大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)5
【大洲系譜三十八代】
友直
・安芸守
友直息 直幸 大野重兵尉
弟 【大洲系譜】
直秀
・松前城主
・毛利元就之幕
・八代嶌ニ住居
直秀息 直政
➡周防屋代島村上武吉家臣大野系図へ繋ぐ
➡長州徳山藩毛利家中大野系図へ繋ぐ
➡筑前福岡藩黒田家中大野系図へ繋ぐ
弟 【大洲系譜】
直澄
次郎左衛門
始名直泰
茗荷谷村 中井谷村 橘
立花三郎兵衛尉 初名ノ宣直為家臣
直澄息 直範
【南予史】
【表岸城】 宇和川村
汗生城とも云う、中井谷橘城の一族冨永直安の古城
なり、家老に闋右衛門とて豪の者あり勇武に奢り他を
軽蔑するがある時、城中の者共、川狩を催し八重栗
の河中にて槍をもて突き殺したり、今に闋右衛門淵
と云うなり。
【南予史】
【櫻ノ城】 宇和川村
中井谷に在り、橘城とも云う、冨永氏の古城なり。
【南予史】
【月ノ尾城】 山鳥坂村
横林村境に在り、橘城主冨永備中の弟右近の古城
なり、右近射術に達すなり。
【南予史】
【成ノ城】 大成村
森山に在り、宇和川汗生城主冨永直安の弟
美作守の古城なり、墓は瀧の上に在り。
【南予史】
【高尾城】 大谷村
当村 妙竜寺の僧、武を好み、橘直澄を招かんとして
此の城を築き、北ノ川左衛門尉の侍大将兵頭藤左
衛門居る。天正九年12月土佐勢一万余騎乱入し
北ノ川石見守敗れ、兵頭亦之に殉して陥る。
↓
【大洲系譜三十九代】
弟 直昌 (1530~1589)
・享禄三(1530)庚寅年十二月二八日誕生
・母 平岡大和守房実女妙智院殿是也
・天文十年(1641)壬寅歳元服 弥六郎
・九郎兵衛尉 任従五位下山城守
忠功其数積為勧賞自征夷大将軍源義輝公
毛毡鞍覆白傘袋為 御免其時御免状
毛毡鞍覆白傘袋免除記於藤孝可申也
(天文八) 二月廿二日 御判
大野九郎兵衛尉(直昌)殿
同時細川兵部大輔藤高添状
毛毡鞍覆白傘袋被免之旨在成御内書候
於得其意可申候由被仰出候 御面目
至珍重候 恐惶謹言
(天文八 )二月廿二日 細川兵部大輔藤孝
大野九郎兵衛尉(直昌)殿
毛利元就 小早川隆景深重可申合之
神文来 元就 隆景返状
御音書令被見候 其表之儀 過半被任
存分由素尤目出度候 猶當方大慶此事候
仍御太刀一振金覆輪馬一匹送給候
遠方御懇之儀畏入候、何様自是可申述候
条、先以閣筆候、恐惶謹言
天文十 二月廿一日 元就
大野山城守(直昌)殿 御宿所
(2101*毛利元就書状)
先日者遙々預御使僧候、毎事御懇意畏入候
仍此表之儀来春頓一向可申候之覚悟之条
誠雖遠方之儀一勢預御馳走者、可為本望候
猶委細村上河内守方可申達候、
恐惶謹言
天正元 十二月十三日 隆景
大野山城守(直昌)殿 御宿所
(1833*小早川隆景書状)
雖在直昌久万因元教命補宇都宮然后到干
天正十六(1588)戊子歳當国武家悉没落
毛利元就 小早川隆景依懇念於芸刕
竹原退同十七(1589)己丑歳七月廿七日逝去
法名永称院殿前大除家従五位下直真宗昌
葬直昌・【東光山薬師寺】 「ガリ版」
