山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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片山の能地が鼻は海

2022年07月26日 19時46分35秒 | 源平合戦 大島津
現在の能地が鼻付近。正面の大きな建物は大島中学校。

一列に並んでいる民家のすぐ向うは屋代川。民家の中に片山の天神様があった。

この辺りの屋代川は慶長年間までは遠浅の海であったのであろう。

片山の能地が鼻は海

2022年07月26日 19時44分41秒 | 源平合戦 大島津
周防大島町誌に屋代の石井の等覚院文書を許に屋代の今元雅助が

「片山の天神様の下の方を白浜というが、その近所に能地が鼻と云う巨岩が
 あった。それは志佐の魚人がそこで漁をしたからである。野や山のものばかり
 食っている人たちにはこの魚人から供せられる感謝の心で迎えられたのである。
 (能地)というのは決して蔑称ではない、むしろ尊称である。この意味で
 能地が鼻が開拓整地のため無造作に取り除かれることはいかにも惜しいことだ
 遺跡として後代の人々にも忘れさせない必要があると論じている」と所収されて
 います。

 調べてみると、今元雅助は(1866~1943年)の人で父親は四境の役で村上亀之助隊
 に属し、国木峠の合戦の活躍で村上亀之助(惟庸)から「感状」貰い、後戸長を
 歴任した人です。

 等覚院は龍心寺(元大龍寺)のとなりにある旧浄屋寺のことで村上家家老大野直一
 が中興開山とされる寺です。

 片山の天神様というのは、今の龍心寺の隣にある菅原社が前にあった所で、屋代川沿いの
 西屋代京免にありました。現在でも小さな空き地が残っています。
 この神社を現在地に移したのは村上の殿様です。村上の菩提寺大龍寺の裏山に移転しました。

 白浜の能地が鼻が片山の天神様の下(しも)とされるので、現在の大正橋あたりで、大島中学校庭は海の
 下となります。大きな岩があったとされますので眺海山の噴火の溶岩があったのでしょう。

 すなわち、江戸中期までも大島中学あたりは海であったとしますので、源平時代は広い浅瀬であった
 ことになります。

 志佐の漁民で能地と呼ばれた人は当時蔑視されていたとされます。

 確かそのような地区はありますが、雅助氏が云うように蔑視されるゆわれは全くありません。

 調べてみますと、志佐地区の漁民は歴史的には能地から移ってきた人たちとされます。
 この能地とは安芸の能地のことで現在の竹原市の浦の一つです。
 慶長5年の関ケ原の戦いで負けた、毛利、小早川、は防長二州に閉じ込められます。
 この時、屋代島に移動してきたのは竹原にいた能島村上武吉らです。
 因島村上も三蒲に移住してきます。
 よって、竹原の能地が浦の漁民たちも安心して漁ができると志佐浦に小屋掛けしますが
 後に定住してしまいます。
 この時、志佐の陸地の給領主は内藤弥左衛門ですが、田畑に
 迷惑をかけるわけでもなしで、大目にみていたのでしょう。
 実際は内藤領の給庄屋佐村弥左衛門が大目に見たのと魚の供給で便利と思っていたもの
 と考えられます。庄屋の佐村弥左衛門家は志佐のトンネルを出た所に屋敷がありました。
 昭和期に町長をした佐村喜作氏や小豆島のオリーブの父とされる佐村利兵衛氏は分家
 にあたります。

 尚、「鼻」は岬と云う意味で村上海賊の縄張りでは「〇〇鼻」と地図に記されます。

柳井水道はいつ頃消えたのか?

