山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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伊予 河野流家紋いろいろ

2025年01月25日 08時06分49秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
伊予河野家家紋の変遷と分家の家紋は時代時代により変化していきます。
分かりづらいとの意見もあり少し整理してみます。

また、河野家家紋は色んな呼び方があり現物を見ないとよく分からない場合が多いのです。
同じ紋でも呼び方が違う事があります。
しかし、別紋の州浜紋(すはま)と一鱗紋(いちうろこ)を除けば二つの折敷と中の三の形の
組み合わせでしかありません。

今回できるだけビジュアルに説明していきます。
尚、過去提供を受けた河野家支族の方たちのマル秘資料もUPさせて頂きますので関係者の方々には
ご了承願いたいと存じます。


①折敷は原則二種類

イ)古来の折敷の形の角が取れていない□か◇の形


当方はこちらを◇を折敷(おりしき)と表現しています。
河野家の古い時代の物と思っています。

根拠としては、河野通有が元寇との戦いで使用したのはこちらの紋で現在「三島神紋流れ幡」として
 
大山積神社(三島社)宝物館に重要文化財として現存します。よって当時の大山祇神社神文は現在の
ものと違って古紋となります。この形が古い時代の河野家家紋であることは道後湯築城博物館も同じ

認識で復元の幟を立てていますので、現在の全国の河野関係者が湯築城を訪問した時、自家の紋と
違うので驚くことも多いのです。

また、ご案内の見聞諸家紋は日本最古の家紋帖で足利義政が東軍の見分けをつけるために編集させた
と伝えられます。こちらも河野家はこの◇三紋(折敷漢数字三文字紋)ですから間違いないです。
見聞諸家紋は1469年前後に作られたとされます。
「太平記」の河野通遠討死の描写に「傍折敷三文字」とあるのが不思議です。
「太平記」は1371年頃の編纂なので「折敷」◇でないと変なのですが、引用本の太平記がいつの転写か
が不明なのでなんとも言えません。印刷技術の無い時代ですので後世何度も何度転写されていますので
本来の原本に有ったか否かは不明です。

ロ)古来の折敷が進化し角(隅)がとれた変形八角形紋は

当方はこちらが「傍折敷」(そばおりしき)と表現しています。
別に角切(すみきり)とも隅切(すみきり)とも表現されます。

こちらが現在一番ポピュラーです。

折敷は「御食(おしき・をしき)の訛ったもので本来は神に供え物(食物)を捧げる為の盆が始まりとされ
これらは平安時代から見られますが、当時はまだ正四角形の折敷でした。後に技術が発達し、変形八角形の
形になったとされます。私は「傍」(そば)を角切ありの意味で解釈していますが、本来「傍」(すみ)
はかたわらの意味で「へり」の意味と思います。供え物が落ちないように「へり」につい立てを立てた
との意味と思います。

②折敷の中の三の文字は時代により変遷します。

 イ)一番古いのは毛筆で書いた三文字で一番シンプルです。

  わたしはこれを「漢数字三文字紋」(かんすうじさんもじもん)と表現します。
  折敷が◇時代はすべてこれです。

 ロ)次が三の字の真ん中の一が少し短めになってデザイン化されたものです。
【河野流岡田家系図冒頭】


 ハ)他に三の字の一の長さがすべて同じものでこれを「算木(さんぎ)の三」と表現しています。


   こちらは河野家関係の寺の瓦に使われている場合が多く見分ける為に「河野家寺紋」と呼ぶ場合が
   あります。理由は簡単なのです。毛筆の三では手製で同じ瓦を沢山焼くのが難しかったのでしょう。
   瓦が伊予に普及するのは室町後期とされます。現在、窯場で一番有名なのは伊予では菊間瓦です。
   この瓦はいぶし銀色で最高級の瓦です。この菊間瓦が普及したのは上方から瓦の版型(親版)の
   技法が伝わってからです。所謂、現在の「金型」です。この親型を作る時に作りやすい算木三を
   採用したものと思われます。第二次大戦後に吹き替え工事ではどのようなデザインも作れますので
   間違ったデザインを採用して河野関係寺は瓦の葺き替えをしている場合があります。
   例として河野家最後の殿様、牛福通直の菩提寺、広島県竹原の長生寺は屋根の
   葺き替えをして「縮三文字」(しゅくさんもじ)に変更してしまっています。
   牛福通直が自害したのは天正15年7月12日ですの。翌年の
   天正16年に牛福通直の弔いの為、母親が高野山に登り通直の慰霊塔を建てますがこちらは(折敷漢字の三
   文字紋)で建立されていますから、竹原長生寺が間違えました。

   長生寺寺紋
   
   高野山奥の院の「牛福通直慰霊塔」を参照してください。違いますから。

 ニ)三が揺れか縮か

   揺れ(ゆれ)も縮(しゅく)も基本的には同じです。
   この形は戦国期以降からの使用と思われます。

   江戸期以降現在に至るまでこれを正紋と認識している河野家子孫が多いのはこの為です。

   「揺れ」「縮」の論拠は後世の作であろう河野家「予章記」に
    「白村江の戦いの時、舟の舳先に掲げた家紋の三の字が波に映り、揺らいで見えた為」と
   語りますが、この時代に幕紋を押し立てていく戦はありませんし家紋の概念もありませんから
   後世の作話ですが、子孫たちはそれを信じそれなりに家紋を作成していったのでしょう。
   それ以前も州浜を使用していますので子孫は悩んだでしょうね。黒川家のように
   「傍折敷三文字紋」を三つすはま紋としてしまいます。

   そもそも河野家家紋は大山祇神社の神紋の借用です。
   大山積神社の古い神紋は河野通有が戦勝祈願に大山積神社で祈ったのち、神紋を掲げて
   出陣す、とありますので「折敷漢数字三文字紋」です。いまはもう無くなりましたが大山積神社
   の古い紋は神社殿の一部に掲げられていました。現在は現代風に「傍折敷縮三文字紋」にされています。