(広島県竹原市図書館蔵)
廃、薬師寺 東光山醫王院ト號シ 元本村中通
ニアリシ浄土宗ノ梵刹ニシテ規模広大ナリシガ
天保六年以来無住ナリシ故ヲ以テ明治六年廃寺
トナレリ
抑当寺ハ僧単誉ノ開基ニシテ下市村西方寺ノ末寺
ナリ、慶長七年長庵ナルモノ住持セシコトアリ
本僧秘仏薬師如来ハ行基菩薩ノ直作ナリ
今ハ成井観音堂ニ安置ス。
【直昌位牌】 「竹原より昭和29年久万帰山」
(寛政九年大野和五郎直尚新調)
(表面) 永称院殿直真宗昌大居士
(裏面) 天正十七己丑七月二七日
予州浮穴郡久万山大除城主大野山城守大伴直昌
施主 予州浮穴郡太田上川村 大野和五郎直尚
石塔は当寺裏杉垣ノ内ニ有り
★大除城主大野直昌の帰還位牌【久万町菅生】
・町指定有形文化財[彫刻](昭和49年12月17日指定)
・所有者:槻ノ沢組
直昌息 直綱
直昌息 直常
➡大坂・商家天野屋利兵衛系図へ繋ぐ
➡伊予上川村庄屋大野系図へ繋ぐ
➡彦根藩井伊家中大野系図へ繋ぐ
弟 【大洲系譜】
直光
・宇津村大野
・伊賀崎村
・伊賀崎修理太夫
直光息 直盛
➡伊予 大野・伊賀崎系図へ繋ぐ
【南予史】
【大野城】 宇津村
一に平岩城と云う、
大野三郎大夫直光の古城なり。
弟 【大洲系譜】
直之 (~1592)
・菅田村 大竹村 梅川村
・号菅田右衛門太夫
・法名 明岩院宗高
・文禄元(1592)年二月二十日卒去
直之息 【大洲系譜】
直綱 (~1634)
・右衛門 三郎 与太郎
半左衛門尉
・寛永十一(1634)年四月廿二日
於奥州會津病死
➡土佐 大庄屋 大野(改名小野)系図へ繋ぐ
➡徳川幕府老中佐倉藩主土井利勝家中大野系図へ繋ぐ
➡徳川御三家紀州徳川頼宣家臣大野(菅田)系図へ繋ぐ
【村上通康・平岡房実連署條目(大野文書)】
條々
一、粟津覚悟相違之事
一、大野方御契約之事付加判人数等之事
一、大野方別而入魂之条行当并無事何も
一、途急度可申談事
一、番替来月四日至太田表可差越之事
一、神書文言一先可有隠密事
一、菅筑(菅田筑前守?)此方ヘ可被越之由
申遣事 己上
(永禄十年カ) 十月晦日
村雲 通康(村上出雲守) 花押
平和 房実(平岡大和守) 花押
菅田ヘまいる
(県史 1975 大野文書)
【伊豫不動記(巻2上)】
外様諸郡旗頭衆
大野上総介直之
郡中屋岩城 手勢四十騎と有る。
【州城要輯】(伊予史談会)
大野直之墓
仝郡川邊村大字山鳥城ニ在リ
本願寺ニ安置セル
位牌ニ
雲月忠公大禅定
直心院殿圓行道智居士尊儀
息女幼姓自圓大師
裏面ニ
七月七日□城主
大野直之公霊位
*息女幼姓自圓大師は上川村系譜は直之妹と出る
・早世 天正十三(1585)年七月七日卆
葬 干伊豫國山鳥坂村岩谷
法名 幼性自円童女
奇しきも命日が直之と同じとは一緒に自害。
妹で童女はおかしいが、しばらく茲におく【呑舟】
*土佐名野川庄屋小野系図は直之の末娘とする
娘が正しいのであろう。2018.8.25呑舟
弟 【大洲系譜】
直定
・一木村 田之口村 徳森村
・一木左馬進
直定息 直勝
➡伊予 大野一ノ木系図へ繋ぐ
弟 直周
・相津村 薄木村