2022年07月26日 19時43分30秒 | 源平合戦 大島津
遠浅の入江が消えていくのは、普通、川の氾濫や、人口的な干拓によるものが大半
とされます。一番早くなくなるのは人口増に伴う干拓事業によるものが大とされます。
江戸も大坂浪速も殆ど海でしたが、秀吉や家康は必死で干拓しました。

大島や柳井も平生も江戸期に必死で干拓して平地増と塩田や田に替え生産高増を図ります。

屋代平野の平地化はもう説明しました。

では柳井地区を見てみましょう。
柳井庄と言われていた平安から鎌倉時代までは【5】の絵図のようだったと
思われます。

予って義経軍団が大島津に停泊した後、柳井水道を抜けて壇の浦へ向かったと
する所以です。

柳井水道は室町期に陸地化が進んだと思われます。
分水嶺は現在の大波野地区と思われます。

現在、柳井水道の痕跡を残すものは分水嶺大波地区の一番低い所を発する河川
と思われます。一つは柳井方面に流れる土穂石川で現在でも余田、新庄小学校を
傍を流れ、柳井高校の隣を迂回し柳井湾に注ぎます。

今一つは同じ場所を西へ分岐し平生湾に向かい流れる、田布施川支流です。
この川は現在、熊毛南高校の隣を通り田布施川へ合流し平生湾に注ぎます。

今の柳井地区の平地の殆どは大きな干潟の中で潮が満ちると江戸中期でも
海の中となります。江戸期の柳井津は現在の国木田独歩旧宅あたりであって
JRの柳井港駅付近ではありません。

柳井町は現在の柳井市役所の後背部分と思われますので、旧市街が山側にあるのは
当たり前で、現在の柳井駅や柳井警察署あたりは海の中です。
柳井高校あたりの地名が「古開作」とされるのも干拓地を意味しています。
現在の柳井高校の体育館を造る時に2~3M下は昔の海底層に当たり、泥土と
貝殻がザクザクでました。

余田新庄地区で現在の山陽本線を通す時、地盤工事でズブズブな海底層だったので
平地にも関わらず、難工事となってしまったとされます。

当たり前です。江戸前期ではまだ馬皿、新庄、余田は浜辺です。

これらを裏付ける絵図が毛利藩に残っています。
1663年現在の柳井地区とされます。

「百聞は一見に如かず」で見ないと分らないのでUPします。

『玖珂郡馬皿 新庄干潟図』とされるものです。

干潟の一番奥が馬皿、新庄です。柳井町は現在の市役所の後ろにポツンとあります。
干潟を流れる2本の川が現在の土穂石川と柳井川と思われます。
柳井町から潮が満ちると消える干潟道がありますが、これは「たぶろぎ」に
向かっていると思われます。現在の周東病院の浜辺に向かっていると思われます。

余談ながら、「津」は古来多くの船が停泊できる場所であり「浦」は小規模な
漁船が停泊する所と宮本常一先生は言ってたような・・・。

大島津の水面

2022年07月26日 19時40分57秒 | 源平合戦 大島津
大島津の水面は現在の屋代平野の4~5M下にあったとされます。

寿永4年より古い大同元年に三蒲に上陸し、松尾寺や文殊堂を開いたとする
弘法大師空海が船から降りたのは、現在の三蒲の山側の流地区とされますので
今の屋代島はもっともっと狭かったのでしょうね。

屋代川は氾濫を繰り返し加納山の泥をどんどん下流へ流し、大島津(屋代湾)を
埋めていったものと思われます。
屋代片山に村上武吉が菩提寺大竜寺を移傳したときはまだ浜辺が目の前に
広がっていたと思われます。

郷の坪の大崩(オオズエ)は有名で、現在の大島中学校も氾濫時の土砂の流入で
田として使用できないので学校用地とされています。

大島中学校ら役場方面に広がる田圃は「沖田」と呼ばれ、屋代川を挟んだ反対側
の田圃は「浜田」と呼ばれ、海を埋めたてていった名残です。
もちろん、義経の仮宿があったとされる水車の前は、江戸期の埋め立ての塩田
ですね。

低い大島町役場の海抜は下記の通りです。

余談ながら津波が来ると一発でぱーです。