山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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村上海賊の系譜 2 能島村上一学家  

2023年12月29日 04時36分13秒 | 村上海賊の系譜
 
村上海賊の系譜 2 では能島村上家の分家一学家について説明します。
能島村上総帥武吉の長嫡男元吉が関ケ原の合戦に呼応して豊臣家の名代として伊予松前・正木の城受取りに
出向いた所で加藤家留守部隊の策略で夜討ちにあいあえなく討死します。父武吉を支え能島村上家の立て直しを図った
のが弟の景親です。この家を萩藩では一学家とします。尚、武吉以前の先祖は、「能島村上図書家」でUP
してありますので参照願います。


            【能 島 村 上 一 学 家 略 系 譜】

元祖      道祖次郎 掃部頭 大和守
        村上武吉
        太栄6~慶長9(1532~1604.8.22)72才
        法名 大仙寺殿覚甫元正居士
        母 平岡左近将監女
        室 来島右衛門大夫通康一女・妙輪・ムメ
        (~天正14/6/5)
        法名 香厳院殿梅甫妙輪大姉・俗名ムメ
        後妻 来島通康二女・妙三・ハナ
        (~慶長12(1606)/3/11)【元正寺墓有武吉墓後】
        法名 心妙院殿華岳正春禅定尼(墓刻)
        法名 心妙院殿華岳正春大姉・俗名ハナ(家譜)
 ↓
初代      村上三郎兵衛景親
        (1557~1610/1/9)53才・源八郎・如真
        法名 照岩寺殿            *後に彼と此の一族の菩提寺を照岩寺とします。
        輝元公賜新録 建一家         *毛利輝元は功績を認め分家扱いではなく新しい一家とします。
        母 後妻来島通康二女・妙三
        室 平岡遠江守通倚妹
      
          *朝鮮出兵の折、戦利品として朝鮮女性を連れ戻ります。父武吉も一人連れ帰ったとされます。
           この二人の肖像画が今治の「村上海賊記念館」に寄贈されています。
           日本名 おたけ様(高麗出兵戦利女朝鮮娘・家女)朝鮮名 如薫(ヨーフン)と伝えられます。
           後世の歴史家は勝手に推測して、「戦利品として連れてこられた朝鮮女性が儚く異国の地で 
           果てた」と書く人がいます。
           ところが、影親の葬儀の模様を書き残した【大野是水文書】(大龍寺蔵)によると、景親の葬儀を
           取り仕切り「喪主」とした采配したのは、「おたけ様」とされます。多分もう正妻は物故だったの
           でしょう。おたけ様の墓は今も一学家墓地に朝鮮風墓(頭がカールしてます)として現存します。
           大野是水は伊豫大除城主大野直昌(ナオシゲ)の甥、大野直政の子です。
           大野直政は能島村上家家老として秀吉の姫路会談に臨み、織田信長の誘いを断り帰国します。
           同じ会談に呼ばれた来島村上家はこの誘いを応諾しますので,三島村上分裂と伊予河野家、毛利家
           との敵対関係が決定的になりました。来島は後に大名として生き残りました。

          *「村上図書家譜録」
           武吉 女
           黒川五右衛門元康妻
           母 後妻来島通康二女・妙三
          
           と記録される女性が『村上海賊の娘』景としてヒットしましたね。
           ただこれは単なる「歴史小説」なので史実ではありません。
           名前の景も小早川隆景から借用していますし兄の景親を出来の悪い弟として描いています。

           ただ、この女性は村上系図では黒川家に嫁いだとしますが伊予黒川系図に見当らず
           異本には長曾我部元康妻とあります。黒川家は土佐長曾我部の血も引く伊予河野家
           一門ですので幸門城へ輿入れした可能性はあります。

 ↓
二代     竹松 源八郎 但馬守 河内守
       村上元信
       慶長13か景親51才の時誕生(1608~1658/4/8)51才
       法名 大嶺院殿傑仙全英大居士
       室 前田刑部某妻
       正保元年4/29卒 法名 光屋栄□大姉
       後妻 山田九郎左衛門頼房女
       寛文四年5/16卒 法名 清寿院殿高岳妙英大姉
       八助依早世継家 母家女(朝鮮女)ヨーフン
       慶長15年(1610)父卒去為船手組頭出仕
       1618年三田尻転居 明暦4年知行千五百石
       元信幼少ニ付、平岡直房後見ス

           *兄八助は夭逝のため家を継いでいません代って跡継ぎは元信となりますがこちらも
            幼少故、平岡直房が後見人になっています。平岡は伊豫河野家の重臣の一人で
            関ケ原の後、周防大島に逃れます。明治維新の時、東京で宮城(皇居)の造営に
            当たったのは直房の子孫です。
 ↓
三代     源八 三郎兵衛
       村上三郎兵衛就親
       (1624~1652/9/22)35才
       法名 清法院殿傑□浄英居士
       室 村上能登守元武女
       法名 常□院殿妙定大姉
       後妻 完戸内匠元親女
       母 山田九郎左衛門頼房女
 ↓
四代     一格 源八 三郎兵衛
       村上三郎兵衛景信
       (1639~1702/4/2)62才
       法名 景信院殿岳桂道薫大居士
       室 椙社隼人就徳女
       後妻 毛利隠岐就頼女