   河野家は神紋を家紋にする前は、「州浜紋」と思われます。
   州浜紋は河野家支族によりイメージが違います。
   三角一つを「一州浜」とし、これは別家では鱗(うろこ)紋とします。
   
   三つを「みつすはま」とします。【河野鈴姫系図冒頭】
   
   また「一鱗紋」(いちうろこ)(いちすはま)の併用は北条家から養子を貰ってからの使用紋と思われます。
   三つ鱗紋は「「北条家」の家紋だから北条家から養子が河野家に入ったから引き継いだと思えます。

   北条家家紋は
 
   とされ、鱗が少しへしゃげているのが特徴です。

本来州浜とは

であり、河野家支族がつかう三つ州浜は【越智氏寺町三つ州浜紋】

の形です。これは州浜が三つ並んでいます。

河野家が折敷三文字紋にこだわるのは「予章記」や「予陽河野家譜」に書かれる、
「鎌倉で宴会の折、源頼朝から家来の中で三番に重要な人物であるとして、酒を折敷にのせ三番目に頂いた
 とする」記述ですが、これは後世の挿入です。これ以前に大山祇神社神紋は「折敷三文字紋」です。

ちなみにこの鎌倉の宴会は材木座海岸でしたと河野文書は書きますが、ピクニック風ですが、実態は材木座にあった
河野通信邸での宴会と思われます。宴会はあったのでしょうが河野が鎌倉政権のNO3とは考えられません。
何故なら、総大将の源頼朝の屋敷は鶴岡八幡宮の左の山手にあり親族や譜代がその屋敷をぐるりと囲んで守って
います。毛利家の前姓大江氏は頼朝邸の左側に接し守護しています。現在も大江の墓がありますので山口県の
毛利家子孫は今も現地で法事をしています。
材木座は現在でも材木座海岸といわれる当時の浜辺で、頼朝邸から一番端になります。

この材木座の河野鎌倉屋敷を探していますがまだ見つかりません。だれが知りませんかね?

最期に河野家子孫が使用する家紋いろいろをUPしてみましょう。
これ以外も沢山あります。

越智姓山野井家家紋(広島県大原町)

この家は「山野井本予章記」を保存する家です。

越智姓稲葉家家紋(東京・墓紋)


越智姓寺町氏家紋


越智姓難波氏家紋(丸に割菊に三文字紋)


河野流黒川家家紋(同家系図所収)

黒川系図は家標識(正紋)として「傍折敷三文字紋」を三つ𥻘(すはま)と表記します。
又、替え紋として「一鱗(いちうろこ)」紋を掲げます。
幕紋は黒川家は土佐長曾我部の系統を引き継ぎとして長曾我部家紋を引き継いでいます。
しかし、黒川系図は系図の途中に「三つ州浜紋」を別途挿入しています。

この家は河野流正岡家とも親族関係で、黒田藩に仕官した人は曾我部家として残ります。
また黒川桃女が生んだのが長福寺本予章記や長福寺本河野家譜を作成した南明禅師です。
この人が1650年前後に「予陽河野家譜」を作成したらしいので、一部時代が合わないこと
になったとともされます。

越智姓得能家家紋(三十万に鳥紋)


河野家支族一遍上人時宗寺紋


河野流鈴姫系図所収

この家は越智姓河野家家紋とする別紋も記載します。
越智流三つ鱗紋


河野家本城湯月城紋


河野通有元弘の役使用の流れ旗


河野家継承久留島家紋


河野家流一柳家紋


河野流岡田家紋(系図冒頭)


長福寺使用河野家紋


河野庵主家紋(系図所収)


黒田藩士河野流家家紋

黒田家にも多くの河野支族が仕官します。河野黒川家一族がそうですね。

東京上野鶯谷三島神社神紋  

この三島神社の場所は伊豫河野家が源頼朝に仕官の折、鎌倉の材木座屋敷以外に江戸に構えた屋敷跡に
立てられたとされます。当時は今の上野駅までは海岸線で浜辺に河野邸を建てたとされます。
この時、荏原郷の江戸氏と婚姻関係を結んだとされ、現在の世田谷区の小田急沿線に多くの河野氏が
住んでいて「河野家譜」を継承しています。江戸氏は今もいますが、一部は伊豫へ移住し、伊豫江戸氏
として現存しますね。ただ、現在の鶯谷三島神社の神官や氏子はこの由緒はご存じないようです。

安芸高田へ移住の河野家家紋

この家は毛利家に従った家として有名です。{ひとへら河野」として慈善家の末裔と思われます。



和州越智氏家紋

この家は、いつの戦乱か分かりませんが、伊豫を追われる時、神仏を背中に負い奈良まで逃げてきたとします。
但し、子孫はこの由緒を昔否定しましたが、系図にはそう書かれています。

他にたくさん河野家家紋はあるとおもいますが、コメント欄に投稿して頂くと追加します。

屋代源三




河野氏の家紋

2022年07月28日 07時46分40秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
家門の認識は実際はビジュアルに見ないと混乱しますね。

