山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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昭和31年比国残留日本兵、母国へ帰還す 3.

2023年11月06日 07時40分16秒 | 比国残留日本兵帰国の記録
資料1の日本大使館呼びかけ文、資料2.の残留日本兵手記、は山下汽船山萩丸内でガリ板刷りされた
ものと思われます。当時の紙としては高級紙が使われています。多分、パーサー(事務長)あたり
が作成したものと思われます。同梱資料にザラ紙にガリ板印刷した山萩丸乗組員の名簿がありました。
多分、この人たちが一緒に日本まで送って来たものと思われます。UPしましょう。
住所は一部カットしてあります。

No.  職位    氏名      生年月日    帰省地

 1.  船長    國納 音吉    T5.9.30.    富山県氷見市
 2.   一航   西田 成一    T14.12.18    福岡市西高宮
 3.   二航   青木 進     S5.3.11.     長野県松代町
 4.   三航   城戸 恒夫    S8.12.20.    東京都大田区
 5.  機関長   今元 直助    T5.9.21.     山口県大島町
 6.   一機   北岡 光義    T10.6.5     香川県詫間町
 7.   二機   柏木 敏郎    T14.6.27.    神戸市東灘区
 8.   三機   原田 享明    S7.9.23     神戸市灘区
 9.   一通   斎藤 好之    T11.4.15.    広島市舟入川口町
10.   二通   樋口 和夫    S3.2.28.     大分県別府市
11.   三通   佐藤 巌夫    S7.5.18.     宮城県仙台市
12.  事務長   末藤 正剛    S2.3.20.     福岡県大牟田市
13.   甲長   河岡 政夫    M45.1.13.    広島縣尾道市
14.   船医   上野 十郎    S6.2.22.     山口県大津郡
15.   甲庫   寺田 政木    M40.4.19     大分県豊後高田市
16.   舵手   岸田 文男    S4.1.19.     兵庫県明石市
17.   舵手   原  末吉    S3.7.24     島根県松江市
18.   舵手   野田 輝隆    S3.10.15.    広島縣福山市
19.   舵手   岡本 省三    S4.2.5      石川縣富来町
20.   甲員   服部 昌幸    S4.2.14.     島根県黒木村
21.   甲員   長 喜代司    S5.9.27.     新潟県村上市
22.   甲員   上田 保郎    S7.1.22.     福岡県八幡市
23.   甲員   鈴木 勝利    S12.11.9.     新潟県村上市
24.   甲員   中野 進     S11.9.17.     岡山県玉野市
25.   甲員   森田 京介    S10.7.19.      熊本県天草郡
26.   甲員   服部 光男    S13.7.18     石川県富来町
27.   甲員   岡崎 外吉    S14.4.9.     石川県志賀町
28.   操長   松村 藤太郎   M43.9.15     石川県塩屋村
29.   機手   田口 晴己    T.4.7.10.     長崎市西北町
30.   機手   紺野  盛    S2.1.10      福島県相馬市
31.   缶手   萩  昭司    S2.3.5      福島県田倉町
32.   缶手   渡部 朝七    S4.7.25.     岐阜県安八村
33.   機員   林田 牧夫    S3.2.15.     長崎県加津左町
34.   機員   小野 久男    S3.4.10.     静岡県積志村
35.   機員   松岡 峯男    S8.11.3.     香川県詫摩町
36.   機員   橋本 貞夫    S12.6.9.     広島市大須町
37.   機員   不破 清夫    S13.1.12.     石川県富来町
38.   機員   江原 美次    S11.10.9.     岡山県久世町
39.   司長   松尾 佐吉    T.3.3.11.     広島縣尾道市
40.   調員   三浦 義男    S2.4.27.     広島縣三高村
41.   調員   西浦 八郎    S5.7.25     岡山県久世町
42.   司員   藤田 吉明    S8.11.5.     石川県富来町
43.   司員   松岡 久男    S9.9.3.     岡山県久世町
44.   通訳   永山 貢     T4.12.22.    茨城県下妻市

 総員 四十四名   

 

昭和31年比国残留日本兵、母国へ帰還す 2.

