛馬代銭等の支給困難なるも、やむを得
                   ざる者のみ明春補助することとし、該当者の調査を三郡代に達す 【治郡要領】


西暦1755年
宝暦5年     山口県史整理年表  この頃萩新堀に心学講談所を建つ。他国人時々来り講話す 【萩史料】
宝暦5年     山口県史整理年表  山県周南遺書「作文初問」刊行
宝暦5年     山口県史整理年表  岩国領軒別三株の楮植付を始む
宝暦5年 3月   山口県史整理年表  諸士文武諸芸奨励に関し訓令す 【毛利十一代史】
宝暦5年 5月2日  山口県史整理年表  防府国分寺において聖武天皇千年祭を営む 【毛利十一代史】
宝暦5年 6月17日  山口県史整理年表  天樹院霊牌を堀内天樹院に移し、これより旧天樹院を大照院と改む
                 【毛利十一代史】

宝暦5年 7月15日  山口県史整理年表  幕府、宝暦三年の囲籾を今年詰替、昨年の分は来年詰替、当年は囲籾におよばず
                  と令す 【毛利十一代史】
宝暦5年 8月23日  山口県史整理年表  禁猟区内において、鳥獣の捕獲を禁制す 【毛利十一代史】
宝暦5年 8月24日  山口県史整理年表  五月二十六日・六月朔・三日・十三日大雨洪水あり。今夜また大風雨。加えて蝗
                  害あり。両国内の被害甚大につき、諸士の禄高百石につき札銀五十匁を貸与す
                  【毛利十一代史】
宝暦5年 9月14日  山口県史整理年表  萩の田中に水車設置。後には紙漉場とす 【毛利十一代史】

宝暦5年 9月25日  山口県史整理年表  儒家山根道晋死す。三〇 【防長人物誌】

宝暦5年 12月5日  山口県史整理年表  幕府、当年米不作につき、貯籾一箇年の払出を令す 【毛利十一代史】


西暦1756年
宝暦6年     山口県史整理年表  佐波郡江泊開作の塩田成立す。岸津開作の修築全く成る。阿弥陀寺開作・東西塩屋
                  開作等の干拓に着手 【風土注進案】
宝暦6年 1月28日  山口県史整理年表  諸士過重の出米を徴するも、去年事故なく越年したるを賞す。また役給減少せし
                  も、緊要の時節につき容易に辞職を許可せざる旨を令す 【毛利十一代史】
宝暦6年 2月12日  山口県史整理年表  幕府、米穀不作高値につき、先年の貯籾残一ヵ年分の払出を許す
                  【毛利十一代史】
宝暦6年 3月    山口県史整理年表  岩国市街疱瘡流行

宝暦6年 3月25日  山口県史整理年表  阿武郡奈古町出火。百九十六戸焼失 【徳藩年表】
宝暦6年 5月    山口県史整理年表  両国人口を録上。五十二万四千六百四十六人 【毛利十一代史】
宝暦6年 6月19日  山口県史整理年表  岩国錦見町に茶問屋を設置し領外輸出を許す 【御用所日記】

宝暦6年 7月29日  山口県史整理年表  山根華陽に明倫館学頭、小倉実廉に側儒を命じ年番交代せしむ 【毛利十一代史】

宝暦6年 8月1日   山口県史整理年表  萩地方大雨高潮 【毛利十一代史】
宝暦6年 9月    山口県史整理年表  幕吏豊浦郡安岡永富独嘯庵の砂糖製造場を検し、かつ製法を問う
                  【長府御領砂糖製作一件】
宝暦6年 閏11月8日  山口県史整理年表  朝鮮船阿武郡大井浦に漂着 【徳山毛利家記録類纂】
宝暦6年 11月10日  山口県史整理年表  阿武郡木与浦に朝鮮船漂着 【毛利十一代史】
宝暦6年 11月18日  山口県史整理年表  財政困弊につき倹政方針に関し当職訓令 【毛利十一代史】
宝暦6年 11月20日  山口県史整理年表  大津郡黄波戸浦出火。民家百六戸焼失 【毛利十一代史】


西暦1757年
宝暦7年      山口県史整理年表  岩国領内、秋より疱瘡流行、冬に入りますますおうこう猖獗 【御用所日記】
宝暦7年 5月11日  山口県史整理年表  諸士扶持方成に関し訓令し向う五年間に限り三度目の扶持方成を許す
                  【毛利十一代史】
宝暦7年 6月21日  山口県史整理年表  木綿塩頼母子いろは付等を禁ず 【御書附其外後規要集】
宝暦7年 7月    山口県史整理年表  若崎幸助、弟梅三郎とともに大阪の千歳谷豊三郎に式三番の伝授を受け、川棚村
                   北八幡宮に納むる家伝の翁面および系図を受けついで一座を再興。のち若嶋座と
                   改称 【若島座一巻】
宝暦7年 7月    山口県史整理年表  若崎幸助、長府藩主に請い、領内において諸願成就のために歌舞伎興行を許さる
                    【若島座一巻】

宝暦7年 8月    山口県史整理年表  民家諸事教訓の事を令す 【御書附其外後規要集】
宝暦7年 8月24日  山口県史整理年表  異国船漂着の時の手当につき長崎陸目付よりの照会に対し回答す
                  【毛利十一代史】
宝暦7年 9月20日  山口県史整理年表  御徳用櫨一件につき訓示す 【御書附其外後規要集】
宝暦7年 10月26日  山口県史整理年表  両国内正銀通用を差留め、すべて札銀通用とす 【御書附其外後規要集】
宝暦7年 11月23日  山口県史整理年表  大阪における新古借銀・浜方先納借等償却方法協議のため昨年来当職以下上阪
                   し、協議完了 【毛利十一代史】
宝暦7年 12月23日  山口県史整理年表  岩国茶道焼物方山県梅軒死す。七五 【御家中系図】


西暦1758年
宝暦8年 春     山口県史整理年表  藩内医家の流儀を調査す 【御用所日記】
宝暦8年     山口県史整理年表  佐波郡中関新上地開作築立 【風土注進案】
宝暦8年 3月5日  山口県史整理年表  美祢郡伊佐村徳定の者に両国内売薬を許可す 【御書附其外後規要集】
宝暦8年 4月17日  山口県史整理年表  厚狭郡船木町出火。民家百五十戸焼失 【毛利十一代史】
宝暦8年 6月   山口県史整理年表  川棚若崎幸助一座、阿武郡須佐・江崎・大津郡瀬戸崎において興行し、ついで大阪
                  へ上る 【若島座一巻】
宝暦8年 6月16日  山口県史整理年表  岩国領疱瘡流行甚しきため遠慮定を改定す 【御用所日記】

宝暦8年 7月19日  山口県史整理年表  岡藤七を鵜遣い伝習のため、濃州岐阜へ派遣、この日尾州侯より贈られたる
                   鵜二羽を携えて帰る 【毛利十一代史】
宝暦8年 7月24日  山口県史整理年表  京都吉田家より両国神職に関し許状相伝神事怠慢なく相勤むるよう依頼あり
                  【毛利十一代史】
宝暦8年 9月1日  山口県史整理年表  本年馳走米十五石懸り 【毛利十一代史】
宝暦8年 9月8日  山口県史整理年表  毛利虎槌の家来松田等叔をその身一代絵師に採用 【毛利十一代史】
宝暦8年 11月5日  山口県史整理年表  厚狭毛利元連三田尻田島開作かま鍬初 【毛利十一代史】

宝暦8年 11月8日  山口県史整理年表  重就、医生を城中に召し、医書を講ぜしむ 【毛利十一代史】

宝暦8年 11月22日  大野家聞書   ○伴 直次 「大野家聞書」を筆写する。 (伴は大野の本姓か?大野直利系文書?)

宝暦8年 12月1日  山口県史整理年表  重就、戒箇条を直書し一門以下に告示す 【毛利十一代史】


西暦1759年
宝暦9年      屋代大野系譜   ●58代大野直儀妹オタカ(友田与左衛門妻不縁後五十君幸右衛門妻)歿 
                  号真性院実相妙観大姉 寺山に葬る.

宝暦9年     山口県史整理年表  萩金谷天満宮建築成る 【萩史料】
宝暦9年 3月5日  山口県史整理年表  重就、洞春公の神位を拝し願文を奉じて藩政改革のことを告げ、冥助を祈る
                 【毛利十一代史】
宝暦9年 3月5日  山口県史整理年表  諸士の馳走米を減じ十石懸りとす。また頼母子講を設け銀八百貫匁を得
                 【毛利十一代史】
宝暦9年 4月28日  山口県史整理年表  諸士妻女の衣服華美を禁ず 【毛利十一代史】

宝暦9年 5月28日  山口県史整理年表  大阪負債整理のため裏判高洲平七等に出府を命ず 【毛利十一代史】
宝暦9年 閏7月   山口県史整理年表  財政改革のため、所務米銀と馳走米銀とを引分け、所務米銀は経常費に、馳走米
                   銀は藩債償還の資に充つ 【御仕組諸借米銀事】
宝暦9年 閏7月25日  山口県史整理年表  岩国倹約方役所を廃す 【御用所日記】
宝暦9年 8月8日   山口県史整理年表  幕府金銀札遣新規通用禁止を令す。従来通用の分は年限中のみとす
                   【毛利十一代史】
宝暦9年 8月晦日  山口県史整理年表  幕府諸国神社を調査す。両国神社帳を録上す 【毛利十一代史】
宝暦9年 12月晦日  山口県史整理年表  長府藩今年に限り藩吏に増俸す 【長府毛利家乗】

大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(AD1697年~1724年)

2023年01月29日 18時06分14秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1697年
元禄10年      山口県史整理年表  玖珂郡山代楮検査 【毛利十一代史】
元禄10年      山口県史整理年表  馳走米十六石懸り 【毛利十一代史】
元禄10年       山口県史整理年表  宇部常盤池築立 【享保増補村記】
元禄10年       山口県史整理年表  岩国領内寺社由来記成る 【岩邑年代記】
元禄10年       山口県史整理年表  平生竪ヶ浜開作築立 【享保増補村記】
元禄10年      山口県史整理年表  徳山藩、酒税五割を徴収す 【徳山略記】
元禄10年      山口県史整理年表  徳山藩内大津島に近江開作築立 【徳山毛利家記録類纂】

元禄10年      山口県史整理年表  長府藩、去年不作のため、この春窮民に飯米を貸与す。ついで救民の法を
                    定む 【長府毛利家乗】
元禄10年      周防徳山藩秘史  徳山藩主毛利元次藩内人口調査。侍・足軽・人足計918人、町方・在方が
                   23164人、合計24084人であった。
元禄10年 1月28日  山口県史整理年表  雇奉公人給銀制限令を発す 【毛利十一代史】
元禄10年 2月20日  山口県史整理年表  諸士に知行所物切開作および畠田成を許可 【毛利十一代史】
元禄10年 閏2月28日  山口県史整理年表  倹約中につき、諸士男女衣類ならびに饗応に関し目付中に訓令す
                    【毛利十一代史】

元禄10年 閏2月29日  山口県史整理年表  猟師の外殺生を禁制す 【毛利十一代史】
元禄10年 4月     山口県史整理年表  黒神直敬を徳山遠石八幡宮神主に補す

元禄10年 4月19日   屋代大野系譜   ●58代大野直儀歿 三十九歳 号傳心宗単居士 

元禄10年 4月28日  山口県史整理年表  玖珂郡由宇・通津両浦市の者、町部に改められんことを願出で許さる
                   【岩国沿革志】
元禄10年 8月10日  山口県史整理年表  萩松本において、悪銀偽造使用の者を逮捕し、幕府に稟伺して処刑す
                   【毛利十一代史】
元禄10年 秋     山口県史整理年表  徳山毛利元次城東に松屋茶館を設く 【徳山藩史稿】
元禄10年 11月21日  山口県史整理年表  幕府の通牒に基き酒造税を値下げす 【毛利十一代史】
元禄10年 11月21日  山口県史整理年表  大酒禁制に関し諸士ならびに市郡に訓示す 【毛利十一代史】
元禄10年 12月    山口県史整理年表  岩国領、酒税五割を賦課し、揚酒屋・どぶ酒屋を禁止す。また他領よりの
                    酒移入を禁止す 【岩国旧記】

元禄10年      心斎橋今昔年表   関東大地震。江戸の大火

西暦1698年
元禄11年      大和越智氏伝記  ○大和越智氏菩提寺興雲寺を今井細井戸屋多衛門 再興、興雲寺を光雲寺と
                   改名する。
元禄11年 1月2日  山口県史整理年表  長府出火。約百五十戸焼失 【長府毛利家乗】
元禄11年 2月3日  藩史大辞典     ○岩国藩 平生堅ケ浜の塩田にて始めて塩を焼く。
元禄11年 3月28日  山口県史整理年表  吉敷毛利市正多年の勤功に対し海開作地百五十町を下付 【毛利十一代史】
元禄11年 4月    山口県史整理年表  萩城内二の丸に天神社を造立。翌年二月十一日はじめて連歌を興行し毎年の
                    例とす 【毛利十一代史】

元禄11年 4月    山口県史整理年表  玖珂郡柱島に杉苗一万二千余本植樹
元禄11年 8月6日  山口県史整理年表  豊浦郡矢玉浦出火。延焼百三十四戸 【毛利十一代史】
元禄11年 9月26日  山口県史整理年表  萩松本橋竣功 【毛利十一代史】

元禄11年 11月5日  屋代大野系譜    ●57代大野直給歿 七十三歳 号大公羽石庵居士 葬大竜寺

西暦1699年
元禄12年      山口県史整理年表  諸士の馳走出米四石懸り・地下石別二匁五分 【毛利十一代史】
元禄12年      山口県史整理年表 幕府藩士の分限帳を検す 【県史略】
元禄12年      山口県史整理年表  厚狭郡藤山浜田開作十二町歩石盛 【もりのしげり】
元禄12年     山口県史整理年表   都濃郡富田椎木開作築立 【徳山略記】
元禄12年 2月21日  山口県史整理年表  諸士家計困窮により、諸役免除を請う者多く、終に公務を欠くに至る。
                    三月朔日より服務再役せしむべきを令す 【毛利十一代史】
元禄12年 3月    山口県史整理年表  郡司喜兵衛に銃砲製造を命じ二男を鋳物師に採用す 【毛利十一代史】

元禄12年 4月19日  山口県史整理年表  両国内新金銀の交換終る 【毛利十一代史】
元禄12年 7月13日  山口県史整理年表  辻相撲・辻糶を禁ず 【毛利十一代史】
元禄12年 9月4日  山口県史整理年表  幕府、凶荒につき酒造石を五分の一に減ず 【毛利十一代史】
元禄12年 9月28日  山口県史整理年表  三田尻大開作(新田古浜)築立 【毛利十一代史】

元禄12年 10月6日  屋代今元系譜   ◎今元家初代助左衛門直光長男助左衛門直秀歿 壽63歳
元禄12年 11月   山口県史整理年表  三田尻浜より丹後宮津港の丸小商店に食塩を輸出す 【防府の今昔】
元禄12年 12月   山口県史整理年表  岩国家中の扶持切米取の者は一代限りと規定 【岩国旧記】

西暦1700年
元禄13年 2月28日  山口県史整理年表  長府藩士の赤間関に遊蕩するを禁ず 【長府毛利家乗】
元禄13年 3月    山口県史整理年表  厚狭郡高泊開作。厳島竜王社建立
元禄13年 3月11日  山口県史整理年表  京都より陶工丹波屋安兵衛を招き多田村において陶技伝習。岩国多田焼の発端
                    【証記抜萃】
元禄13年 春     藩史大辞典     ○徳山藩内、徳山町の南側に町屋ができる。

元禄13年 6月1日   屋代今元系譜  ◎今元家初代助左衛門直光次男助左衛門(二代目河原十右衛門)歿 壽61歳

元禄13年 8月13日  藩史大辞典    ○徳山藩内、徳山に江口開作完成する。
元禄13年 8月13日  山口県史整理年表  徳山城下江口開作検地石盛 【徳藩年表】
元禄13年 9月16日  山口県史整理年表  幕府当年の造酒高を一昨年の半額とす 【毛利十一代史】
元禄13年 9月25日  山口県史整理年表  三田尻に波戸三百五十間築造を幕府に稟議、許可あり 【毛利十一代史】
元禄13年 10月14日  山口県史整理年表  御立山保護のため、濫伐ならびに野火入れを禁ず 【諸御書附(郡作法)】
元禄13年 10月27日  山口県史整理年表  豊浦郡矢玉浦出火。百七軒焼く 【長府毛利家乗】
元禄13年 11月2日  山口県史整理年表  徳山城下の西北に町屋成立す 【徳山毛利家記録類纂】

元禄13年 11月18日  山口県史整理年表  美祢郡長登・阿武郡蔵目喜両銅山の産銅額を幕府に報告す 【防長歴史暦】
元禄13年 11月25日  山口県史整理年表  歩戻開作地榜示の陰切を許可す。但し陰切の後替地の願を許さず
                    【毛利十一代史】
元禄13年 12月   藩史大辞典     ○徳山藩内、徳山に侍屋敷西新町できる。

元禄13年      屋代今元系譜    ◎今元本家四代目直光長男 由右衛門誕生

元禄13年      心斎橋今昔年表   「大坂 北組・南組・天満組 水帳町数家数数寄町」には、船場には138の町が
                    あった。

西暦1701年
元禄14年      屋代今元系譜   ◎今元本家五代目直康(四代次男)婦 ツタ(川原重左衛門長女)誕生

元禄14年      山口県史整理年表  防府三田尻大開作完成 【三田尻開作一巻】
元禄14年      山口県史整理年表  幕府大阪銀座小南理兵衛等四人に両国の銅座を命ず
元禄14年 1月9日  山口県史整理年表  見島郡浦の浜・大津郡瀬戸崎・向津具浦に朝鮮船漂着す 【毛利十一代史】
元禄14年 2月4日  山口県史整理年表  都濃郡富田古市開作築立 【徳山毛利家記録類纂】
元禄14年 2月28日  山口県史整理年表  山代三老役増野孫右衛門・松原彦右衛門・松原七右衛門無給並の家業人たりし
                    を勤功により無給通に加う。三老号は旧の如し 【毛利十一代史】

元禄14年 3月    山口県史整理年表  岩国領諸士の給地を戻す 【岩国旧記】
元禄14年 3月    山口県史整理年表  岩国に痘瘡流行す 【御用所日記】
元禄14年 3月9日   山口県史整理年表  徳山城下に小沢町成立 【徳山毛利家記録類纂】
元禄14年 3月11日  山口県史整理年表  防府国分寺、先年の三田尻大開作の内二十町を受領す。今回開作半分竣工によ
                    り、更に十町を国分寺へ下付、残り十町は公収し浮米をもって給与せらる
                    【毛利十一代史】
元禄14年 3月13日  山口県史整理年表  幕府諸大名をして参勤交替の従者を減ぜしむ 【毛利十一代史】

元禄14年 忠 3月14日  赤穂浪士HP  ○浅野内匠守、吉良上野介に殿中松の廊下に於いて刃傷に及ぶ。

元禄14年 4月13日  山口県史整理年表  吉広病む。長府毛利綱元の嫡子吉元を仮養子とし幕府に上申す
                   【毛利十一代史】
元禄14年 4月23日  山口県史整理年表  都濃郡富田の川崎川西に椎木開作築立 【開作御証拠物控】
元禄14年 8月7日  山口県史整理年表  三田尻大開作地に塩浜問屋を許可しその条規を定む 【三田尻開作一巻】


西暦1702年
元禄15年      屋代今元系譜   ◎今元本家五代目直康(四代次男)誕生

元禄15年     山口県史整理年表  大豆不熟につき豆腐の製造を禁ず 【毛利十一代史】
元禄15年     山口県史整理年表  地下馳走石別銀二匁五分 【毛利十一代史】
元禄15年     山口県史整理年表  諸士拝領開作地石盛再検上地等につき令す 【毛利十一代史】
元禄15年     山口県史整理年表  佐波郡勝間開作築立 【山内文書・譜録】
元禄15年     山口県史整理年表  吉敷郡嘉川村寄江開作築立
元禄15年     山口県史整理年表  錦帯橋々台構築者中野甚左衛門死す 【御家中系図】

元禄15年 2月    山口県史整理年表  徳山藩内栗屋沖開作築立
元禄15年 3月30日  山口県史整理年表  松崎天満宮にて千句の連歌を興行す 【防府の今昔】
元禄15年 5月    山口県史整理年表  徳山遠石八幡宮再建 【徳山藩史稿】
元禄15年 5月2日  山口県史整理年表  萩土原に新道開通。黒沢繩手という 【毛利十一代史】
元禄15年 5月13日  山口県史整理年表  両国洪水 【毛利十一代史】

元禄15年 6月    山口県史整理年表  両国の酒造米および酒屋軒数を幕府に報告す 【毛利十一代史】
元禄15年 6月23日  山口県史整理年表  岩国鐔工片岡忠幸、垣忠の免許を得て、京都より帰国す 【御用所日記】
元禄15年 6月晦日  山口県史整理年表  再度洪水 【毛利十一代史】
元禄15年 閏8月1日  山口県史整理年表  萩町奉行および浜崎・山口・三田尻三代官に倹約を令し物価高を戒飭す
                   【毛利十一代史】
元禄15年 閏8月1日  山口県史整理年表  諸事倹省。貞享五年の品定を尊奉すべきを令す 【毛利十一代史】
元禄15年 8月28日  山口県史整理年表  長府藩、士卒救助のため買米の法を定め、俸米の売却を有利に斡旋す
                   【長府毛利家乗】

元禄15年 8月29日  山口県史整理年表  この日より晦日まで両国暴風雨。秋穫を損ず 【毛利十一代史】
元禄15年 9月16日  山口県史整理年表  三田尻御船頭稽古につき訓令す 【毛利十一代史】
元禄15年 10月2日  山口県史整理年表  暴風雨高潮あり 【毛利十一代史】

元禄15年 11月29日  赤穂浪士HP   ○同日付の蔵之助の手紙によると家老大野九郎兵衛に赤穂の残置財産を返したと
                   あり、連絡をとりあっていたことが確認される。

元禄15年 12月2日  山口県史整理年表  幕府煙草栽培についての禁制を発し、かつ従来の作付反別の報告を命ず
                   【毛利十一代史】

元禄15年 忠 12月15日  赤穂浪士HP  ○赤穂浪士47士本所松阪町吉良上野介邸に討入本懐を遂げる。

元禄15年 12月15日  山口県史整理年表  赤穂義士岡島八十右衛門等十人、長府藩に預けらる。翌年二月四日切腹
                    【長府毛利家乗】

元禄15年 忠      ウイキ    ○加賀藩士杉本義燐の「赤穂鐘秀記」に(大坂商人天野屋次郎左衛門、赤穂義士
                   の為槍20本作ったかどで捕縛され討入後に自白した)と記録


西暦1703年
元禄16年      山口県史整理年表  徳山毛利元次、宇都宮遯庵の「松屋十八景記」ならびに「棲息堂記」に自序す
                   【徳山毛利家文書】
元禄16年      山口県史整理年表  豊浦郡八道村に溜池を作り水田総計約二十八町歩を開発す 【旧耕調査】
元禄16年      山口県史整理年表  三田尻船倉に時鐘を設置す 【もりのしげり】
元禄16年 1月16日  山口県史整理年表  近年財政窮迫、去年夏秋洪水、損亡莫大なり、よって五六年倹政を要するを幕府
                   に上申し是認あり 【毛利十一代史】