       【大野毛利就頼女・千代子)
       【補注・大野毛利系図】
        母村上能登守元武女

 ↓
五代     三四郎 景富 右衛門 一學
       村上右衛門廣庸
       (1669~1735/4/13)67才
       実 日野七兵衛就幸二男
       室 養父景信女
       法名 芳心院殿蘭室貞秀大姉
       墓・芳心院(浄福寺)五輪塔
       東屋代村 芳心院開基

       *後裔村上保一郎氏は廣庸の妹とする。(口羽十郎兵衛離縁)
        元禄9年2月11日没 (末女廣庸室と混乱カ)
        

       *現在周防大島町東屋代の浄福寺は明治初期に廃物希釈により村上図書家の菩提寺大龍寺と合併され   
        「龍」と「心」を合わせ現在龍心寺と称されている。
         廣庸は養子であるので家の女の室のために室の法名を採りて「芳心院」としています。
         彼女の立派な墓は現在の浄福寺にありますが、説明書きは変です。
         この寺は四境の役の時は一学家の村上河内隊の宿舎となりました。
         大龍寺は村上図書家の村上亀之助隊の宿舎となりました。
 ↓

        忠三郎 外記
        村上忠三郎景幸
        (生没不詳)
        実 熊谷帯刀就實三男
        廣庸為養子
         就實嫡實敬依夭死帰家

        【帰家しているので代数に入れず】

 ↓
六代      久千代 右衛門 三郎兵衛
        村上右衛門廣信(後廣真)
        (1700~1760/3/25)61才
        実 内藤孫左衛門元貞二男
        室 村上小右衛門武旨養女
        實 村上九郎右衛門忠通女
        後妻 完戸四郎五郎元安女
        母 根来氏女
        法名 少林院廓然無聖居士

           *後裔村上保一郎氏は著書で「我が家には朝鮮人の血が流れている」と書いて」ありますが、
            養子、他家室との婚姻なので「朝鮮女性ヨーフン」の血は途絶えます。
 ↓
七代      主計 一學
        村上三四郎就庸
        宝暦13年相続(~)1799年隠居70才
        室 内藤又七盛常養女
        実 根来帯刀就祐妹
        後妻 児玉淡路就恒養女
        実 完戸十郎兵衛修包女
        母 完戸氏
        法名 真法院淳翁理朴居士

 ↓
八代      村上就房(房周)
        (~)1799年相続
        実 日野内蔵就景弟
        室 養父一學就庸女
        後 妻清水長左衛門就周女

              *文化12年村上新八暗殺当事者か
               庶子
               村上新五郎(新八)
               法名本源院殿天真自性大居士
               同人妻
               法名 圓福院殿心鏡智浄大姉
               同人嫡男
               法名 玉堂自光居士
               同人娘
               法名光林智明大姉
               上記4名文化12年(1815)11月7日落命

               この四名は庶家であるが村上家秘伝書を持ち出そうとして発覚し
               家来たちが沖の小島へ連れて行き全員処刑したとされます。
               この秘伝書とは村上宗家秘伝の「瀬戸内海流」の季節時間別の海流図とされます。
               終戦直後、岩国に進駐した連合軍は岩国から直接ランチで和田に来訪し、この書の
               在処を尋ねに来たとか。この書は今は行方不明とか。
               【村上氏末裔・村上(高橋)四郎氏談】2022年

 ↓
九代         村上源八郎(熙光)
           (生没年不詳)
           母就庸女 継家

 ↓
十代         河内守
           村上元福
           (生没年不詳)
           三田尻から引越、造酒屋創業
 ↓
十一代        萩・三浦家より
           村上河内守有信
           (生没年不詳)
           四境ノ役村上河内隊長

 ↓
十二代        村上源太
           (生没年不詳)
           三宮郵便局長・後家業造酒屋・放蕩

 ↓
十三代        村上保一郎
            (生没年不詳)
           教師
 ↓
十四代        長男)村上公一
          (1932~2003)

           次男)村上竹次郎
              教師
             
           三男)村上文朗(現当主)
      
           四男)村上四郎(高橋家へ養子)

 ↓
十五代        村上文朗(村上酒店)


           *村上海賊記念館認識の現在の三島村上当主

             【村上三島記念館発表2016】
               能島村上当主(屋代島)
                 村上文朗(フミオ)
               因島村上当主(東京)
                 村上 典吏子(ノリコ)
               来島村上当主
                 久留島 通則

               【本来は三田尻に移った村上図書家の子孫が能島家当主である】









          
   








    



      





村上海賊の系譜 能島村上図書家 1  

2023年12月27日 14時31分21秒 | 村上海賊の系譜
能島村上図書家とは三島村上の総帥であったとされる能島村上家の系統です。
所謂、本流の中の本流宗家となります。即ち、村上武吉の長嫡男家となります。
次男嫡男家は別途「能島村上一学家」としてUPします。
データベースは村上図書の時代に萩藩に提出した家譜と最期の殿様、村上兼助が
記録した譜録です。紙面の都合上略系譜とします。尚一部他文献より私が加筆しています。


