山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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屋代島和佐、心月院で平岡家未発見墓発見

2024年11月18日 10時24分44秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
伊予の河野総領家である伊予河野家最後の殿様河野牛福通直に重臣として仕え、河野家内訌により弱体化する主家を守ろうと、
当時、中国で破竹の勢いの毛利家、小早川家との外交を担った伊予平岡家は天正15年の河野家滅亡により毛利家の臣下となりました。
最初に与えられた領地が周防大島和佐の地で後に屋代村北迫の地を加増され明治を迎えます。

初期の平岡家は和佐を治めるにあたり菩提寺を心月院を創建としました。
この寺は明治の廃仏毀釈で森の法名院と合併させられました。

心月院を探すにあたり和佐地区に行きましたが現在の地元の人は誰一人この寺は知らないと云い、
困っていると、古い寺なら七十六番札所の現在観音堂と呼ばれている所ではないかと云うことに
なり、ややこしい所だからと自転車で先導して連れて行ってくれた。

こじんまりとした観音堂であったが、中で平岡家先祖伝来の位牌を見付けた。



ただ個人位牌ではない。

墓を探すべく外に出たが、殆ど現代墓で江戸初期のものは無かった。

やはり駄目かとふと見上げると前の小高い笹薮のすきまから墓の一部が見えた。

藪の中を滑りながら上がると崩壊した旧寺跡があり、その下方に二基の墓があった。

一基が



で戒名は 本清院殿天澤浄■居士覚霊    宝永五年(1628)と読める。

もう一基が



■■院殿心澄真■■■■     宝永七年(1630)十一月八日のようである

双方ともに領主(殿様)を意味する「院殿号」を有しているのでこの地の領主である平岡家のものであると推定される。

ただ、萩藩閥閲録譜録の平岡系図にはこの二人の戒名は見当たらない。
譜録の平岡系図は萩藩閥閲録を編成する江戸中期の作なので、平岡子孫は存じなかった可能性が高い。

没年からすると平岡房實の兄弟とも思われる。今の所、他の平岡系図にも見いだせない。

屋代島転居の平岡通軌や平岡直房より前の没年であるから彼らよりは年上かもしれない。

新しい発見でした。なにかお分かりの方の投稿をお待ちします。

平岡氏 津々木谷氏

2022年07月24日 09時53分03秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
萩藩に提出された「平岡系図」を見直すと確かに善兵衛直房の兄は「津々木屋の家を継ぐ」とありますね。
曰く

「平岡 孫右衛門 宇右衛門
  津々木屋ノ家ヲ継ク 河野家滅亡ノ為メ平岡ニ皈リ福島正則ニ仕フ 福島家亡滅ニ至リ松平宰相ニ
  仕フ、末裔今ニ至ルモ不絶 死去年月日不知 」

とあります。

津々木屋(谷)は厳密にいいますと大洲(津)宇都宮の一族です。

この記録からすると、平岡孫右衛門は一旦、河野家時代に津々木谷に養子に入り河野家滅亡(天正15年)
により平岡家に復帰しますが、松前(正木・刈谷口)の戦い慶長5年(1600)時は津々木谷と認識されていたことに
なりますね。この戦いは村上武吉の嫡男元吉が出陣し討死しますし、平岡善兵衛直房の舅、曽根高房も正木城で九月十七日討死します(萩藩曽根系図)。またこの日は平岡善兵衛直房は持城の
荏原城に立て篭もり、19日久米村如来寺に出張して加藤勢と戦い、黒田九兵衛飛松兵助らを打取り、河野家再興を図ったが加藤氏の軍に敗れました(小松邑史)。

この軍団の中に屋代島和田、後に屋代へ移住した、村上家家老大野直政もいます。彼は大怪我をしますが一命
を取りとめます。平岡系図に大野家との婚姻がしばしば出てきますが、それはこの大野直政家です。

こちらの本家は伊予久万大除城です。ここの当主大野利直の妻が平岡房実の嫡女、妙智院です。
これらのことから平岡直房の直は大野家「通字」の直で「房」は平岡家「通字」となります。
ちなみに「通」は河野家の「通字」で「行」は津々木谷家の「通字」です。

さて大野直政は能島村上代表として、天正10年、姫路の秀吉の招待を受け、姫路会談を行いますが、能島村上家は伊予河野家及び
毛利家に味方しますとし、信長の代理の秀吉の誘いを断った張本人です。この時、来島村上の代表も来ていますが、伊予河野家が来島に家督を譲らないことに腹をたて、秀吉側につき、秀吉の代以降九州の大名となり明治を
迎えます。これらのことから、大野は冨永と、平岡は岡と変名せざるを得なくなり、秀吉が死んでから復姓します。