元禄16年 1月23日  山口県史整理年表  一季契約の奉公人給銀制限令を領つ 【毛利十一代史】
元禄16年 2月    山口県史整理年表  参勤の「道中備」・「御先人数御法度の次第」・「道中御法度の次第」を定む
                   【毛利十一代史】
元禄16年 2月14日  山口県史整理年表  岩国領、田帳・屋敷帳改訂 【岩邑年代記】
元禄16年 2月15日  山口県史整理年表  阿武郡奈古村出火。百三十一軒焼失 【徳山藩史稿】
元禄16年 3月1日  山口県史整理年表  両国内煙草植付の高反別を幕府に報告す 【毛利十一代史】

元禄16年 3月3日  山口県史整理年表  諸士馳走出米の内三分の一を二石替の銀子にして還付す 【毛利十一代史】
元禄16年 3月20日  山口県史整理年表  徳山藩磯部好助豊井村に宮洲開作築立 【徳山毛利家記録類纂】
元禄16年 6月    山口県史整理年表  玖珂郡瀬田村八幡下の川端より和木村三田開の末まで新溝堀方を命ず
                  【岩邑年代記】
元禄16年 6月4日  山口県史整理年表  岩国今津出火。百二十軒焼失 【岩邑年代記】
元禄16年 7月    山口県史整理年表  大阪運送米・萩蔵納米とも船持以外の運送請負を禁ず 【諸御書附(郡作法)】

元禄16年 8月2日  山口県史整理年表  幕府の銅船二隻、大阪より長崎への航途大島郡家室湊において海賊に遭い、
                  銅一凾窃取せらる

元禄16年 11月28日  山口県史整理年表  十一月二十二日の江戸大地震により江戸城破損。修理の助役を命ぜらる
                   【毛利十一代史】
元禄16年 12月8日  山口県史整理年表  来年煙草作を半減し半方へは相応の穀物を作付すべき幕達あり 【毛利十一代史】
元禄16年 12月15日  山口県史整理年表  玖珂郡柳井大火。百十六軒焼失 【岩邑年代記】


西暦1704年
宝永元年      山口県史整理年表  岩国川西町の町屋敷をはじめて屋敷帳に登載 【享保増補村記】
宝永元年 1月7日 山口県史整理年表 江戸城の営繕助役鍬始。普請惣奉行宍戸丹波 【毛利十一代史】
宝永元年 2月11日 山口県史整理年表 岩国領田帳・屋敷帳を改調す。総高六万九千五百四十五石余 【岩邑年代記】

寳永 3月13日  改元・出典「旧唐書」 ほうえい(関東地震改元による(東山天皇-8年間)【勘申者 菅原為範】

宝永元年 4月19日  山口県史整理年表  江戸城普請助役につき工費銀二千六貫を要す。藩庫窮乏につき、諸士の半知
                   馳走・地下石別銀一匁五分を徴す 【毛利十一代史】
宝永元年 4月19日  山口県史整理年表  半知馳走につき、諸士の公借米銀は、今暮の償還を猶予し、利金のみ納入せしむ
                   【毛利十一代史】
宝永元年 5月    山口県史整理年表  江戸城営繕助役につき国内工事の差留を命ず 【毛利十一代史】
宝永元年 5月    山口県史整理年表  宇都宮遯庵著「岩邑紀行」上梓

宝永元年 6月13日  屋代大野系譜   ●60代大野直治妹ヲゲン早世 二才 号花屋智散童女
宝永元年 6月17日  屋代大野系譜   ●58代大野直儀弟直親(杉原玄清七男)室歿四十二歳 号繁空貞昌大姉

宝永元年 7月7日  山口県史整理年表  杉山喜兵衛、阿武郡徳佐村民直訴の紛議に加担したるにより、家禄を没収追放し、
                  徳佐村居住を禁ず 【毛利十一代史】
宝永元年 8月18日  山口県史整理年表  今年の酒造高を元禄十年の五分の一とし、新規醸造禁止の幕達あり
                  【毛利十一代史】
宝永元年 8月23日  山口県史整理年表  両国大風雨 【毛利十一代史】
宝永元年 12月    山口県史整理年表  倹政中、経済方針を十万石の分限に則り、諸事を簡略にす 【毛利十一代史】


西暦1705年
宝永2年 1月11日  山口県史整理年表  百姓見出開作、否戻り、畠田成の各去年分物成高を調査す
                  【諸御書附(郡作法)】
宝永2年 2月21日  山口県史整理年表  諸借利定および質物利定を公布し高利を禁ず 【毛利十一代史】
宝永2年 2月28日  山口県史整理年表  新古添状借利定を公布し高利を禁ず 【毛利十一代史】
宝永2年 6月    山口県史整理年表  秤屋神善四郎手代十三人萩に来る 【毛利十一代史】
宝永2年 6月1日   山口県史整理年表  萩洪水。この年橋本大橋を石柱とす 【毛利十一代史】
宝永2年 6月1日   山口県史整理年表  両国洪水 【毛利十一代史】

宝永2年 6月12日  山口県史整理年表  百姓の名田をみだりに取上ぐることを禁ず 【諸御書附(郡作法)】
宝永2年 7月12日  山口県史整理年表  長府領六連島に厦門商船漂着 【長府毛利家乗】
宝永2年 10月12日  山口県史整理年表  萩川島より長福(川添)間の堤防築添。濁淵より小松江への新溝開鑿に関し
                   幕許あり。翌年成る 【毛利十一代史】
宝永2年 11月13日  山口県史整理年表  当職佐世広久郡中諸事書付六十四カ条を定む 【諸御書附(郡作法)】
宝永2年 11月24日  山口県史整理年表  郡奉行暫役湯浅小右衛門廻郡す 【毛利十一代史】

宝永2年 12月    山口県史整理年表  禄高三千石以上の者五石馳走懸り 【毛利十一代史】

宝永2年      心斎橋今昔年表   立売堀を開削


西暦1706年
宝永3年      山口県史整理年表  安芸大竹村民大竹川中流に石垣を築く 【玖珂郡誌】
宝永3年      山口県史整理年表  右田毛利広政吉敷郡佐山村牧ノ巣にて開作地四十町歩拝領。享保以後開作築立
                   【右田毛利家什書】

宝永3年 1月28日  屋代大野系譜    ●60代大野直治弟兵馬早世 二才 号彼月春岸童子

宝永3年 2月    山口県史整理年表  柳井宮本開作の用水新溝成る 【岩国沿革志】
宝永3年 3月    山口県史整理年表  長府藩、府中・赤間関・清末等の防火の法を定む 【武井文書】
宝永3年 4月    藩史大辞典    ○徳山藩主元次、「徳山名勝」を刊行する。
宝永3年 5月1日   山口県史整理年表  郡中書付六十四ヵ条を増補して更に十二ヵ条を公布 【諸御書附(郡作法)】
宝永3年 6月25日   山口県史整理年表  両国大暴風雨 【毛利十一代史】
宝永3年 6月25日   山口県史整理年表  越後国城米を搭載航海中の吉敷郡岐波浦の船、豊浦郡室津浦において大風雨の
                    ため難破す 【毛利十一代史】

宝永3年 10月4日   山口県史整理年表  徳山地方に地震・高潮・山崩・岸崩あり 【徳山略記】
宝永3年 11月27日   山口県史整理年表  山県長伯を御伽役に採用、近年勤労につき御手廻組に加う 【毛利十一代史】
宝永3年 12月13日   山口県史整理年表  財政逼迫につき倹政を令す 【毛利十一代史】


西暦1707年
宝永4年      山口県史整理年表  この春長府毛利綱元歌集「七石集」を作る。また、瓦硯を前田村の地中に得、
                   仙露と名付けてその記を作る 【長府毛利家乗】
宝永4年      山口県史整理年表  徳山毛利元次「塩鉄論」ならびに「徳山名勝」を刊行、ともに自序す
宝永4年 4月    藩史大辞典     ○徳山藩、百姓の商売兼業を禁止する。

宝永4年 忠     ウイキ       ○津山藩士小川忠右衛門の「忠誠後鑑録或説」に(大坂の惣年寄天野屋理兵衛、
                   槍数十本作って町奉行松野河内守助義に捕縛され拷問を受けたが討入後に自白
                   した)と記録

宝永4年 10月13日  山口県史整理年表  吉広江戸にて死す。三五 【毛利十一代史】
宝永4年 10月28日  山口県史整理年表  両国地震。佐波郡上徳地村倒家二百八十九軒・死亡三人・負傷者十五人・
                   死牛四匹を出す 【毛利十一代史】
宝永4年 11月23日  山口県史整理年表  吉元、長府より入り藩封を嗣ぐ 【毛利十一代史】


西暦1708年
宝永5年 閏1月7日  山口県史整理年表  幕府、去歳富士山噴火関東被害により、大小名高百石に付金二両を課出せしむ
                    【毛利十一代史】
宝永5年 3月14日  山口県史整理年表  三月八日禁裡火災のため、江戸より使臣を派して物を献ず 【毛利十一代史】

宝永5年 3月19日  屋代大野系譜  ●58代大野直儀妹オセン(長谷川小十郎妻)歿 三十九歳 号智岳妙慶信女 

宝永5年 6月27日  山口県史整理年表  吉元初入国 【毛利十一代史】
宝永5年 7月    山口県史整理年表  諸士馳走米半額返付の令条を領つ 【毛利十一代史】
宝永5年 7月13日  山口県史整理年表  岩国錦見川原において非人千三百八十五人に人別米一升銭十文施与
                  【岩邑年代記】
宝永5年 8月20日  山口県史整理年表  吉川氏、新宮丸造船、十二月十八日進水式 【御用所日記】
宝永5年 9月14日  山口県史整理年表  吉元、萩発駕、国内初巡視 【毛利十一代史】

宝永5年 11月25日  山口県史整理年表  医師豊田玄東死す 【御家中系図】


西暦1709年
宝永6年      山口県史整理年表  萩吉田町に御救米蔵を造立し、非常救米を貯蔵せしむ 【毛利十一代史】
宝永6年      山口県史整理年表  徳山毛利元次「徳山雑吟」を刊行す
宝永6年 1月18日  山口県史整理年表  財政困弊につき、今明両年諸士に半知の馳走を命じ、本年庶民より石別銀二匁
                   五分を徴す 【毛利十一代史】
宝永6年 2月   山口県史整理年表  山田正之助、山代在勤中徒党を催し村内の騒擾を企てたるにより、切腹を命ぜらる
宝永6年 3月1日  山口県史整理年表  長府毛利綱元死す。六十 【長府毛利家乗】
宝永6年 3月4日  山口県史整理年表  財政の緊縮を令す 【毛利十一代史】
宝永6年 3月8日  山口県史整理年表  徳山城下大火、千三百余戸焼失す 【徳山毛利家記録類纂】
宝永6年 3月8日  藩史大辞典     ○徳山藩、徳山町大火、1300軒余り全焼する。

宝永6年 7月13日  屋代大野系譜   ●60代大野直治弟典太郎早世 九才 号一梵覚性童子

宝永6年 12月18日  山口県史整理年表  諸士養子に関し訓令し目付の吟味を遂げしむ 【毛利十一代史】
宝永6年 12月24日  山口県史整理年表  長府藩囲木(御帳木)の制を創む 【長府毛利家乗】

西暦1710年
宝永7年      山口県史整理年表  元禄末年より山口湯田の温泉涸渇す。この年再び湧出す 【毛利十一代史】

宝永7年 2月14日  山口県史整理年表  大島郡久賀浦出火。百二十八戸焼失 【毛利十一代史】

宝永7年 2月20日  山口県史整理年表  井原大学拝領吉敷郡秋穂浦潮入開作地、石州において開作費を負債せしに、返還
                   遷延により債主より訴う。公裁の結果遠慮を命ず 【大記録】
宝永7年 4月1日   山口県史整理年表  諸局公用紙を黄紙とす 【もりのしげり】
宝永7年 5月12日  山口県史整理年表  徳山城下の市日を改正、従来の十一日・二十日を十二日・二十二日とす
                  【徳藩年表】
宝永7年 6月18日  山口県史整理年表  大津郡川尻浦に広東商船漂着 【毛利十一代史】
宝永7年 7月5日  山口県史整理年表  幕府巡見使黒川与兵衛・岩瀬吉兵衛・森田六左衛門入国す 【毛利十一代史】
宝永7年 8月12日  山口県史整理年表  長府藩、士民間の争訟の制を創め、百姓町人の藩士に対する非礼を戒む
                  【長府毛利家乗】

宝永7年 閏8月14日  山口県史整理年表  上方借りをもって、一旦諸士の負債を整理し、逐年引米にて返済せしむること
                   を令す。来年より馳走米の賦課を停む 【毛利十一代史】
宝永7年 9月4日   山口県史整理年表  山口常栄寺全焼す 【毛利十一代史】
宝永7年 12月    山口県史整理年表  長府藩士の公役にて江戸・大阪等に出張の際、これを使役する百姓の雇傭銭を
                   定む 【長府毛利家乗】
宝永7年 12月19日  山口県史整理年表  能美太郎右衛門領民を虐使す。領民住所を退散し巡見使に上地希望の訴状を出さ
                   んとす。よって太郎右衛門の領地を没収し、浮米を給す 【毛利十一代史】

宝永7年 12月27日  山口県史整理年表  吉敷郡長野村百姓直訴。領主益田織部に逼塞を命じ領邑収公。首謀清介・
                   角左衛門翌年十一月二十六日処刑さる 【大記録】

     【延喜7年】 延喜式 ○延喜式による伊予国の郡名と郷(霊亀元年715)の里から郷に改称)一覧

     郡名    郷名
    宇摩郡   山田、 山口、 津根、 御井、余部、 
    新居郡   新居、 島山、 丹上、 加茂、 立花、 神戸
    周敷郡   田野、 池田、 井出、 吉田、 石井, 神戸、 余戸、 
    桑村郡   籠田(こた)、  御井、 津宮
    越智郡   給理(こおり)、 高橋、 鴨部(かんべ)、立花、 日吉、 桜井、 新屋、 高市、 拝志

  【比較用】
     野間郡   宅万(たくま)、 英多(あがた)、 大井、 賞多(さがた)、神戸
    風早郡   粟井、 河野、 高田、 難波、 那賀
    和気郡   高尾、 吉原、 姫原、 大内
    温泉郡   桑原、 垣生、 立花、 井上、 味酒
    久米郡   天山、 吉井、 石井、 神戸、 余戸
    浮穴郡   井門、 拝志、 荏原、 出部(いづべ)
    伊予郡   神前、 吾川、 石田、 岡田、 神戸、 余戸
    喜多郡   矢野、 久米、 新居
   宇和郡   石野(いわの)、 石城(いわき)、 三間、 立間

1710 年 宝永7年  予陽郡志

     郡名     郷名

  宇摩郡   山田、 山口、 津根、 御井、余部、  ーー ーー
   新居郡   新居、 島山、 丹上、 加茂、 立花、 神戸 ーー ーー
  周敷郡   田野、 池田、 井出、 吉田、 石井, 神戸、 余戸、       36ケ村 11,342石5斗8升5合
  桑村郡   籠田(こた)、御井(みゐ)、 津宮(つのみや)           16ケ村 13,025石1斗8升7合
  越智郡   朝倉、高市、桜井、拝志、給理、高橋、新谷、鴨部、立花、日吉、    92ケ村 38,032石4斗3升6合
   野間郡   宅万(たくま)英多(あかた)大井、賞多(さかた)、神戸(かんへ) 29ケ村 14,915石8斗3升8合
   風早郡   粟井、河野、 高田、 難波、 那賀                84ケ村 17,635石8斗5升6合
   和気郡   高尾、吉原、 姫原、 大内                    22ケ村 14,246石1斗1升6合
   温泉郡   桑原、埴生(はふ)、立花、 井上(ゐのへ)、味酒(うまさけ)   35ケ村 1,815石9斗5升4合
   久米郡   天山、 吉井、 石井、 神戸、 余戸               31ケ村 15,790石2斗5升7合
  浮穴郡   井門(ゐと)、拝志(はやし)、 荏原(えはら)、出部(いつへ)  99ケ村 35,656石6斗1升1合
   伊予郡   神崎、吾川(あかわ)、石田、岡田、神戸(かんへ)、余戸(あまりへ) 34ケ村 240,11石8斗6升7合
   喜多郡   矢野、 久米、 新谷                        83ケ村 30,939石7斗7升  
   宇和郡   石野(いわの)、石城(いわき)、三間、 立間         179ケ村   102,154石3斗8升6合


西暦1711年
生徳元年 春     山口県史整理年表  徳山毛利元次「授時暦諺解」を刊行して自跋す
生徳元年      山口県史整理年表  道松の植継を行う 【御書附其外後規要集】

生徳元年 1月21日  山口県史整理年表  琉球使、上関に下船、下官一名病死。同地の明関寺に埋葬す 【毛利十一代史】

生徳元年 3月    山口県史整理年表  吉元、朝鮮信使接待のため幕命により参勤を延期す 【毛利十一代史】

正徳  4月25日  改元・出典「尚書」 しょうとく(代始改元による(中御門天皇-6年間)【勘申者 菅原総長】

生徳元年 7月6日  山口県史整理年表  朝鮮信使来朝につき海辺諸浦の高札建替の幕命あり。両国の諸浦高札場
                  八十七ヵ所を報告す 【毛利十一代史】
生徳元年 8月29日  山口県史整理年表  朝鮮信使赤間関に着船。吉元阿弥陀寺においてこれを饗す 【毛利十一代史】
生徳元年 9月14日  山口県史整理年表  幕命に基き諸士の継嗣法を頒布す 【毛利十一代史】
生徳元年 10月   山口県史整理年表  繁沢次郎兵衛知行所滝坂百姓愁訴す 【大記録】

生徳元年 10月26日  山口県史整理年表  熊毛郡上関に船舶究めの番所を建設す 【毛利十一代史】

生徳元年 11月    山口県史整理年表  徳山城下の諸町軒別究図帳成る 【徳山藩史稿】
生徳元年 11月23日  山口県史整理年表  江戸町人三谷三九郎、用達の功により、毎年米三百俵を大阪において下付す
                   【毛利十一代史】
生徳元年 12月9日  山口県史整理年表  両国今秋虫害あり。検見高四万四千二十二石三斗五升九合の内、落米皆損
                   高二万五千七十三石四斗四升四合 【毛利十一代史】
生徳元年 12月10日  山口県史整理年表  玖珂郡岩国錦見出火。百四十三戸焼失 【御用所日記】
生徳元年 12月14日  山口県史整理年表  吉敷郡秋穂村出火。民家百二十四戸・小社二宇焼失 【毛利十一代史】


西暦1712年
生徳2年 1月20日   山口県史整理年表  徳山藩、領内子女の嫁入に振袖の着用を禁止す 【徳山藩史稿】
生徳2年 2月1日   山口県史整理年表  大津郡瀬戸崎浦出火。家数四百四十三戸・蔵五・寺二宇・高札場等焼失す
                  【毛利十一代史】
生徳2年 3月3日   山口県史整理年表  狂言師山本藤八に、鷺伝右衛門の門人となり家業熱心により、一代帯刀を許す
                   【毛利十一代史】
生徳2年 4月    山口県史整理年表  在郷諸士、その食禄二百石以上は三ヵ年以内、以下は五ヵ年以内を期として萩に
                   移住し公務に服せしむ 【毛利十一代史】

生徳2年 4月1日   山口県史整理年表  萩城下その他薪炭木材欠乏につき対策を令す 【毛利十一代史】
生徳2年 6月5日   山口県史整理年表  九州諸大名、防長両国海陸通行に際し接待の法を所務代に訓令す
                  【毛利十一代史】
生徳2年 7月    山口県史整理年表  山口真宗端坊に時鐘堂を作り時鐘を創む。鐘撞料毎年米十五石下付
                  【毛利十一代史】
生徳2年 7月12日  山口県史整理年表  婦人の夜中諸社寺へ参詣するを禁ず 【毛利十一代史】
生徳2年 8月9日  山口県史整理年表  大風高潮。秋稼を損ず 【防府の今昔】
生徳2年 9月19日  山口県史整理年表  山口宮野仁壁神社焼失 【風土注進案】
生徳2年 10月   藩史大辞典      ○「陰徳太平記」刊行。


西暦1713年
生徳3年      山口県史整理年表  岩国領諸給を再び蔵入となす 【岩邑年代記】
生徳3年 2月2日  山口県史整理年表  倹政中宰判の廃合を行い、十八宰判代官の中三名を減員す 【毛利十一代史】
生徳3年 2月11日  山口県史整理年表  宍道玄蕃・志道丹宮の当職当役在任中の失態を責め、逼塞を命ず
                  【毛利十一代史】
生徳3年 3月1日  山口県史整理年表  財政困弊、負債銀五万貫におよぶ。よって緊縮を令し、諸士に当年半知の馳走を
                  課す 【毛利十一代史】

生徳3年 3月22日   屋代大野系譜   ●徳山大野三代直昌(富山清左衛門二男)歿 号松伴宗仙居士

生徳3年 4月   山口県史整理年表  客年凶作により米価銀札百匁につき六斗に昂騰す 【故事年表】
生徳3年 4月14日  山口県史整理年表  倹政につき、正月破魔弓・羽子板・端午の菖蒲その他について、制限若しくは
                  停止を令す 【毛利十一代史】
生徳3年 5月19日  山口県史整理年表  都濃郡弥地村を夜市村に、同瀬島を仙島に改む 【徳山毛利家記録類纂】
生徳3年 6月26日  山口県史整理年表  両国内人馬賃銀、駕籠夫賃銀一駄の量目定および懸増賃銀を定む
                  【毛利十一代史】
生徳3年 7月5日  山口県史整理年表  諸給領水旱虫害のときの検地請願に関し訓令す 【毛利十一代史】
生徳3年 7月12日  山口県史整理年表  両国大風雨洪水。三田尻・小郡開作等に被害甚し 【毛利十一代史】

生徳3年 8月4日  山口県史整理年表  長府藩、管内農民に貢米を皆納するまでは、収穫の売却を禁ず 【長府毛利家乗】
生徳3年 10月3日  山口県史整理年表  玖珂郡由宇村出火。家数百四軒・土蔵三軒・小屋十一軒焼失 【御用所日記】
生徳3年 10月15日  山口県史整理年表  財政逼迫し、負債償却の途なし。よって来年も半知の馳走を命ず
                  【毛利十一代史】


西暦1714年
生徳4年      山口県史整理年表  佐波郡国分寺開作築立 【風土注進案】
生徳4年      山口県史整理年表  長府藩、幕命により、赤間関王司ヵ鼻に斥候・番兵を置く 【長府毛利家乗】
生徳4年      山口県史整理年表  徳山藩、遠石・新宮権現・徳山河原等に桜・楓・桃・杉等を植樹す
                   【徳山略記】
生徳4年      山口県史整理年表  岩国今津・室木新開石盛 【享保増補村記】
生徳4年 3月晦日  山口県史整理年表  幕府密貿易厳禁の高札を諸浦に建設せしむ 【毛利十一代史】
生徳4年 4月23日  山口県史整理年表  郡・村の社家裁許、神道伝授その他支配向につき寺社奉行代官に令す
                  【毛利十一代史】