       【能 島 村 上 図  書 家 略 系 譜】

元祖     【村上源氏】
        人王六十二代
        村上天王
       (926.6/2~967.5/25)
 ↓
始祖     二品中務卿
       具平親王
      (964.7/30~1009.8/21)
 ↓  
二代     始賜源氏姓
       源師房
      (1008~1077.3/14)
 ↓
三代     六条右府
       源顕房
      (1037~1094.10/6)
 ↓   
       久我家祖
       久我雅實
      (1059~1127.2/5)
       太政大臣
 ↓
       右大臣
       久我雅定
      (1194~1162.5/24)
 ↓
四代     内大臣
       久我雅通
      (1118~1175.3/21)
 ↓
五代     土御門
       土御門通親
      (1149~1202.10/21)
 ↓
六代     土御門
       土御門通方
      (1189~1239.12/28)

       【通方の兄
           太政大臣
           久我通光
          (1187~1248.1/18)
           の孫が曹洞宗永平寺開山 道元和尚となり1227年南宋より帰國。
           この時持参した観音像が親族北畠家に渡り、北畠後裔に村上家に
           引き継がれたとされます。この観音像は今、能島村上図書家の
           菩提寺龍心寺(元大龍寺)観音堂に秘蔵されています。これが
           本物と鑑定されれば能島村上家は紛れもなく北畠家後裔の証左と
           なります。】
 ↓
七代     北畠祖
       北畠雅家
      (1215~1274.3/27)
       号万里小路
 ↓
八代     権大納言
       北畠師親
      (1241~1315.10/6)
 ↓
九代     権大納言
       北畠師重
      (1270~1322.1/13)

         【師重の弟北畠義宗は
          妾腹故後京都東寺に居住故「東」姓を名乗り後、能島村上家に属す 【周防大島町誌】
          別本は能島の東に住んでいたから「東」名乗るとします。勿論、同族です。】
 ↓
十代     村上家譜初代(屋代村上兼助版) *兼助版は親房を能島村上家初代とします。
       中納言
       北畠親房
      (1293.1~1354.4/7)
       法名 正二位大納言北畠親房林鶯軒
 ↓
十一代    権大納言
       北畠顕家
      (1318 。3/2~延元3-1338 5/22)摂州阿倍野討死 
       法名 源譽院殿阿相前陸奥大樹義運永山大居士

       室藤原資朝女
       法名 観心院殿義操如山大姉 (俗名ヨシ)
 ↓
十二代    顕家嫡村上山城守師清ト改ム
       山城守
       村上師清(初 顕成)
       (1316~1399 8/8)【*年からすると顕家の弟か?信濃系図と相違する。】

                【村上嶋系図は村上義弘の養子とします。
                 また、
                 村上師清は村上義弘の遺児信清を猶子とす。とします】


       法名 清龍院殿延尉忠覚道興大禅定門

       室小笠原信濃守清宗女
       法名 青雲院殿静室貞層操大姉 (俗名サタ)
 ↓
十三代    少輔太郎 山城守
       村上義顕
      (1385~1458 12/28)
       母 小笠原清宗女
       法名 宝性寺殿前上州海上大大樹法庵澄興大居士
       室 河野通直女 実今岡土佐入道女
      (~文明5/6/28)
       法名 玉心院殿湛黙全安大姉 (俗名ヤス)
       上関城築城
 ↓
十四代    少輔太郎 掃部頭 山城守
       村上雅房
      (1430~1515 12/28)・永正12/5/15?85歳
       母 河野通直女 実今岡土佐入道女
       
       法名 海仙寺殿前海将軍賢翁道基大居士
       室 京都住人・桂原相国入道女
      (~亨禄3/11/16)
       法名 智禅院殿清操貞節大姉 (俗名セツ)
      
       【島家系図】
         「村上信清・吉勝親子は雅房へ家督を譲渡」としますので村上義弘の名跡を譲ったことになります。
          *村上義弘は未だ謎の多い歴史上の人物ですが解明の一端が見えます。
 ↓
十五代    少輔大輔 宮内大輔 山城守
       村上隆勝
      (1476~1527 9/3)大栄7年51歳
       母桂浜相国入道女
       室 河野通朝女
       法名 大龍寺殿前城州智山元榮大居士
       室河野通朝女
      (~天文15/4/3)
       法名 海潮院殿深廣湛大姉 (俗名タエ)

       *この人の法名を採って後に村上武吉は菩提寺を「大龍寺」とします。
 ↓
十六代    宮内少輔
       村上義雅・養子
      (~天文15/11/28
       母 河野通朝女
       法名 吉祥院殿鳳山聖瑞大居士
       室 因島新蔵人吉充女
      (~永禄12/7/28)
       法名 見妙院殿清香定悟大姉 (俗名キヨ)
 ↓
十七代    道祖次郎 掃部頭 大和守
       村上武吉
       實、吉忠の子武吉を養子にする。
       太栄6~慶長9(1532~1604.8.22)72才
       法名 大仙寺殿覚甫元正居士
       母 平岡左近将監女
       室 来島右衛門大夫通康一女・妙輪・ムメ
       (~天正14/6/5)
       法名 香厳院殿梅甫妙輪大姉
       後妻来島通康二女・妙三・ハナ
      (~慶長12(1606)/3/11)【元正寺墓有武吉墓後】
       法名 心妙院殿華岳正春禅定尼(墓刻)
       法名 心妙院殿華岳正春大姉・俗名ハナ(家譜)