2023年11月05日 15時48分29秒 | 比国残留日本兵帰国の記録
 在フィリピン日本大使館の一等書記官の必死の呼びかけに応じて四名の残留日本兵が投降に
応じて下山しました。五十数名以上と確認された日本人で下山したのは四名だけでした。
他の人は、後に下山したのか、病死したのか、もしくは現地妻との家族との生活を送ったのか
分かりません。

 投降した四人がにほんに帰る貨物船 山萩丸(山下汽船・現商船三井)内で書き残した手記が
船内でガリ板刷りにされ乗組員だけに配布されたもようです。貨物船と言っても定期客船の無い
航路は2~3部屋の客室があり便乗の形で乗ることはできました。政府の依頼でしょうから山下
汽船も最大級のもてなしをし、乗組員の大部分も太平洋戦争に駆り出された人たちですから戦友を
故国に送り届ける任務に興奮したことでしょう。

  【比国残留日本兵たちの手記】      ( 山下汽船 山萩丸船内に於いて)

     『 孤 籠 手 記 』

 ミンドロ島「サンホセ」飛行場の攻撃の命を受け、同島「カラパン」に到着したのは昭和二十年
元朝であった。未明より探索する敵機の為、舟艇三隻に便乗した同志は同地に仮泊する事も出来ず
上陸潜伏した時には、初日は早や海岸の椰子林を越して晴れた東の空に揚がっていた。
「お正月どころではない」 戦闘配備、駐屯部隊への連絡、此処に於いて幡谷中将以下百三十名の
攻撃中隊は編成された。

 「コラシ」湾上陸、「サンホセ」東方山岳地帯に到達したのは同年二月五日夕であった。
当時に於ける敵情は実に優勢なるものがあり銀翼もまぶしく居並ぶ多数の敵機を見て躍起した。

  「夜襲 切込みは一度だ!」

隊長以下白たすき、白はちまき、も雄々しく出征したが、不幸一敗地にまみれ、以来襲撃と病魔
と糧秣の貧缺とによって部隊は四散、その大半は斃れたものと認む。
同年十月頃より各所に於いて見た「日米休戦協定成立す」「日本人各位に告ぐ」「日本人の捕虜は
幸福だ」等等、フィリピン駐在米軍司令部より出された投降勧告文は、今からおもえば「うそ」では
無かった様だが、而し当時未だ各所に交える彼我の戦闘銃声、また当時に於ける我人の気持ちとして
斯くの如き宣伝ビラを信じる由もない。
小隊は二手に分かれ「ロハス」西北山中に於いて自活態勢を取ることなりしも、以来またしても
病魔の為に数多の戦友を失い、遂に四名生き残ることとなっていた。

十一年間に亘る孤籠自活の状況を簡記したいと思ふ。

「ミンドロ島山中に点々と土民「マギヤン族」が農を営み、甘蔗(さつま芋)を主食として生活
している。追われ追われてての身「さつま芋でも良い、腹一杯にでも」と。
幸い農家出身の兵が多かった小隊では「これ位の百姓なら」と取り付いた第一年、思いもよらぬ
豊作は欲望と勇気と生への光明を与へ、初物の新芋を味わった時の歓喜はおそらく在滞間の最高
のものであったであらう。

見知らぬ土地に於ける農法、それから割り出してからの集団生活の努力は身にしむものがあった
程に、余計に未だ印象附けるものがある。

「もう一秒我慢するんだ」   難しい主義主張も無い、臥薪嘗胆の三か年は送くられ、
基礎建設の目鼻はついた。とは云え、ようとして外界の情勢は不明であった。
亦、後の不安を打開するものは
    「生甲斐のある生活態勢の樹立」
にありとの下に、全員持てる力を発揮した。家も理想的に建て、小さな「靖国神社」、続いて
「山の神」も祭られた。「御互いの気持ちで」面白く生き抜こうと各々の持つ底力は窮した道
を打開し内面的に充実した。が昭和二十七、八年と五名の戦友が病の為斃れ、一足先に不帰の
旅路へと立たれしことは、居残る四名が如何ほど悲痛の淵に悩みしことか、一段と意を強く
新しい気持ちで憐きあうより他は無かった。