生徳4年 5月26日  山口県史整理年表  岩国・徳山洪水 【御用所日記】

生徳4年 9月17日  筑前大野家墓誌   ●筑前大野家 大野貞勝没 法名 寳際院殿珠峯貞勝居士

生徳4年 11月10日  山口県史整理年表  都濃郡須万村の百姓三百七十余人一揆す 【徳山藩史稿】
生徳4年 11月19日  山口県史整理年表  諸士困窮につき馳走出米四分の一を減ず 【毛利十一代史】
生徳4年 12月6日  山口県史整理年表  足軽・中間は一年をもって入替のことを令す 【毛利十一代史】


西暦1715年
生徳5年      山口県史整理年表  法体の医師・絵師その他細工人等の帯刀を禁ず 【毛利十一代史】
生徳5年      山口県史整理年表  萩浜崎に雛松を栽培す 【毛利十一代史】
生徳5年 1月15日  山口県史整理年表  徳山藩郡中法度を定む 【徳山毛利家記録類纂】
生徳5年 2月25日  山口県史整理年表  本年より三年間、従前の半知出米を止め、馳走米十石懸とす 【毛利十一代史】
生徳5年 3月3日  山口県史整理年表  家計困難なる寄組以上の在郷居住者に設役免除を許す 【毛利十一代史】
生徳5年 3月4日  山口県史整理年表  山口荒高町出火。家数二百十二戸・小屋七十軒・牛舎九軒・堂一宇焼失
                  【毛利十一代史】

生徳5年 3月20日  山口県史整理年表  大津郡三隅村民と同郡益田源兵衛領地津雲村民、山野下草刈取に関し紛擾す
                  【毛利十一代史】
生徳5年 4月1日  山口県史整理年表  高橋伝左衛門屋敷内を、多数の人に賃貸す。今三区域に分ち、婦人を住居せしむ。
                  諸士屋敷貸与法違反により、屋敷地を没収す 【毛利十一代史】
生徳5年 5月1日  山口県史整理年表  袷・帷巾・単衣・足袋等の着用時期を定む 【毛利十一代史】
生徳5年 5月6日  山口県史整理年表  疱瘡・麻疹・水痘患者の遠慮規定を定む 【御用所日記】
生徳5年 5月23日  山口県史整理年表  暴風雨 【御用所日記】

生徳5年 6月6日  山口県史整理年表  徳山藩山廻り役人、藩有林侵害の故をもって、萩藩領久米村の百姓両人を切害す
                  【徳山略記】
生徳5年 6月6日  藩史大辞典    ○徳山藩、万役山事件起こる(宗藩との境界争い)

生徳5年 6月19日  山口県史整理年表  岩国吉川広逵死す。二一 【吉川家文書・家譜】
生徳5年 7月24日  山口県史整理年表  徳山藩百姓町人の苗字を禁止す 【徳山藩史稿】
生徳5年 8月5日  山口県史整理年表  徳山藩家老奈古屋里人、故あって家名断絶 【徳山藩史稿】
生徳5年 8月5日  藩史大辞典     ○徳山藩、家老奈古屋里人、家禄没収・家名断絶する。
生徳5年 8月14日  山口県史整理年表  大阪運送米・萩御蔵納米船積仕法を定む 【諸御書附(郡作法)】

生徳5年 10月16日   屋代今元系譜  ◎今元本家四代目直光長男 由右衛門歿 壽16歳*

生徳5年 10月22日  山口県史整理年表  屋敷に接近せる用水溝道路の修繕仕法を定む 【毛利十一代史】
生徳5年 10月23日  山口県史整理年表  幕府、醸造の制を頒ち今年は元禄十三年の定数の三分の一とす
                   【毛利十一代史】
生徳5年 12月5日  山口県史整理年表  両国風損虫枯のため高ニ万石余の被害あり 【毛利十一代史】


西暦1716年
亨保元年 *     山口県史整理年表  幕命により海陸の口留番所の所在地およびその掟書を録上 【毛利十一代史】
亨保元年 *     山口県史整理年表  玖珂郡河内組の内、近延・行正・上田・寺山・土生・入野・竹安・伊房・角・
                  保木の諸村、この年特に検地を行い、田帳を訂正す 【享保増補村記】
亨保元年 *     山口県史整理年表  毎年春秋二期に杉・檜の苗六万本を上国より買入れ、御立山に造林を命ず
亨保元年 * 1月9日  山口県史整理年表  徳山遠石町出火。百二軒焼失 【徳山藩史稿】
亨保元年 * 1月28日  山口県史整理年表  春定・門役銀・種作飯米・永否新開・畠田成・井手川除夫飯米その他郡中書付
                   を公布 【諸御書附(郡作法)】

亨保元年 * 2月19日  山口県史整理年表  萩松本橋修理。五月朔日渡初め。松本唐樋渡り口番所を設置 【毛利十一代史】
亨保元年 * 3月7日  山口県史整理年表  三田尻船廠失火。大小官船三隻焼失 【毛利十一代史】
亨保元年 * 3月26日  山口県史整理年表  徳地宰判滑山の内荒地を録上 【諸御書附(郡作法)】
生徳6年 4月11日   藩史大辞典  ○毛利宗藩主吉元、徳山藩主元次の隠居と嫡子百次郎の家督相続を幕府に願い出る。

亨保元年 * 4月13日  山口県史整理年表  徳山藩改易。藩主毛利元次隠居。藩内悉く宗家の管轄となる。五月朔日徳山
                   居館引渡、八月上旬より藩士萩へ移住 【徳山略記】
生徳6年 4月13日  藩史大辞典     ○徳山藩改易。藩主元次は新庄藩へお預け、領知・家臣は宗藩預かりとなる。
亨保元年 * 4月29日  山口県史整理年表  長府領六連島に寧波船漂着す 【毛利十一代史】

享保 6月22日  改元・出典「後漢書」 きょうほう(天災改元による(中御門天皇-21年間)【勘申者 菅原長義】

亨保元年 7月26日  山口県史整理年表  萩川島庄長福を河添と改む 【毛利十一代史】
亨保元年 8月18日  山口県史整理年表  医師樋口見寿死す。八八
亨保元年 10月28日  山口県史整理年表  諸臣馳走米本年は半額を減ず 【毛利十一代史】
亨保元年 10月28日  山口県史整理年表  三絃流行す。これを戒む 【毛利十一代史】
亨保元年 11月10日  山口県史整理年表  在郷居住諸士の操歌舞伎を停む 【毛利十一代史】
亨保元年 12月2日  山口県史整理年表  見島郡西磯に朝鮮人七人乗の船一隻漂着 【毛利十一代史】
亨保元年 12月9日  山口県史整理年表  徳山藩元家老奈古屋玄蕃以下五人流罪 【徳山略記】


西暦1717年
亨保2年      山口県史整理年表  萩江向に川を穿ち、川島より新堀川に通ず 【渡辺年表】
亨保2年      山口県史整理年表  佐波郡江ノ内開作古上地開作(中野・中浜)築立 【風土注進案】
亨保2年 2月    山口県史整理年表  江戸番手諸士の虚飾を戒む 【毛利十一代史】
亨保2年 2月27日  山口県史整理年表  諸士困窮につき、扶持方成に関し訓令す 【毛利十一代史】
亨保2年 4月11日  山口県史整理年表  吉元、参勤の途次国内諸山立木なきを実見し、蔵入給領とも山および島に松実を
                  播種せしむ 【毛利十一代史】

亨保2年 5月    山口県史整理年表  唐船豊前の小倉に来る。十九日小倉藩を援けてこれを打払う 【毛利十一代史】
亨保2年 6月4日  山口県史整理年表  幕府巡見使松平与左衛門・落合源右衛門入国す 【毛利十一代史】
亨保2年 8月22日  山口県史整理年表  岩国家中人数調。千五百二十一人 【御家人帳】
亨保2年 9月18日  山口県史整理年表  倹政につき、明年暮より高百石に付五石馳走米、諸借月別一歩三朱にして十年賦
                  外に現米五石あて、旅役出米を課す 【毛利十一代史】

亨保2年 11月   心斎橋今昔年表   松屋(現、大丸)心斎橋筋に進出

亨保2年 11月1日  山口県史整理年表  廩米・切手売買仲介者の不正を戒む 【毛利十一代史】
亨保2年 11月2日  山口県史整理年表  両国内重罪人の処刑日を定む 【毛利十一代史】
亨保2年 11月5日  山口県史整理年表  宇治茶師竹田紹旦、家計困迫のため萩に来り、永久給米を乞う 【毛利十一代史】
亨保2年 12月1日  山口県史整理年表  大津郡向津具大浦に朝鮮船漂着 【大記録】

亨保2年 12月6日  山口県史整理年表  玖珂郡日積・由宇・玖珂・祖生諸村の百姓数百人一揆す 【御用所日記】
亨保2年 12月6日  藩史大辞典  ○岩国藩領 日積村の百姓数百人、訴訟のため川西河原に集合する。由宇・玖珂・祖生の
                百姓も加わり一揆起こる。

亨保2年 12月17日  山口県史整理年表  両国内今秋田作旱虫害高二万余石。これを幕府に報告す 【毛利十一代史】

亨保2年      心斎橋今昔年表   大岡忠相が町奉行となる。(後の名奉行)


西暦1718年
亨保3年      山口県史整理年表  清末藩中絶す 【長府毛利家乗】
亨保3年      山口県史整理年表  萩城の北浜および新堀に松を植う 【故事年表】
享保3年 1月12日  山口県史整理年表  幕府、唐船事件をもって渡辺外記を赤間関・小倉・長崎に下す。藩府赤間関・
                   向津具に兵を派遣し、海防に当らしむ 【毛利十一代史】
亨保3年 1月29日  山口県史整理年表  岩国領疱瘡遠慮定改訂 【御用所日記】
亨保3年 2月10日  山口県史整理年表  玖珂郡由宇村以下百姓一揆再発 【百姓事件記録】
享保3年 2月15日  山口県史整理年表  唐船小倉に来る。赤間関の戌兵、小倉・長府藩の戌兵と船を出し、これを打払う
                   【毛利十一代史】

亨保3年 2月17日  山口県史整理年表  唐船十一隻、六連島の間に来る。これを打払う 【毛利十一代史】
亨保3年 2月19日  山口県史整理年表  唐船、向津具に来る。これを打払う 【毛利十一代史】
享保3年 3月11日  山口県史整理年表  玖珂郡山代諸村の百姓一揆す 【山代温故録】
亨保3年 3月20日  山口県史整理年表  長府毛利元矩死す。一五。清末毛利元平(後匡広)入ってその遺領を相続す
亨保3年 5月    山口県史整理年表  長府藩家士に知行所を質として金銭を借ることを禁ず 【長府毛利家乗】
享保3年 6月16日  山口県史整理年表  文学武芸の振興を令し師家の班階をのぼす 【毛利十一代史】

亨保3年 6月29日  山口県史整理年表  幕府唐船との密貿易を禁ず 【毛利十一代史】
享保3年 7月12日  山口県史整理年表  辻踊・辻相撲区域および期限を定む 【毛利十一代史】

亨保3年 7月23日  屋代大野系譜    ●60代大野直治弟百合介早世 二才 号月心自明童子
享保3年     屋代今元系譜    ◎今元本家六代目直家(5代長男)誕生*

享保3年 8月    山口県史整理年表  岩国痢病流行。痢病遠慮定制定 【御用所日記】
亨保3年 8月22日  山口県史整理年表  常盤池の築造者椋梨俊平死す 【防長歴史暦】
亨保3年 9月11日  山口県史整理年表  玖珂郡日積・由宇村の農民、改めて本藩の籍に入ることを提訴す。
                   同五年正月六日事件落着す 【百姓事件記録】
享保3年 10月11日  山口県史整理年表  新規寺院の建立および古跡の寺院再興を制禁す 【毛利十一代史】

亨保3年 閏10月15日  山口県史整理年表  萩町人松坂屋七郎左衛門を上方町人格となす 【毛利十一代史】
享保3年 閏10月15日  山口県史整理年表  改めて足軽以下の木履使用を禁ず 【毛利十一代史】
亨保3年 11月21日  山口県史整理年表  新銀通用。元禄銀より四つ宝銀までの古銀は、萩大黒屋の究印をせしむ
                   【毛利十一代史】
享保3年 11月23日  山口県史整理年表  玖珂町大火。本郷市悉く焼失 【御用所日記】

享保3年   徳島県立図書館 南海治乱記 (南海通記・香西成資)の発行は享保三年(1718)とされる。
                     筑前大野氏の記述あり。


西暦1719年
亨保4年      山口県史整理年表  三田尻河野養哲の家宅を免租地とし、文学・素読の指南に尽力せしむ
                  【防府の今昔】
亨保4年      山口県史整理年表  山根清蔭を長崎へ派し西川如見について天文学を修めしむ 【防府の今昔】
亨保4年 1月6日   山口県史整理年表  岩国領、百姓の問題について、本藩と意見対立。この日諸士一致覚悟の趣、
                   起請文を認め調印 【岩邑年代記】
亨保4年 1月12日  山口県史整理年表  はじめて藩校明倫館を創立しこの日開校式を挙行。文学ならびに諸武芸修業の
                   順序・諸稽古日割を定む。二月十九日吉元親臨してはじめて釈菜の礼を挙ぐ                    【毛利十一代史】

亨保4年 1月16日  山口県史整理年表  阿武郡江崎浦に朝鮮船一隻漂流。唐船と見誤り発砲す 【毛利十一代史】
亨保4年 1月19日  山口県史整理年表  大津郡青海島に朝鮮船漂着 【毛利十一代史】
亨保4年 1月21日  山口県史整理年表  諸士、負債整理のため、扶持方成の仕法を改む 【毛利十一代史】
亨保4年 3月12日  藩史大辞典     ○徳山藩、家老奈古屋里人、幕府役人に徳山藩再興を訴える。
亨保4年 3月19日  山口県史整理年表  両国中唐物抜荷商売の取締を令す 【毛利十一代史】
亨保4年 4月11日  山口県史整理年表  岩国領内寺院の縁起・証文・棟礼・鐘銘・什宝等書出を命ず 【岩邑年代記】

亨保4年 5月28日  山口県史整理年表  徳山藩再興。毛利元次二男元堯、家督を相続す
亨保4年 5月28日  藩史大辞典     ○徳山藩再興。百次郎家督相続をする。

亨保4年 6月3日  山口県史整理年表  遺失廩米切手等の過料を定む 【毛利十一代史】
亨保4年 6月13日  山口県史整理年表  幕府、西国大名をして、密商を検査せしむ 【毛利十一代史】
亨保4年 6月15日  山口県史整理年表 二 十番山の制を設け、立山の輪伐法を定む 【諸御書附(郡作法)】
亨保4年 6月21日  山口県史整理年表  小倉尚斎明倫館学頭となる 【萩史料】
亨保4年 7月7日  山口県史整理年表  阿武郡相島に唐船漂着 【毛利十一代史】
亨保4年 8月18日  山口県史整理年表  朝鮮信使赤間関着船 【両関唱和集】

亨保4年 8月19日  屋代大野系譜   ●徳山大野三代直昌(富山清左衛門二男)室(熊谷勘右衛門女)歿 
                  号栄壽院繁貞妙昌大姉

亨保4年      屋代今元系譜   ◎今元本家五代目直康次男由右衛門(今元分家森元初代)誕生

亨保4年 9月26日  山口県史整理年表  財政困窮につき、今来年十八石懸り馳走出米を命ず。また諸士借米銀処置につい
                   て箇条書を頒つ 【毛利十一代史】
亨保4年 10月    山口県史整理年表  岩国領内に疱瘡流行す 【御用所日記】
亨保4年 10月19日  山口県史整理年表  徳山城下侍屋敷の町割を新に実施す 【徳山略記】
亨保4年 11月3日  山口県史整理年表  幕命により両国中打物細工人を報告す
亨保4年 11月19日  山口県史整理年表  徳山前藩主毛利元次江戸にて死す。四九

亨保4年 12月    山口県史整理年表  萩より諸郡への継送運搬方法につき訓令す 【毛利十一代史】
亨保4年 12月5日  山口県史整理年表  両国今秋半作。風損潮入虫枯高二万石余の被害を幕府に報告す 【毛利十一代史】
亨保4年 12月23日  山口県史整理年表  赤間関町人小倉藤右衛門従来羽州城米改を命ぜらる。幕府より去年分扶持方
                   五人分下付 【毛利十一代史】


西暦1720年
亨保5年      防長寺社由来   ○毛利吉元の命により萩藩閥閲録編纂開始 享保10年完成(藩内1531家提出)
亨保5年      山口県史整理年表  井上親明に命じて両国一村限明細絵図、石高附・境目書および由来書
                  (地下上申)、寺社由来書を編集せしむ 【井上譜録】

亨保5年 1月6日  山口県史整理年表  享保二年以来の岩国領百姓騒動一件判決 【百姓事件記録】
亨保5年 1月15日  藩史大辞典    ○徳山藩、家老奈古屋里人らに藩主元堯より感状を授与される。
亨保5年 2月22日  山口県史整理年表  薩摩櫨の木植付・櫨実蒔方・苗仕立方仕法を令す 【諸御書附(郡作法)】

亨保5年 4月26日  屋代大野系譜   ●59代大野直深(直儀弟)歿 四十二歳 号安月了閑居士
亨保5年 4月26日  周防大島町誌   ○百姓一揆指揮したかどで大野重兵衛(安月了閑居士)同日切腹 
                 『小松妙善寺過去帳』
                 【享保の百姓一揆】(手崎の首切り地蔵様)
                 「享保五年四月二六日 百姓十人畔頭四人御仕置有之死置
                  安月了閑居士、同日切腹、大野重兵衛(直深)

亨保5年 5月    山口県史整理年表  萩附近拝領山屋敷ならびに立銀山竹木濫伐を制禁す 【諸御書附(郡作法)】
亨保5年 5月6日  山口県史整理年表  幕命により打物細工人長州住「二王正清」の打物を提出す 【毛利十一代史】

亨保5年 6月16日  山口県史整理年表  永田政純に諸士および古社寺の文書を調査せしむ。享保十年に至りて成り
                  「閥閲録」と名づく 【毛利十一代史】

亨保5年 7月28日  山口県史整理年表  寺院大破改造の時、坪数を増加し過分の造営を停止す 【御書附其外後規要集】
亨保5年 9月    山口県史整理年表  山口三宮仁壁神社新殿造営 【毛利十一代史】
亨保5年 9月4日  山口県史整理年表  赤間関番所船改に関し長崎奉行の照会により答申す 【毛利十一代史】
亨保5年 10月1日  山口県史整理年表  諸士、馳走出米享保六年より返付し、去る享保二年訓令の如く旅役出米課出に
                   つき訓令す。また諸士借銀捌仕法を公布 【毛利十一代史】
亨保5年 10月11日  山口県史整理年表  岩国領文武奨励・弓馬槍兵法見届の式日制定。また宇都宮圭斎宅にて月六日講釈
                   の式日制定 【御用所日記】

亨保5年 10月25日  山口県史整理年表  岩国領、百姓の田地、高二十石未満のものは分地を禁ず 【岩邑年代記】
亨保5年 11月    山口県史整理年表  不審なる唐物類の売買を禁ず 【毛利十一代史】
亨保5年 11月29日  山口県史整理年表  長崎奉行の命により両国内唐物商人を報告す 【毛利十一代史】
亨保5年 12月    山口県史整理年表  岩国領、唐物商売の仕法制定。問屋を六軒に限定す 【証記抜萃】
亨保5年 12月    山口県史整理年表  幕府、長門・筑前・豊前に唐船漂流の時は、発見次第打払うべきを令す
                   【毛利十一代史】


西暦1721年
亨保6年      山口県史整理年表  萩明倫館前に目安箱(投書箱)を設く 【毛利十一代史】
亨保6年      山口県史整理年表  萩城北浜に植林す 【渡辺年表】
亨保6年      山口県史整理年表  諸士高百石につき手取三十石・旅役出米五石引米五石 【毛利十一代史】
亨保6年      山口県史整理年表  近年夏米高値。四宝銀百目につき二斗二・三升となる 【毛利十一代史】
亨保6年 2月    山口県史整理年表  古跡の寺院引寺の例規を訓令す 【毛利十一代史】
亨保6年 2月11日  山口県史整理年表  徳山毛利元堯江戸藩邸にて死す。二〇.四月十六日、嗣子広豊、家督相続
                 【徳藩年表】

亨保6年 2月20日  山口県史整理年表  諸村の山焼を制禁す 【毛利十一代史】
亨保6年 5月9日  山口県史整理年表  徳山藩、藩士の移転料として、材木を給与す 【政府■要】
亨保6年 8月   山口県史整理年表  佐伯武兵衛を両国山方都合役として御立山を管せしむ 【諸御書附(郡作法)】
亨保6年 8月29日  山口県史整理年表  幕命により両国の人口を報告す。二十六万二千百二十四人 【毛利十一代史】
亨保6年 9月   山口県史整理年表  両国内蔵入給領とも山林保護のため、竹木濫伐を制禁す 【毛利十一代史】
亨保6年 11月17日  山口県史整理年表  今秋の暴風および蝗害田圃の損失高三万石余。倒家百九十五軒その他の被害を
                   幕府に報告す 【毛利十一代史】

亨保6年 12月   山口県史整理年表  安徳天皇御陵について京都町奉行よりの照会に報告す 【毛利十一代史】
亨保6年 12月3日  山口県史整理年表  破魔弓・羽子板・雛等、節句飾物の華美を禁ず 【毛利十一代史】
亨保6年 12月17日  山口県史整理年表  岩国領内獣皮の買付を中津村久保の八右衛門座に指定 【岩邑年代記】

亨保6年      大洲庄屋由来書   『大洲新谷旧記集』 の著者冨永彦三郎は享保6(1721)年生まれ、寛政12
                  (1800)年に死去し享年80歳である。喜多郡中居谷村の庄屋であった

  『大洲領庄屋由来書』「中居谷村」、

  冨永彦三郎 幼名与次郎、実ハ七郎左衛門直道八男、大久喜村庄屋八郎右衛門子、元文、寛保、延享、寛延、宝暦、
  明和、安永年中勤役、苗字帯刀御免、其後御感状、御扶持かた被下候、幼年之節故有て御厚恩打重候事恐入、
  御願申上差上ル、御領中庄屋由来書差上候ニ付、御称美として御刀拝領仕候
  積塵邦語 『積塵邦語』四「中居谷村橘氏以前冨永」 冨永彦三郎直政
    七代            同 彦三郎
  実ハ先嘉右衛門(六代目)弟、大久喜本山八郎右衛門男被賞役功三人扶持被下置、山本加兵衛様御書付有之、
  下田渡後見為御称美御目録拝領、井口又八様御書付有之、名字御扶持相続、帯刀御免、安永七戌年、
  広善院様御家督御歓、三月十六日着府御歓申上、浅草御殿へも罷出申上候処、大殿様泰みち公御前へ罷出、
  朝枝又右衛門様御披露、何茂無事、一段被思召段蒙御意、御画二幅対御掛物拝領、御上包御書付迄御前被遊、
  誠以難有儀とも、彦三郎隠居、寛政十一年、西谷加左衛門様ヨリ御領中并新谷旧記改被仰付、同十二年書編調差上候、
  同十二月廿一日、嘉左衛門様御賞美御書付被下、御脇差拝領、其後菅田、下田渡後見被仰付

  元文から安永までの18世紀中後期庄屋を勤め、その後も各村の後見役となっている。寛政11(1799)年から
   寛政12年の2年間で『大洲新谷旧記集』 はまとめられ、褒美として刀を拝領している。


西暦1722年
亨保7年      山口県史整理年表  徳山藩再興諸役衙落成す 【徳山藩史稿】
亨保7年 2月7日   山口県史整理年表  徳山城下桜馬場土手に新に桜樹を植う 【徳山藩史稿】