村上元吉の遺骸は広島県竹原の珍海山に持ちかえられ、同じく討死した村上家家臣たちと葬られます。

余談ながら「愛媛県史」等で引用される「河野家分限録」ではこの竹原珍海山に葬られたのは村上武吉と
書かれていますので、「河野家分限録」は信用できない所以です。分限録と分限帳は違います。

話を戻しますと、平岡善兵衛直房の兄、平岡孫右衛門の子に右近、左近右衛門、仁兵衛の3人がいて
二男左近右衛門の子にまた孫右衛門がいます。こちらは「萩藩平岡系図」によると

「三田尻ニ来リ叶岡左五兵衛ト改メ数年居住ノ後他国ス」

とあります。もし、岡さんちの先祖に孫右衛門か五兵衛と名乗る人物がいるなら岡家はこちらの系列かも
しれません。孫右衛門や五兵衛は代々伝える「通り名」の可能性があります。

尚、加藤家に仕官した村上家の人は沢山います、加藤家のみならず全国の大名に仕官します。
倒産会社の社員が同業社にリクルートするのと同じです。
このあたりのことは村上家「覚書」に詳しく書かれています。

これを村上家から宮本常一先生が写した原稿が大島の文化センターなる所にありますが、数十年前にこれを
COPYさせてくれと遠くから出かけていったのに、都会からきていたまともな文芸部員は「どうぞ」といって呉れたが、レベルの低い当時の東和町の教育委員会の職員が、宮本常一先生の貴重書であるからCOPYはまかりならんとし、止むなく半日かけて書きうつさざるを得なかった。コピーなら数分で済むの常一先生は
結構癖のある字なのでなれるまで大変であった。未だに腹がたつ。教養豊かな都会からわざわざ招いた文芸部員が宮本原稿はそのものは現在の資料であるから全国の基準からするとCOPYは構わないレベルですと助言
してくれたのに、田舎者主任には通じなかった。

まあ気長に調べるしかありません。岡さんお互い勉強していきましょう。

平岡氏 津々木谷氏 投稿者:平岡子孫岡

2022年07月24日 09時52分22秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
周防大島郷土大学奥井紀舟氏より入電アリ。氏の談によると、平岡氏は、都築谷(続谷・津々木谷・・・)氏は、屋代源三様のとうり、栃木からの宇都宮氏の譜代の臣であるし、平岡氏が津々木谷からの出ではありません。刈屋口の戦いで加藤側の記録で毛利側に津々木谷を名乗るものがいたということ。記憶が正しければ、(続谷系図で)通行の妹が平岡房実の妻となり、通行の養子として房実の子の孫右衛門通智が記されている。同系図では、孫右衛門の弟を善兵衛房智としている。母方姓津々木谷を刈屋口の戦いの際名乗ったのかも知れない。房智の名は知られていないが平岡氏系図
〔萩藩緒家系図〕琵琶書房の中に善兵衛直房の兄孫衛門については津々木屋を継ぐとなっていたと思う。とのことでした。
関が原より以前のことは、周防大島ではわからぬ。が再回答でした。常山紀談や公明録などは、刈屋口の戦い(村上側では竹原崩れ)から70年以上も後に編纂されたもので、信憑性の欠けるものがあるかもしれないが、村上氏の直系の家臣団の一人が加藤家に仕官しており、因島の村上氏の系列も佐方村で余生を送っていることから聞き取り調査?行ったのかもしれないが、勝った方なので自慢話が含まれている可能性はあるが、ひとつの参考としてみていくとまた違ったものが見えると思う。続々喜谷氏と平岡氏の関係について、福川一徳氏に会ったら詳しく聞いてみます。とのことでした。
?とにかく、お二人の知識にに付いて行くどころかどころかとんでもないほどの先に置いて行かれてしまいました。
今回のルーツ探しは、防府の親戚が周防大島から来たということ、その前は、伊予の国から・・・・歴史はどうあれ400年以上も遡れました。また、明治に防府の平岡という親戚が周防大島に呼ばれて来た。奥井氏の平岡一門に関する備忘録から村上水軍の関係者ということも分かりました。残念なことは、平岡善兵衛の墓が残欠になっているということ。案内された墓標群と観音堂に参拝できたことが一番の供養です。少し勉強いえいえかなりの猛特訓しないとお二人の姿さえ見えないと思いますが、愛媛県の松山や大洲(津々木谷氏)を訪れたいです。奥井氏のネット登場を待っています。?