           『村上海賊の支配する地域』
             【村上元敬文書】
              領地 豫洲沖島 越智 西ノ浦 庄美 下留 脇伏
              麻手 向郡 内方 宮久保 垣生 本庄 鵜和 石川
              比々 八幡 金子 玖津名嶋 怒和島 二神島
              讃州塩飽七島 備中神嶋 右ノ外上は従摂州境浦浜小路
              下は薩摩坊津 五嶋 九嶋 土佐浦戸 予讃備芸
              九十九嶋忽而西国海岸悉全領知番城 関所を茂一族
              家来相守

 ↓
十八代    (小輔五郎) 少輔太郎 掃部介
        村上元吉
       (1552~1600.9.16西の関ケ原松前(マサキ)の戦いで討死)48才
        法名 相玄寺殿実翁宗真居士 【墓・竹原珍海山山腹に討死した家臣たちと共に眠る】
        母後妻 来島通康二女・妙三
        室 小早川隆景公養女
        実 小田刑部信房女・ヒサ
       (~正保4/7/21)
        法名 竿樹院殿久雲貞昌大姉

           【元吉一同予州三津忠死之面々・墓 竹原市珍海山】
             一朝智入信士   馬場 六太夫【15石】
             千山智億信士   團 與一
             大観了圓信士   大塚 大炊助
             越山智州信士   番匠 式部【6石】
             高山忠海信士   馬場 九郎右衛門【15石】
             山翁道海信士   和智 孫兵衛【50石】
             天嵓吹心信士   大島 傳兵衛【20石】
             宗圓利心信士   村上 宗四郎
             寛山元花信士   高橋 半右衛門

        【元吉の弟、村上三郎兵衛景親
        (1557~1610/1/9)53才・源八郎・如真
        は毛利家より別家を許可されるので兄家の分家の扱いではないが、当方は次男家であるので
        便宜上分家とします。こちらは「能島村上一学家」として別途書きます】
 ↓
十九代     掃部介 能登守
        村上勝太郎(才治郎)元武
       (1595~1649/7/17)55歳
        法名 一洞院殿前能州傑舟宗英居士
        母 隆景公養女小田信房女
        室 村上三郎兵衛景親女
        妻 杉社下総元縁女 後妻 野村元次女
        法名 清雲院殿梅岳寿香大姉 (龍心寺村上墓内ホウキョイントウ)
        慶長15年(1610)萩出仕翌年三田尻転居
        慶長16年(1611)田屋を屋代川地へ移転
 ↓
二十代     勝太郎 掃部 内膳 号伯翁
        村上勝太郎就武
       (1611~1694/8/6)83歳
        法名 紫紅院殿一景白翁居士
        母 村上三郎兵衛景親女
        室 内藤左衛門元忠女
        中妻 浦備前守元種女(いとこ)
        後妻 山田九郎左衛門頼房女
        又室 吉見浄意養女
 ↓
         勘解由
         村上吉勝
        (1648~1679/2/6)
         法名天勝院殿貴山紅胤居士
         実元武三男就武為養子
         室毛利内匠就信養女
         実毛利四郎左衛門就常女
         不継家
           【故合って家を継いでいませんから代数にははいりません】
 ↓
二十一代    村上家譜十二代(有欠代)
        主馬 主水 掃部
        村上武真(実)
 ↓
二十二代    初 隆昌 又七 宇右衛門 号雪軒(勘兵衛)
        村上廣親
       (1641~1719/6/23)73才
        実毛利外記就直二男
        室 就武養女 為養子
        法名 廣親院殿梅村雪軒居士
        *相続は勝太郎就武(祖父)からの直接の許可(年号不知6/21日付)
 ↓
二十三代    掃部 図書
        村上元敬
       (1680~1746/12/2)66才
        実 堅田右衛門就宣三男
        養子許可文禄元年正月二十一日
        寛永六年六月十四日父病気に付き組頭交代許可
        室 廣親女中
        (前妻吉敷毛利廣包養女)
        妻 毛利伊豆廣兼養妹
       (後妻 吉敷毛利廣包養女)

        【補注・吉敷毛利系図】
         実 久我内府通誠春日仲義二女
         法名 元敬院殿実山貞松居士

         *この人の時「萩藩閥閲録・同譜録」に提出した。以降一学家と略称される。
 ↓
二十四代    初 武和 内膳 式部 図書
        村上廣武
        (1698~1771/7/17)73才
        室 毛利廣政養女
        実 益田将監廣明女
        母 廣親女
        法名 廣武院殿永嶽了禅居士
        1748年朝鮮通信使水先案内頭
 ↓
二十五代    采女
        村上就顕
       (1732~1772/8/18)35才
        実 榎本三郎兵衛廣時二男
        室 内藤又七養女