亨保7年 3月9日   屋代大野系譜    ●58代大野直儀妹オラク(林右馬之助妻)歿 六十四才 号秋尼妙薫信女 
                    芸州倉橋島

亨保7年 4月15日   屋代今元系譜   ◎今元家初代助左衛門直光長女ナミ(三代目小林庄兵衛妻)没 壽70歳

亨保7年 5月23日  山口県史整理年表  在郷居住および旅役留守または幼少者の家屋貸の制を定む 【毛利十一代史】
亨保7年 6月23日  山口県史整理年表  両国内暴風雨、翌日におよぶ 【諸御書附(郡作法)】
亨保7年 7月3日  山口県史整理年表  幕府、諸侯に禄高百分の一の税米を課し、参勤の期を緩うす 【毛利十一代史】
亨保7年 7月19日  藩史大辞典     ○徳山藩、新舘邸を上棟する。
亨保7年 9月6日  山口県史整理年表  財政逼迫につき本年より三ヵ年間十五石懸り馳走出米を命ず 【毛利十一代史】
亨保7年 11月   山口県史整理年表  熊毛郡平生町岩国屋長吉「周防国巡礼手引」を刊行

亨保7年 11月12日  山口県史整理年表  六月・七月・八月大風雨・洪水・虫害にて高五万石の被害あり。これを幕府に
                   報告す 【毛利十一代史】
亨保7年 12月27日  山口県史整理年表  諸借銀利息近年の一割三分を一割五分に改む 【毛利十一代史】

亨保7年 12月29日  屋代大野系譜    ●57代大野直給後室(山田一良兵衛女)歿 七十一歳 号室良慶大姉


西暦1723年
亨保8年     山口県史整理年表  米価下落し、六・七月頃銀百匁につき二石七・八斗となる 【毛利十一代史】
亨保8年 3月1日  山口県史整理年表  宮庄親輔「岩邑志」を著し、跋を作る
亨保8年 3月15日  山口県史整理年表  岩国家中法度三十三カ条を改訂す
亨保8年 10月4日  山口県史整理年表  今井似閑死す。六七。明倫館創立に当り似閑収集の国文学書多数を同館に伝写
                    【防長歴史暦】
亨保8年 11月3日  山口県史整理年表  赤間関出火。延焼百三十九戸 【毛利十一代史】
亨保8年 11月12日  山口県史整理年表  両国五月以来、大風雨・洪水・高潮・虫枯等にて被害六万石余。これを幕府に
                   報ず 【毛利十一代史】
亨保8年 11月20日  山口県史整理年表  萩河添本町および中町火災。百六十四戸焼失 【毛利十一代史】


西暦1724年
亨保9年      山口県史整理年表  萩火災頻発。辻番所を置き、端ノ坊境内に火楼を設く 【故事年表】
亨保9年      山口県史整理年表  佐波郡植松自力開作築立
亨保9年 1月11日  山口県史整理年表  吉元、藩政改革を諭し言路を開く 【毛利十一代史】
亨保9年 2月    山口県史整理年表  百姓町人品定七ヵ条を定む 【諸御書附(郡作法)】
亨保9年 3月15日  山口県史整理年表  財満五郎左衛門・半井古仙、公許を得ずして石州銀を借る。よって家禄没収
                 【毛利十一代史】

亨保9年 閏4月   山口県史整理年表  徳山藩座頭瞽女の扶持米給与を規定す 【徳山毛利家記録類纂】
亨保9年 5月12日  山口県史整理年表  諸士の馳走米課出を停め旅役出米五石のみを徴す 【毛利十一代史】
亨保9年 8月14日  山口県史整理年表  両国暴風雨諸所の開作堤防破損す 【岩邑年代記】
亨保9年 12月1日  山口県史整理年表  陪臣足軽以下の品定箇条を頒つ 【毛利十一代史】
亨保9年 12月1日  山口県史整理年表  江戸在勤者の傭人不足につき諸郡に斡旋を命ず 【毛利十一代史】

幕末・明治を駈け抜けた長州医家  重宗家 山根家 秋本家 

2023年01月22日 08時37分52秒 | 長州医家 重宗家 山根家 秋本家 物語
幕末・明治を駈け抜けた、或る長州医家

 長州医家で有名なのは青木家であるが、他にも多くの著名な医家もあります。
 
 今回貴重な医家の記録の提供を受けましたので、NET上にUPすることにより、より深い理解と歴史の一証言となる
 と思います。事実誤認や別情報があれば、コメント欄にお知らせ頂きたい。

 尚、この系譜原本は、重宗家、山根家、秋元家の親族である平野氏が自家の史料を基に記述したものを底本としている。
 この底本の現蔵者は周防大島町屋代 高城旅館館主(周防大島学習館長)である高城 俊氏である。
 基本的には個人情報が含まれるので、高城俊氏の了解を取っています。
 氏の父親が重宗家よりの養子のため親族の情報となります。

 しかし、原本以外の(注・説明書)は筆者の挿入です。屋代源三 拝  




『長州医家 重宗家 山根家 秋本家 物語』

              【注・原文は縦書きであるが都合上、横書きで記す】



前書き
  亡母の持ち物の中にあった古い写真を貼付して、長く保存し、併せて亡母が
晩年話して呉れたことを主とし、それに他の人から聞いた話も加へて、重宗家、秋本
家のことを書き留めておきます。
                   平野 秀




「重宗家のこと」

 周防国山口矢原邑(現山口市大歳区矢原。湯田温泉の西南方)に山根と
謂う姓の家があった様である。宗旨は真宗であったらしい。
明和の終りか、天明の始め頃(昭和四十年から数えておよそ百八十年位前)に
右山根家に現山口県吉敷郡小鯖邑から重宗良策と謂う人が婿入りし、亦後
山根姓を重宗姓に改め現重宗家の祖となった。宗旨も山根家の真宗を良策実家
の曹洞宗に改め小鯖邑禅昌寺(注1)の門徒となった。
家紋は九曜星と上羽蝶である。

初代 重宗良策

 良策は立誠堂と号し、眼科医を業とし、その術に秀で名声四隣に及び遠近
来たりて療を受けるものあとを絶たず、家運大いに振ひ、所謂、重宗流眼科医術の
基を築いた、然し、生来多病、齢四十にして手足麻痺しその業を子に譲る。
良策は屋敷内に堂宇を建て薬師如来像を安置していた。来たって療を受ける患者
は同時にその薬師堂を拝し祈願したとの事である。
右仏像は現に富田の重宗家に保存せられてある。良策は又極めて多趣味の人で
或いは力士を食客として・・・・・・・・・・・・・・・・・・

注)「この間 写真在り」

この写真は明治四十二年頃撮ったもので当時樹齢百五十年以上と
謂われていた。私たちの少年時代には開花の季節知人を招いて酒宴
を開いたものである、父は此の管理には特別の意を用いた様である、殊
に父が日露戦争で出征の留守中、母が盛夏の候、灌水、蟻害の
防除等に日夜心を砕いていた様が想い出される、年は流れ此の名木
も遂に力尽き昭和四十三年枯死二百年の命を終わった(秀 記)


良策には二男一女があった。長男を恭安と謂い、重宗家第二代として家業の眼科
医を継いだ。
次男は文季と謂ひ文政十一年子(1829年)父良策の意を体し嘗て良策が婿入り
する前の山根家の姓を嗣ぎ山根家の位牌を奉じて長門萩靍江香川津邑に移り
伴靍堂と称して父より授けられた眼科医の術により一家を構えて患者の診療に当
たった。
尚、長女は吉敷郡門田邑(大内邑門田)益田家臣、岡本仁兵衛に嫁いだ。
都濃郡富田邑にあった開業医土井氏,同郡福川村の開業医尾崎氏は共に
岡本家の関係の人である。
良策は天保三年辰八月十日行年七十一歳で病没した。矢原邑三角原の重宗
家墓地(椹野川畔)に埋葬せられている。尚、妻は弘化二年己に世を去り良策と
同一墓所に葬られた。
  法名は
    良策    立誠堂重宗良策居士
     妻    浄光院壽昌妙願大姉

 (注)  重宗家と山根家との関係は岩波書店発行の吉田松陰全集第五
      巻戌午幽室文稿 山根文季墓誌銘に明記してある。


第二代  重宗恭安

 恭安も亦、眼科の医術に堪能で家運は益々榮た。当時彼の治療を受けた盲目
の琵琶法師で快癒の禮に愛器の琵琶を残して帰ったものが数人に及んだと謂うこと
である。明治中期に重宗家が今の南陽町富田に移るまでその数個は家に保存
せられていたとのことである。
恭安は武術を長松道與に学び文政十三年庚寅九月十九日と天保二年辛卯
五月九日に天下無双兵法二天二刀流目録を授けられた。右目録は現に重宗
家に保存されている。
恭安は文政十年亥、若くして妻(三田尻 重枝家より入嫁)と死別し後妻として
上矢原邑 神保太郎右衛門の長女を迎えた。先妻との間に生まれた長男順造
は弘化二年牛二月三日齢二十八歳で病没した。二男孝中以下三女は後妻
との間の子である。
 二男、孝中は父恭安の弟、山根文季(注2)の長女の婿となり山根家を継ぎその第
二代となった。孝中、亦眼科の術に秀で文久三年十二月十五日、毛利本藩の
医員に召し出され、又、明治維新に際し会津征討軍の長州軍医として従軍した
山根省一、山根正次(注3)等は共に孝中の子である。
 山根文季には為八(注1)と謂う男児がおったが若くして疱瘡の為、一眼を失ひ為に
眼科医として不適当なりしにより早く家を出て、毛利藩の医家小野家を継いだ。
為八、名は正朝と謂い多芸多能の奇士にて吉田松陰に師事し、長崎に出て
地雷火術、写真術等を学び刀槍棒鎖鎌、柔等の武術に秀で、又画をよくした。
維新後一時山口祇園社境内に写真撮影所を開き、晩年には武術の道場を
呉市に開いた。山口県に於ける写真営業の嚆矢である。
明治四十二年頃呉市で病没した。生前の功により従五位を贈られた。妻は孝中
の妹、みね、である、即ち重宗秀熊の母、しげ、の妹である。

山根孝中
重宗恭安の次男
重宗しげ、及び小野
為八妻みねの兄
山根省一、正次の父


注)上記人物の寫眞あり


前記の如く恭安の長男、順造は歳若くして病没し次男孝中は出て山根家を継い
だため、重宗家は恭安の三女しげに婿養子として周防三田尻今宿邑金屋職
右田毛利家臣吉武彦右衛門の三男孝菴を迎え重宗家第三代として眼科医を
継がせた。
恭安は万延元年申十二月十日、齢六十四歳で矢原邑に没し父良策の傍に
葬られた。

  法名は
    恭安    爽翁院重宗恭安居士
    先妻    浄雲院至覺妙光大姉
    後妻    清浄院善入妙室大姉


第三代  重宗孝菴

 孝菴、亦眼科の医術を良くし文久三年亥、三丘宍戸家に医員として召し抱へ
られた。矢作邑の自宅の門内に空高く紺地に「め」の字を染め抜いた幟を常に
上げていた。
孝菴には二男一女があった、長男恭輔は医学修行中、明治十一年十二月一日
二十一歳で病没し、次男秀熊が医師として家を継いだ。
長女さくは最初旧萩藩士陸軍少尉矢野正助に嫁したが、明治十年夫正助が
西南戦争で重傷を受け大阪城内にあった陸軍病院で戦傷死した為、当時一歳
の子、虎若を残して矢野家を去り後陸軍中尉石光又助と再婚した。
 若虎は後年、山根孝中の外孫しづと結婚し新たに山根姓を称えた。
孝菴時に酒を嗜みまた骨董を愛した。重宗家にある古道具類は概ね彼の遺したも
のである。
孝菴は明治二十七年一月三十日矢原邑に於いて、妻しげは明治四十四年
九月五日都濃郡富田村(現南陽町)に於いて病没した。

  法名は
    孝菴    重宗院孝菴義忠居士
    妻しげ   重盛院宗菴貞光大姉


第四代  重宗秀熊

 秀熊は第三代孝菴の次男で長男恭輔が医学修業中病没した為、第四代と
して重宗家を継いだ。
彼は慶應元年矢原邑に生まれ若くして東京に出て医学を修め明治二十年業を
卒へて帰郷、矢原邑で父と共に医療に従事した。父孝菴までの医術は概ね漢方
を主とし西洋医学は秀熊からである。
医術は明治維新以後急速に進歩し、又一般社会の諸情勢も目を逐て変化し
矢原邑の辺地に在って先祖以来の方法を踏襲しておっては経営上不利な点多き
により秀熊は予てから父と分かれて交通利便の新たな土地に独立開業を考えて
おったが、明治二十七年父孝菴死後遂に意を決して祖先の地を離れ都濃郡
富田村(現南陽町)に転住した。
秀熊は明治三十七年日露戦争に方って自ら軍医を志願し戦争の前半は概ね
広島陸軍予備病院に勤務し後半は第一軍に属し満州の野に転戦し戦役の功
により勲六等に叙し瑞宝章を授けられた。
秀熊は特に酒を好み囲碁をよくし其の技量は郷党に於いて彼の右にいづるものは
なかった。また、晩年は謡曲を愛した。
彼は中年以降絶対に洋服を用いず一生和服で通した。妻は周防三田尻の医師
秋本好謙の長女アヤで謙造以下五人の男の子があった。
妻アヤは和歌をよくした。
秀熊は昭和十七年三月十七日齢七十七歳で妻アヤは仝二十六年齢八十三
歳で共に都濃郡南陽町で病死し遺骸は矢原の重宗家墓地に葬られた。
尚、矢原の墓地は昭和七年、秀熊が長男謙造と計らい初代良策の墓石は其の
儘残し置き他は之を整理して一基に纏め新たに先祖累代の墓として墓石を建立
改葬した。

 秀熊夫婦の法名は
    秀熊     重宗院寛翁秀醫居士
    妻アヤ    重薫院寛室貞純大姉

秀熊には五人の男児があったが遂に一名も医師として家業を継ぎ得ず先祖代々
の医家も秀熊他界ともに週末を告げたのである。長男謙造の二男、正二が医学
を志し折角その業を了そながら若くして病魔に斃れたことは返す返すも遺憾至極で
ある。

資料 1
医術開業免状御返上届
内外科医術開業免状
     山口県士族 
         重宗孝庵
         天保三年十一月生
明治十一年二月山口県ニ於テ下付シタル内外科医術開業許可ヲ
諦認シ此免状ヲ授与ス
明治御十七年四月廿八日
     内務省正四位勲一等山県有朋
  此免状ヲ勘査シ第一二六三二号ヲ以テ医籍登録ス
     内務省三等出仕正五位勲四等長與専斉

此免状拙者実父孝庵申受医術開業罷在候所
同人義明治廿七年一月三十日死亡仕候ニ付
該御免状御返上仕度此段御届仕候也
   山口県周防国吉敷郡矢原朝日村第百三番屋敷住士族
         孝庵死亡跡相続人
                重宗秀熊   ㊞
   明治二十八年   月
   内務大臣子爵 野村靖殿




「秋本家のこと」

 重宗第四代秀熊の妻アヤは周防国三田尻の医師、秋本好謙の
長女である。秋本家も代々医家で好謙の祖父、台寿(だいじゅ)は
徳川末期、周防国は勿論、当時藩の中心であった長門国萩にも名
の通った医師であった。台寿には男児なく娘ジュンの養子として周防国
秋穂の神職藤村氏の八男、里美を迎えて医家を継がせた。台寿には
二人の弟があった、二人とも僧侶で、兄は周防国分寺、弟は能登
永平寺の住職を勤めた。里美及びその子、好謙共に医術に秀で
旧藩主の侍医に班し、明治七年県当局が三田尻に華浦病院(注5)及び
華浦医学校を設立するに及び里見は病院の診察医官に好謙は
学校の教官に任命せられ、明治初年の県下医育に貢献する所が
大であった。里見は又、明治元年戊辰の役に毛利藩の軍医として
奥羽、蝦夷等に出征した幕末の志士。野村望東尼(注6)の臨終に立ち
会うたとのことである。
 里見は歌人として、好謙は漢詩人として有名であった。従って当時の
文人墨客との交際多く、秋本家に伝わる頼山陽揮毫の「観潮」の
扁額は山陽が秋本家に宿泊した際に書いたものだとの事である。
 左記は山口県医師会編纂、山口県医師会史第一章五に掲載
してある、華浦病院、華浦医学校職員任命にあたり当時の県令が
文部大輔に認可を申請した書類に書いてある、里見、好謙の履歴で
ある。

       【履歴】

         山口県貫属士族 好謙父  秋本 里見
                      当亥ノ三月六十二歳七ケ月

一、文政九年丙戊秋より長州萩田中三宅に従学、同五年甲午春
  より同地松村玄機に従学、同八年丁酉春より同国厚狭郡
  市川玄伯に従学、同十一年庚子秋より萩・青木周弼(注7)に従学
  同十三年壬寅春よりお大坂緒方洪庵(注8)に従学、同年秋より江戸
  伊藤玄朴に従学、前後都合十七年医学修行

一、天保九年戊戌四月より同十一年庚子五月まで二年間防州
  吉敷郡秋穂に開業、弘化二年乙己正月より於同国佐波郡
  三田尻開業。

一、慶應二年丁卯四月より、元山口藩三田尻病院出張所痘掛
  兼勤。明治元年戊辰十月より同藩兵隊に従い東京奥羽蝦夷
  等へ出張し、同二年己巳七月まで勤務、同月旧主の侍医に
  班れ八月免職、同九月三日三田尻病院出張、十月免職、
  同五月より侍医兼勤、同五年壬申三月免職、同七年三月
  より華浦病院診察医官勤務。


      山口県貫属士族     秋本 好謙
                当亥ノ三月三十四歳三ケ月



一、明治三年庚午春より元山口藩医院入学、仝五年壬申夏より
  翌年癸酉四月迄東京に於いて「シモンズ」氏従い、独逸学
  修行、同年五月より大阪病院「エルメレンス」氏に従学十二月
  帰県。

一、教師給料
  一月金百円  但三人分


 好謙は地山と号し漢学の造詣深く書をよくした。三田尻付近には
彼の撰文なる碑が点々ある様である。
好謙には四人の妹があった。萩の森広家(子、長一は海軍将校退役
後、広島居住、原爆で死没)。
長府の向井家(夫・泰「ゆたか」は向井勉一、仝、泰「やすこ」の義父)
及び、大島郡森野村 西村千熊(注9)(山口県会議員を勤めた)。又、
津和野・澄川芳槌に夫々嫁した。
好謙の妻、由は佐波郡古曽原の外科医伊達道白の女で三人の兄
があった。長兄、静造は大楽源太郎(注10)暗殺の容疑を受け伊達家の家督
を継ぐことができず新々内海家を建てた。大楽を殺した人は實は静造の
妻の兄で大道且の伊藤家のものであった。静造は後、長門忌宮の
宮司を勤めるる傍ら、古曽原に漢学塾を開き子弟の教育に献身した。
内海幸太郎は彼の子である。次兄哲三は伊達家を継いだ。
伊達精一医師は哲三の子である。今一人の兄、小田村信之進は
幕末長州藩士河上弥一等とともに筑前の志士平野國臣等の計画
に加わり公家澤宣嘉を奉じ但馬生野に兵を挙げ事敗れて自刃した。

(昭和四十四年一月朝日新聞連載大仏次郎執筆「天皇の世紀」参照)

好謙の長男、寿太郎は重宗秀熊等と共に明治初年医学修行の為
東京へ遊学中不幸にも二十一歳で病没した。病名は肺炎であった。
当時有名な独逸人医学者「ベルツ」博士による手当も空しく不帰の
客となったことである。遺骸は山口県出身の学友の手により東京谷中
の墓地に葬られた。
寿太郎発病の報を受けた父好謙は急ぎ上京の途につき途中大阪港
に上陸、待合所で休憩中、偶々隣席で休んでいた男が小声で静かに
親鸞上人の御文章を口ずさんでいたのを耳にし愕然とし途端に上京
の気力を失い悄然として故郷に引き返したとのことである。
寿太郎の死は秋本一家に甚大な打撃を与え其の後に於ける家運の
衰退を決定的なものにした。男子は寿太郎のみで他は皆女子であった。
長女アヤは重宗秀熊に、二女キクは大岡通丸(旧津和野藩の家老
の家であったが明治初年石見銀山の事業関係に失敗し家産を蕩尽
東京大阪等各地を流浪し東京で一生を終わった。死に当たって重宗
謙造が大変尽力したとのことである)

四女、英子「ふさこ」は安村介一、(海軍少将に累進、昭和二十一
年頃病没。英子は大正初年満州旅順にて病没)に、五女泰子は
向井勉一(海軍機関中佐で退役、昭和三十年名古屋で病没、
泰子は昭和三十八年東京で病没)に夫々嫁し、三女淑子「よしこ」
が佐波郡小野村から辰平を婿養子として迎え秋本家の家督を継いだ
が淑子には子が無く、大正末年病没した。その死後辰平は他より後妻
を迎えて一女を得、その娘に養子をとり辛うじて家名存続しあるも、
秋本家本来の血脈は完全に絶えた。アヤを始め姉妹の落胆推察に
余りあるものがあった。
好謙は晩年佐波郡牟礼村今宿に隠棲し明治四十年ころその生涯
を終わった。妻、由は好謙より稍々前に他界した。
秋本家は元来真宗であるが、里美が新神職の家の出であった関係か
其の後は神道であった。墓は三田尻桑ノ山(台寿は桑山麓大楽寺)
に在る。

重宗謙造は小学校時代は両親の許を離れ祖父好謙の膝下に在って
直接その薫陶を受けた。従って特に祖父を敬慕していた。今、重宗家に
在る「少年易老学難成・・・・」の朱熹の詩は謙造が中学校に入学に
あたり祖父が勉学の戒めとして書き与えたものである。
祖父危篤の報を受けた時、当時中学生であった謙造は汽車の発車
時刻が待ちきれず、富田から牟礼まで五里の道を駆け足で枕元に
馳せ参じた。明治四十年頃は山陽本線も勿論単線で列車の運転
回数も極めて少なく、現今のことを思うと全く嘘の様な話である。

    *上記が系譜手記である。(筆者注)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   (注1)【禅昌寺】

     山口市下小鯖1170番地 禅昌寺
     創建以来幾度か失火の為その都度再建して、現在の本堂は嘉永3年(1850)に建立された。
     法幢山禅昌寺は、室町時代の創建にして開山は慶屋定紹禅師、開基は大内義弘公である。
     開創当時この禅昌寺は約80の末寺小庵がこれをとり巻き千人をこえる雲水が修行して
    「西の本山」とよばれていた。