・相津九郎兵衛尉
直周息 直政
・大野九郎兵衛
・江武ニ住ス
【大洲系譜三十八代】
友直
・安芸守
友直息 直幸 大野重兵尉
弟 【大洲系譜】
直秀
・松前城主
・毛利元就之幕
・八代嶌ニ住居
直秀息 直政
➡周防屋代島村上武吉家臣大野系図へ繋ぐ
➡長州徳山藩毛利家中大野系図へ繋ぐ
➡筑前福岡藩黒田家中大野系図へ繋ぐ
弟 【大洲系譜】
直澄
次郎左衛門
始名直泰
茗荷谷村 中井谷村 橘
立花三郎兵衛尉 初名ノ宣直為家臣
直澄息 直範
【南予史】
【表岸城】 宇和川村
汗生城とも云う、中井谷橘城の一族冨永直安の古城
なり、家老に闋右衛門とて豪の者あり勇武に奢り他を
軽蔑するがある時、城中の者共、川狩を催し八重栗
の河中にて槍をもて突き殺したり、今に闋右衛門淵
と云うなり。
【南予史】
【櫻ノ城】 宇和川村
中井谷に在り、橘城とも云う、冨永氏の古城なり。
【南予史】
【月ノ尾城】 山鳥坂村
横林村境に在り、橘城主冨永備中の弟右近の古城
なり、右近射術に達すなり。
【南予史】
【成ノ城】 大成村
森山に在り、宇和川汗生城主冨永直安の弟
美作守の古城なり、墓は瀧の上に在り。
【南予史】
【高尾城】 大谷村
当村 妙竜寺の僧、武を好み、橘直澄を招かんとして
此の城を築き、北ノ川左衛門尉の侍大将兵頭藤左
衛門居る。天正九年12月土佐勢一万余騎乱入し
北ノ川石見守敗れ、兵頭亦之に殉して陥る。
↓
【大洲系譜三十九代】
弟 直昌 (1530~1589)
・享禄三(1530)庚寅年十二月二八日誕生
・母 平岡大和守房実女妙智院殿是也
・天文十年(1641)壬寅歳元服 弥六郎
・九郎兵衛尉 任従五位下山城守
忠功其数積為勧賞自征夷大将軍源義輝公
毛毡鞍覆白傘袋為 御免其時御免状
毛毡鞍覆白傘袋免除記於藤孝可申也
(天文八) 二月廿二日 御判
大野九郎兵衛尉(直昌)殿
同時細川兵部大輔藤高添状
毛毡鞍覆白傘袋被免之旨在成御内書候
於得其意可申候由被仰出候 御面目
至珍重候 恐惶謹言
(天文八 )二月廿二日 細川兵部大輔藤孝
大野九郎兵衛尉(直昌)殿
毛利元就 小早川隆景深重可申合之
神文来 元就 隆景返状
御音書令被見候 其表之儀 過半被任
存分由素尤目出度候 猶當方大慶此事候
仍御太刀一振金覆輪馬一匹送給候
遠方御懇之儀畏入候、何様自是可申述候
条、先以閣筆候、恐惶謹言
天文十 二月廿一日 元就
大野山城守(直昌)殿 御宿所
(2101*毛利元就書状)
先日者遙々預御使僧候、毎事御懇意畏入候
仍此表之儀来春頓一向可申候之覚悟之条
誠雖遠方之儀一勢預御馳走者、可為本望候
猶委細村上河内守方可申達候、
恐惶謹言
天正元 十二月十三日 隆景
大野山城守(直昌)殿 御宿所
(1833*小早川隆景書状)
雖在直昌久万因元教命補宇都宮然后到干
天正十六(1588)戊子歳當国武家悉没落
毛利元就 小早川隆景依懇念於芸刕
竹原退同十七(1589)己丑歳七月廿七日逝去
法名永称院殿前大除家従五位下直真宗昌
葬直昌・【東光山薬師寺】 「ガリ版」
(広島県竹原市図書館蔵)
廃、薬師寺 東光山醫王院ト號シ 元本村中通