一貫して常に脳裏より脱し得なかったものは「敵襲」である。がこの時期に於いては観念的に
和らいででいた。安神して時期の来るまで生きるんだ。また此の度戦友を失いいつまでも
くよくよしていては気の毒だ。と神社へ合祀した。

「悪夢は明日への運命を妨害するものである」と欲望は次第に情操的に指向されるようになった。
暇を見ては昔の小学校の復習勉強、楽器の作成、酒の製造等、生活方面では農法の改善、
製糖器、玉葱、黍粉粉砕機、農具の改良等の作成、それに家畜(豚・鶏)増加繁殖等に重点を
置き、被服の方は手製の着物等も出来て不自由はなかった。が食塩だけは如何とも為し難く
遠く海を眺めては頭をひねっていた。が此處数年来の不食塩体に左程切実な問題、否、たまたま
笑い話の種くらいしかなっていなかった。
当時飼っていた一匹の子猿は少なくなった家内の中にあって無心にも我らの愛嬌を買っていた。

 自己の年の経つのも知らねども、永年の絶交生活に於いて使用した農具、鍋釜等も命はつき
又、壊れた。これ等を補充すべく昭和三十年八月、付近の土民(マギャン族)と交渉を開始、
以来一か年半見事成功、物資は勿論、今頃では土民の家に泊まり、土民もまた家に来ては遊宿
し、たまたまご馳走等も交換し気焔を挙げていた。久しく絶っていた食塩も少々であったが
入手することが出來、一日一食であったが膳を賑わしていた。土民の女達も片言を交えて
語らい、恥ずかしながらも招待してくれる等、一風変わって生活に享味を与えていた。

この交際が次第に伝わり、平坦の「シベリアン」の耳に入る所となり、時又、日比の情渉から
して「フィリピン」政府へと伝達し、大使館を始め其の方の御手数により再び生きて故国の地
を踏む次第となったものと思う。

回観十二年、過ぎ去った現在に立ち至って考えれば左程長くも感じない。が音信の絶えた異国
の山奥暮らしに於いて第一に大事なのは「体」であるとはいえ之を底つけるものは精神力だ。
何物も侵すべからざる我慢と信念、希望、死線を突破した生き抜く力、之等は陰ながら
見守って下さった「神の力」が現在を在らしめたものと信ず。
余る生涯において忘れることのできないのは此の「ミンドロ」生活であらう。と共に忘れて
ならぬのは眼のあたり斃れて行った戦友の姿、悲しい声である。
山の家に祭られた護国神社の神々がはかなき現身に思いをやられ、懐かしの内地へと運命
つけたものであらう。遺骨、遺品も一緒にふところにしてきた。
孤独な山中生活に於いて、別に興味ある又、享楽的な話題もないが、幾度か死線を越え、
貧困な生活に於いて生への光明を生み出し生きながらえて来たことは今後なんらかの参考
となると思ふ。

現在の変わった世界、復興した日本を眺め、我々は一段と生き甲斐を感じつつ入国の日を
待っている。

山下汽船 山萩丸 船中に於いて。                (繁一)



    『生存者 氏名』

和歌山県田辺市芳羪町一七七六                山本 繁一

秋田県南秋田郡富津内村中津又                石井 仁太郎

岩手県九戸郡小軽米村字小軽米                中野 重平

長崎県西彼杵郡矢上村平野区字榎之木             泉田 政治

                               以上

(源三注・上記四名は多分物故者でしょう。子供たちや親族は居られるとおもいます。
 この手記の内容はご存じないでしょうから関係者にお伝え頂ければ幸甚です。)

昭和31年比国残留日本兵、母国へ帰還す 1.

2023年11月05日 09時15分55秒 | 比国残留日本兵帰国の記録
 父の遺品を整理していたら、昭和31年にフリッピン・ミンドロ島で戦った残留日本兵が帰国する
までの記録が残されていました。関係者に数十部だけガリ版印刷されたもので、多分本邦初公開でしょう。
このまま埋もれるのももったいないのでUPします。関係者はほぼ物故でしょうから個人情報に配慮
はしていませんので悪しからず。日本大使館や比政府の熱意が伝わってきます。


【昭和31年 残留日本兵へ投降を呼びかける大使館通信文】(セロハン紙にガリ板刷り)