   (注2)山根文季  コロリで命を落とした長州藩の名眼科医

     関連、 花燃ゆ, 長州藩
     会津戦争, 幕末, 長州藩, 松下村塾

     長州藩医(眼科医)であった山根文季は、矢原村で眼科医として名声高い
     重宗良策の次男である。名は山根正直とも。
     子の小野為八(おのためはち)は幕末の攘夷運動に身を捧げている。
     山根文季はは矢原の蔵光で育ち、げんだ川という灌漑用水路を隔てた
     南側に住んでいたと言う。
     父・重宗良策は40歳頃に、手足の麻痺して仕事ができなくなった為、
     藩医になるという念願を山根文季に託した。
     やがて、山根文季は長州藩の御雇医となって萩城下に住みむと
     寺社組に組み込まれ、のちに城番となった。
     長州藩からは萩の東香川津に広大な土地を与えられ、そこで眼科医として開業。
     遠方から来た患者はそのまま自宅に泊めて食事も与え、薬代が払えない者から
     は代金も受け取らず、逆にお金も与える事があったと言う。
     その為、萩の人々からは大変慕われ、医院はいつも混雑していたようだ。
     普段は倹約家で、無口だったと言うが、客が来れば親しく酒を飲み、
     飲むと客が大笑いをするほど楽しませたと言う。
     山根文季は、吉田松陰とも親交があり、1855年には、子の小野為八を連れて、
     外国船来航を警戒する相模国(神奈川県)三浦半島の警備に長州藩士らと共に赴いている。
     なお、長男・小野為八は、藩医・小野家の養子となっていた為、重宗恭安の次男・
     山根孝中を養子に迎えている。
     山根孝中も36歳の時(1858年)、吉田松陰の松下村塾で学んだ。
     NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、コロリに感染したキクの母親を心配する、
     キクを思う杉文(久坂文)と共に登場するシーンがある。
     しかし、山根文季は1858年8月、流行のコレラで没した。57歳。
     この時、当時幽閉中の吉田松陰は「山根文季墓誌銘」と題して文を起している。
     養子の山根孝中(やまねこうちゅう)も眼科医としての評判は良く、
     戊辰戦争でも医師として従軍。
     特に会津攻めでは敵味方問わず負傷者の治療にあたったと言う。
     なお、この山根家の子孫は、のちの日本医科大学の創設にも関わった。
     (参考) 吉田松陰全集 第5巻


    (注.3)山根正次(やまねまさつぐ)

                          
      教育・文化
      衛生行政に尽力した医学者・政治家

     【生没年】安政4(1857年)- 大正14(1925年)
     【享年】 69 歳
     【誕生地】長門国萩香川津(萩市椿東)
     【墓】萩市前小畑 東京都港区(青山霊園)

     
     明治3年(1870)藩の医学校で蘭学を修め、萩中学(藩校明倫館の後身)でドイツ人教師ヒレルに学ぶ。
     明治15年、東京大学医学部を卒業、長崎県医学校一等教諭として赴任する。 明治18、19年、
     長崎でコレラ病が大流行したため検疫委員や伝染病予防委員に任じられ、臨床経験をもとに明治20年
     『虎列剌病汎論』を刊行。衛生上の理由から、長崎市に上水道敷設の急務を力説し採用された
     (明治24年に供用開始)。また、裁判医学の振興を山田顕義法相に建議して受け入れられ、
     明治20年、長崎医学校を辞めて司法省雇となり、ヨーロッパへ派遣されて法医学、衛生行政などを学んだ。
      明治24年に帰国後、警察医長、内務省検疫委員などを歴任し、衛生行政に尽力する。明治35年、
     山口県から衆議院議員に初当選。明治37年、私立日本医学校(現在の日本医科大学)の創立に関与、
     初代校長となり後進を育成した。明治39年、帝国議会に帝国聨合医会草案の「医師法案」を提出、
     「医師法」が発布・施行される。大正9年(1920)政界を引退後、東京駒込の特許消毒株式会社社長となった。

     山根 正次(やまね まさつぐ、)

     安政4年12月23日 [1](1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、
     日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。


     (留学時写真)
     1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と前列左より河本重次郎、山根(日本医科大学創始者)
     田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一中列左から森林太郎(作家・森鴎外)、武島務、
     中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙、瀬川昌耆、
     北里柴三郎(北里大学)、江口襄。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎

     長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、
     中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ[1]。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に
     任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。
     1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ[4]。帰国後は、警察医長、
     医務局長、警視庁第三部長を歴任した
     1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は6回を数えた。
     また東京市会議員も兼ねた。
     さらに、1904年(明治37年)に日本医学校(現在の日本医科大学)が創設されると、初代校長に就任した。

     栄典
     1902年(明治35年)12月27日 - 正五位[6]
     著書[編集]
     『虎列剌病汎論』(英蘭堂、1887年)
     『実用検毒学』(誠之堂、1894年)
     『改良服図説』(伴鶴堂、1902年)
     『日独比較 改正伝染病予防法論』(清水書店、1906年)


     【日本医学史総会 演題】「藩閥政治の日本医学校に与えた影響」

     1)はじめに 日本医学校創立者の山根正次は今日の日本医科大学の基礎を作ったにも不拘,資料が非常に少ない.
      済生学舍の突然の廃校で行き場を失った学生達の救済の為,済生学舍とも浅からぬ因縁のある
     日本週報 社主の川上元治郎は長州出身で長州閥の領袖山県有朋の部下で国会議員の山根正次に懇請して
     日本医学 校を創立させた.創立した学校の初代校長として 15 年も在籍したが何故かその資料が乏しいが
     残され た資料を参考にその苦難の経営の跡を辿ると共に私立医学校の存続にも権勢を誇る長州閥の影が
     見え隠 れする事実にも注目した.

     2)渡韓以前の日本に於ける山根の活動 山根正次は安政 4 年現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の
      次男として出生,明治 7 年長崎医学校に入 学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,
     以来長谷川との親交が続くが同 15 年 4 月, 東大医学部を卒業,森鷗外の 1 年下にあたる.同年 12 月
     長崎医学校 1 等教諭に任命され同 18 年~19 年 にかけ同地方でのコレラ大流行時には検疫委員として
     活躍し流行の原因が水源にあるとして上下水道の 設置を願い出る.また同 19 年長崎での清国水兵の
     暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田 顕義司法大臣に説く.同 20 年 8 月同校辞任,
     司法省に出仕するが法医学研究の為渡欧,同 24 年 11 月帰 国後は内務省から警察医長,医務局長に
     任命され同 35 年迄 11 年間日本及び東京市の医事衛生に尽力し た.同 35 年 8 月山口県から
     衆議院選に出馬,以後 6 回も当選している.性格は温厚篤実,恭謙で礼譲を 尚び清廉かつ郷党後進の
     指導に懇切であったと伝えられている.

     3)日本医学校長兼任の「韓国衛生事務顧問」 国会議員でもあり多忙を極める山根に無理を承知で
     学校の設立経営を懇願した川上であったが済生学 舍廃校の経緯を熟知していただけに長州派の協力
     がなければ基盤の脆弱な日本医学校の創立は無理とみ てその篤実な性格や長州閥を背景に
     その政治的手腕に期待したものと推察する.山根を補佐すべく 15 才年下の元書生,長州人の
     磯部検三が幹事(事務長役)に起用される.かくて同 37 年 4 月に「私立日 本医学校」は開校した.
     当時韓国では日本の強引な干渉の為不穏な情勢が続いていたが同 42 年 10 月 26 日初代総監
     伊藤博文はハルピン駅で韓国人安重根に射殺され,同 43 年 8 月 29 日遂に日本は韓国を併合 し
     総督府を設置した.同 43 年 4 月山根は現職の儘「韓国衛生事務顧問」として赴任し以後 5 年も
     滞在す る.韓国での山根は各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
     助産婦の養成等医 学教育の振興をはかり,衛生施設の改善,また同 44 年満州でのペスト大流行に
     際しては北里柴三郎ら と協力して朝鮮侵入阻止等大きな功績をあげている.

      4)日本医学専門学校の異変 山根は大正 4 年 1 月韓国衛生顧問を辞任しているのでその頃帰国した
     ものと思われる.設立時いずれ 指定医学専門学校に昇格し卒業すればそのまま医師になれる筈で
     入学してきた学生はそれが実現不能と 知って憤激し山根磯部らの不信を詰って大正 5 年 5 月 16 日
     遂に総退学を決行した.(約 450 名)事態を 重く見た文部省は同年 8 月に再建指導の為,江原素六,
     中原徳太郎,早川千吉郎ら政財界の錚々たる大 物を含む 17 名から成る評議員会を設置し事態の
     計った.

     5)おわりに 国事に奔走していた山根には苦境に手を拱いて傍観する当局や長州閥には我慢ならぬ
     ものがあった. 強力な評議員会の後押しや,山県傘下の桂太郎,寺内正毅らの援助で学校は蘇った.
     慧眼な川上元治郎 の読みは当ったといえよう.大正 15 年には小此木,中原らの新体制のもとに
     悲願の大学昇格を果たす が山根はこれを見届ける事なく大正 14 年 8 月 29 日他界した.
     行年 69 才であった

     【日本医学史総会 演題】

     山根正次(以下山根)は安政 4 年 12 月 23 日現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の次男として出生,
      明治 7 年長崎医学校に入学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,同 15 年 4 月,
     東 大医学部を卒業,同年 12 月長崎医学校 1 等教諭に任命され,同 18 年~ 19 年にかけての同地方
     でのコレ ラ大流行時には検疫委員として活躍し,流行の原因が水源にあるとして上下水道の設置を願い
     出る.ま た同 19 年長崎での清国水兵の暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田顕義司法
     大臣に説く. 同 20 年 8 月長崎医学校を辞任し司法省に出仕するが法医学・衛生学研究の為渡欧,
     同 24 年 11 月帰国 後は明治 29 年内務省から警察医長,医務局長に任命され,同 35 年迄 11 年間
     日本及び東京市の医事衛 生に尽力した.同 35 年 8 月山口県から衆議院議員となり政治家として活躍
     し,以後 6 回当選している. 性格は温厚篤実,清廉かつ郷党後進の指導に懇切であったと伝えられて
     いる.後に日本医学専門学校の 学校騒動時校是「克己殉公」の制定を行って学校の再建を行い,
     日本医科大学の初代学長,第 3 代学長 となる中原徳太郎および塩田広重の学生時代に山根は保証人
     となっている. 日本医学校創立者である山根は今日の日本医科大学の基礎を作った.済生学舍の廃校
     で行き場を失っ た学生達の救済の為,済生学舍と縁のある日本医事週報社主の川上元治郎は長州閥
     の山県有朋の部下で 国会議員である山根に懇請して明治 37 年 4 月に日本医学校を創立させ,
     山根は初代校長として 15 年も 在籍した.明治 43 年 3 月 31 日同郷の二代目韓国総督の曽称荒助の
     懇願により,総督府衛生顧問につき, 各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
     助産婦の養成等医学教育の振興をは かり,衛生施設の改善に尽くし,また同 44 年 3 月満州でのペスト
     大流行に際しては北里柴三郎らと協 力して朝鮮半島侵入阻止等大きな功績をあげ,日本医学校長との
     兼任生活は大正 2 年 4 月まで 5 年間続 いた. 衆議院議員としては明治 36 年「慢性及急性伝染病
     予防ニ関スル質問書」や明治 38 年ハンセン病の予 防を一般法の中に含める「伝染病予防法中改正
     法律案」,明治 39 年「癩予防法案」等を提出し,明治 40 年の法律第 11 号「癩予防ニ関スル法律」に
     繋げ,その後の同法律改正に影響を与えた大正 5 年に設立 された内務省保健衛生調査会第 4 部会
     の主査も務めている. 山根は学校騒動の後大正 7 年 4 月日本医学専門学校校長を辞し,中原徳太郎
     を校長に推薦する.大正 9 年衆議院議員選挙に落選し,東京府駒込の「特許消毒株式会社」の社長を
     務め,大正 14 年脳卒中に罹 り,8月29日永眠する.その際,新聞に追悼記事は一切書かれていない.
     山根は,政治家,医学校長,朝鮮総督府の衛生顧問として多くの役割を果したために日本医学校校長
     から日本医学専門学校校長時代に学校経営が疎かになり,日本医科大学の校史には山根についての
     記述 が僅かにしか存在しない.日本医学校の事務長として山根を支えていた同郷の磯部検三が
     昭和 9 年,自 らが私立日本医学校の設立者であると名乗り出て実権を握り,校史が歪められて記述
     されてきた. 結果的に山根は様々な社会的な業績を残しているにもかかわらず今日まで不当に過小
     評価されてきた 点について明らかにする。

     日本医科大学公式ホームページ(2023.1/22日現在)

     現在の日本医科大学は創始者であり初代学長を無視している。
     設立者を長谷川泰としている。しかし、ウイキペヂアは設立者として山根を載せ初代校長とする。
     調査不足か意図的なものがあるのかは不明であるが、山根正次を排除する理由を説明して頂きたいものである。
     調査不足であるなら「校史」を修正して頂きたいものである。(屋代源三)

     「日本医科大学は、1876年に長谷川泰により創設された済生学舎を前身とし、創立140年を超えるわが国最古の
      私立医科大学です。本学の源流である済生学舎は、明治維新から間もない明治9年(1876年)、医師の早期育成を
      目的として設立されました。近代国家として歩みを始めた当時の日本において、西洋医学に基づいた開業医の
      育成は最重要課題の一つであったのです。「済生救民」「克己殉公」という建学の精神と学是は、設立者である
      長谷川泰の「私心を捨て、全ての人々を分け隔てなく助ける」という思想から定められ、今日の日本医科大学に
      おいても引き継がれています。

     済生学舎は28年間の活動の後、明治36年(1903年)に廃校を余儀なくされますが、9000名以上の医師、医学者を
     輩出し、当時の日本の開業医の半数以上が済生学舎出身者で占められるなど、日本の医療の土台作りへの貢献は
     大きく、この9000名の中には、世界的な細菌学者である野口英世、小口病の発見者である小口忠太など現代の
     医学界にも名前を残す偉人も含まれています。また女性が働く事すら一般的でなかった明治の時代に130名以上
     の女性医師も済生学舎から生まれました。

     済生学舎廃校に際して、在学生への教育を継続するため、旧済生学舎の教員によって同窓医学講習会が開校され、
     翌年の私立日本医学校の設立へと繋がります。その後、明治43年(1910年)に私立日本医学校付属駒込医院
     (現在の日本医科大学付属病院)、大正13年(1924年)に日本医学専門学校付属飯田町医院(旧 日本医科大学
     付属第一病院、1997年に閉院)、昭和12年(1937年)に日本医科大学付属丸子病院(現在の日本医科大学武蔵
     小杉病院)を開院し、診療体制の整備も着々と行われました。

     昭和27年(1952年)に現在の学校法人日本医科大学となり、また同年には、伝統ある日本獣医畜産大学
     (現在の日本獣医生命科学大学)と合併し、1法人2大学での学校運営をスタートしました。

     戦後復興、高度成長期と戦後日本の歩みとともに医療体制、設備の充実に努め昭和52年(1977年)に
     多摩永山病院、平成6年(1994年)に千葉北総病院を開院し、従前からの千駄木、武蔵小杉を加えた
     付属4病院と市ヶ谷の呼吸ケアクリニック、駒込の腎クリニック、成田の成田国際空港クリニックの開院
     で首都圏全域をカバーした診療体制を確立するに至りました。

     明治43年(1910年)に千駄木で付属病院を開院して以来、この地で医学者の育成、医学の発展に力を注ぎ
     続けてきました。しかしながら長い歴史の中で、大学、付属病院の関連施設は老朽化が進み、創立以来、
     高い評価を受け続けてきた教育、研究、診療を今後も維持し、未来へつながる医療、医療人を創っていく
     ためには、建物、設備の再開発が必要不可欠でした。 そこで平成18年(2006年)に創立130年を迎えた節目に、
     医学部教育棟、大学院棟、付属病院の建て替えを柱とした学校法人日本医科大学アクションプラン21(AP21)
     を策定し、千駄木地区再開発事業に着手しました。


    (注4) 小野 為八(おの ためはち)

    長州藩医。名は小野正朝、号は小野等魁。 長州藩医(眼科医)・山根文季の長男。
    山根文季の父は矢原の眼科医・重宗良策。 藩医の小野春庵の養子となった。
    ただし医師の道には進まなかった。 天保 15 年、吉田松陰に兵学を学ぶ。
    安政 2 年、父とともに相模国沿岸警備の任に就き、その傍らで西洋砲術を学ぶ。
    ポンぺに写真術を学んだ中島治平が、小野為八、山本伝兵衛らを教育している。
    文久元年、長州藩主・毛利敬親を撮影。文久 3 年、下関戦争で、軍艦・癸亥丸に
    乗船して砲戦を指揮。また奇兵隊結成に加わり、砲術指南を担う。 慶応元年、
    長州藩諸隊の鴻城隊・砲隊長。慶応 2 年、長州征討で砲隊を指揮。
    明治元年、整武隊で大砲司令を務めた。 明治維新後、科学者としてバター製造や
    写真術に携わった。 明治 23 年、黒住教に入信し、布教活動も行っている。
     明治 40 年、死去。墓所は海潮寺。 雲谷派の絵師でもあった。
    山口の写真師・松原繁は、近年の研究に小野為八に学んだ可能性が指摘されて
    いるが断定できる資料はない。
    生年/出身: 1829 山口(萩、香川津)
    開業年:不明
    開業地、主要拠点: 山口(長州)
    師匠: 中島 治平


   (注5)華浦医学校 (はなうらいがっこう)

    明治時代初期に山口県佐波郡三田尻村
   (現在の防府市華浦二丁目[注釈 2])にあった医学校。山口大学医学部の源流とされる。

    概略
    1874年(明治7年)、「華浦医学舎」の名で、校長の鳥田圭三、副校長の福田正二を中心として開校した
    当時の山口県ではトップクラスの設備を有し、フランスから人体紙型模型(クンストレーク)、顕微鏡、
    外科器械などを購入したり、医科の原書を翻訳したりするなどして最新の西洋医学を教授したことから
    名声が高まり、県内外から学生が入学した。1877年(明治10年)7月をもって病院と医学校は廃止されたが、
    福田正二はこれに屈せず、私費で学校教育を継続しようとした。1880年(明治13年)に、山口県は洋医師の
    不足から医学校を復活させて「山口県医学校」と称して福田を校長に任じ、学生81人が集ったが、
    1882年(明治15年)に臨床実験が可能な附属病院の併設が義務化されると、当時の県の財政ではそれを
    備えるだけの財力がなかったことから、1883年(明治16年)末限りで医学校の継続は断念に至った。
    しかし福田正二は、この再度の廃校の後もなお、三田尻桑山の山麓で晩翠堂病院を経営しながら
    後進の養成に努めた。

    教育の実際
    当時は寄宿教育で、入塾には保護者親族からの申請が必要で、春秋の2回帰省が許された。
    それ以外に親族の不幸があった場合は別途許可された。食費は白米6合と金1銭、授業料は月に50銭だった。
    休日は、小学校と同様であった。
    教育内容は、1874年(明治7年)以降、ドイツ医学を主とし、オランダ語を基礎としてドイツ語を習得させていた。
    学生は11組のグループに分けられ、一緒に勉強していた。辞書、医学書の原書は、同じものが11組、
    11冊揃えられていた。また、蔵書の汚れ具合から、洋学の語学力は他藩に比べてかなり高度であったこと、
    そして山口県におけるオランダ医学からドイツ医学への転換の原動力となったのは福田であったことが
    確認されている。

    萩の乱
    校長の鳥田圭三はしばしば人体解剖を行い、洋書の翻訳もしながら学生を指導したが、1876年(明治9年)10月に
    前参議の前原一誠が突如萩で兵を挙げた萩の乱に際しては、負傷者の治療のため、医学校および病院の後事を
    副校長の福田正二に託して萩に急行し、萩市瓦町の蓮池院[注釈 5]を仮病院に充て、自ら院長として負傷者の
    救護にあたった。1879年(明治12年)、鳥田は病気により医学校と病院の職を辞し、福田が校長職を継いだ。

    卒業生
    華浦医学校に学んだ者には、三田尻病院の創設者で佐波郡医師会会長や山口県医師会初代会長を務めた
    神徳一人をはじめ、黒川周甫、尾崎麒一ら地元医師会の名士の他に、湯田の人中原政熊、日本で初めて
    水銀体温計を製造販売した柏木幸助などがいる。


    (注6)野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうに)

    文化3年9月6日(1806年10月17日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))
    幕末の女流歌人・勤王家。贈正五位。

    生涯
    文化3年(1806年)9月6日、筑前国御厩後(現福岡県福岡市中央区赤坂)に生まれる。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸
    の三女で、幼名は"モト"。幼少時より二川相近[4]に和歌や書道を学んだとされる。
    文政元年(1818年)、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕え、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚える。
    文政5年(1822年)、17歳の頃に20歳年上の福岡藩士郡甚右衛門に嫁ぐものの半年ほどで離縁、生家に戻って
    和歌・書道などに加えて尊皇思想を学んだ。
    文政12年(1829年)、24歳で二川塾同門の福岡藩士・野村新三郎貞貫と再婚[2]。野村も再婚であるが、その連れ子と
    の関係は良好だった。一方で、4人授かった子どもは早世している。 二川相近が病で家塾を閉めると、天保3年(1832年)
    からは夫と共に大隈言道の門下に入る。
    弘化2年(1845年)、連れ子である次男に家督を継がせ夫が隠居すると、福岡南側の山村 (現・福岡市中央区平尾)
    にあった自分の山荘(平尾山荘)に40歳で隠棲した。
    安政6年(1859年)、54歳の時に夫が亡くなり、剃髪して受戒。 文久元年(1861年)11月、望東尼は福岡を
    発ち4年ほど前から大坂に滞在していた大隈言道の元を訪ねた。 その後、京都へ赴き、翌2年5月まで滞在したが、
    この間に島津久光の上洛や寺田屋事件など、騒然とする京都市中の様子を見聞きした。また、福岡藩御用達の
    商人で尊皇攘夷派と交流があった馬場文英と知り合い、次第に政治に強い関心を持つようになった。その後、
    福岡へ戻った望東尼は平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
    彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、長州藩士・高杉晋作、熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・
    平田大江、福岡藩士・加藤司書、平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。
    慶応元年(1865年)6月、福岡藩内の尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫で福岡藩士の野村助作(夫と前妻の孫)
    と共に自宅謹慎を命じられ、親族が集まって今後の相談をしていた深夜、親しく近所づきあいをしていた隣家の
    喜多岡勇平が暗殺された。望東尼は藩の密命を受けて重要な任務にあたっていた喜多岡から様々な
    情報を得ていた。禁門の変後の12月、長州周旋を成し遂げた喜多岡が「長州の高杉が空き家に潜居しているようだ」
    などと望東尼に伝えている。
    10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流刑となった。(乙丑の獄)
    翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、
    下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われた。その後病に倒れた晋作の最期を看取る事となり、
    晋作が「おもしろき 事もなき世に おもしろく」と詠むと、望東尼が続けて「住みなすものは 心なりけり」と詠んだ。
    望東尼はその後も毛利家から二人扶持が与えられ厚遇されるが、薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟り 、
    望東尼は体調を崩し、慶応3年(1867年)11月、三田尻(現・山口県防府市の古称)で62歳で死去した。
    辞世の句は「雲水の ながれまとひて花の穂の 初雪とわれふりて消ゆなり」
    山口県防府市の大楽寺の桑山墓地と福岡県福岡市博多区の明光寺に墓がある。
    明治24年(1891年)、正五位を追贈された。


    (注7)青木 周弼(あおき しゅうすけ)

    享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医。周防国大島郡和田村の地下医
    (村  医)青木玄棟の長子[1]。諱は邦彦で、周弼は字。号は月橋。
    初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、
    その  縁で宇田川榛斎にも師事した[2][3]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。
    1839年に長州藩医、1842年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、1855年に御側医に昇進した。研藏と
    ともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞
    した。
    著書に「袖珍内外方叢」、「察病論」など。
    1903年、従四位を追贈された[4]。
    山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。


    (注8)緒方 洪庵(おがた こうあん)