ニアリシ浄土宗ノ梵刹ニシテ規模広大ナリシガ
天保六年以来無住ナリシ故ヲ以テ明治六年廃寺
トナレリ
抑当寺ハ僧単誉ノ開基ニシテ下市村西方寺ノ末寺
ナリ、慶長七年長庵ナルモノ住持セシコトアリ
本僧秘仏薬師如来ハ行基菩薩ノ直作ナリ
今ハ成井観音堂ニ安置ス。
【直昌位牌】 「竹原より昭和29年久万帰山」
(寛政九年大野和五郎直尚新調)
(表面) 永称院殿直真宗昌大居士
(裏面) 天正十七己丑七月二七日
予州浮穴郡久万山大除城主大野山城守大伴直昌
施主 予州浮穴郡太田上川村 大野和五郎直尚
石塔は当寺裏杉垣ノ内ニ有り
★大除城主大野直昌の帰還位牌【久万町菅生】
・町指定有形文化財[彫刻](昭和49年12月17日指定)
・所有者:槻ノ沢組
直昌息 直綱
直昌息 直常
➡大坂・商家天野屋利兵衛系図へ繋ぐ
➡伊予上川村庄屋大野系図へ繋ぐ
➡彦根藩井伊家中大野系図へ繋ぐ
弟 【大洲系譜】
直光
・宇津村大野
・伊賀崎村
・伊賀崎修理太夫
直光息 直盛
➡伊予 大野・伊賀崎系図へ繋ぐ
【南予史】
【大野城】 宇津村
一に平岩城と云う、
大野三郎大夫直光の古城なり。
弟 【大洲系譜】
直之 (~1592)
・菅田村 大竹村 梅川村
・号菅田右衛門太夫
・法名 明岩院宗高
・文禄元(1592)年二月二十日卒去
直之息 【大洲系譜】
直綱 (~1634)
・右衛門 三郎 与太郎
半左衛門尉
・寛永十一(1634)年四月廿二日
於奥州會津病死
➡土佐 大庄屋 大野(改名小野)系図へ繋ぐ
➡徳川幕府老中佐倉藩主土井利勝家中大野系図へ繋ぐ
➡徳川御三家紀州徳川頼宣家臣大野(菅田)系図へ繋ぐ
【村上通康・平岡房実連署條目(大野文書)】
條々
一、粟津覚悟相違之事
一、大野方御契約之事付加判人数等之事
一、大野方別而入魂之条行当并無事何も
一、途急度可申談事
一、番替来月四日至太田表可差越之事
一、神書文言一先可有隠密事
一、菅筑(菅田筑前守?)此方ヘ可被越之由
申遣事 己上
(永禄十年カ) 十月晦日
村雲 通康(村上出雲守) 花押
平和 房実(平岡大和守) 花押
菅田ヘまいる
(県史 1975 大野文書)
【伊豫不動記(巻2上)】
外様諸郡旗頭衆
大野上総介直之
郡中屋岩城 手勢四十騎と有る。
【州城要輯】(伊予史談会)
大野直之墓
仝郡川邊村大字山鳥城ニ在リ
本願寺ニ安置セル
位牌ニ
雲月忠公大禅定
直心院殿圓行道智居士尊儀
息女幼姓自圓大師
裏面ニ
七月七日□城主
大野直之公霊位
*息女幼姓自圓大師は上川村系譜は直之妹と出る
・早世 天正十三(1585)年七月七日卆
葬 干伊豫國山鳥坂村岩谷
法名 幼性自円童女
奇しきも命日が直之と同じとは一緒に自害。
妹で童女はおかしいが、しばらく茲におく【呑舟】
*土佐名野川庄屋小野系図は直之の末娘とする
娘が正しいのであろう。2018.8.25呑舟
弟 【大洲系譜】
直定
・一木村 田之口村 徳森村
・一木左馬進
直定息 直勝
➡伊予 大野一ノ木系図へ繋ぐ
弟 直周
・相津村 薄木村
・相津九郎兵衛尉
直周息 直政
・大野九郎兵衛
・江武ニ住ス