河野家家紋は色んな呼び方があり現物を見ないとよく分からない場合が多いのです。
別紋の州浜紋と一鱗紋を除けば二つの折敷と中の三の形の組み合わせでしかありません。

①折敷は原則二種類
 イ)古来の折敷の形の角が取れていない□か◇の形

   当方はこちらを折敷と表現しています。
   河野家の古い時代の物と思っています。
   根拠としては、河野通有が元寇との戦いで使用したのはこちらの紋で現在「三島神紋流れ幡」として
   大山積神社(三島社)宝物館に重要文化財として現存します。よって当時の大山祇神社神文は現在の
   ものと違って古紋となります。この形が古い時代の河野家家紋であることは道後湯築城博物館も同じ
   認識で復元の幟を立てていますので、現在の全国の河野関係者が湯築城を訪問した最初の自家の紋と
   違うので驚くことも多いのです。
   また、ご案内の見聞諸家紋は日本最古の家紋帖で足利義政が東軍の見分けをつけるために編集させた
   と伝えられます。こちらも河野家はこの◇三紋ですから間違いないです。
   見聞諸家紋は1469年前後に作られたとされます。
   「太平記」の通遠討死の描写に「傍折敷三文字」とあるのが不思議です。
   「太平記」は1371年頃の編纂なので「折敷」でないと変なのですが、引用本の太平記がいつの転写か
   が不明なのでなんとも言えません。印刷技術の無い時代ですので後世何度も何度転写されていますので
   本来の原本に有ったか否か不明です。

 ロ)古来の折敷が進化し角(隅)がとれた変形八角形

 当方はこちらが「傍折敷」と表現しています。
 別に角切とも隅切とも表現されます。

 こちらが現在一番ポピュラーです。

折敷は「御食(おしき・をしき)の訛ったもので本来は神に供え物(食物)を捧げる為の盆が始まりとされ
これらは平安時代から見られますが、当時はまだ正四角形の折敷でした。後に技術が発達し、変形八角形の
形になったとされます。私は「傍」を角切ありの意味で解釈していますが、本来「傍」はかたわらの意味で
「へり」の意味と思います。供え物が落ちないように「へり」につい立てを立てたとの意味と思います。

②折敷の中の三の文字は時代により変遷します。

 イ)一番古いのは毛筆で書いた三文字で一番シンプルです。
   わたしはこれを「漢数字三」と表現します。
   折敷が◇時代はすべてこれです。

 ロ)次が三の字の真ん中の一が少し短めになってデザイン化されたものです。

 ハ)他に三の字の一の長さがすべて同じものでこれを「算木の三」と表現しています。

   こちらは河野家関係の寺の瓦に使われている場合が多く見分ける為に河野家寺紋と呼ぶ場合が
   あります。理由は簡単なのです。毛筆の三では手製で同じ瓦を沢山焼くのが難しかったのでしょう。
   瓦が伊予に普及するのは室町後期とされます。現在、窯場で一番有名なのは伊予菊間瓦です。
   この瓦はいぶし銀色で最高級の瓦です。この菊間瓦が普及したのは上方から瓦の版型(親版)の
   技法が伝わってからです。所謂、現在の「金型」です。この親型を作る時に作りやすい算木三を
   採用したものと思われます。第二次大戦後の吹き替え工事ではどのようなデザインも作れますので
   間違ったデザインを採用している寺もあります。例として牛福通直の菩提寺竹原長生寺は屋根の
   葺き替えをしていますが「縮三文字」に変更してしまっています。
   天正16年に牛福通直の弔いの為、母親が高野山に登り通直の慰霊塔を建てますがこちらは漢字の三
   で建立されています。

 ニ)三が揺れか縮か

   揺れも縮も基本的には同じです。
   この形は戦国期以降からの使用と思われます。

   江戸期以降現在に至るまでこれを正紋と認識している河野家子孫が多いのはこの為です。

   「揺れ」「縮」の論拠は後世の作であろう河野家「予章記」に
    「白村江の戦いの時、舟の舳先に掲げた家紋の三の字が波に映り、揺らいで見えた為」と
   語りますが、この時代に幕紋を押し立てていく戦はありませんし家紋の概念もありませんから
   後世の作話ですが、子孫たちはそれを信じそれなりに家紋を作成していったのでしょう。

   大山祇神社の神紋を家紋にする前は、河野家は「州浜紋」と思われます。

   また「一鱗紋」の併用は北条家から養子を貰ってからの使用紋と思われます。

河野家が折敷三文字紋にこだわるのは「予章記」や「予陽河野家譜」に書かれる、
「鎌倉で宴会の折、源頼朝から家来の中で三番に重要な人物であるとして、酒を折敷にのせ三番目に頂いた
 とする」記述ですが、これは後世の挿入です。これ以前に大山祇神社神紋は「折敷三文字紋」です。

ちなみにこの鎌倉の宴会は材木座海岸でしたと河野文書は書きますが、ピクニック風ですが、実態は材木座にあった
河野通信邸での宴会と思われます。宴会はあったのでしょうが河野が鎌倉政権のNO3とは考えられません。
この材木座の河野鎌倉屋敷を探していますがまだ見つかりません。だれが知りませんかね?




> の部分は、「傍」の字の入力間違いかと存じますが如何でございましょう。

この表現は栃木県の越智姓系図に書かれているのであればと云う意味です。

現在の家紋屋は「傍折敷」も「折敷」も同じと説明していますので話がややこしいのです。

太平記の傍折敷も栃木県越智姓系図の傍折敷も、実態は◇かもしれません。そうすると所謂「折敷」ですね。

よって栃木の系図にある「傍折敷三文字」紋を伝承してる家が現存しているので、現物が見たいな、と思いました。

> 大山祇社のご神紋、正確を期す呼び名としては「隅立て折敷に揺れ三文字紋」といったところでございましょうか(苦笑)。

前述したように現在の大山祇神社の神紋は「隅立て折敷に揺れ三文字紋」ですが、宝物館には
大山祇神社神紋が染められた流れ幡が秘蔵されています。この幡は河野六郎対馬守通有が元寇の勝利を
記念して奉納されたとされます。
以前大山祇神社の社務所の電話して昔はは「◇三文字紋」ですよね?と聞いたら
有史以来「隅立て折敷に揺れ三文字紋」の意味の返答がありました。
「このレベルの神官ではだめなので電話は切りました」

「自分の所の宝物館の神紋を見ろよな!」と思いました((笑)


