山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

大島の鰻(うなぎ)

2022年07月22日 07時06分31秒 | 周防大島今昔物語
都会では鰻は高級食材で、養殖が出来ないので庶民には高嶺の花となりましたね。
大阪では鰻はまむしと云うおどろおどろしい名前です。

関東では利根川が鰻の産地でしたので、その流れを組む成田山道ではうなぎ料理は
有名ですね。
しかしうなぎ専門の「川豊」さんでも「上」で3700円もしますので、西洋残飯チェーン
と揶揄される「マグドナルド」「ミスド」のような感じでは入店できません。

昔、は大島には、川、溜池、田圃に鰻はいました、

溜池は溜池さらいの時に大量に捕まえらえましたが、泥臭くて泥臭くて、たらいで
一週間ぐらい泥抜きをしないととても食べられません。
それでも臭くうまくありません。

川は水がキレイなので、川鰻はすぐ食べても美味しかったです。

ただ、川鰻を捕まえるのが大変で、一般的には「鰻籠」を一晩沈めて、蛸壺のように
取る方法と、石垣の間の鰻の巣らしいところにみみずを餌に鰻釣りをする方法が
大島では主流だったと記憶します。

どちらも餌はみみずです。

近頃の子はみみずが気持ち悪くて触れませんが、昔はそんな事を言っていたら鰻はもちろん
鯉も鮒も釣れませんから、ミミズの奪い合いをしていました。
ただし、大きな縞のある山ミミズは小便をするとチンチンが腫れあがりますので
敬遠します。

鰻籠が一番とれるのですが、早起き合戦になります。

鰻籠は前夕にミミズをたっぷり入れた籠(鰻が一旦入れば出れない構造)を
川に沈めますが、籠が流れないように近くの草木に紐で結びますので、
鰻籠があることは他人でも分かりますから、朝4時くらいから漁るひとは
他人の籠まで揚げていきますから、朝5時起きではもう取られてしまっています。

狭い、部落(地区)ですから誰が犯人か分かりますが、現行犯ではないので
文句が言えません。

私の籠を揚げて横取りしていたのは、同級生のS君です。

思い出すと腹が立ちます。

現在ではどちらも「ヨイヨイ」です。

大島ではアナゴは簡単ですが、地下の川の鰻はお目にかかれません。

クボタ耕運機と牛

2022年07月22日 07時04分42秒 | 周防大島今昔物語
農耕器具はかっては、クボタとイセキ、ヤンマーの熾烈な戦いの中にあったと思います。

近頃は三菱農機もあるみたいですね。私はよく知りません。

昭和30年代は大島の農耕の主役は牛でした。

田圃のある家は何処にも牛を飼っていました。
何故か牛小屋の隣は「ダイガラバ」でどの家もワンパターンでした。

牛はおとなしく、尻に悪さをしなければ暴れません。
牛小屋の入り口に横棒一本で締めきれました。
ただ、食欲は旺盛で、藁と糠と青葉を「押切」で切ってたっぷり毎日与えなくてはならない
ので「藁小屋」が隣にありました。藁も秋の刈りたての頃は美味しいのか食欲旺盛ですが、
青めが無くなると食欲が落ちるので、高級な糠を補填します。

現在は糠は産業廃棄物として捨てられますが、昔は精米した時は糠もすべて持ち帰り
牛の餌かヌカズケに使用しました。

牛はとても可愛い動物です。

家族の認識はありますので、自分に優しい人間にはおとなしいですが、優しくない
人間には攻撃します。

牛の目はつぶらで可愛いです。

牛に優しい人が近づくと「とろ~ん」とした目をしています。
逆に気に入らない人が近づくと「烈火」のような目になります。

兄弟でも、兄には烈火、弟にはとろ~ん、とした状態も起こります。

優しく顔を撫でると、牛は愛情表現で長い舌でベロベロと手をなめます。
牛の舌はさらざらしていて、舐められるとやすりで撫でられる気がします。

今は「牛たん」として喜ばれています。

さて、話を元に戻しましょう。

昭和30~40代に農機具メーカーは耕運機なるものを売だしました。

耕運機の最大の敵は、牛と馬でした。

牛馬は毎日餌の世話と12畳近い小屋が必要ですが、耕運機は二畳程度のスペース
と毎日の世話は要りません。

そこでクボタは耕運機を売る時に下取り割引をしました。

下取りの対象は「牛馬」でした。

新耕運機を納品したクボタ社員は牛を引っ張って帰りました。(笑)

同業者も同じことをしたのでしょう。

元々クボタ工業は土管が主力の大手ですが、現在では小型農耕器具のトップです。

井関(イセキ)が少し元気がありません。三菱農機はイマイチですね。

天気予報のヤンマーは海に進出していますね。

それにしても牛の下取り割引は「クボタ」ならです。

ブランド入りの帽子を配るのも良いですね。(笑)