        母 廣明女
        法名 禅徳院殿大勇義道居士
 ↓
二十六代    前武卿 亀五郎 式部 図書
        村上親章
       (生没不詳)
        室 内藤求馬女
        室 内藤又七養女 後離別

        母 同廣武女
        法名 親章院殿天山浄錦居士
 ↓
        早世の為代数に入れず
        村上武安
        (生没不詳)
        夭死
        母 内藤求馬女
        法名 獨秀院殿麒芳道鱗居士
 ↓
二十七代    村上織之助房顕
        (生没不詳)
        実 親章二男
        梨田頼母為養子後不縁
        武安病死付帰家
        室 毛利就任女
        母 内藤求馬女
        法名 房顕院殿義山良忠居士
 ↓
二十八代    村上千八郎武顕
       (1805~)
        実 井原熙二男房顕為養子
        室 房顕女
        母 井原求馬女
 ↓
二十九代    むらかみかめのすけこれつね
        村上亀之助惟庸(兼助)
       (1849~1885/5/23)没 屋代自宅
        実 右田毛利房顕二男元顕為養子
        法名 太郎子兼助居士
        室 元顕女実勘兵房顕末女
        法名 天真院殿慈室貞光大姉

        四境ノ役村上亀之助隊長

『幕府の第二次長州征伐・四境ノ役(大島口)で戦った面々』                  
【村上亀之助隊隊員名簿】(軍中日記村上亀之助)

 隊長  村上 亀之助【17才】一手  西屋代川地

 大砲司令 村上 房治郎    家臣
 大砲司令 村上 基之助    家臣
     浅海 勘之助    家臣
     久保田 弥助     西屋代
     森田 林太郎     西屋代中片山
     中元 保吉      西屋代中片山
     竹田 徳左衛門
     横田 弥助      西屋代北方
     近藤 平兵衛
     田中 新九郎     西屋代小田
     田村 国松     小松中田
     石原 好五郎     東屋代畑
     藤村 与左衛門    西屋代下片山  藤村新宅
  已上  右大砲隊 (13名)

 軍鑑  大野 軍記(直共) 家臣 西屋代上片山(大野直毅)
 斥候  東 四郎左衛門   家臣 西屋代羽越
 司令 島 丹治      家臣
 半令  浅井 豊       西屋代川地
 右嚮導   岡沢 市右衛門
 左嚮導   西村 磯右衛門  東屋代吉井
 鼓手    大野 精一(直則) 家臣【19才】 西屋代上片山 子孫(大野直毅)
 鼓手    東 道之進    西屋代羽越
 鼓手    豊原 松寿
 器械方   松井 作右衛門  西屋代石小田
 器械方   今元 直人(直助)【25才】 西屋代中片山 子孫(今元直孝)
       松本 猪助
       谷田部 勇助
       谷崎 松太郎
       川原 茂兵衛   西屋代下片山
       藤光(満)喜八  西屋代中片山 子孫(藤満睦男)
       藤田 栄吉    東屋代神領
       橋本 坂松    西屋代北迫
       藤田 弥兵衛   東屋代神領
       岡本 作右衛門  西屋代羽越
       稲田 政二郎   西屋代小田
       今元 庄之助   東屋代神領 子孫(今元英夫)
       高城 松右衛門  西屋代石小田 子孫(高城 俊)
       小富 春吉
       藤元 孝吉    西屋代川地
       秋元 政太郎
       松本 松次郎
       山本 助右衛門  西屋代石川地
       松井 友吉    西屋代石小田
       絵堂 弥助    西屋代石小田
       中原 兵治    西屋代上片山
       中本 新吉    西屋代中片山
       村田 増蔵    東屋代神領
       西本 吉兵衛
       松岡 善助
       山根 友之進   西屋代中片山
       大原 三松    東屋代
       原田 平蔵    西屋代中田
       岡原 友吉    西屋代中片山
       藤岡 新左衛門  東屋代神領
       光月 米吉    東屋代神領 子孫(光月勝志)
       中元 友蔵    西屋代中片山
       岡本 新太郎   西屋代羽越?
    已上  右一番小隊 (44名)

 軍鑑(監)  島 左中
 斥候     浅海 謙輔
 司令     浅海 務
 半令     田頭 文吾
 右嚮導    石崎 利源太
 左嚮導    岸田 信吉
       富田 素衛    西屋代砂田
       小田 隼太
       俊成 久馬
       西村 好松
       俊成 兵助
       田坂 鉄之助
       堀 兼五郎
       小泉 伝九郎
       平尾 源治郎
       水野 林左衛門
       小田 唯一    西屋代
       富田 忠吉    西屋代砂田
       平尾 賢治
       安栄 彦太郎
       藤田 勇記
       岸田 清治
       小谷 林吉
       片岡 七蔵
       小田 重平
       中浜 勇治
       村田 新吉
       大野 秀三郎    西屋代
       田中 清右衛門
       山本 新太
   已上  右二番小隊 (30名)