●屋代様

お世話になっております。
ご解説と「傍折敷」の件のご説明ありがとうございます。
確かに家紋の話でビジュアルが無いと混乱しますね。
と云う訳で、画像を無料で使用できるサイトから家紋の画像を拝借し
屋代様のご投稿に引用形式ですが追加させていただきました。
イメージと異なるようでしたらその点はご容赦ください。


>>50
> 家門の認識は実際はビジュアルに見ないと混乱しますね。
>
> 河野家家紋は色んな呼び方があり現物を見ないとよく分からない場合が多いのです。
> 別紋の州浜紋と一鱗紋を除けば二つの折敷と中の三の形の組み合わせでしかありません。
>
> ①折敷は原則二種類
>  イ)古来の折敷の形の角が取れていない□か◇の形
   
>
>    当方はこちらを折敷と表現しています。
>    河野家の古い時代の物と思っています。
>    根拠としては、河野通有が元寇との戦いで使用したのはこちらの紋で現在「三島神紋流れ幡」として
>    大山積神社(三島社)宝物館に重要文化財として現存します。よって当時の大山祇神社神文は現在の
>    ものと違って古紋となります。この形が古い時代の河野家家紋であることは道後湯築城博物館も同じ
>    認識で復元の幟を立てていますので、現在の全国の河野関係者が湯築城を訪問した最初の自家の紋と
>    違うので驚くことも多いのです。
>    また、ご案内の見聞諸家紋は日本最古の家紋帖で足利義政が東軍の見分けをつけるために編集させた
>    と伝えられます。こちらも河野家はこの◇三紋ですから間違いないです。
>    見聞諸家紋は1469年前後に作られたとされます。
>    「太平記」の通遠討死の描写に「傍折敷三文字」とあるのが不思議です。
>    「太平記」は1371年頃の編纂なので「折敷」でないと変なのですが、引用本の太平記がいつの転写か
>    が不明なのでなんとも言えません。印刷技術の無い時代ですので後世何度も何度転写されていますので
>    本来の原本に有ったか否か不明です。
>
>  ロ)古来の折敷が進化し角(隅)がとれた変形八角形
 
>
>  当方はこちらが「傍折敷」と表現しています。
>  別に角切とも隅切とも表現されます。
>
>  こちらが現在一番ポピュラーです。
>
> 折敷は「御食(おしき・をしき)の訛ったもので本来は神に供え物(食物)を捧げる為の盆が始まりとされ
> これらは平安時代から見られますが、当時はまだ正四角形の折敷でした。後に技術が発達し、変形八角形の
> 形になったとされます。私は「傍」を角切ありの意味で解釈していますが、本来「傍」はかたわらの意味で
> 「へり」の意味と思います。供え物が落ちないように「へり」につい立てを立てたとの意味と思います。
>
> ②折敷の中の三の文字は時代により変遷します。
>
>  イ)一番古いのは毛筆で書いた三文字で一番シンプルです。
>    わたしはこれを「漢数字三」と表現します。
>    折敷が◇時代はすべてこれです。
 
>
>  ロ)次が三の字の真ん中の一が少し短めになってデザイン化されたものです。
 

>
>  ハ)他に三の字の一の長さがすべて同じものでこれを「算木の三」と表現しています。
 
>
>    こちらは河野家関係の寺の瓦に使われている場合が多く見分ける為に河野家寺紋と呼ぶ場合が
>    あります。理由は簡単なのです。毛筆の三では手製で同じ瓦を沢山焼くのが難しかったのでしょう。
>    瓦が伊予に普及するのは室町後期とされます。現在、窯場で一番有名なのは伊予菊間瓦です。
>    この瓦はいぶし銀色で最高級の瓦です。この菊間瓦が普及したのは上方から瓦の版型(親版)の
>    技法が伝わってからです。所謂、現在の「金型」です。この親型を作る時に作りやすい算木三を
>    採用したものと思われます。第二次大戦後の吹き替え工事ではどのようなデザインも作れますので
>    間違ったデザインを採用している寺もあります。例として牛福通直の菩提寺竹原長生寺は屋根の
>    葺き替えをしていますが「縮三文字」に変更してしまっています。
>    天正16年に牛福通直の弔いの為、母親が高野山に登り通直の慰霊塔を建てますがこちらは漢字の三
>    で建立されています。
>
>
>  ニ)三が揺れか縮か
>
>    揺れも縮も基本的には同じです。
>    この形は戦国期以降からの使用と思われます。
  
>
>    江戸期以降現在に至るまでこれを正紋と認識している河野家子孫が多いのはこの為です。
>
>    「揺れ」「縮」の論拠は後世の作であろう河野家「予章記」に
>     「白村江の戦いの時、舟の舳先に掲げた家紋の三の字が波に映り、揺らいで見えた為」と
>    語りますが、この時代に幕紋を押し立てていく戦はありませんし家紋の概念もありませんから
>    後世の作話ですが、子孫たちはそれを信じそれなりに家紋を作成していったのでしょう。
>
>    大山祇神社の神紋を家紋にする前は、河野家は「州浜紋」と思われます。
>
>    また「一鱗紋」の併用は北条家から養子を貰ってからの使用紋と思われます。
  
>
>
> 河野家が折敷三文字紋にこだわるのは「予章記」や「予陽河野家譜」に書かれる、
> 「鎌倉で宴会の折、源頼朝から家来の中で三番に重要な人物であるとして、酒を折敷にのせ三番目に頂いた
>  とする」記述ですが、これは後世の挿入です。これ以前に大山祇神社神紋は「折敷三文字紋」です。
>
> ちなみにこの鎌倉の宴会は材木座海岸でしたと河野文書は書きますが、ピクニック風ですが、実態は材木座にあった
> 河野通信邸での宴会と思われます。宴会はあったのでしょうが河野が鎌倉政権のNO3とは考えられません。
> この材木座の河野鎌倉屋敷を探していますがまだ見つかりません。だれが知りませんかね?