    文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は
    惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。
    大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

    略歴
    文化7年(1810年)7月14日、豊後国の豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩(現・岡山市北部)士・佐伯惟因
    (瀬左衛門)の三男として生まれる[2]。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)
    の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。
    文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵
    屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出た。
    文政9年(1826年)7月に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とす
    る。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
    天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島のオランダ人
    医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。
    天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」
    を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
    弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、
    門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。
    嘉永2年11月1日(1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を
    得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より
    要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもら
    い、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館
    のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
    安政5年4月24日(1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。
    万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。
    伊東玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862年)に幕府の西洋医学所頭取として出仕の要請を受ける。一度は健康上の理由から固辞するが、
    幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を
    推薦した。12月26日「法眼」に叙せられた。
    文久3年6月10日(1863年7月25日)、江戸下谷御士町の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市
    北区同心1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。戒名は「華陰院殿前法眼公裁文粛居士」
    明治42年(1909年)6月8日、贈従四位

    (注9)大島郡森野村 西村千熊(山口県会議員)



    (注10)大楽 源太郎(だいらく げんたろう)は、幕末期の武士・長州藩士。

    生涯
    萩城下に萩藩(長州藩)重臣で寄組児玉若狭の家臣である山県信七郎の子として誕生した。
    幼くして児玉氏の給領地がある吉敷郡台道村(山口県防府市台道)に移住し、天保14年(1843年)
    12歳にして、主命により同地の大楽助兵衛の養嗣子となる。

    尊皇攘夷
    青年期に太田稲香、僧月性、広瀬淡窓らの門下に学び、勤皇思想を身に付け、また久坂玄瑞ら
    と知己となる。安政4年(1857年)に師月性とともに上京し、以後京都において梁川星巌、
    梅田雲浜、頼三樹三郎、西郷吉之助らと交流を深めるが、翌5年(1858年)から始まった安政の大獄
    を受け急遽帰藩。幕府の手前もあり、藩命により蟄居を命ぜられる。その後脱藩して水戸に赴き、
    大老井伊直弼の襲撃を計画するが、未然に発覚して再び禁固に処せられる。
    赦免の後、久坂、高杉晋作らと協力して積極的に尊王攘夷運動を推進。元治元年(1864年)5月には
    大和国丹波市(現在の天理市)において画家の冷泉為恭を暗殺。同年に起こった禁門の変においては
    書記として参陣。長州藩の敗戦を受けて再度山口へと逃れ、慶応元年(1865年)高杉の功山寺挙兵に
    呼応して宮市に忠憤隊を組織した。同2年(1866年)には、故郷台道に私塾敬神堂(別称西山書屋)
    を開設、明治2年(1869年)までに多くの門人を育てた(後の内閣総理大臣寺内正毅もここに学んだ一人である)。

    大村益次郎暗殺事件
    しかし同年、大村益次郎暗殺事件が勃発。犯人の神代直人、団紳二郎らが門下生であったことから
    首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられる。翌3年(1870年)、多くの門下生が奇兵隊脱隊騒動を起こすと、
    再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に
    潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。さらに久留米に走って
    応変隊を頼るが、新政府からの追及を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、翌4年(1871年)
    に斬殺された(久留米藩難事件)。
    勝海舟の評「大楽源太郎は善さそうな男だったよ。あまり度々会った事はなかったが、
    話せる奴らしかった。長州人には珍しい男さ」


大伴姓 屋代島大野家 関連年譜(1661年~1696年)

2023年01月21日 13時16分29秒 | 大伴姓屋代島大野家 関連年譜
西暦1661年
寛文 4月25日   改元・出典「荀子」 かんぶん・内裏炎上改元による(後西天皇-13年間)【勘申者 菅原為庸】

寛文元年 忠   ウイキ  ○天野屋利兵衛(九郎兵衛)誕生?事実なら大野直常の子直賢の子直治のこと、即ち孫である。
寛文元年 忠    赤穂資料  浅野長直、赤穂城天守閣造営を断念する。
寛文元年 忠    赤穂浪士HP  ○赤穂城完成する。山鹿素行も手を加えたと言われる。

寛文元年       山口県史整理年表  佐波郡佐野開作築立
寛文元年      山口県史整理年表  木材および薪炭の輸出を禁ず 【旧耕調査】
寛文元年     山口県史整理年表  茶・桑・楮・漆等を閑地に栽培することを奨励す

寛文元年 1月11日  山口県史整理年表  防長南辺の道路・橋梁を修理す 【大記録】
寛文元年 2月9日  山口県史整理年表   国内寺社家町人農民の他国出行に関する規則を頒つ 【毛利十一代史】
寛文元年 3月17日  山口県史整理年表  東条就類の開作についての尽力を賞す 【毛利十一代史】
寛文元年 4月    山口県史整理年表  諸郡の麦作ならびに当年作付を検せしむ 【大記録】
寛文元年 4月19日  山口県史整理年表  萩城下消防の条令を頒つ 【毛利十一代史】

寛文元年 7月4日  山口県史整理年表  宗門改の幕命により、一年に二度高礼を改め、五人組連判旦那寺請状・在町・
                   諸浦の取締もまた年々二度改めとす 【毛利十一代史】
寛文元年 8月   山口県史整理年表  萩・山口および三田尻に諸士の別邸の山辺に在るを収めて御立山となす 【大記録】
寛文元年 8月   山口県史整理年表   蔵田与三左衛門等を諸郡に派し開作地を検出せしむ 【大記録】
寛文元年 9月11日  山口県史整理年表  吉敷郡氷上山真光院に家光の霊牌を設け、高百石の地を寄附して供養料とす
                 【毛利十一代史】

寛文元年 9月19日  山口県史整理年表  萩町人大黒屋六兵衛に金銀判座を命ず 【大記録】
寛文元年 11月16日  山口県史整理年表  大津郡向津具に朝鮮の漁船漂着す 【毛利十一代史】

寛文元年     心斎橋今昔年表   家光の大坂優遇政策は、船場で花開く。(戦乱のない平和な約30~50年間) 各藩は、
                  物の生産に力を入れ、大坂の各藩の蔵屋敷に ~ 回漕・荷受・売買に携わる商人、
                  金銀相場に携わる証券屋・両替屋は、北浜や今橋の北船場に集中。高麗橋の高級
                  呉服屋、伏見町の唐物、道修町の薬屋、安土町・本町・久太郎町の繊維関係、小間
                  物屋の久宝寺町、安堂寺町の金物等、船場には同業者が集中し南北御堂の屋根が見
                  える所で商いするのが、商人の理想でした。
                 「始末・才覚・算用」という折り目正しい商人の原則があり、船場ことばが常用社交語
                  とし、日常生活はつつましく質素・堅実で優雅。
                 老舗と暖簾を大切に、一家一業に徹し信用を失う事は何よりの恥とした事は、
                  下船場・島之内の商人家の皆様も同様でした。
                  瀬戸内の水運「樽廻船」、裏日本からの北廻船も就航し、多くの商品が大坂に
                  運ばれる。


西暦1662年
寛文2年    山口県史整理年表  大津郡井上村庄屋と長府領青野村庄屋との境目争い、萩藩と長府藩との紛争落着す
                 【故事年表】
寛文2年    山口県史整理年表  柳井古開作および向開作築立 【享保増補村記】
寛文2年 3月20日  山口県史整理年表  改めて春定ならびに検見法を施行す 【大記録】
寛文2年 4月9日  山口県史整理年表  山口の駅馬寡少なるをもって紺屋灰運上銀を無利息にて畜養者に貸与し元銀を向う
                  四年間に返納せしむ 【大記録】

寛文2年 6月  山口県史整理年表  玖珂郡和木村の庄屋加屋又蔵、安芸大竹村と争い、海境を回復す
                【和木大竹争論一事記録】
寛文2年 7月21日  山口県史整理年表  長府大火、三百戸焼く
寛文2年 8月24日  山口県史整理年表  榎本遠江、当職在勤中明暦三年五月より寛文二年八月まで六ヵ年間、御仕置銀貯
                   蔵高三千三百五十六貫五百四十四匁五分六厘八毛、
                  その他金銀の目録を調進す 【毛利十一代史】

寛文2年 11月1日  山口県史整理年表  山代紙売払に関し当職より蔵元両人役に訓示す 【毛利十一代史】


西暦1663年
寛文3年     山口県史整理年表  佐波郡西浦山県開作築立
寛文3年 2月18日  山口県史整理年表  石田久兵衛大阪運送米販売に尽力す。よって百俵を下附また大阪町人塩田屋六右
                   衛門・萬屋又兵衛にも銀二十枚を下附しこれを賞す 【毛利十一代史】
寛文3年 3月2日  山口県史整理年表  東条就類の代官役中寛永二十年以降寛文二年まで吉敷郡南部海岸に開作高四千五
                   百石余を仕立たる功を賞し加禄す 【東条家譜】

寛文3年 3月5日  帯石観音譜門寺記録  森藩久留島主善膳通方地加室で破船遭難し譜門寺に葬られる。

寛文3年 7月11日  山口県史整理年表  玖珂郡柳井古開作百五十町歩築立 【岩邑年代記】
寛文3年 8月10日  山口県史整理年表  本年旱害風水損にて収穫三分の一。諸事節倹を令す 【毛利十一代史】
寛文3年 9月6日  藩史大辞典     ○徳山藩、「御当家制法」を制定する。
寛文3年 9月28日  山口県史整理年表  柳井開作築立 【岩国沿革志】


西暦1664年
寛文4年     山口県史整理年表  小郡柏崎勝間田開作四十八町五反築立
寛文4年 1月22日  山口県史整理年表  画家雲谷等的死す 【防長人物誌】
寛文4年 3月    山口県史整理年表  幕府朱印書を改む。この時郡の廃合を行い、豊田・豊東・豊西の三郡を豊浦郡
                   に、厚東・厚西の二郡を厚狭郡に復し、大津郡の見島郷を割いて見島郡を立て、
                   浜崎宰判の所管とす 【毛利十一代史】
寛文4年 4月13日  山口県史整理年表  明僧独立、招かれて長崎より岩国に来り八月九日帰る。この後しばしば来る

寛文4年 4月27日  屋代大野系譜   ●徳山大野二代直宗歿 三十九才 大有宗魚居士 

寛文4年 5月7日  山口県史整理年表  幕府に上申して大津郡向津具岬海上の暗礁を開鑿す。功成らず。寛文六年に至り
                   不成功の旨申報す 【毛利十一代史】
寛文4年 7月25日  山口県史整理年表  諸所に飼養の鳩減少、その捕獲を禁ず。雲雀・うずらもまた同じ
                   【毛利十一代史】
寛文4年 8月   山口県史整理年表  徳山遠石八幡宮祭礼にはじめて歌舞伎を催す 【徳山藩史稿】
寛文4年 8月6日  山口県史整理年表  萩洪水。指月城破損す 【毛利十一代史】
寛文4年     心斎橋今昔年表   安治川開通。


西暦1665年
寛文5年      山口県史整理年表  萩藩領内士民伝来の古証文を検す 【渡辺年表】
寛文5年      山口県史整理年表  萩城内に宝蔵造立 【渡辺年表】
寛文5年      山口県史整理年表  徳山藩重ねて領内を検地す。高六万一千三二六石となる【徳山毛利家記録類纂】
寛文5年     山口県史整理年表  宇都宮遯菴「陰徳太平記」の序を作る 【陰徳記】
寛文5年 2月28日  山口県史整理年表  吉川広正退隠。広嘉家督をつぐ 【吉川家文書・家譜】

寛文5年 3月11日  山口県史整理年表  朝枝喜兵衛長崎において和蘭外科の免許を受く
寛文5年 6月    山口県史整理年表  吉敷郡秋穂黒潟開作七十町歩築立 【井上譜録】
寛文5年 6月    山口県史整理年表  綱広、出雲大社に銅の鳥居を献ぜんため郡司信安に鋳造を命ず。六年これを献ず
          【草舎年表】
寛文5年 7月13日  山口県史整理年表  幕府諸侯の人質を停む 【毛利十一代史】
寛文5年 9月28日  山口県史整理年表  右田毛利就信、東大寺再興の用材に使用せる鉄印「国威」を奈良定の後裔より
                   得、阿弥陀寺に寄進す 【防府の今昔】

寛文5年 10月10日  屋代大野系譜   ●55代大野直房歿 七十八歳 号香山是水居士 葬大竜寺

寛文5年     心斎橋今昔年表  大坂城天守閣に落雷し焼失。 (昭和6年 市民の募金で天守閣、再建)


西暦1666年
寛文6年     山口県史整理年表  徳山藩田畠正税以外の諸運上物ならびに地方の諸雑税を免除す 【徳山藩史稿】
寛文6年     山口県史整理年表  徳地宰判に紙・楮の貢納制度を創む
寛文6年 5月5日  山口県史整理年表  吉川広正死す。六六 【吉川家文書・家譜】

寛文6年 忠 10月24日  赤穂浪士HP  ○山鹿素行(45歳)「聖教要録」により罪を得て赤穂に流され城内二の丸大石
                  頼母の隣屋敷に迎えられ1675年7月までいた。

寛文6年 11月20日  山口県史整理年表  綱広は江戸にて誕生し山王社を氏神とす。よって氷上山山王宮に山口築山境内
                   高二十石四斗八升四合の地を寄進す 【草舎年表】


西暦1667年
寛文7年      山口県史整理年表  士卒の馳走米を高百石毎に四石とす 【萩史料】
寛文7年 閏2月8日  山口県史整理年表  江戸在勤者の催相銀を規定す 【毛利十一代史】
寛文7年 閏2月8日  山口県史整理年表  画家雲谷等爾に高五十石を加増し二百十五石とす 【毛利十一代史】
寛文7年 閏2月18日  山口県史整理年表  幕府諸国の難破船に関し新設の高礼案書を領つ
寛文7年 3月     山口県史整理年表  阿川毛利就方、采邑玖珂郡高森大梅院を再興し、黄檗に改めて大梅山通化寺と
                   称す。隠元の黄檗山に修道せる慧極を聘して開山とす 【山田原欽伝】

寛文7年 3月4日    山口県史整理年表  幕府去年十一月八日醸酒半減を令す。今年以後もこれを守り、また煙草を田畠
                    に作ることを禁ず 【毛利十一代史】
寛文7年 4月     山口県史整理年表  綱広、男子なきにより、使を黄檗山隠元に遺し、嗣を祈らしむ 【隠元年譜】
寛文7年 7月8日   山口県史整理年表  幕府の巡見使市橋三四郎・稲葉清左衛門・徳永頼母萩に来る 【大記録】
寛文7年 8月6日   山口県史整理年表  幕府の海上巡見使高森又兵衛・向井八郎兵衛赤間関着船。三田尻にも寄港
                   【毛利十一代史】
寛文7年 忠 8月11日  赤穂浪士HP  ○浅野内匠守長矩が江戸藩邸で誕生。吉良上野介はその時27歳、大石蔵之助は
                  9歳である。


西暦1668年
寛文8年     山口県史整理年表  厚狭郡王喜開作築立 【白崎大明神記】
寛文8年     山口県史整理年表  山口多賀社造営 【故事年表】
寛文8年 3月4日  山口県史整理年表  寛文七年同八年分防長両国の酒屋ならびに酒造米石高調査書を幕府に提出す
                  【毛利十一代史】
寛文8年 3月29日  山口県史整理年表  老臣榎本就時死す 【榎本家譜】
寛文8年 5月14日  山口県史整理年表  徳山藩家中ならびに地方・町方・浦方に法度を領つ 【徳山藩史稿】

寛文8年 6月    山口県史整理年表  旱魃につき諸社にて祈?。雨乞いのため大畠瀬戸に法華経三巻を沈む
                  【岩邑年代記】
寛文8年 7月    山口県史整理年表  玖珂郡瀬田村と安芸大竹村と流木論争あり 【証記抜萃】
寛文8年 忠 7月8日  赤穂浪士HP  ○吉良上野介(28歳)は義冬(上野介の父)の死去により家督
                 (三河國幡豆郡3200石)を相続する。
寛文8年 9月    山口県史整理年表  蔵元を四本松より高麗峠門の西に移す

寛文8年 10月10日  山口県史整理年表  大阪廩米売捌方大塚源右衛門、さきに解任せられ、扶持方二十人分を給せら
                   る。後、復職のため扶持米を停止せられしが、近年米の輸出減少し、家計困難と
                   なるを訴えて、旧の如くこれを給せらる 【毛利十一代史】
寛文8年 10月17日  山口県史整理年表  幕府新規寺院の建立を停む
寛文8年 12月    山口県史整理年表  岩国領古村記改定成る
寛文8年 12月    山口県史整理年表  厚狭郡高泊開作四百町歩築立。その灌漑のため江汐池をつくる 【大記録】


西暦1669年
寛文9年      山口県史整理年表  宗門改を毎年二季に行うことを定む 【萩史料】
寛文9年 2月28日  山口県史整理年表  幕府江戸升を京升と一様になすべきことを命ず 【毛利十一代史】
寛文9年 忠 3月5日  赤穂浪士HP  ○浅野長直隠居。長子長友(内匠守父)相続(5万3500石)次男長賢に3500
                 石(家原浅野祖)三男長恒3000石(若狭野浅野祖)与える。

寛文9年 3月7日  山口県史整理年表  食禄二百石以下の藩士にして、家計困窮の者に在郷居住を許す 【毛利十一代史】
寛文9年 3月23日  山口県史整理年表  小郡所務代東条就類、所管に関し寛文六年の秋逼塞を命ぜられたるも、私慾なく
                  功あるをもってこれを免ず 【毛利十一代史】
寛文9年 8月    山口県史整理年表  両国洪水 【毛利十一代史】
寛文9年 閏10月26日  山口県史整理年表  福原左近に厚狭郡小串鵜の島三十町余の開作を認可す 【毛利十一代史】

寛文9年 11月9日  大洲大野系譜    ●高仁親王の乳母正智院没 號正智院妙蓮大姉 82歳 大坂大蓮寺に葬る
寛文9年 11月9日  大野系譜讃岐屋本  ●高仁親王の乳母正智院没 號正智院妙蓮大姉 82歳 大坂大蓮寺に葬る

寛文9年 12月7日  山口県史整理年表  玖珂郡二鹿村銅山試掘 【御用所日記】
寛文9年 12月24日  山口県史整理年表  萩出火。侍屋敷四十二軒・町家八十五軒焼失 【毛利十一代史】
寛文9年 忠     赤穂浪士HP    ○石束理玖(但馬國豊岡京極家家老石束源五兵衛の長女)豊岡で生れる。


西暦1670年
寛文10年 1月3日  山口県史整理年表  猿楽師春日八郎右衛門に五人扶持を下附 【毛利十一代史】
寛文10年 2月7日  山口県史整理年表  氷上山能衣裳覚書成る 【大記録】
寛文10年 4月2日  山口県史整理年表  吉屋権左衛門、吉川惟足に従い、神道を修むるにより、一ヵ年銀十枚を
                  下附せらる 【毛利十一代史】
寛文10年 5月8日  山口県史整理年表  毛利就頼、吉川氏に玖珂郡通津二千石の地を返し、改めて竪ヶ浜三百石の地を
                  借用す 【証記抜萃】

寛文10年 5月20日  山口県史整理年表  諸郡代官の内、楊井三之允以下、開作築立その他の功あるものに加禄す
                  【毛利十一代史】
寛文10年 6月7日  山口県史整理年表  萩堀内において編笠の使用を禁ず 【毛利十一代史】
寛文10年 11月3日  山口県史整理年表  東条就類死す 【防長歴史暦】


西暦1671年
寛文11年      山口県史整理年表  徳山藩浦究役等に各種の法令を領つ 【当家制法】
寛文11年     山口県史整理年表  山口大神宮を再建す
寛文11年 1月11日  山口県史整理年表  玖珂郡二鹿村の銅山採掘を始む 【岩邑年代記】
寛文11年 2月1日  山口県史整理年表  川除地下普請・貢納・大阪運送米船・地下修補米銀・開作等に関する令条を公布す
                  【毛利十一代史】
寛文11年 2月3日  山口県史整理年表  町人の家作・衣服・婚礼その他饗応等品定に関する令条を公布す。十三日諸士にも
                  品定令条を領つ 【毛利十一代史】

寛文11年 2月14日  山口県史整理年表  財政整理のため高百石につき四石の馳走米を課す 【草舎年表】
寛文11年 8月3日  山口県史整理年表  吉川氏玖珂郡室木村浦ヶ浜に舟蔵十一棟を建つ 【岩邑年代記】
寛文11年 11月   山口県史整理年表  徳山市中の消火心得を令す 【徳山毛利家記録類纂】
寛文11年 11月13日  山口県史整理年表  萩浜崎松高院より出火。竜昌院青貝門焼失す 【渡辺年表】


西暦1672年
寛文12年     山口県史整理年表  都濃郡福川開作検地。はじめて貢租を納む 【開作御証拠物控】
寛文12年     山口県史整理年表  岩国田帳・屋敷帳改訂 【岩邑年代記】
寛文12年     山口県史整理年表  この頃佐波郡西浦笹川開作築立

寛文12年 6月9日  周防東和町誌  ○村上掃部は家老毛利隠岐・益田越中・毛利外記へ情島の開拓と持ち石高繰り入れを
                  申請する。

寛文12年 7月7日  山口県史整理年表  財政逼迫につき諸事緊縮を令す 【毛利十一代史】
寛文12年 忠 7月24日  赤穂浪士HP  ○浅野長直(内匠守の祖父)江戸にて没す。
寛文12年 8月    山口県史整理年表  両国の斃牛四万八千八百四十八頭におよぶ 【大記録】

寛文12年 9月6日  屋代大野系譜   ●57代大野直給室歿 三十三歳 号浄宗明本大姉 葬大竜寺

寛文12年 11月28日  山口県史整理年表  清水長左衛門外二十九人の知行地開作を許可す
寛文12年 忠 12月20日  赤穂浪士HP   ○戒珠院(22歳、内匠守の母)没す。
寛文12年 12月21日  山口県史整理年表  萩町人安部吉左衛門に正月御書初および十一日の城内連歌会に陪席を命ず
                    【毛利十一代史】

寛文12年      心斎橋今昔年表    新町橋(瓢箪橋)が架けられ、順慶町通りが急に賑わい始めました。
                   京の島原遊廓で有名な夕霧が新町に移住。(夕霧は、江戸の高尾、京の芳野と
                     並び称す名妓)で連日、見物人が詰め掛け大賑わい


西暦1673年
延宝元年     山口県史整理年表  耕牛多く斃死するにより作付等に関し諸郡に沙汰す 【大記録】
延宝元年 2月13日  山口県史整理年表  毛利宮内新開作ならびに畠田成の出石高ニ百石を本知引合高六千二百石。今後も
                  自弁にて新田を拓き禄高を増加するを許す 【毛利十一代史】
延宝元年 2月28日  山口県史整理年表  柳沢新右衛門外八人に開作を許可す 【毛利十一代史】
延宝元年 3月8日  山口県史整理年表  両国商人の長崎に赴き新規に商業するを停む
延宝元年 5月18日  山口県史整理年表  錦川洪水。五月二十七日また洪水 【御用所日記】