       河村 章之助    西屋代
       藤崎 小治郎
       富田 忠右衛門   西屋代
       西崎 五左衛門
       小田 弥助
       小島 庄左衛門
       島本 新太郎    西屋代
       松浦 謙蔵
       中元 千代吉
       小田 松右衛門
       光井 五郎丸
       浜田 伝兵衛
   已上  右半小隊 (12名)
                                            
    隊長  田坂 文右衛門
       櫛部 甚右衛門
       青山 伝松
       木村 弥一    西屋代北迫
       川尾 与一
       桑原 寅松
       桑原 藤三郎
       浜松 初五郎
       平崎 三之助
       松原 伊勢松
       近藤 若松
       中村 新次郎
       荒瀬 市右衛門
       吉岡 久松
       中西 忠六
       横山 光右衛門  東屋代
       角本 長太郎
       山崎 富治
       瀬川 清五郎
       竹本 仲次
       宮本 三八
       松本 清左衛門  西屋代
       奥田 源右衛門
       安藤 富次
       高野 清右衛門
       永岡 重助
   已上  右狙撃三番銃隊 (26名)

   隊長  古跡 又一
       馬野 勇左衛門
       宮崎 善太郎
       川口 勘蔵
       桑原 重吉
       橋本 惣右衛門  西屋代
       田辺 清吉
       野村 彦蔵
       西村 与吉
       西川 佐市
       西田 房吉
       谷村 和助
       岡山 甚助
       原田 与一
       松島 甚右衛門
       大沼 森蔵
       東藤 富五郎
       黒川 三右衛門
       荒瀬 由五郎
       小西 勇五郎
       梅田 辰五郎
       池田 九郎平
       岡崎 与一
       田村 末五郎
       岡原 庄吉
       西本 新吉
   已上  右狙撃四番銃隊 (26名)

   隊長   島 唱人
       吉井 吉治
       宮崎 弥之助
       宮本 静右衛門
       高野 岩松
       川上 吉郎右衛門
       永見 忠三郎
       古元 初五郎
       国元 由五郎
       小池 千代蔵
       藤井 虎吉
       佐藤 惣五郎
       鎌田 勇吉
       宮尾 才次
  円藤 富次
       奥部 吉右衛門
       吉村 吉兵衛
       村江 庄吉
       川村 角助
       秋元 京吉
       中津 惣助
       中本 庄兵衛
       岡村 彦助
       月江 菊蔵
       中本 猶吉
   已上  右狙撃五番銃隊 (26名)
   以上、村上亀之助隊合計 178名
   追加
       木原 首令
       石原 与右衛門
       山根 民平
       古跡 又一
       中津 惣助
       中原 兵治
      (小者) 兵左衛門
            已上

 ↓
        早世の為代数に入れず。
        村上岩槌
       (生没不詳)
        早世
        法名 太玄院
 ↓
三十代     村上藤枝
        (明治9/10/10~)
        実 毛利藤内長子
        (右田毛利藤内親信次男
        明治26年養子届
        明治27年嗣子上願聞届
        室 三浦勝一三女
        兼助没後三田尻新宅へ移る
 ↓
三十一代    村上顕親


 ↓
以下不詳

      【家紋は正紋として北畠家の家紋を踏襲します。有名な〇上紋は略紋として使用します】


     
















   






















  


 村上海賊の系譜

2023年12月27日 06時34分31秒 | 村上海賊の系譜
周防大島と村上海賊は切っても切れない関係にありますね。
諸説ありますが村上海賊の系譜を見てみましょう。
ここでは村上天皇流能島村上家の宗家をとりあげます。

村上海賊は大きく分けて,①村上天皇流と②清和源氏流と③まったく瀬戸内海の漁民(ムラグミ)が組織化されただけ
の集団(民族学者・宮本常氏一主張)等に分かれます。
また時期的に「前期村上時代」と「後期村上時代」とに分けてその関連性は不明とする説もあります。

基本的に歴史は人間が繋いできた過程を記したものですから、エヴィデンスとすれば一つでしょう。
ただ、一次史料極少なので類推歴史書が多いのも事実ですね。

系譜や系図はそれそれの家が伝承してきたものですから、同じ系譜でも書かれた時期により異動が生じます。
また、古くなった同じ家の系譜でもその書き写す時の人の性格とその時代の常識が反映されるのと、前の系譜の
都合の悪い部分の削除やたいした功績でもなかったものを大功績のように脚色されたものも多いですね。
これらの場合、同時代の一次史料と比較検討して真贋を見極めるしかないでしょうね。

同様に書き写す時の間違いで多いのは

①単純な脱落、不要な加筆。

②原本は崩し字、悪筆も多いので転写違いも多く発生します。

③不必要な加筆で多いのは、新たに「〇〇によると」として真贋不明記事を取り入れることです。
 特に、「流布本」や「軍記物」は当時の読み物として「面白く脚色作成」されていますので要注意ですね。
 次に多いのは、転写時期から計算して違う元号を使用したり、転写時期の地名や用語を使用したミスですね。
 元号でミスが多いのは改元を正確に認識していない場合ですね。時に一時史料の引用で元号が違うと致命的
 です。情報の時差がありますので改元より後まで旧元号を使用している場合はある程度許容されますが、
 その逆はあり得ませんので嘘となります。