伊予国の平岡氏

2022年07月24日 09時50分29秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
【都築谷孫右衛門が平岡孫衛門、都築谷主水が平岡善兵衛出ないかと思われる。】

の想定は間違いと思われます。都築谷(正しくは津々木谷)氏は大洲領主、宇都宮氏が武州宇都宮(栃木県宇都宮)から移動してきた時からの宇都宮譜代の臣で、戦国期は宇都宮氏は平岡房実の主君河野と敵対していましたので、彼の息子たちが津々木谷に養子に行くことはありませんし、善兵衛が津々木谷家なら、長州平岡家
はありません。

常山紀談や築山本河野家譜に登場するのは平岡系図にある平岡孫右衛門(宇右衛門)と平岡善兵衛直房兄弟の
ことです。

江戸期の平岡系図は曖昧ですが、他文書等から整理しますと、河野家重臣平岡房実の子供たちは他に

①平岡房実嫡女妙智院    →久万大除城主大野利直の室(直昌の母)、但し政略婚
②平岡太郎通賢(ミチカタ)
③平岡通房(ミチフサ)
④平岡宮内大夫通資(ミチスケ)
⑤平岡近江守通倚(ミチヨリ)  →荏原浄瑠璃寺薬師堂裏ニ墓有り
⑥平岡左近将監       →娘が村上義忠の室とあるから別人かも、
⑦平岡孫右衛門 宇右衛門
⑧平岡善兵衛通弘      →善兵衛直房の前名かも、直は大野家通字で直昌のヘンイか?
⑨平岡善兵衛直房      →長州平岡家祖
⑩平岡房実の娘       →不明
⑪平岡左近房衛(峯)    →大野直昌旗下荏原西町城主

となります。他に、
●平岡上野守【南行雑録】
●「志津川衆」中の平岡尾張守、【河野家文書】
●平岡伊豆守房家  →河野通直の質として天正13年春、元親の許へ
●平岡近江守通利  →天正中河野十八家の一人、土岐家跡荏原徳川城主、生子山砦兼帯 墓は浄瑠璃寺に在り
●平岡右京     →荏原東町 土居構主
●平岡左近将監   →荏原西町 縫針砦主 【小松邑史】

等が散見されますが、相関関係がわかりません。

長州平岡家が元祖を豫州河野家と間違うのは河野牛福通直時代に河野家通字の「通」ヘンイされたことからの
誤解からでしょう。

豫州・平岡冶部少輔通長家の家譜は房実の父を房世、その前を房近、その前を房京、その前を
平岡下総守頼房とし初めて河野家に仕えるとします。
この平岡家に伝わる家紋が九曜紋です。

ただ、こちらの平岡系図は房実の跡が断絶したかのように書きますので、注意が必要です。

屋代島の平岡家は仲間の和田村上家や屋代大野家(含徳山大野家)曽根家と江戸期を通じて婚姻関係を
繰り返します。気心の知れた人達との結びつきを大事にしたのでしょう。

のちの明治期の平岡通義と村上兼助(惟庸)大野直輔(造幣局長・会計検査院長)はたがいの家の成り立ち
や歴史的経緯は知っていて「やあやあ~」と付き合っていました。
これらの経緯を知らないのは彼らから3代から4代後の我々の代のようです。

伊予国の平岡氏 投稿者:平岡子孫岡

2022年07月24日 09時49分42秒 | 安芸と伊予路を周防に結ぶ平岡家
屋代源三様いろいろありがとうございます。周防大島郷土大学の奥井紀舟氏から、心月院のことについては宮本常一氏の瀬戸内海の研究(未来社)に記載されていることは早くから教えられておりましたが、奥井氏は、必ず現地に赴き『あるく・みる・きく』をされているそうです。もちろん、浮穴郡、荏原城や平岡山にも行かれているそうです。もちろん、法心寺の前住職に平岡善兵衛の位牌も、ただ、関が原以前のことは周防大島ではわからぬ。伊予国で調べたほうが良いと。今回のスレにはなかったのですが、奥井氏の指摘事項を投稿しておきます。刈屋口の戦いで、奥井氏の記録は村上氏側の記録が中心。加藤氏側の記録は、松山市資料集第2明公秘録に都築谷主水、都築谷四郎五郎という記載がある。他書にみられないのが二人の都築谷氏。かつて伊予国喜多郡国人津津喜谷氏ではないか同氏は平岡氏と関係が深かったことが知られている。都築谷孫右衛門が平岡孫衛門、都築谷主水が平岡善兵衛出ないかと思われる。明公秘録2冊には平岡氏の名前は現れない。しかし常山紀談や築山本河野家譜に登場する。来島文書に来島家に加勢を求める使者として筒木屋氏であるとされている。のでこのあたりを伊予国で調べたら面白い発見があるかもとのことでした。いろいろなご指導ありがとうございます。伊予国の人によろしくのことでした。