山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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大龍寺(現龍心寺)歴代住職

2024年01月01日 14時40分27秒 | 能島村上家菩提寺 大龍寺(龍心寺)
以前、ある人を通して、大龍寺歴代住職一覧を、現在の住職、渡辺和尚様から
頂戴した。

下記の通りである。【 】内は他の文書を出典とする筆者の加筆である。

【海印山 龍心寺(元大龍寺)歴代大和尚】

 開山            海應玄巨 大和尚

 二世 中興        易應等周 大和尚
【周高カ?  慶長十三年和田良禅寺屋敷跡へ移る】

 三世            揚雲永播 大和尚

【元正寺建立ス 住職周高(大野兵庫直政弟・峯雲周高禅師)
 元和八年和田村大龍寺住持揚雲の時片山極楽寺屋敷引移

寛永十二年焼失し宝物旧記本尊悉皆焼失、寛永二十年同村
石井二尊院屋敷に建立】

 四世            雄山玄英 大和尚

 五世            禅室傳宗 大和尚
【慶安二年一洞院葬式の堂主・久国天良和尚(檀徒大野直政三男)伊予大野家末裔】

 六世            一玄警察 大和尚

 七世            閑鷗守澤 大和尚

 八世            大泉高徹 大和尚
【・大泉出家防州大龍寺現住「伊予・上川村大野系図」
(伊予・太田上川村大野直棟の妹(林 宗益 室の息)】

 九世            密旨黙穏 大和尚
【・黙穏密日大和尚禅師(屋代大野直嘉の子)

  大龍寺九世住職 延享二年(1745)
  令隠居 極楽寺ニ居ル 】

 十世            牧巖喜運 大和尚

・天沢喜運大和尚禅師  ・大竜寺住職
 【大野直房妹オショク(嶋伝左衛門妻)の孫、深広寺防守の息 】「村上嶋家」

十一世            文山普明 大和尚

十二世            玄師密山 大和尚

十三世            蘭庭台秀 大和尚

十四世            大活點龍 大和尚

十五世            崑外珠山 大和尚

十六世            五雲龍峯 大和尚
               【防長風土注進案】提出者 】

十七世            雲峯玄龍 大和尚

十八世            雄峯玄英 大和尚
 
十九世 再中興        訓山玄彝 大和尚

二十世            大賢哲雄 大和尚

二十一世           守拙徳温 大和尚

二十二世           渡辺昭治  現住

『防長風土注進案」に於ける大龍寺

2022年07月24日 14時00分09秒 | 能島村上家菩提寺 大龍寺(龍心寺)
先の「大龍寺 大野是水文書」から下がること百余年、藩に提出した、寺社由来
は下記の通りである。


【防長風土注進案】 大島宰判下 屋代村廿三

禅宗海印山大龍寺          石井小田村ニ有之
  本堂  桁行六間半 梁行六間 上屋茅葺
  庫裏  桁行七間半 梁行五間 上屋同断
  向拝  桁行弐間 梁行壱間半 上屋瓦葺
  釣屋  桁行三間 梁行壱間 上屋同断
  釣鐘堂 桁行壱間 梁行同断 上屋瓦葺


本山  越前国永平寺、中本山都濃郡長穂村龍文寺
末寺ニ而御座候、往古村上図書殿先祖能嶋在城之時
より海印寺と称え、代々為菩提と村上大和守武吉能嶋
より當御国芸州と引移相成候ニ付 開基の年號世代之
法名等相知不申候、至當御国は初而内ノ入村今之
元正寺屋敷ニ移之、能嶋以来之寺號を以称海印寺、
寺領弐拾石武吉寄付ス長穂之龍文寺十世海翁玄巨
和尚ヲ請待し為開山、元亀年中武吉祖父村上山城守
隆勝戒名大龍寺殿智山元栄大居士と號ス、其後八代村
片山之内極楽寺屋敷江引移り、寶物舊記本尊ニ至迄
悉焼失仕候ニ付石井之内二尊院屋敷江建立ト〆抱ニ
有之観世音菩薩ヲ移シ暫く本院之本尊トス、
其後元禄年中耕雲住職之内、釈迦如来之尊像求得
本院之本尊とス、観音菩薩ハ如先規立像安置之、
是即寺内之観音堂也、開基海翁玄巨より現住五雲
龍法迄十六世而御座候事


 本尊  華厳釈迦如来   木刻立像  長壱尺八寸
 侍立  大權菩薩      木刻坐像  長壱尺八寸
      達磨大師       同


一、本堂庫裏共立替取繕葺替等之節ハ村上筑後
  殿より御調相成来候事
一、寺領田数三畝拾壱歩  米九斗弐升五合
一、同断畠数八畝弐拾歩  米弐斗三升
一、高除弐拾石   但村上筑後殿より御除ニ而御座候
一、境内御除山林  五反六畝
一、檀家  六拾四軒
一、末寺五ケ寺
一ケ寺     屋代村 光恩寺
一ケ寺     三蒲村 浄本寺
一ケ寺     平郡嶋 海蔵院
一ケ寺     内ノ入 正元寺
一ケ寺  豫州松山豊岡村 雲門寺

大龍寺が屋代片山、極楽寺跡に移傳したのが、元和八年(1622)とされ、焼失したのが寛永十二年(1635)であり、現石井の二尊院跡に移転再建されたのが寛永二十年(1643)とされます。約8年間は寺がない状態となり
ますが、この期間は極楽寺がただちに小庵規模で再建されそこで法事がなされていたと考えられます。

極楽寺がどこにあったか、長年不明でしたが、屋代村片山に寺山と云う地名があり、ここには長年「焼き場」
と呼ばれる野焼きの火葬場があり、そこから下ったところに、現在も龍心寺が管理する墓所があり、その
墓所の下の今は雑草が茂っていますが、ほんの蜜柑畑一枚程度の小さい所に極楽寺がありました。

蜜柑畑一枚程度ですから現在の町の小字(ホノギ)にも残っていませんが、幕末の庄屋の土地台帳に
残っているのをようやく見つけました。この場所から、村上家の屋代田屋まで歩いてもすぐです。