 また、次に多い間違いは地名のミスです。たとえば、今治、松山、大洲は江戸期以降の地名ですのでそれ以前時期の
 地名ではありません。また水軍や藩と云う単語は明治以降に使われ始めた単語ですので、本来は「海賊」や「家中」
 と使われています。今治の村上水軍記念館が「村上海賊の娘」が流行ったので村上海賊記念館に改称しましたが
 元々間違っていただけですね。また海賊と警固衆とは似ていますが違います。
 宮本常一氏によれば警固衆はそれぞれの殿様に属して水軍機能を有していますが、舟子(カコ)と戦闘員は別々で
 機能していたとします。これに対し瀬戸内海賊は舟子かた船頭まで操船と戦闘を両方操る人とされます。

 海賊の子孫と伊予河野家子孫らは「海賊」と呼ばれることを今でも嫌がります。
 よって「村上水軍」とか「河野水軍」とかに表現します。
 「海賊」のかっぱらい及び殺人のイメージが嫌なのでしょう。
 でも村上海賊の総帥、村上武吉の時代で初めて「かっぱらいと人殺し」禁止を通知しましたのでそれまでは
 それまでは海賊行為もしていました。「河野分限帳」も水軍ではなく海賊と記します。

④周防大島が生んだ民族学者、宮本常一氏は日本全国の現地に足を運び、古老の声や現地の史料を猟収してレポート
 を書いています。中央政府が作成した「正史」の見直しも行っています。
 ある意味、「古事記」と「日本書紀」の違いをみるようですね。

上記勘案して私がUPする「家譜・系図」を見てもらえれば幸いです。

小松町誌  昭和11年発行 19

2023年12月25日 00時33分31秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】

昭和11年発行 【小松町誌】

       【社 寺 教 会】

   (六) 寺  院

【四 福 寺】
  真言宗醍醐派で大字小松字北町にあり。本尊は地蔵菩薩である。
  明治二十一年十一月下関市伊崎町より同所に移されたものである。

【称 念 寺】
  浄土宗で大字小松字南町にあり、本尊は阿弥陀如来である。
  明治六年十二月玖珂郡より同所に移されたもので、本寺は実相院である。
  明治十一年八月改称されたるもの。

【妙 善 寺】
  真宗で大字小松字石丸にあり、本尊は阿弥陀如来である。
  往時真言宗光照寺古跡に天正十八年八月再興、寛永十二年正月改宗改號さる。
  
【淨 蓮 寺】
  真宗で大字小松字石丸にあり、本尊は阿弥陀佛方便法身である。
  寛永元年七月寺號公称さる。

【雲 蓋 寺】
  黄檗宗で大字志佐字砂堀にあり。本尊は観世音菩薩である。
  明治三十七年三月玖珂郡由宇より同所に移されたものである。

【長 命 寺】
  真言宗で大字開作金屋町にあり。本尊は薬師如来である。
  明治三年熊毛郡室津より同所に移されたものである。

【東 光 寺 観 音 堂】
  黄檗宗で萩東光寺受持観音堂は大字小松磯崎にあり。「手書追加」


    (七) 教 会

【天 理 教 会】
  字中田にあり。

【金 光 教 会】
  字中田にあり。

【太 山 寺 教 会 所】
  字志佐にあり。


 源三・注)多くの寺が明治中期に他所から移されてきたとするので不思議に思われる方もいらっしゃると
      思いますが、これは江戸時代から続く名刹が明治初期の政府の「廃仏毀釈」の大号令の許に
      廃寺となった寺が多く、行き場を失った多くの檀徒が寺再興の運動を起こし、廃寺をそのまま
      再興は成らなかったが他所の廃寺を引寺することは許されたもので、本寺にお金を払い、本尊と
      寺号を譲り受けたものが大半である。萩藩作成の「防長寺社由来」に載る多くの寺が廃仏毀釈に会い
      明治初期に廃寺となっています。これは明治新政府の「守旧派」排除の一環で寺院は江戸期は庶民
      の戸籍管理(人別帳)やパスポート管理(道中手形発行)等の役割を担っており今の役場の機能
      も担っていました。また大寺院の構えは城もどきもあり、信仰と反乱の拠点となるのを憂いた
      からとされます。寺の住職への命令権は当時庄屋に在りましたので、同時に庄屋が跳ね上がらない
      ように、大区小区時代は戸長に新政府は任命し、財政基盤確立のため不動産財産を確定させ(地券発行)
      地税(固定資産税)徴収制度を確立させ、徴兵制度の基本データ整備のため、戸籍編纂(壬申戸籍)
      作成を命じ(太政官布告)、新政府の末端行政府の首長に取り込み明治新政府の基盤を固めて
      いきました。戸長は後に選挙による村長と変化していきました。ただまだ選挙権はまだ多額の
      税金が払える人に限られ、貧乏人と女性にはありませんでした。
      

