山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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大野家系譜(伊予大洲大野家本) 5

2024年02月02日 06時03分54秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)
大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)5

【大洲系譜三十八代】
友直
  ・安芸守

  友直息 直幸 大野重兵尉


    弟 【大洲系譜】
       直秀
       ・松前城主
      ・毛利元就之幕
       ・八代嶌ニ住居

        直秀息 直政
     
              ➡周防屋代島村上武吉家臣大野系図へ繋ぐ
              ➡長州徳山藩毛利家中大野系図へ繋ぐ
              ➡筑前福岡藩黒田家中大野系図へ繋ぐ

    弟  【大洲系譜】
        直澄
        次郎左衛門
        始名直泰
        茗荷谷村 中井谷村 橘
        立花三郎兵衛尉 初名ノ宣直為家臣

         直澄息 直範


           【南予史】
            【表岸城】   宇和川村
             汗生城とも云う、中井谷橘城の一族冨永直安の古城
             なり、家老に闋右衛門とて豪の者あり勇武に奢り他を
             軽蔑するがある時、城中の者共、川狩を催し八重栗
             の河中にて槍をもて突き殺したり、今に闋右衛門淵
             と云うなり。

           【南予史】
            【櫻ノ城】   宇和川村
             中井谷に在り、橘城とも云う、冨永氏の古城なり。

           【南予史】
            【月ノ尾城】   山鳥坂村
             横林村境に在り、橘城主冨永備中の弟右近の古城
             なり、右近射術に達すなり。

           【南予史】
            【成ノ城】   大成村
             森山に在り、宇和川汗生城主冨永直安の弟
             美作守の古城なり、墓は瀧の上に在り。

           【南予史】
            【高尾城】   大谷村
             当村 妙竜寺の僧、武を好み、橘直澄を招かんとして
             此の城を築き、北ノ川左衛門尉の侍大将兵頭藤左
             衛門居る。天正九年12月土佐勢一万余騎乱入し
             北ノ川石見守敗れ、兵頭亦之に殉して陥る。

 ↓
【大洲系譜三十九代】
弟 直昌 (1530~1589)
  ・享禄三(1530)庚寅年十二月二八日誕生
  ・母 平岡大和守房実女妙智院殿是也
  ・天文十年(1641)壬寅歳元服 弥六郎
  ・九郎兵衛尉 任従五位下山城守
   忠功其数積為勧賞自征夷大将軍源義輝公
   毛毡鞍覆白傘袋為 御免其時御免状


    毛毡鞍覆白傘袋免除記於藤孝可申也

    (天文八) 二月廿二日    御判
     大野九郎兵衛尉(直昌)殿


  同時細川兵部大輔藤高添状

    毛毡鞍覆白傘袋被免之旨在成御内書候
    於得其意可申候由被仰出候 御面目
    至珍重候  恐惶謹言

   (天文八 )二月廿二日  細川兵部大輔藤孝
     大野九郎兵衛尉(直昌)殿

  毛利元就 小早川隆景深重可申合之
  神文来 元就 隆景返状

   御音書令被見候 其表之儀 過半被任
   存分由素尤目出度候 猶當方大慶此事候
   仍御太刀一振金覆輪馬一匹送給候
   遠方御懇之儀畏入候、何様自是可申述候
   条、先以閣筆候、恐惶謹言

   天文十 二月廿一日   元就
    大野山城守(直昌)殿  御宿所
         (2101*毛利元就書状)

   先日者遙々預御使僧候、毎事御懇意畏入候
   仍此表之儀来春頓一向可申候之覚悟之条
   誠雖遠方之儀一勢預御馳走者、可為本望候
   猶委細村上河内守方可申達候、
   恐惶謹言

   天正元 十二月十三日    隆景
   大野山城守(直昌)殿  御宿所
        (1833*小早川隆景書状)

  雖在直昌久万因元教命補宇都宮然后到干
  天正十六(1588)戊子歳當国武家悉没落
  毛利元就 小早川隆景依懇念於芸刕
  竹原退同十七(1589)己丑歳七月廿七日逝去
  法名永称院殿前大除家従五位下直真宗昌