Re: 高須賀氏

2022年07月28日 07時42分25秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
友近様

高須賀氏の情報提供有り難うございます。

野田高須賀氏は大坂夏の陣で豊臣方で敗軍となり、下総野田へ流れて来たとの伝承を持っている家です。
野田市史等はキッコーマンの創始者が大坂夏の陣で敗北した人が野田に来て醤油業を始めたと書いていましたので
キッコーマン本社に電話した確認したら、信州からとかの答えでした。これは創業家三家(高梨・茂木・堀切家)
のうちの高梨家についての説明だったのですね。茂木家とは気がつきませんでした。
茂木家は美濃土岐家の分流、江戸崎土岐家の分家萬木(真木)土岐氏でした。土岐頼春の弟が、真木とは知りません
でした。
この真木氏が大坂夏の陣に於いて高須賀氏と共に戦い、千葉県野田に流れてきたことが分ればと思います。
この高須賀氏が伊予の高須賀氏の誰の子かが分らないのです。

伊予の高須賀氏は系図上は二つに分かれており、

一つは【伊予木曽義仲流高須賀系図】 1223年通久石井郷交換入府
高須賀義詮 ┬ 高須賀紀伊守高光
紀伊那智城主 │ 河野通久仕、久米郡朝日山城
│ 小松邑史 朝日山城堀口堯ノ後胤の城


今一つは、【伊予新田流高須賀系図】
堀口備後守堯氏 ┬ 高須賀次郎作(衛)堯寧
初住紀州熊野 弘安年中(1278~1288)
寛元2年(1244)航和気郡堀江甫 住久米郡川上野口郷
康元年中(1256~1257) 久米郡余戸郷野々口邑?
住久米郡熊畑邑 延暦23年川之内と野々口に分離
弘長年中(1261~1264)
道前と道後之中山布船野城主
川上村松瀬村に在り堀口堯氏居城
故有民間に下る。
高須賀高祖云々
参軒屋船野城主 堀口堯氏(新田一族)
野口郷に住み高須賀氏となり
【川上村のおもかげ】

となっていますが、1615年当時の伊予高須賀家で豊臣方で大坂に戦いに行った人がいるか史料を探しています。
豊臣恩顧の臣は伊予にも多く、伊予一色氏も豊臣家応援に出発しています。

尚、伊予の土岐家については以前調べたことがあります。


●【忽那氏】
屋代源三様

別スレッドにも投稿させていただきましたように、google書籍記検索を試したところ
近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識 家系に見る日本の歴史』第二巻に次のような記述が。

 温泉(ゆの)郡はのちに「おんせん」郡と読まれるようになった。
 建武年間(1334-)河野通盛が高縄山城から道後の湯月城に移り、
 その守護所ともなって、以後ここで勢威を振るった。
 戦国時代に桑原郷の泰山城・本山城に忽那氏一族がおり、
 水軍の拠点となっていた。友近氏というのもその族と思われる。 ※以下省略

愚生の頭では、どう読んでも「友近は忽那氏の族類」としか解釈できません(苦笑)
意外な記述に驚いております。
それから、泰山城・本山城の所在が桑原郷というのも首を傾げます。
近藤氏がどのような史料を元にされたのかが非常に気になるところでございます。


●友近様

近藤安太郎氏がどの様な出典から、
「友近氏というのもその族と思われる」と推定したのかが分からないとなんとも言えませんね。

ただ何らかの伝承記述があったのではないかと思われます。
一応、気になりましたので忽那文書を流し読みいたしましたが、友近名を見出すことは
できませんでした。

泰山城・本山城は忽那島にある筈なので、昔、桑原郷と呼ばれていた時期があるか否かは
分かりません。温泉郡で桑原郷は桑原村の旧名とはされますが、こちらは嶋ではありません。
近藤氏の著書を深堀する必要がありそうですね。

友近氏が忽那氏の縁族である可能性はあると思います。
これが証明されれば、元祖初代は藤原鎌足となりますね。

屋代様

お世話になっております。
この投稿、「屋代島 友澤家」スレッド№46 http://8241.teacup.com/kyoudo/bbs/t50/46
の屋代様への返信とさせていただくのですが、スレッドの趣旨からそれるように思いまして
こちらに投稿させていただきます。

愚生の中で少々混乱を来しておりまして、先にも申しましたが、友近神社の紋につきまして
ご教示いただいた後、河野氏の「折敷三文字紋」について愚生なりにネット検索などで調べました。

ネットの情報により、太平記の中で河野七郎通遠が討たれる場面に
『鎧の笠符をみるに、其紋、傍折敷に三文字を書て着たりけり』
とある事、『見聞諸家紋』と云う最古とされる家紋集に河野氏の紋がある事を知りました。

  国立国会図書館デジタルコレクション - 絵本太平記. 9,10
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/878042/14
  見聞諸家紋 - 国文学研究資料館
  https://goo.gl/QZaghY

これらの情報により、河野氏の古い家紋は◇に三文字の「傍折敷三文字紋」、
大山祇神社の神紋に代表される🛑角形に三文字の「折敷三文字紋」は新しい紋と認識しております。
故に

> 河野通有が元寇の役に持って行ったのは◇に漢字の三の所謂、「折敷三文字紋」です。
> よって系図に書かれているように変形八角形に三の「傍折敷三文字紋」では四国を離島した時期が

の部分は、「傍」の字の入力間違いかと存じますが如何でございましょう。

🛑角形の「折敷紋」、同じ形状で「隅切角」と云うのもあるようですが、
個別の名称も、元の資料によって様々ですし、文字の形状から「波」「揺れ」「縮」「三木(さんぎ)」
とあるのもご承知の通りでございますね。河野氏の系図もさることながら家紋も奥が深いと
感じている次第でございます。

 https://goo.gl/vhShCS
 https://goo.gl/pvHabe
 https://goo.gl/osSNMA

大山祇社のご神紋、正確を期す呼び名としては「隅立て折敷に揺れ三文字紋」といったところでございましょうか(苦笑)


