周防大島町誌に屋代の石井の等覚院文書を許に屋代の今元雅助が
「片山の天神様の下の方を白浜というが、その近所に能地が鼻と云う巨岩が
あった。それは志佐の魚人がそこで漁をしたからである。野や山のものばかり
食っている人たちにはこの魚人から供せられる感謝の心で迎えられたのである。
(能地)というのは決して蔑称ではない、むしろ尊称である。この意味で
能地が鼻が開拓整地のため無造作に取り除かれることはいかにも惜しいことだ
遺跡として後代の人々にも忘れさせない必要があると論じている」と所収されて
います。
調べてみると、今元雅助は(1866~1943年)の人で父親は四境の役で村上亀之助隊
に属し、国木峠の合戦の活躍で村上亀之助(惟庸)から「感状」貰い、後戸長を
歴任した人です。
等覚院は龍心寺(元大龍寺)のとなりにある旧浄屋寺のことで村上家家老大野直一
が中興開山とされる寺です。
片山の天神様というのは、今の龍心寺の隣にある菅原社が前にあった所で、屋代川沿いの
西屋代京免にありました。現在でも小さな空き地が残っています。
この神社を現在地に移したのは村上の殿様です。村上の菩提寺大龍寺の裏山に移転しました。
白浜の能地が鼻が片山の天神様の下(しも)とされるので、現在の大正橋あたりで、大島中学校庭は海の
下となります。大きな岩があったとされますので眺海山の噴火の溶岩があったのでしょう。
すなわち、江戸中期までも大島中学あたりは海であったとしますので、源平時代は広い浅瀬であった
ことになります。
志佐の漁民で能地と呼ばれた人は当時蔑視されていたとされます。
確かそのような地区はありますが、雅助氏が云うように蔑視されるゆわれは全くありません。
調べてみますと、志佐地区の漁民は歴史的には能地から移ってきた人たちとされます。
この能地とは安芸の能地のことで現在の竹原市の浦の一つです。
慶長5年の関ケ原の戦いで負けた、毛利、小早川、は防長二州に閉じ込められます。
この時、屋代島に移動してきたのは竹原にいた能島村上武吉らです。
因島村上も三蒲に移住してきます。
よって、竹原の能地が浦の漁民たちも安心して漁ができると志佐浦に小屋掛けしますが
後に定住してしまいます。
この時、志佐の陸地の給領主は内藤弥左衛門ですが、田畑に
迷惑をかけるわけでもなしで、大目にみていたのでしょう。
実際は内藤領の給庄屋佐村弥左衛門が大目に見たのと魚の供給で便利と思っていたもの
と考えられます。庄屋の佐村弥左衛門家は志佐のトンネルを出た所に屋敷がありました。
昭和期に町長をした佐村喜作氏や小豆島のオリーブの父とされる佐村利兵衛氏は分家
にあたります。
尚、「鼻」は岬と云う意味で村上海賊の縄張りでは「〇〇鼻」と地図に記されます。