小松町誌  昭和11年発行 18

2023年12月24日 08時41分52秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌】

       【社 寺 教 会】

   (3) 村社 笠佐八幡宮

 小松町に属する笠佐島に鎮座する神社で、祭神は応神天皇、神功皇后の二座、それと田心姫命、瑞津姫命、
市杵島姫命が合祀されている。本社は寛永六年(1629)、山城國男山八幡宮より霊を迎えて勧請されたもの
で、明治六年十月村社に列せらる。

 源三・注)江戸期の早い時期の笠佐島に集団で島民が住んでいた証ともなります。
      ただ、般若姫伝説では、大分から都に上る、般若姫に島民が笠を捧げたとするエピソードから
      笠捧島とされ後に訛り、笠佐島とするとします。
      般若姫の一行は暴風雨に逢い、小松瀬戸で遭難とされます。後に勅使が下され、大畠の鳴門明神
      に般若姫を祀るとします。地元では般若寺の方が有名ですね。
      大島郡の多くの八幡様が八幡総社の宇佐八幡宮からの分社が多い中で、男山八幡宮からの分祀は
      珍しいですね。ちなみに男山八幡宮は宇佐八幡宮からの分祀で、鎌倉の鶴岡八幡は男山八幡の
      分祀となりますので、宇佐からすれば孫社ですね。宇佐八幡宮は古くは天皇家の崇敬を集めていた
      第一社でしたが、いつの間にか伊勢神宮にとって代わられたとされます。元寇の時代は男山八幡の
      人気が高く、武家社会が始まった鎌倉時代からは鶴岡八幡宮が人気となりました。


   (4)大多麻根神社

 小松瀬戸にあり、祭神は大多麻流別、合殿豊玉彦命、豊多麻姫命、鹽土老翁なり。合殿の三神は海神として
知られている。
同社の創建年代は詳らかではないが、大島郡最古の社であり且つ由緒深きものとして知られている。初め
一宮大明神と称えていたが、明治三年八月大多麻根神社と改称、同十二年五月村社に列せられたもので
その伝記に左の如く記されていた。

  『本社一宮明神者 大島初發の祭神にして往昔者 大玉根神社と申し小富士(一名・飯の山)之嶺に
   奉斎、島根明神とも称え本島一の宮にて国主より御再建相成り今は一の宮大明神と奉称也
   大島瀬戸は日本二ケ所の難海にて往来の船舶難破多し、因茲海神、豊玉彦命、豊玉姫命、鹽土老翁
   おも合祀して、飯の山の裾、今古明神という所に移傳し、後に至りて此の地に遷座也』

  【顕頌提議】 以上の如く同社は大島郡最古の神社であり、大島郡の総鎮守であるにも拘わらず、
   現在社殿腐朽して神威を汚すの感あるというので昭和十一年、大島郡教育界並びに大島郡教員會
   主唱となって同社顕頌の提議がされ、関係有志の会合が催された。この案は近き将来に具体化する
   ものと見られている。

 源三・注)大多麻根神社祭神の大多麻流別は大島國造と伝えられますので、少なくても大化改新(645)
      以前の地方豪族と思われますので大島郡最古の神社と思われます、これに対し、大島最古と
      される。屋代の志度石神社もありますがこちらも推古天皇(554~628)を合祀しますので
      どちらが最古か不明ですが、北辰妙見宮(志度石神社由来)は大島開闢の祖人大多麻流別命
      を先神とするので大多麻根神社が最古となります。
      一部の書に志駄石八幡宮も先社の氷見神社が大島郡最古とする説がありますが、氷見神社は
      宇佐八幡宮創建(725年)の翌年に分祀したとされますので後となりますね。

      後世の物語と思われる「般若姫伝説」では毎年、旧暦の大晦日の丑三つ時に大島瀬戸(現在
      の灯台辺り)から火の玉が立ち上り、大多麻根神社の松の木で休憩した後、火の玉は三つに
      分かれ、一つは三蒲の松尾寺、一つは大畠の鳴門神社、もう一つは室津半島の般若寺に飛んで
      いくとされます。
      (お暇な方は来年の旧暦大晦日「新暦一月二十二日」に大島大橋の袂でお待ち下さい!(笑)


   (5)新宮神社

 小松大字志佐にあり、祭神は大己貴命、天照皇大神、素戔嗚尊の三座である。本社は永禄四年(1561)
に熊野新宮社より勧請されたものである。永禄四年、同社御根帳入り願出の書類の中に左の如き一節がある。

  『天和上癸亥年、海鼠賑数田に差し入り、作り立ての五穀を喰い荒らすこと少なからず、地下中之を
   愁ひ(中略)神宮社五か年に一度宛、太神楽執行仕るべく願仕候へば忽ち鼠退散仕候由(中略)、
   またまた宝永五年(1708)の秋、彼の鼠、前の如く海より上がり、一両日のうちに五穀食い荒らされ
   候に付き、早速、御祈祷仕候へば、又々、鼠不日退散仕候、それ以来、今もって五年に一度宛
   御祈祷怠らず執行仕来り申候』

 源三・注)昭和三十年代くらいまでは,志佐地区あげて新宮祭をしていましたね。
      その時、新宮小唄を唱えながら参拝しました。
  
      ♪ 志佐の新宮さんに団子あげたら  団子いやいや 餅が好き ♪