Re: 戦国期の伊予の武士たち

2022年07月28日 07時38分15秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
友近さん江

愛媛県訪問準備万端ですね。
県立図書館へのレファレンスも済んだことでしょうね。

もし時間があれば愛媛県歴史文化博物館へも足を伸ばされることをお勧めします。
県立図書館は司書はいますが学芸員はいません。
その点歴史文化博物館は学芸員が充実しています。
友近さん所望のテーマは学芸課長藤田正氏か、専門学芸員の山内治朋氏の領域かと思われます。
事前に目的を告げればレファレンスには応じてくれるでしょう。

ついでと言っては何ですが、伊予高須賀家の系譜はないか、時間があれば聞いて頂けませんか?
伊予史談会会長高須賀康生氏も同族と思われるのですが、遠祖がはっきりしないのです。
このブログの読者である高須賀氏が探索していますがイマイチはっきりしないのです。

いろいろと勉強されているようですね。
伊予河野氏ですと、景浦先生の「河野氏の研究」をベースにした方がよいでしょうね。
川岡先生は伊予中世史に於ける河野氏が専門ですね。

【中世伊予の山方領主と河野氏権力】は古いですがよく知っています。
私は山方領主の大野家探索もテーマの一つです。大野家は元来河野家の配下ではなく中央政府の被官である
とするのが私の主張です。

【永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察】【 永禄期の河野氏権力と芸州 -小早川氏による検使の派遣】
こちらは、伊予河野家と伊予宇都宮家との戦いの話ですね。
伊予河野家の背後には、毛利家があり、宇都宮家大野家(菅田家)の背後には、伊予を狙う長曾我部元親
がいますね。名門一条家を乗っ取った長曾我部と一条家と婚姻関係のある豊後の大友家もからみややこしい
戦いです。文中の来島衆大野の表現があるのが気になりました。来島衆に大野と云う人はいないと思うの
ですが。宇都宮家家老大野直之(菅田直之)と河野家筆頭家老大野直昌は敵味方に分かれていますが兄弟です。
直昌の兄の子が「能島家家頼分限帳」に出てくる友田治兵衛こと、大野兵庫直政です。大野直之は負けたので
子孫は長曾我部をたより土佐に逃げ、江戸期は庄屋となり現在まで続いています。直政の子孫も、直昌(ナオシゲ)
の子孫も現存しています。

【天徳寺所蔵「伊予国造家 越智姓河野氏系譜」について (川岡 勉・田中 弘道)】
こちらも有名な論文ですね。
ただこの系図は後世色んな河野家系図を猟収して作成されたものと思っています。
時代考証が合わないものが散見されます。
越智直(あたえ)姓や越智宿祢(すくね)姓の混乱が多く見られます。直と宿祢では格が全く違いますし
この制度制定時期と合わないのも散見されます。また神別と皇別が混乱しています。
ニギハヤヒ元祖は神別ですが、河野系図に多く見られる孝霊天皇元祖では皇別となりますので、色んな系図
の寄せ集めとされる所以です。ただ部分部分では検証に値するものも含まれていると思っています。
田中 弘道氏の論説は少しくせがありますので。

【 越智郡司越智氏から伊予国在庁河野氏への転形─『権記』長保二年(一〇〇〇)十二月九日条を中心に】─…下向井龍彦

こちらは初めて見ました。
個々の出典は知っていますが、少し推論が多い気がします。
河野家の出自は越智家との結論を導こうとしていますが、少し無理がありますね。
国造家越智(小千)はニギハヤヒ系ですので神別となります。しかしながら河野系図は皇別を標榜します。
皇別に対して神別を分けますので混在すること自体が矛盾となります。
相撲人越智氏も在京越智氏もましてや大和越智氏も同族としていますが、少し無理がありますね。
河野親経以前の系譜はやはり変です。新居系図を論拠としていますが、この系図もよく分からないのです。
天徳寺の国造家河野系譜はこちらに似ています。
どちらの系図も伊予大野家は越智河野家の分流と書いていますが、伊予大野家は大伴家の流れです。
一部の大野系図が元祖を大友皇子(天智天皇)としてしまい顰蹙を買っていますが、大伴を大友と誤認した
系図転写時の誤りとみています。

系図は一次史料とはなりませんのでいづれの場合も注意が必要ですね。


●屋代源三様

詳細なご解説をいただき恐縮です。
仰せのように景浦勉先生の著作物で勉強致したいのですが、古書やネットオークション等で
探して見つけ出しても、碩学の先生の本は高価でなかなか手が出せずにおります。(苦笑)

> ついでと言っては何ですが、伊予高須賀家の系譜はないか、時間があれば聞いて頂けませんか?
当日の調べ物の進み具合で何とも申し上げられませんが、司書さんに確認してみます。

「南北朝時代の屋代島」スレッドの屋代様と高須賀様のご投稿を拝見しました。
少々ネット検索を致しましたところ、埼玉県幸手市に「高須賀」という地名がございました。
野田市とは江戸川を挟んだ隣り合わせですので、幸手にも手掛かりがある様な気が致します。
なお、戦国期の幸手にも一色氏の一族が居住していたとの事です。

余談ですが、愛知県特に尾張地区には「高須賀」地名が多数ございます。

 愛知県名古屋市中村区高須賀町
 愛知県一宮市大毛字高須賀
 愛知県一宮市上祖父江字高須賀
 愛知県稲沢市祖父江町甲新田高須賀
 愛知県稲沢市稲島町高須賀
 愛知県あま市二ツ寺東高須賀