延宝元年 5月    屋代今元系譜   ◎今元本家二代目直秀長女 タカ (小林庄兵衛妻)誕生

延宝 9月21日  改元・出典「隋書」 えんぽう・京都大火改元による(霊元天皇-9年間)【勘申者 菅原為庸】

延宝元年 6月28日  藩史大辞典   ○岩国 錦帯橋着工(岩国藩)。
延宝元年 10月1日  山口県史整理年表  吉川広嘉はじめて錦帯橋を架す 【御用所日記】
延宝元年 忠    赤穂浪士HP  ○上杉喜平次(11歳、上野介の長男)は為姫(紀州徳川家の大納言徳川光貞の三女)と
                婚約する。


西暦1674年
延宝2年      山口県史整理年表  吉敷郡小郡西開作(延宝開作)築立 【小郡町史】
延宝2年      山口県史整理年表  綱広、病をもって滞府し、爾後帰国せず 【故事年表】

延宝2年 5月9日   屋代今元系譜   ◎今元家初代助左衛門直光(隆直四男)歿 壽74歳

延宝2年 5月27日  山口県史整理年表  諸所御立山の取締りを令す 【毛利十一代史】
延宝2年 5月28日  山口県史整理年表  錦川洪水。錦帯橋流失す 【御用所日記】
延宝2年 5月晦日  山口県史整理年表  鷹場のため萩廻りの諸鳥捕獲を禁ず 【毛利十一代史】
延宝2年 忠 6月  赤穂浪士HP     ○千坂兵部高房が上杉家江戸家老となる。
延宝2年 忠    赤穂浪士HP     ○阿久利(三次藩主浅野長治の女)誕生。

延宝2年 7月3日  山口県史整理年表  徳山領内に大風洪水あり 【徳山藩史稿】
延宝2年 8月    山口県史整理年表  両国大風雨、損害甚大。二十三日また大風雨
延宝2年 9月19日  山口県史整理年表  幕府、諸国洪水不作につき、酒造石減少および田畑に煙草の作付を禁ず
                  【毛利十一代史】
延宝2年 10月25日  山口県史整理年表  錦帯橋再建成る 【岩邑年代記】
延宝2年 12月5日  山口県史整理年表  賊横行につき夜行提灯に関し内訓す。諸士の間貸を制限す
延宝2年 12月26日  山口県史整理年表  国内凶年につき、米の売買および酒造を規正す 【毛利十一代史】


西暦1675年
延宝3年 忠    赤穂資料      赤穂三代目の浅野長矩に、大野九郎兵衛は藩札の発行主張して、許可される。

延宝3年 2月4日  山口県史整理年表  幕府、城米廻漕検査役を赤間関商人小倉屋藤右衛門に命じ、毎年五人扶持を給す
                  【長府毛利家乗】
延宝3年 3月4日  山口県史整理年表  大津郡向津具浦に朝鮮漁船漂着す 【毛利十一代史】
延宝3年 4月1日  山口県史整理年表  財政困迫により諸士に倹約を命す 【毛利十一代史】
延宝3年 7月1日  山口県史整理年表  山内縫殿外二十五人に開作を許す 【毛利十一代史】
延宝3年 7月9日  山口県史整理年表  他国紙の国内売買を規正す 【毛利十一代史】
延宝3年 7月9日  山口県史整理年表  去年不作につき他国米の移入を許せしも、今年順作につき先規の通りこれを停む
                  【毛利十一代史】
延宝3年 8月5日  山口県史整理年表  両国内洪水 【毛利十一代史】
延宝3年 8月6日  山口県史整理年表  小川通政出府し藩庫窮乏困難の状を報告す 【毛利十一代史】


西暦1676年
延宝4年      山口県史整理年表  徳山藩領内の枡の寸法を定む 【徳山毛利家記録類纂】
延宝4年 1月23日  山口県史整理年表  国司弥三兵衛の家人河上長者原の大杉を濫伐す。よって父子に逼塞を命じ家人を
                   斬に処す 【毛利十一代史】
延宝4年 3月21日  山口県史整理年表  夜中婦人老少の寺社参詣を禁ず 【毛利十一代史】
延宝4年 4月24日  山口県史整理年表  木村又兵衛に鉄砲製造を命ず 【毛利十一代史】
延宝4年 5月6日  山口県史整理年表  両国洪水。岩国横山床上まで浸水 【御用所日記】

延宝4年 6月2日  山口県史整理年表  地震。これより日々震して月末に至る 【郡方年表】
延宝4年 7月   山口県史整理年表  吉川氏禄米押借の仕法を定む 【岩国旧記】
延宝4年 7月2日  山口県史整理年表  玖珂郡御庄市、洪水の憂多きため、若宮森の北より山根の方に所替を行う。
                  新市屋敷百十四軒 【享保増補村記】
延宝4年 7月21日  山口県史整理年表  財政逼迫(負債高銀一万二千貫)のため百石に付六石の馳走米を命ず 【大記録】

延宝4年 7月21日  山口県史整理年表  財政救済のため藩札の発行を計画す
延宝4年 7月28日  山口県史整理年表  山田原欽、後水尾法皇に謁して、書を講じ詩を賦す。時に年十一 【萩史料】
延宝4年 8月10日  山口県史整理年表  長府藩、士庶に衣服の制を令す 【長府毛利家乗】
延宝4年 8月21日  山口県史整理年表  財政整理のため倹政を令す 【毛利十一代史】
延宝4年 9月1日  山口県史整理年表  吉川氏、大阪に蔵屋敷を設置す 【岩邑年代記】

延宝4年     心斎橋今昔年表  幕府から夜間営業が許可されると、順慶町通りを右左折し心斎橋筋へ、北は博労町
                 の道半ば、南は安堂寺町迄を行き交う様になり、その後、心斎橋北詰→心斎橋→道頓
                 堀の芝居興行への道筋が繁盛し始めました。「心斎橋筋北商店街が発足」(元禄時代
                 の15年前)  ( 井原西鶴「俳諧手鑑」発刊 )


西暦1677年
延宝5年 忠     赤穂塩業史  ○赤穂藩家老大野九郎兵衛、塩田対策を行い年貢・運上の増徴政策を採り延宝4年藩札
                発行に踏み切った。【赤穂塩業史・広山堯道著】

延宝5年 5月    山口県史整理年表  萩地方大地震 【毛利十一代史】
延宝5年 7月13日  山口県史整理年表  豊田宗的に歯科医を命じ出府せしむ 【毛利十一代史】
延宝5年 7月13日  山口県史整理年表  倹政につき藩内衣服・饗宴等の制度その他経費節減に関し、改正条令を公布す
                   【毛利十一代史】
延宝5年 7月13日  山口県史整理年表  財政困迫につき、当職毛利内匠を出府せしめ、黒印令条を授け倹政を令す
                  【毛利十一代史】

延宝5年 7月13日  山口県史整理年表  倹政中江戸在勤諸士の心得を令す 【毛利十一代史】
延宝5年 7月15日  山口県史整理年表  幕府の允許を得、はじめて藩札を発行す。銀二分・三分・四分・五分・一匁・二
                   匁・三匁・四匁・五匁および十匁の十種類 【毛利十一代史】
延宝5年 8月    山口県史整理年表  徳山藩、四つ物成に改む 【徳藩年表】
延宝5年 9月1日  山口県史整理年表  右田毛利氏、負債整理のため十ヵ年間佐波郡徳地仁保津村の深山にて灰山を免許す
                  【毛利十一代史】

延宝5年 10月1日  山口県史整理年表  諸士の従者の員数を定む 【毛利十一代史】
延宝5年 11月4日  山口県史整理年表  禁裏造営料として三十八貫八百七十一匁余の丁銀を納む 【毛利十一代史】

延宝5年 12月5日  屋代大野系譜   ●55代直房妹オショク(嶋伝左衛門妻) 歿 七十四才 号大■埋霊大姉

延宝5年 12月10日  藩史大辞典    ○岩国藩 藩札使用を開始する。
延宝5年 12月10日  山口県史整理年表  吉川氏、預札の制を定め、十五日より通用を始む 【岩邑年代記】
延宝5年 閏12月16日  山口県史整理年表  徳山藩はじめて藩札を発行す 【徳山藩史稿】
延宝5年 12月19日  山口県史整理年表   徳山城下各地に町屋敷成立す 【徳山毛利家記録類纂】


西暦1678年
延宝6年       屋代今元系譜   ◎今元本家四代目直光誕生

延宝6年 3月    山口県史整理年表  岩国横山新土手改修成る 【岩邑年代記】
延宝6年 3月27日  山口県史整理年表  豊浦郡角島に南京の商船漂着す 【毛利十一代史】
延宝6年 5月1日  山口県史整理年表  高百石に付四貫目あての藩札を貸与し十六ヵ年賦にて返済せしむ 【草舎年表】
延宝6年 8月5日  山口県史整理年表  両国内暴風雨・高潮襲来。秋損高七万九百四十石余におよぶ 【徳山藩史稿】
延宝6年 9月7日  山口県史整理年表  佐波郡西浦沖鹿角開作築立 【玉祖神社文書】

延宝6年 10月3日  山口県史整理年表  数年勤労の足軽に名字を許す 【毛利十一代史】
延宝6年 11月29日  山口県史整理年表  山県正左衛門・村井正兵衛に開作免許。竣工せば本知に加うべきを許す
                  【毛利十一代史】

延宝6年      心斎橋今昔年表  『芦分舟』付録に「しゅんさい橋筋ハ、南ハゑびすばし、北は、よどや橋一丁
                   上」とあり、本来は御堂筋の一筋東の、南は道頓堀から心斎橋を経て土佐堀川に
                   至る街路の名前で、戎橋~土佐堀通の突き当たる迄の2.5Kmの道名という事に
                   なります


西暦1679年
延宝7年 1月8日  山口県史整理年表  豊浦郡矢玉浦に外国の猟船漂着。この日幕府に報ず 【毛利十一代史】

延宝7年 忠 3月  国会図書館蔵  「難波すずめ】(吉備国・水雲子著)出版される。天野屋利兵衛 記述あり。

  『 難波雀』
    ○天野屋利兵衛 思案橋の浜、 松平伊豫守殿 三十万石備前岡山 大坂屋敷蔵本
                                 (忠臣蔵関連)
    ○天野屋利兵衛 思案橋の浜、 細川越中守殿 五十四万石肥後熊本 大坂屋敷名代
    ○浅野又一殿  備州赤穂 五万石   
     屋敷    中嶋西信丙下
     留守居  鈴田勘右衛門
     名代    かうや丁 布屋兵三郎
     俵物    屋藤□    銀うけや 金□ 二丁目 嶋や八郎右衛門

   ○惣會所 北組 平野町どぶ池すち  南組 本町御堂の西、 天満 天満六丁目

   ○北組  惣年寄 思案橋 天埜屋理兵衛 (天野屋利兵衛・伊予大野家総領直常孫カ)
   ○塩問屋 赤穂塩 天満 いう川屋吉衛門、塩屋孫衛門、塩屋吉右衛門 (赤穂藩大野九郎兵衛出入商人)
   ○西国下物 □油屋 うちき町 天川屋長右衛門
   ○三十三番観音札所 二九番 下寺町 大蓮寺 (伊予・大野直之娘、中和門院女房備後の菩提寺)

延宝7年     心斎橋今昔年表   『難波雀』(当時の情報ハンドブック)には、「船場心斎橋筋に香具屋、鋳物師、
                  (たんす)金や、蒔絵、べに屋、古酒道ぐや、わん家具、 三味線琴屋」の八軒の店が
                  並び、心斎橋や戎橋には「出駕籠の居所」があり、人通りの多い所であった事を表
                  しています。
                  大坂三郷、南・北・天満の人口は、28万7891人

延宝7年     天野屋利兵衛傳   「難波すずめ」「難波鶴」刊行 【国会図書館蔵】

延宝7年 3月29日  山口県史整理年表  諸郡代官に令し郡中新規の増収を明細に録上せしむ 【大記録】
延宝7年 4月12日  山口県史整理年表  吉川広嘉、米一万俵を贈呈し萩城下の小売米欠乏を助く 【吉川家文書・家譜】
延宝7年 6月3日  山口県史整理年表  津野森茂兵衛に絵師を命じ寺社組に加う 【毛利十一代史】
延宝7年 7月10日  山口県史整理年表  大風洪水。十四日、二十一日また台風洪水 【御用所日記】
延宝7年 8月8日  山口県史整理年表  徳山毛利就隆死す。七五 【徳藩年表】

延宝7年 8月16日  山口県史整理年表  吉川広嘉死す。五九 【吉川家文書・家譜】
延宝7年 9月    山口県史整理年表  岩国今津本川筋通水不良のため新に堀川を作る 【証記抜萃】
延宝7年 10月26日  山口県史整理年表  大津郡向津具に朝鮮の漁船漂着 【毛利十一代史】
延宝7年 12月19日  山口県史整理年表  佐波郡三田尻新田開作地の潮留および吉敷郡丸尾崎石垣波除築造を幕府に稟議
                   し、希望の如く許可せらる 【毛利十一代史】

延宝7年 忠     赤穂市教育委員会  ○このころ大坂で赤穂塩を取り扱う塩問屋が確立していた。


西暦1680年
延宝8年     山口県史整理年表  吉敷郡丸尾崎に波戸を築く 【風土注進案】
延宝8年     山口県史整理年表  宇都宮遯菴罪あり。江州坂本に謫せらる  【岩邑年代記】
延宝8年     山口県史整理年表  この頃清末大新田七十余町の坪付帳成る
延宝8年     山口県史整理年表  延宝年間吉敷郡嘉川村犬渡り開作築立 【風土注進案】
延宝8年 2月2日  山口県史整理年表  山田原欽に京都において修学中の手当を支給す 【毛利十一代史】

延宝8年 2月3日  山口県史整理年表  諸士への諱字授与、屋敷地・知行所開作・知行所の内浦手なき者に替地支給のこと
                  を令す  【毛利十一代史】
延宝8年 4月10日  山口県史整理年表  吉川広紀、小河内玄可の作る矢鉄砲・浮沓を錦川にて試演 【御用所日記】
延宝8年 6月19日  山口県史整理年表  両国洪水。七月朔四・五日また洪水 【毛利十一代史】
延宝8年 7月    心斎橋今昔年表  徳川綱吉が5代目将軍となる

延宝8年 7月1日  山口県史整理年表  諸国高札建替えにつき両国内駄賃・宿賃札を改む 【毛利十一代史】
延宝8年 7月21日  山口県史整理年表  諸村の御立山その他竹木採用に関し、令条を領つ 【毛利十一代史】

延宝8年 8月   入野村庄屋文書  久万山村々庄屋、夫米・小物成の免除を松山藩に願い出る 。 愛媛県編年史巻7

    松山・曽根八千代蔵  
 
     乍恐口上
    一、此度村々庄屋地高へ夫米諸小物成御百姓並に被為仰付奉其意得候、併シ上家巳前、大野直正旗下ニテ
     久万山中具足四十八両分ノ軍役相勤、私共先祖具足一両前二両前三四両前ノ知行所持仕罷有候、上家ヨリ
    後戸田民部少輔殿ヘ相渡り、其時ヨリ知行被取上、何連モ御雇ニ付庄屋役被仰付、御年貢上納仕来申候、
    然レ共上家巳前ノ由緒ヲ以、久万山庄屋共先規ヨリ夫米諸小物成、民部少輔殿ヨリ御免被成、其後左馬助
    (加藤嘉明)様御代、中務(蒲生忠知)様御代ニモ前々ノ通被仰付、御書出ニモ庄屋持来ノ田地諸役仕間敷
     被仰出候、勝山(久松定行)様より只今迄、久万山分ハ前々ノ通、夫米諸小物成、庄屋ヘハ不被仰付候、
    此以前日ノ浦村御検地被仰付、庄屋地高大分ニ相成候得共夫米諸小物成、右ノ子細ヲ以御赦免被為成候、
    然ハ万一ノ御用モ御座候時ハ、何連モ相応ノ働可仕ト奉存罷在候、御了簡ヲ以、夫米諸小物成、先規ノ通
    被仰付候ハ、難有奉存候、先祖ノ居名ヲモ難捨奉存、不顧慮外、如斯ニ御座候、以上

      延宝八年申八月  久万山庄屋  連判

     内藤嘉兵衛様

延宝8年 8月15日  山口県史整理年表  京都町人鶴屋山田善太郎に山代・徳地両地の材木を川舟にて搬出するを許す
延宝8年 8月26日  山口県史整理年表  大阪運送米その外貢米収納に関する令条を領つ 【小箱旧記抜書】

延宝8年 10月10日  屋代大野系譜  ●55代大野直房後妻 神領何某女歿 七十四才 号長安貞久大姉 極楽寺の上寺山

延宝8年 11月6日  山口県史整理年表  安部吉左衛門、吉川惟足より、古今伝授完了により連歌宗匠を命ぜらる
                  【毛利十一代史】
延宝8年 11月21日  山口県史整理年表  京都呉服用達大文字屋市兵衛家計逼迫につき二十人扶持と小判百両を下附せらる
                   【毛利十一代史】
延宝8年 11月21日  山口県史整理年表  将軍家代替。領国内宗門究を行なう 【毛利十一代史】

延宝8年 忠    赤穂市教育委員会  ○藩財政困窮救済策として、家老大野九郎兵衛のもとで藩札の発行を始めて行う。
延宝8年 忠    赤穂市教育委員会  ○藩札仕法を始める。

延宝8年     伊予・戒能略譜    戒能略譜成立する。延宝八年庚申年朧月二十日。於寓竜雲山


西暦1681年
天和元年      山口県史整理年表  薩摩より琉球櫨を輸入してその栽培を奨励す
天和元年 2月10日  山口県史整理年表  萩山中町・古萩浜崎猟人町火災。二百六十戸を焼く 【毛利十一代史】
天和元年 7月19日  山口県史整理年表  幕府巡見使高木忠右衛門・服部久右衛門・佐橋甚兵衛入国 【毛利十一代史】

天和 9月29日  改元・出典「尚書」 てんな・辛酉改元による(霊元天皇-4年間)【勘申者 菅原在庸】

天和元年      屋代今元系譜  ◎今元本家四代目直光婦 ヤス(三代目小林七三長女)誕生

天和元年 10月21日  山口県史整理年表  江見与四郎自作の鉄砲を吉川広紀に献上 【御用所日記】
天和元年 11月19日  山口県史整理年表  財政逼迫につき馳走米四石懸り 【大記録】
天和元年 12月16日  山口県史整理年表  萩市中に酒造米減少に関する令条を公布す 【毛利十一代史】


西暦1682年
天和2年       山口県史整理年表  錦帯橋の鞍木・助木出来 【岩邑年代記】
天和2年       山口県史整理年表 津濃郡須々万市開市す

天和2年 1月     屋代今元系譜  ◎今元本家三代目直就長女 ノブ(四代目河原重左衛門妻)誕生

天和2年 2月27日   山口県史整理年表  綱広退隠。吉就嗣ぐ 【江氏家譜】
天和2年 2月27日   山口県史整理年表  幕府、朝鮮信使来朝につき、大阪より淀間の川船を萩藩に徴す
                   【毛利十一代史】
天和2年 7月10日   山口県史整理年表  朝鮮信使一行四百八十五人赤間関に到る。饗応使宍戸修理および属員数十人接
                    待す。八月二十九日山田原欽江戸において随員の学士と詩作唱酬す
                    【毛利十一代史】

天和2年 9月1日   山口県史整理年表  財政困窮につき、馳走米十四石懸り、農民よりも一石に付銀三匁を徴す。また五
                   ヵ年間諸士の領地を公収して浮米に替う。三日その細則を公布す
                   【毛利十一代史】
天和2年 11月23日  山口県史整理年表  徳山藩、五ヵ村紙の寸法・値段等を定む 【徳山毛利家記録類纂】
天和2年      心斎橋今昔年表   井原西鶴「好色一代男」発刊。


西暦1683年
天和3年      山口県史整理年表  徳山藩、下松の船倉を遠石に移す 【徳山藩史稿】
天和3年      山口県史整理年表  三ヵ年間農民に石別銀二匁の馳走銀を課す
天和3年 2月1日  山口県史整理年表  徳山藩家業人の帯刀を一本に定む 【徳藩年表】
天和3年 3月6日  山口県史整理年表  吉就、幕府に狩野洞雲・狩野養朴・雲谷等?筆の屏風三雙を献ず 【毛利十一代史】
天和3年 3月15日  山口県史整理年表  諸士および町人に衣服ならびに諸郡社寺の祭式法事を簡略にすべきを令す
                  【毛利十一代史】

天和3年 4月    山口県史整理年表  諸士に令して養子の法を厳にす 【毛利十一代史】
天和3年 4月20日  山口県史整理年表  医師その他法体の者の帯刀を禁ず
天和3年 閏5月14日  山口県史整理年表  清末毛利元知死す。五三 【防長人物誌】
天和3年 6月3日  山口県史整理年表  洪水の時の流木処置に関し令す 【毛利十一代史】
天和3年 8月6日  山口県史整理年表  大阪運送米・萩蔵納米運送につき箇条を領つ 【毛利十一代史】

天和3年 10月19日  山口県史整理年表  去今年豊作につき米穀を貯蔵し、凶荒に備うべき幕命あり 【毛利十一代史】
天和3年 11月    山口県史整理年表  三田尻御船倉の絵図調製を栗栖等脩に命ず 【防府の今昔】
天和3年 11月21日  山口県史整理年表  京都町人大黒屋善四郎に繰業綿の座元を命ず 【毛利十一代史】

天和3年 12月  山口県史整理年表 岩国錦見町の市日を三・九の日と定む。但し二十九日は二十八日とす 【岩国沿革志】

天和3年     大洲秘録      宇津村庄屋大野見叟勘太郎は宇津村に万福寺を再建する。元禄2年3月見叟が71歳で
                 死去後、息子の大野直永が20畝の田を寄進した。

                 直永は宝永3年9月に死去したが見叟とともに万福寺に祀られており、大野氏の菩提
                 寺であった可能性が高い

            師有時予州喜多郡、清谷観音堂に棲息し玉ふ、同郡宇津村庄屋勘太郎、尋常参禅し、或は勘詰
            すれども、盤珪禅師語録 機鋒峭峻にて当たりがたし、一日吉野與次左衛門と倶に清谷に詣す、
            途中吉野に語て曰、我参詣するごとに、大野見叟勘太郎 師勘太郎きたかと仰らる、今日も定て
            例の如くならん、師の若し勘太郎きたかと仰あらば、我曰、そう云ふ者は 誰ぞと、ニ人清谷に
            抵る、師出て吉野に挨拶して、勘太郎には言はなし、良久して、勘太郎云く、いよゝゝ
            御機嫌よしやと申ければ、師曰、そう云ふ者は誰ぞと、勘太郎擬議して懺謝す

天和4年     心斎橋今昔年表  竹本義太夫(34歳)が道頓堀に竹本座を創設


西暦1684年
貞亨元年    山口県史整理年表  三田尻船廠の波戸五十間を築く 【防府の今昔】
貞亨元年    山口県史整理年表  萩渡り口に架橋す 【故事年表】
貞亨元年    山口県史整理年表  美祢郡西厚保村にて川筋付替を行ない川開作成立 【風土注進案】

貞享 2月21日  改元・出典「周易」 じょうきょう・甲子改元による(霊元天皇-5年間)【勘申者 菅原恒長】

貞亨元年 6月11日  山口県史整理年表  吉就初入国。この日萩城に入る。九月二十三日領内初巡視 【毛利十一代史】
貞亨元年 9月    山口県史整理年表  繰綿座大黒屋善四郎辞任す。大阪町人白井太郎左衛門・長田三郎右衛門にこれを
                  命ず 【毛利十一代史】