  ミンドロ島南部ロハス周辺の山岳部におられる日本人の皆さまへ。

私は在フィリピン日本大使館の中川書記官です。十月十日フィリピン外務省及び警察軍よりの連絡で
約五十名の日本人の皆さんがミンドロ島ロハス市付近の山岳部に生存しておられる旨の通知に接し
ましたので、既に東京へも電報し、又フィリピン側政府各機関とも打ち合わせて皆さまが一日も早く
無事に内地に御帰還できる様努力中であります。

 大東亜戦争は既に十一年前日本の降伏によって終了しましたが、戦後十一年日本の復興振りは眞に
間覚ましく皆様が内地に御帰還になっても、内地のどこにも戦災の跡は全く見られず正に戦前以上
の繁栄振りです。又皆さまの家庭はもとより国民全体も戦争中に外地に出た侭となっている方の
帰国を一日千秋の思いで待って居ます。
 日本とフィリピンの間にも昭和三十一年七月二十三日漸く平和条約が成立し、日比両国の間には
大使の交換も既に行われ、現在 朝海大使が日本の代表としてマニラに駐在され私も同大使の
お手伝いしている大使館の一名です。両国間の文化経済の交流も益々隆盛となりつつあり、
日本人の貿易に従事する者のみにても既に百名以上マニラに駐在し、又フィリピンにて産出する
鉄鉱石、木材等の積取りの為、多数の日本船舶がフィリピン港に立ち寄りつつあります。

 皆さま方は終戦の際、司令部との連絡が切れ、それ以来山中にて自活の態勢を整えて今日に
至ったものと存じます。貴地で皆さまと始めて接触されたロハス市長パメロ氏の報告がフィリピン
警察軍を通じて大使館に伝えられたのです。そしてパメロ市長,比警察軍本部長カバル中将、
其の他関係政府各機関の方々と十月十五日日本大使館の我々との間で相談の結果、今一度ロハス
市長パメロ氏を煩わして皆様方と会ってもらうこととし、その際この手紙を持参して頂くことに
しました。

 皆さま方にお伝えすることの第一は日比間の戦争はすでに終了していますので皆さまは捕虜
としてではなく、立派な日本人として帰国されるのだと云うことです。
よく十一年間、困難に耐え統制を保ち自活されていたものと唯々関心致して居ります。

 第二は皆さま方の生命の安全については日本大使館がフィリピン政府より保障を取り付けて
います。従って皆さま方から発砲されない限りフィリピン側も発砲することは決してありません。

 第三はロハス市長パメロ氏に託した安全通行証を必ず持ち右の指示に従って行動して頂く様に
お願いします。右、安全通行証は別途、飛行機からも投下するつもりです。
右作成に大使館も協力し、警察軍が急いで作ってくれたものです。

 第四は皆さま方の郷里では皆さま方の生存しておられる事実を一日も早く知らせ家族方に
喜んで頂きたいと思いますから、パメロ氏に会われた際、皆様方の住所、氏名、生年月日、
所属、部隊名等を至急お伝え下さい。

 第五には皆さま方と長い間混在してした現地人が交渉に当たって下さるパメロ氏や警察軍
及び救出に努力する我々に無用の危害を加えないよう良く指導して下さい。

 第六には現在、土民と現在結婚していらしゃる皆さまは、その侭残留されることも、家族を
連れ、又単独で日本に帰還されることも、その自由選択にお任せします。
我々はご希望に応じ、如何様にも取り計らう積りです。
その他、皆さま方の御希望のことあらば何なりとも交渉に当たるロハス市長に御申出下さい。

私は比警察軍本部長カバル中将とともにロハスの町で待機し皆さま方の日本帰国の為
フィリピン側と現地交渉に当たる積りです。

尚、ロハス市長に、日本酒、サントリーウヰスキー、日本の煙草、新聞雑誌等若干持参方
依頼しましたからいささかふりと故国の味を楽しんで下さい。

それでは一日も早く皆様方とお会い出来る日をロハス市で待っています。

     昭和三十一年十月十五日
      在フィリピン日本大使館
      一等書記官          中川 豊吉  印
  



『ミンドロ島の戦い』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

(源三注)ウイキは救出を二名と書いてありますが、実際は四名です。