●友近様へ

景浦先生の「河野氏の研究」は最近まで「正岡子規記念館」が通販で定価で販売していましたので簡単に手に
入ると思っていましたが、該当HPを見たら在庫がないようですね。残念!
復刻すればよいのですが、版元の伊予史料集成刊行会がどうするかですね。
結構需要があるので復刻すると思うのですが、松山の中古書店ではまだ安いかもしれませんね。
萩藩や長州の明治維新書籍を次々と復刻してくれる「マツノ書店」のような所があれば助かるのですがね。

高須賀氏について

該当の高須賀さんは千葉県野田の出身です。
野田市の歴史館や、高須賀本家菩提寺、分家菩提寺にも調査に行って見ましたが近世の史料のみで
中世のことは分りませんでした。高須賀さんは野田に来る前は伊予に居て、伊予高須賀家の流れで
あるとの想定で調べていますが、伊予高須賀家は二流あって、かつ野田高須賀家との関連が未だ
はっきりしていません。
野田市を本拠とするキッコーマン(亀甲萬)醤油の創業家らと高須賀家は同列に野田史には残りますので
野田高須賀家の探索はキッコーマン本社社史編纂室も創業家の出自がわかるかもと注目しています。
あの有名な日本一の醤油メーカーの創業家の出自が分からないのが社史編纂室も苦労していると言ってました。
キッコーマン醤油は和歌山湯浅醤油の流れと思っていましたが、そうではなくてそれすらも分らないとしていました。
創業家は信州から来たとの伝承ですが詳細は不明とされていました。高須賀氏らと伊予から来た可能性も捨て
切れないとも言っていましたね。もっともキッコーマン醤油は三家の合同会社ですのでそれぞれを調べる必要は
あるのですが。キッコーマン醤油はしょっぱいので所謂、「下り物」ではなく「下らない物」の一つとされます。

幸手の一色さんは元々本家ですね。一色の名は愛知県の一色に赴任したので一色とされていますね。
一色家は名門ですので、全国に広がっていますね。伊予の一色氏とは交流がありますので一色大系図も頂戴
致しました。とても興味深い系図です。美濃土岐家や斎藤家、明智光秀家にも連なる系図ですので中世史では
欠かすことのできない家でもあります。足利一族ですから当たり前ですが・・・。


●屋代源三様

しばらく出張しておりまして、出先のネット接続の環境が芳しくなく、十分な検索が出来ず
帰宅後改めて高須賀氏関連につきまして調べてみました。
野田高須賀氏とキッコーマン創業家の関連、特に大坂の陣関係で①と②を確認致しました。
キッコーマン茂木家の先祖は美濃土岐氏の出とあり、伊予高須賀氏の祖とされる新田氏流堀口氏の
一族で美濃に居住した流れがやはり土岐氏と関係している様ですので、調べたものが③の
『美濃国諸家系譜』の堀口氏系図です。残念ながら手掛かりはございませんでした。

美濃堀口氏が拠点とした西美濃とも称される岐阜県西部に、竹中半兵衛が出た竹中氏がございますが
紀州に転じた子孫の系図があるようで、伊予高須賀氏の祖が紀州から伊予に渡ったとの事ですから
美濃堀口氏も含め他家で西美濃から紀州に移住した事象はなかったかと探ってみましたが、
結果はゼロでした。

伊予と美濃は、土岐氏や河野氏系稲葉氏などの関係もあり、高須賀氏も含めて今後も継続して
勉強したいと思っております。


①MOMOA - 茂木本家美術館 - 美術館について - 茂木本家について
http://www.momoa.jp/about2.html

②異説 醤油の「むらさき」4「キッコーマンと妙見」
http://yagasane.web.fc2.com/imurasaki4.html

③美濃国諸家系譜
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/796/6/0740?m=all&n=20
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1101/0541?m=all&s=0541

Re: 戦国期の伊予の武士たちを網羅した記録

2022年07月28日 07時27分11秒 | 伊予河野家と屋代島(周防大島)
> 屋代源三様、初めまして。
> ネット検索をしておりましたところ、こちらの掲示板が目に留まりましたので
> 失礼ながら投稿させていただく次第です。
>
> 屋代様がご紹介して下さった「戦国期の伊予の武士たちを網羅した記録」の中に
> 友近式部・友近大学の名がございます。
> もう20年ほど前に先祖調べで愛媛県立図書館に出向いた際、河野氏関連の書籍の中で
> この2名を発見しコピーをとっておいたのですが、不覚にも紛失・・・
> 中部地方に居住しており松山へ容易くは行けませんし、今となっては書名も思い出せず
> どうしたものかと気に掛かっておりましたところ屋代様のご投稿を発見!
> お示し下さった河野家臣団の記録と愛媛県立図書館所蔵本の内容は同一のように思われます。
>
> 不躾なお願いで恐縮ですが、ご投稿の元になった資料名をご教示いただけますと
> 幸いでございます。よろしくお願い申し上げます。

友近さん江
資料名は未だに分りません。たぶんメモのようなものです。

友近式部は風早衆の内、下記の人たちと同一グループと思われます。
この中で井門氏は河野家支族ですので格は一番高いものと思われます。
友近大学はどのグループかはまだよく分かりません。

風早郡は後に温泉郡に統合され、旧北条市、中島町、松山市の一部となります。
国広、宮脇、井門氏の子孫たちは現認されます。

國弘源左衛門 末房総五郎 宮脇新左衛門 吉原新右衛門 武任備前 若野修理 友近式部 井門大和 井門九郎右衛門 行元又四郎


●【また、そのついでに広島にて、熊谷氏文書に出てきます「安芸国三入荘友近名」や
安芸熊谷氏の九代当主・熊谷宗直の次男とされる「友近直春」、広島市安佐北区大林の「友近城址」
などにつきましても調査出来ればと思う次第です。愛媛の「友近」とは無関係と思いますが、
歴史的に関係の深い芸予両国に「友近」の地名・姓があることに、極めて個人的な感慨がございます。】