メダカが帰ってきた

2022年07月22日 07時03分19秒 | 周防大島今昔物語
今は昔 ウジャウジャいたメダカはいつの間にか消えてしまっていた。

先ごろ、ふと田の水路をみると、数匹のメダカが泳いでいた。

嗚呼、メダカが帰ってきたのだなと感慨もひとしおであった。
数匹取って、庭の大鉢にいれて繁殖を楽しみにしている。

ドジョウはまだ春でも見当たらない。

畔の土手破りのオケラも見当たらない。

蛇が黒い

2022年07月22日 07時02分13秒 | 周防大島今昔物語
寒くなってきたからか、蛇が少なくなった。

先月までは暖かかったからか蛇がまだウロウロしていた。
どうも我が家には、庭を根城にした蛇が二匹いる。

青大将と思っていて放っていたが、どうも異常に黒い。
ハミ(マムシ)とも違う。
東日本生息のヤマカカシに似ている。
とすれば、毒蛇である。
今度見つけたら、退治しないと危ない。
何故か、庭を多くのカエルがウロウロしている。
これを狙っているらしい。

昔はこんな光景はなかったのだが。

魚も釣れない

2022年07月22日 07時01分16秒 | 周防大島今昔物語
今は昔、大島郡のどこでも魚は釣れました。

「イリコ」の原料の小鰯は情島周辺を主な漁場としていましたが、大島郡周辺
ではどこでも取れました。

素人が晩のオカズに居る程度の小魚はどこでも釣れました。

誰でも釣れるのが磯釣り、少し大物を狙うのが波止釣り、大物を狙うのが、沖釣り
でした。沖釣りは勿論、舟が必要です。

海の底が、砂場か、砂と海藻の交じり場か、岩場かにより、魚種が代わりますし
釣るテクニックも変わります。

また、浅瀬か深瀬かで魚種と釣り具、餌、テクニックが変ります。

現在のルアーとか撒き餌漁法とか、はありませんでした。

磯釣りは竿で、船釣りは手釣りでした。

潮目は一番大切で、大潮、小潮、などは漁用のカレンダーを見て、行く場所と
餌を変えていました。

何故か、大雨が降って潮が濁っている河口はプランクトンが流れてくるのか
いつもと違い色んな魚種が釣れるのも不思議でした。

我が家には舟がないので、小学生時代は同級生の漁師の子の同級生に、親が出漁中に
残っている伝馬船を勝手にだして沖釣りを楽しんでいましたが、親に見つかり
しばきまくられ(叩かれる)ました。しかし中学生になったら、餌(小エビ)と
燃料の重油を持参すれば発動船(エンジン付)を貸してくれました。

伝馬船は手漕ぎですから、半径500M程度の沖にしか行けませんがエンジン付きなら
10K程度はOKでした。ただ、玄人漁民の漁場に入ると、子供は漁協に追い出されました。

平郡沖は最高の漁場でしたが、行くのも釣るのも大変でした。
もっとも中学一年生程度釣りでは多寡がしれてます。
重油は開作のアポロ石油(出光興産給油所)を3L程度しか買えませんので
遠出はできませんでした。餌の生き海老は志佐で買いました。
全部で150円以内にしないと、小遣いが赤字となりますので、必死でした。

高校時代は沖浦の同級生の家に小舟があったのでいつもおねだりして行っていました。
この友人は会計の仕事を東京でしていましたが、年なので故郷に帰り悠々自適です。
「暇なのだから釣り舟買って、私と遊んで!」と懇願していますが、船舶免許が要るだの
係船の港の許可を取るのに漁協と交渉するのが面倒などとして「アッカンベー」状態です。
暇つぶしに現在、周防大島町の会計監査をしていますが、そんなの辞めて釣り舟の大将に
なって欲しいと願っていますが。もう身体が動かないかも。はあ~

大学進学で東京へ行ってからは釣りはできなくなりました。

近頃帰ると全く釣れないとのこと。

いつも行っていた鮮魚店はすべて閉店しました。

現在地物が要る場合は、大畠の橋のたもとのセンターでの短時間の売り屋か、
大畠の柳井側と岩国側の鮮魚店しかありません。

これらは地物で物はよいですが、値段も素晴らしい。

リーズナブルの値段で買おうとすれば、室津の道の駅までいかねばなりませんが、
朝早くいかないと昼過ぎは残り物になります。ここの蛸はいい!
「いもゆう」はいませんかと問えば「そんもん、もうとれん」とのこと。
「いもゆう(ハゼ)」のセゴシは旨いが作れない。

この道の駅で弁当を万引きして、光に向かう途中で逮捕されたのが、一時ニュース
を賑やかにした、大島の道の駅でわらじを脱いでいた人ですね。

ともあれ今の大島周辺は魚が釣れない。

水温が1.5度上がったのが原因とされます。
今は千葉県房総沖にも熱帯魚が沢山います。
そのうち福島県沖にも現れるでしょう。

余談ですが、魚釣りが好きな人は「短気」な人が多いとされます。
短気な人ほど「あと一分待てば釣れる」と延々辛抱強く糸をたれます。
気の長い人は釣れないとすぐ飽きて、だらだら話をし始めたり、飲食を始めます。

釣は麻雀と同じく個人の性格が分かりますね(笑)