貞亨元年 10月18日  屋代今元系譜  ◎今元本家初代直光婦 ナカ(森庄兵衛長女)歿 壽72歳
貞亨元年 10月25日  屋代大野系譜  ●徳山大野初代直広室(富山清左衛門女)歿四十九才 号■壽昌院■■■井大姉


西暦1685年
貞亨2年      山口県史整理年表  山田原欽萩八江の詩を賦す 【毛利十一代史】
貞亨2年      山口県史整理年表  水戸藩家臣佐々助三郎両国内の寺社旧記を調査す 【毛利十一代史】
貞亨2年 1月15日  山口県史整理年表  画家斎藤李元死す 【御家中系図】
貞亨2年 1月23日  藩史大辞典     ○徳山藩邸雷火焼失につき、再建の願いを幕府が認可する。
貞亨2年 3月13日  山口県史整理年表  阿武郡須佐大火。二百余軒焼失す 【毛利十一代史】

貞亨2年 7月25日  屋代大野系譜    ●58代大野直儀弟康太夫早世 六歳 号如亀童子

貞亨2年 8月18日  山口県史整理年表  大津郡瀬戸崎に広南の商船漂着 【毛利十一代史】
貞亨2年 12月8日  山口県史整理年表  大津郡黄波戸浦・川尻浦泊ヶ崎、阿武郡奈古浦・江崎浦、豊浦郡角島、見島郡に
                   朝鮮の漁船十三隻・人員七十九人漂着 【毛利十一代史】

貞亨2年 12月10日  山口県史整理年表  両国内地震。萩城内外石壁十二ヵ所・錦帯橋台石崩潰、大島郡地家室辺もまた
                   烈し 【毛利十一代史】


西暦1686年
貞亨3年      藩史大辞典     ○岩国藩の柳井開作25町歩成る。
貞亨3年      山口県史整理年表  玖珂郡柳井中開作築立 【享保増補村記】
貞亨3年      山口県史整理年表  この頃岩政次良右衛門玖珂郡新庄村・柳井村の用水路を開く 【防長歴史暦】
貞亨3年 2月20日  山口県史整理年表  湯浅直光・楊井春勝・厚母就忠等、平均四つ物成の基準をもって両国を検地す。
                  翌年成就。高六十三万五千四百六十五石。支藩古高を通計し両国総高八十一万
                  八千四百八十七石三斗七升七合となる 【毛利十一代史】

貞亨3年 3月20日  山口県史整理年表  藩士に開作の付出を命ず
貞亨3年 4月4日  山口県史整理年表  藩主東勤および就封の時、三田尻出港の船舶の取締法を令す 【毛利十一代史】
貞亨3年 4月19日  山口県史整理年表  医師井上玄徹死す。八五 【防長歴史暦】
貞亨3年 4月27日  山口県史整理年表  岩国領、諸給地を悉く収公す 【岩国旧記】
貞亨3年 6月3日  山口県史整理年表  萩端の坊にはじめて寺鐘を設け諸士より時鐘料を徴す 【毛利十一代史】
貞亨3年 7月7日  山口県史整理年表  画家津森等為死す 【防長人物誌】

貞亨3年    心斎橋今昔年表   紀伊国屋文左衛門、紀州→江戸へ蜜柑を送る


西暦1687年
貞亨4年      山口県史整理年表  数年来給地を公収し、半知の馳走を課す。かつ五つ成を四つ成に下げしため諸士
                  借銀夥し。萩町人は質物なくぼ融通せず。時には知行内より強いて元利を取り、
                  また二割三割の利息の外に口銭前引等を要求す。ために諸士の困窮いよいよ甚し
                  【草舎年表】
貞亨4年     山口県史整理年表  吉敷郡小郡岩屋開作築立 【小郡町史】
貞亨4年     山口県史整理年表  徳山藩主の居館において遠石芝居を催す 【徳山藩史稿】
貞亨4年     山口県史整理年表  江戸邸における新六尺雇用に関し規定す 【毛利十一代史】

貞亨4年 1月    心斎橋今昔年表   生類憐れみの令を出す
貞亨4年 1月7日  藩史大辞典     ○徳山藩、四ツ物成を三ツ六歩に改める。
貞亨4年 2月28日  山口県史整理年表  諸士へ給与の開地の内、開き残り地に関し、組頭に訓令す 【毛利十一代史】
貞亨4年 3月1日  山口県史整理年表  諸士へ給与の開作所開拓年限を潮入干潟は十五年・山野は十年と定む
                  【毛利十一代史】
貞亨4年 4月18日  山口県史整理年表  殺生に関し士庶に訓令す 【毛利十一代史】
貞亨4年 春     山口県史整理年表  萩唐樋より埆外の堀に川を通じ、新堀川と名付く 【渡辺年表】
貞亨4年 5月    山口県史整理年表  さきに諸士の給地を収め、米をもって支給せしが、検地終了につき今年より知行
                   所を返付す 【毛利十一代史】

貞亨4年 5月    心斎橋今昔年表  江戸の豪商、河村瑞賢(70歳)が頻繁に洪水する淀川の治水工事で安治川(長さ約
                  2900m.幅90m=20日間)を完成。
                 『大坂町絵図』には土佐堀川の淀屋橋の一筋東に「志んさいはし筋」とあります。

貞亨4年 7月9日  山口県史整理年表  徳山藩、物成を三つ六歩に改む 【徳山藩史稿】
貞亨4年 7月23日  山口県史整理年表  桑・漆・櫨・油木等の増殖を奨励す 【毛利十一代史】
貞亨4年 7月25日  山口県史整理年表  用地として収公したる諸士の給地に関し替地申請のことを規定す
                  【毛利十一代史】
貞亨4年 7月28日  山口県史整理年表  向津具に唐船来航直ちに出帆す 【故事年表】
貞亨4年 8月21日  山口県史整理年表  玖珂郡柳井宮本開作水田成立 【岩国旧記】

貞亨4年 10月22日  山口県史整理年表  城下道路修繕に関し訓令す 【毛利十一代史】
貞亨4年 12月    山口県史整理年表  東叡山木食上人領内通行により益田越中防府に到り接見す 【毛利十一代史】
貞亨4年 12月12日  山口県史整理年表  徳山城下勢屯に辻番所を設置 【徳藩年表】
貞亨4年 12月23日  山口県史整理年表  諸士売米の相場に関し令す 【毛利十一代史】


西暦1688年
元禄元年      山口県史整理年表  この頃より、藩士の勤功ある者に特別に開作を許可し、これを勤功開作と称す
元禄元年      山口県史整理年表  吉敷郡秋穂黒潟開作築立 【防長地名淵鑑】
元禄元年      山口県史整理年表  都濃郡平田開作成る 【風土注進案】
元禄元年 2月16日  山口県史整理年表  宇都宮正如死す。六〇 【御家中系図】
元禄元年 3月    山口県史整理年表  佐波郡東仁井令伊佐江村の百姓自力開作三十町余を築立 【防府の今昔】

元禄元年 5月    山口県史整理年表  岩国領、売買物品に悉く課税す 【岩邑年代記】
元禄元年 5月11日  山口県史整理年表  岩国領、地方生産の織物の寸尺その他を規定す 【岩国旧記】

元禄元年 5月15日  山口県史整理年表  粟屋帯刀大島郡小松沖干潟百町歩拝領。三年九月鍬初。六年八月成就 【
                   防長歴史暦】

元禄元年 6月4日  山口県史整理年表  阿武郡江崎浦に広東の商船一隻漂着す 【毛利十一代史】
元禄元年 6月21日  山口県史整理年表  諸士の新開ならびに開き添えに関し令条を領つ 【諸御書附(郡作法)】
元禄元年 8月    山口県史整理年表  岩国室木村今津沖に新開一の割築立 【岩邑年代記】
元禄元年 9月9日  山口県史整理年表  品定の法を改む 【毛利十一代史】

元禄 9月30日  改元・出典「宋史志」『文選』 げんろく(代始改元による(東山天皇-17年間)【勘申者 菅原長量】

元禄元年 8月19日  筑前大野家墓誌  ●筑前大野家 大野吉勝没 法名 浄善院殿貴榮宗富居士

元禄元年 12月21日  山口県史整理年表  町人の藩主謁見につき、町奉行に令す 【毛利十一代史】
元禄元年 12月    心斎橋今昔年表   柳沢吉保(30才)が側用人となる


西暦1689年
元禄2年      山口県史整理年表  萩雑式町新道成る 【毛利十一代史】
元禄2年      山口県史整理年表  玖珂郡柳井村中馬皿落合より中開作までの溝九百六十一間を通ず
元禄2年 2月    山口県史整理年表  岩国今津大川付替工事に着手。七月完成す 【岩邑年代記】
元禄2年 3月4日  山口県史整理年表  諸士に禄米支給の日限を定む 【毛利十一代史】
元禄2年 4月17日  山口県史整理年表  綱広江戸にて死す。五一 【毛利十一代史】
元禄2年 6月    山口県史整理年表  岩国領、勘場を御蔵元と改称 【岩邑年代記】
元禄2年 7月    山口県史整理年表  岩国室木今津沖に新開二の割築立 【毛利十一代史】
元禄2年 8月25日  山口県史整理年表  在郷居住出願諸士の取締を令す 【毛利十一代史】
元禄2年 9月18日  山口県史整理年表  幕命により両国内の鉄砲を調査す。四千百五十八挺 【毛利十一代史】
元禄2年 10月    山口県史整理年表  大津郡通浦大火。百一軒焼失す 【毛利十一代史】


西暦1690年
元禄3年      山口県史整理年表  吉敷郡小郡元禄開作(経塚開作)築立 【小郡町史】
元禄3年      山口県史整理年表  吉敷郡仁保の瑠璃光寺を山口香積寺跡へ移転す 【故事年表】
元禄3年      山口県史整理年表  去・今年頃厚狭郡藤山江ノ内開作十七町余築立

元禄3年      周防大島町誌  ○小松開作塩釜神社(祭神 市杵島姫 塩土翁)塩浜築立の節建立

元禄3年 忠     平野町宗旨改帳  ○天野屋利兵衛は北組惣年寄と記録されている。

元禄3年 1月11日  山口県史整理年表  吉川氏連歌始の式を行なう。以後恒例となす 【御用所日記】
元禄3年 3月25日  山口県史整理年表  都濃郡下松東市大火。百二十三軒焼失 【徳藩年表】
元禄3年 5月21日  山口県史整理年表  徳山毛利元賢死す。八月十日元次嗣ぐ 【徳藩年表】
元禄3年 7月10日  山口県史整理年表  岩国室木村・今津沖に新開三の割築立 【岩邑年代記】
元禄3年 7月27日  山口県史整理年表  吉敷郡名田島元禄開作築立。
元禄3年 8月    山口県史整理年表  松崎天満宮を修築す 【防府の今昔】
元禄3年 12月   山口県史整理年表  岩国領、諸士の在郷居住を禁ず 【岩邑年代記】
元禄3年 12月7日  山口県史整理年表  阿武郡奈古浦大火。百二十二軒焼失 【徳藩年表】


西暦1691年
元禄4年      防長寺社由来  ○萩藩は藩内の寺社の基本台帳「元禄寺社御根帳」作成。不備が多いため享保7年の
                 「寺社由来」編纂につながる。

元禄4年 2月2日  山口県史整理年表  吉就萩松本に黄檗宗護国山東光寺を建立す 【毛利十一代史】
元禄4年 4月15日  山口県史整理年表  西国三十五ヵ国は神善四郎秤を用うべき旨の幕令あり 【毛利十一代史】
元禄4年 5月25日  山口県史整理年表  両国内威銃・猟銃の持主銃相続願書を幕府に進達す。威銃は持主変更の報告に
                   止め、猟銃相続願書は認可あり 【毛利十一代史】
元禄4年 5月27日  山口県史整理年表  この日より六月四日に至る間両国中洪水 【毛利十一代史】

元禄4年 6月22日  山口県史整理年表  岩国川下車川堰の工事始まる。八月八日成る 【証記抜萃】
元禄4年 閏8月3日  山口県史整理年表  柳井宮本開作築立 【岩邑年代記】
元禄4年 9月    山口県史整理年表  岩国錦見に家中屋敷割を行ない、在郷より召還の諸士を置く 【岩邑年代記】
元禄4年 11月22日  山口県史整理年表  東大寺周防国内の寺領還付を申請す 【毛利十一代史】

元禄4年     心斎橋今昔年表   大坂の富商住友が、別子銅山の採掘を始める


西暦1692年
元禄5年 夏     山口県史整理年表  大島郡遠崎浦八郎右衛門廻船十二人乗広東に漂流長崎に送還され帰国
                   【草舎年表】

元禄5年      山口県史整理年表  佐波郡阿弥陀寺の浄土堂再建。常念仏ありて行者四人を置く 【故事年表】
元禄5年     山口県史整理年表  佐波郡遠藤開作築立 【風土注進案】
元禄5年 3月9日  山口県史整理年表  長府藩士の在郷居住を禁じ府内に召還す 【長府毛利家乗】

元禄5年 5月   椿寺・利兵衛算盤刻  「元禄五年壬申歴五月 赤穂御用所 天野屋」とあり、赤穂藩御用を勤めている。

元禄5年 6月7日  山口県史整理年表  歩戻り開作創始 【防長歴史暦】
元禄5年 6月12日  山口県史整理年表  岩国室木開作の灌漑用として八幡下より新溝を通ず 【証記抜萃】
元禄5年 6月28日  山口県史整理年表  徳山藩領内の木挽職に課税す。棟梁は水役一人分、その他は半人分
                 【徳山藩史稿】
元禄5年 7月6日  山口県史整理年表  医師、詩人熊谷玄旦死す。六〇 【御家中系図】
元禄5年 7月29日  山口県史整理年表  吉就財政困難を憂い親諭書を発す 【毛利十一代史】
元禄5年 8月24日  山口県史整理年表  徳山藩、足軽中間に苗字を許す 【徳藩年表】
元禄5年 10月21日  山口県史整理年表  内藤以貫死す 【防長歴史暦】
元禄5年 10月22日  山口県史整理年表  錦帯橋創建の主任棟梁児玉貞矩死す。五八 【御家中系図】


西暦1693年
元禄6年      山口県史整理年表  小早川隆景夫妻の牌所として萩川添に隆景寺を建立

元禄6年      山口県史整理年表  大島郡小松開作三十三町余築立 【小松塩浜沿革史】

元禄6年     山口県史整理年表  厚狭郡鵜島開作七十町歩築立 【風土注進案】
元禄6年      山口県史整理年表  岩国川下車川の川筋に新田開作築立 【岩国市史】
元禄6年 2月9日  山口県史整理年表  豊浦郡角島に朝鮮漁船漂着す
元禄6年 3月26日  山口県史整理年表  陪臣の医師・針師の内技術優秀なる者には城内において木履の使用を許す
                  【毛利十一代史】
元禄6年 4月    山口県史整理年表  宗藩士に令し、支藩主を某殿と称するを某様と改称せしむ 【毛利十一代史】

元禄6年 4月3日   山口県史整理年表  江戸在勤諸士の風紀粛正を令す 【毛利十一代史】
元禄6年 6月24日  山口県史整理年表  徳山毛利元次、領内外諸寺に法華経一部宛を奉納す 【徳藩年表】
元禄6年 6月25日  山口県史整理年表  両国大風雨。被害甚大。倒家千八百・他国の廻船百二十四隻破損・海上の死者
                  百二十四人 【毛利十一代史】
元禄6年 7月14日  山口県史整理年表  儒者山田原欽江戸邸にて自殺す。二八 【毛利十一代史】
元禄6年 7月晦日  山口県史整理年表  赤間関南部町出火。百十三戸焼失 【長府毛利家乗】
元禄6年 8月18日  山口県史整理年表  両国大風雨。被害甚大 【毛利十一代史】
元禄6年 10月23日  山口県史整理年表  東条政右衛門領地の農民五十九人牛馬をひき逃散す
元禄6年 10月28日  山口県史整理年表  見島郡に朝鮮の漁船漂着 【毛利十一代史】


西暦1694年
元禄7年 忠     ウイキ     ○天野屋利兵衛、天野屋の通し称九郎兵衛を襲名する。これ以降は利兵衛ではなく
                  元禄14年の赤穂事件の際も九郎兵衛である
                  (九郎兵衛は伊予大野家総領の通し名でもある。)

元禄7年      山口県史整理年表  僧鉄俊萩渡口に法蔵寺を建て一切経を蔵む 【故事年表】
元禄7年      山口県史整理年表  玖珂郡柳井開作に新市を興す 【岩邑年代記】
元禄7年 2月7日   山口県史整理年表  吉就江戸桜田邸にて死す。二七 【江氏家譜】
元禄7年 2月20日  山口県史整理年表  大津郡向津具川尻に朝鮮漁船漂着 【毛利十一代史】
元禄7年 4月16日  山口県史整理年表  遊行上人萩に着し、五月八日山口に赴く 【毛利十一代史】
元禄7年 5月27日  山口県史整理年表  長府藩、家中大小身の馬の購入飼育を奨励す 【長府毛利家乗】
元禄7年 6月7日  山口県史整理年表  この日を山口祇園会祭日と定む 【毛利十一代史】

元禄7年 6月26日  山口県史整理年表  萩浜崎住吉社に神事能を許可す 【毛利十一代史】
元禄7年 6月晦日  山口県史整理年表  彰考館総裁吉弘元常死す 【防長歴史暦】
元禄7年 8月18日  山口県史整理年表  幕府国目付妻木彦右衛門・同山中五郎左衛門入国す 【大記録】
元禄7年 9月    山口県史整理年表  徳山藩幕府へ領内の人口を報告す。二万三千百六十四人 【徳山藩史稿】
元禄7年 9月28日  山口県史整理年表  玖珂遠崎浦船頭八郎右衛門等広東に漂着して、長崎に送還さる
                  【毛利十一代史】
元禄7年 11月1日  山口県史整理年表  この頃銭貨不足につき銀一匁につき七十八文替とす 【毛利十一代史】
元禄7年 11月28日  山口県史整理年表  萩大雪。川上より大河まで結氷、南条槌をもって摧砕船を通す
                  【毛利十一代史】

元禄7年 12月    山口県史整理年表  米買上値段銀百匁につき、南宰判二石六斗替・北宰判二石替 【毛利十一代史】
元禄7年 12月15日  山口県史整理年表  大津郡黄波戸浦に朝鮮船漂着す 【毛利十一代史】

1695 元禄8年 忠   ウイキ    ○天野屋利兵衛、「遠慮」を申し渡され惣年寄を解任された可能性があり。

元禄8年     山口県史整理年表  岩国門前川支流平太川を堰止め旧川筋に新田開作 【享保増補村記】
元禄8年 1月    山口県史整理年表  一季契約の奉公人の給銀を定む 【毛利十一代史】
元禄8年 3月13日  山口県史整理年表  豊浦郡角島に南京船漂着 【毛利十一代史】
元禄8年 6月17日  山口県史整理年表  玖珂二井寺観音堂等の再興造営成る 【寺社記要覧】
元禄8年 6月21日  山口県史整理年表  三年間の節倹令を布き、諸士に十四石懸り、寺社・百姓に石別五升の馳走米を
                   課す 【毛利十一代史】
元禄8年 7月28日  山口県史整理年表  萩町質屋の利息を定む 【毛利十一代史】

元禄8年 7月28日  山口県史整理年表  代官随員定・諸役員職務俸・諸所務代職務俸を発令す 【毛利十一代史】
元禄8年 8月10日  山口県史整理年表  諸臣歩戻り開作に関し郡奉行へ訓令す 【毛利十一代史】
元禄8年 10月   山口県史整理年表  梅月堂香川宣阿景継「陰徳太平記」の序を作る 【陰徳記】
元禄8年 10月   山口県史整理年表  岩国に痘瘡流行。翌年一月いよいよ蔓延 【御用所日記】
元禄8年 10月晦日  山口県史整理年表  吉川氏領内寺社記編集を命ず

元禄8年 12月3日  山口県史整理年表  大島郡二老役を加藤喜左衛門・林二郎右衛門に命ず 【諸御書附(郡作法)】


西暦1696年
元禄9年      山口県史整理年表  諸士より十六石懸りの馳走出米を命ず 【毛利十一代史】
元禄9年 2月24日  山口県史整理年表  歩戻り石高に応じ開作地拝領の町数を定む 【諸御書附(郡作法)】

元禄9年 5月4日  周防大島町誌 ○宍戸寺社奉行松尾寺に羅漢山竜石寺(三蒲文殊堂)の法務一切の委任許可をあたえる。

元禄9年 6月4日  山口県史整理年表  吉広初入国。この日萩城に入る 【毛利十一代史】
元禄9年 7月13日  山口県史整理年表  吉川広紀萩にて急死。三九 【吉川家文書・家譜】
元禄9年 9月29日  山口県史整理年表  吉広領国巡察のため萩を発す 【毛利十一代史】
元禄9年 11月5日  山口県史整理年表  徳地見取紙仕法を改め下見取を置き良質の品を漉出さしむ
                  【諸御書附(郡作法)】
元禄9年 11月14日  山口県史整理年表  竹田紹旦より依頼あり。伊予茶の買人を止め宇治茶を買う
                  【御書附其外後規要集】

鯨のよどちゃん永眠す。

2023年01月20日 07時54分11秒 | 談論風発?(与太話))
大阪湾の淀川河口に迷い込んだ鯨の「よどちゃん」が力尽きて死にました。
大阪市は大枚払って、クレーンで吊り上げ、土砂運搬船にのせ、和歌山県沖まで運んで
コンクリートの錘をつけて海に沈めました。
メディアは「よどちゃん!さようなら!」と情緒的に報道しています。

嗚呼、日本は平和なんだなとつつづく思いました。

もしこれが周防大島町の海岸に打ちあがりましたら、金持ち大阪市のような対応はできなかったでしょう。吊り上げるクレーンも運ぶ船もありませんし、費用の数百万円もとても町財政では負担できません。

こちらはこちらで自治体間の貧富の差を思い知らされます。

鯨が瀬戸内海に入ってくることは昔はよくあったようで、周防大島にも江戸時代に鯨が迷い込んで
きて、漁師が取り合いあいをして、村同士で大喧嘩になったとの記録があります。

室津の記録では鯨が来たので、みんなで分け合ってたべました。
「美味しゅうございました」とのことでした。

昭和20年代までに生まれた人たちには鯨はごちそうでした。

我らが地元、下関の大洋漁業がはるか南極まで行って鯨を取ってきて、日本人のタンパク質の補給をしていました。流通上は魚でしたので、肉屋ではなく魚屋のルートで販売されていましたね。血管の少ない赤身の所が最上で、脂分の「おばやけ」は酢味噌で食べると最高な酒の肴で、赤白ベーコンは子供が取り合っていましたね。
新宿の「しょうべん横丁」(今は思い出横丁と改名)の入り口に鯨専門のクジラステーキ店
がありました。うちわぐらいの大きなステーキが人気でしたが、苦学生(現在は死語)には高値の花でした。

古い人間からすれば、鯨を捨てることは「なんと勿体ない」と思います。
今回のはマッコウ鯨で、美味しさは、シロナガスクジラの次に美味しい。
今、わずかにスーパーで出回っているのは日本沿岸の小さな鯨種なので美味しくありません。
これすら滅多にお目にかかれません。かっての消費構成比に基づいて配分しているので、昔、鯨を
食べることが少なかった県には配分はありません。

「旨いシロナガスが食いたいなあ~」
こんな想像している私は、保護団体に見つかると殺されるでしょうね。

別の鯨が今度は東京湾に入ってきました。 何か変?