熊谷系図によると、熊谷宗直の二男、直春(彦五郎)は友近と書いてあるので、熊谷家家臣の友近家へ
養子に出されてものと思われます。行った先が可部大林の友近城だと思われます。可部全域が熊谷家の
領地ですから、友近城は石見街道の可部駅を見張っていたのかも知れませんね。交通の要所です。
兄、膳直が享徳元年(1452)に生まれていますので、直春は同じ、享徳か康生年間の生まれと思われます。
前述の可部の木原氏が伊予から来ているので、友近氏も伊予から熊谷家に来たか、それとも安芸から伊予に
渡ったか双方とも考えられます。伊予、久万大除城の大野氏は安芸熊谷家から養子を貰い、以後通字を熊谷直実
の「直」を踏襲して現在に至っています。

伊予の友近氏は風早郡や和気郡にいますから、古い時代から伊予に居た可能性が高いですね。
河野家に属していたとすれば、風早郡(旧北条市)のどこかに居たと思われます。
松山の友近神社は友近忠吉ゆかりとしますので、こちらは昔は和気郡和気村ですから、友近領は
伊予のあちこちにあったことになります。


●屋代様

三入荘の所領分与を巡る熊谷直時と熊谷資直の相論があったのが1200年代の中頃でございますが、
それに関する鎌倉幕府の下知状等に「友近名」が出てきますので、そこが安芸・友近氏の発祥地で
間違い無いと思われます。
そして、後に安芸・友近氏が熊谷氏の家臣となり、「直春」が養子に入ったものと私も思うのですが
東京大学史料編纂所データベースで確認出来ます熊谷系図によりますと、
 https://goo.gl/W5MqD8
「ともちかひこ五郎、若狭へ上る」との書き入れがございます。
直春の弟直祥の書き入れの注記には、「直祥信直(兄膳直の孫?)と争いが若狭に去る」とありますので、
直春の若狭行きも関連していると思われます。となると熊谷系友近氏は直春一代のみとも考えられます。
そのあたりも調べてみたいところですが、ネット検索したところ広島県立文書館の古文書収集事業で、
平成12年度にマイクロフィルムにより「友近家文書」という史料が収集されています。
これが手掛かりに成りはしないかと期待しつつも公開の有無が定かではありませんし、
仮に閲覧が可能であっても素人の私には古文書の解読は出来そうにございません。


話は変わるのですが、屋代島所縁の村上武吉関連の番組が来週放送されますね。楽しみでございます。

 NHK-BSプレミアム 9月28日午後8時00分~午後9時00分
 英雄たちの選択「海賊王・村上武吉vs.天下人・豊臣秀吉」
 http://www4.nhk.or.jp/heroes/



●【安芸の友近氏】
確かに関東下知状に友近名が2ケ所でてきますね。

ただこれを以て友近氏の発祥地とは断定できませんね。
他の名田が当時の開発領主の氏名等が付けられていると思われますので、
未だ地名の無い所を開発(開墾)したので開発者が自分の名を付けたように思えます。
であるなら友近の名は安芸三入庄に元々あるのではなく他の所が想定されます。

三入庄を熊谷家に与えられた時は殆ど山ばかりで家臣団はそれぞれ開墾していった
感じですね。他の名田も殆ど人名であることから開発地と思えます。

1923年の地図では大林村友近とホノギが残っていますので、安芸友近氏は安芸時代は
ここが根拠地であったことは間違いないと思います。
大林も開発領主と思います。現在、可部バイパス近くの大林八幡宮近辺が友近部落と
思われます。かっての伊勢ケ坪城の西に位置します。

では友近の姓はどこからきたのでしょうか?
熊谷家と共に下向したと思われますので、関東武士の流れが想定されます。
熊谷一門の可能性が高いですね。
とすれば全国の熊谷家文書や吾妻鑑の探索が必要となります。

想定では関東(熊谷?)→安芸→伊予→長門と変遷した可能性があります。

廣島県文書館は事前に相談すれば見せてくれますし、解説もしてくれますよ。
複写はできませんが、写真撮影は可能な筈です。
ただ広島県文書館は歴史が浅いので史料はあまり多くありません。

伊予史談会の「友近与一左衛門文書」(伊予古文書 請求No.イ・5・48)は
所収されていますでしょうか?
もし手元にあれば内容を教えてくれませんか?

NHK-BSプレミアム のご案内有り難うございます。
当日は私は国内にいませんので見ることができません。
村上武吉と秀吉は敵対関係にありましたのでだいたい流れはわかります。
元々は秀吉ではなく信長からですがどのように描きますかね。
調略の姫路会談が出てくればそこそこの内容ですね。
それが出てこないとありきたりのストーリーですね。
解説者の顔ぶれが基礎編しか語らない人たちだけですので食い足りないかも知れませんね。



●> ただこれを以て友近氏の発祥地とは断定できませんね。

やはり即断は禁物ですね。
何か参考になる資料はないかと検索しておりましたこちらに行き当たりました。

 服部英雄 第四部 荘園景観の遡及的復原法
 http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/21647/5_%E7%AC%AC%E2%85%A2%E9%83%A8-1.pdf#page=114

調べなくてはならない事が増えてまいりました。

> 伊予史談会の「友近与一左衛門文書」(伊予古文書 請求No.イ・5・48)は
> 所収されていますでしょうか?
> もし手元にあれば内容を教えてくれませんか?

史談会の史料は入手しておりませんが、萩藩閥閲録と山口県姓氏歴史人物大辞典の
関係部分をコピー致しております。画像化しましたのでご参照下さい。


●資料提供有り難うございます。
伊予の友近氏を探索していますが古い記録が発見できません。

広義な意味ではタレントの友近さんも一門でしょうね。