     葬直昌・【東光山薬師寺】 「ガリ版」
         (広島県竹原市図書館蔵)

     廃、薬師寺 東光山醫王院ト號シ 元本村中通
     ニアリシ浄土宗ノ梵刹ニシテ規模広大ナリシガ
     天保六年以来無住ナリシ故ヲ以テ明治六年廃寺
     トナレリ
     抑当寺ハ僧単誉ノ開基ニシテ下市村西方寺ノ末寺
     ナリ、慶長七年長庵ナルモノ住持セシコトアリ
     本僧秘仏薬師如来ハ行基菩薩ノ直作ナリ
     今ハ成井観音堂ニ安置ス。

     【直昌位牌】 「竹原より昭和29年久万帰山」
        (寛政九年大野和五郎直尚新調)

      (表面)  永称院殿直真宗昌大居士
      (裏面)  天正十七己丑七月二七日
            予州浮穴郡久万山大除城主大野山城守大伴直昌
            施主 予州浮穴郡太田上川村 大野和五郎直尚
            石塔は当寺裏杉垣ノ内ニ有り

           ★大除城主大野直昌の帰還位牌【久万町菅生】
           ・町指定有形文化財[彫刻](昭和49年12月17日指定)
           ・所有者:槻ノ沢組

         直昌息 直綱
         直昌息 直常

              ➡大坂・商家天野屋利兵衛系図へ繋ぐ
              ➡伊予上川村庄屋大野系図へ繋ぐ
              ➡彦根藩井伊家中大野系図へ繋ぐ


   弟 【大洲系譜】
      直光
      ・宇津村大野
      ・伊賀崎村
      ・伊賀崎修理太夫

        直光息 直盛
             ➡伊予 大野・伊賀崎系図へ繋ぐ

          【南予史】
           【大野城】   宇津村
            一に平岩城と云う、
            大野三郎大夫直光の古城なり。


   弟 【大洲系譜】
      直之 (~1592)
      ・菅田村 大竹村 梅川村
      ・号菅田右衛門太夫
      ・法名 明岩院宗高
      ・文禄元(1592)年二月二十日卒去

           直之息 【大洲系譜】 
            直綱 (~1634)
            ・右衛門 三郎 与太郎
             半左衛門尉
            ・寛永十一(1634)年四月廿二日
             於奥州會津病死

              ➡土佐 大庄屋 大野(改名小野)系図へ繋ぐ
              ➡徳川幕府老中佐倉藩主土井利勝家中大野系図へ繋ぐ
              ➡徳川御三家紀州徳川頼宣家臣大野(菅田)系図へ繋ぐ





        【村上通康・平岡房実連署條目(大野文書)】

             條々
          一、粟津覚悟相違之事
          一、大野方御契約之事付加判人数等之事
          一、大野方別而入魂之条行当并無事何も
          一、途急度可申談事
          一、番替来月四日至太田表可差越之事
          一、神書文言一先可有隠密事
          一、菅筑(菅田筑前守?)此方ヘ可被越之由
            申遣事            己上
           (永禄十年カ) 十月晦日

           村雲 通康(村上出雲守) 花押
           平和 房実(平岡大和守) 花押
          菅田ヘまいる
                (県史 1975 大野文書)


          【伊豫不動記(巻2上)】

           外様諸郡旗頭衆
           大野上総介直之
           郡中屋岩城 手勢四十騎と有る。

          【州城要輯】(伊予史談会)
           大野直之墓
           仝郡川邊村大字山鳥城ニ在リ
           本願寺ニ安置セル
           位牌ニ

               雲月忠公大禅定
            直心院殿圓行道智居士尊儀
               息女幼姓自圓大師

           裏面ニ
              七月七日□城主
            大野直之公霊位

           *息女幼姓自圓大師は上川村系譜は直之妹と出る
            ・早世 天正十三(1585)年七月七日卆
            葬 干伊豫國山鳥坂村岩谷
             法名 幼性自円童女

           奇しきも命日が直之と同じとは一緒に自害。
           妹で童女はおかしいが、しばらく茲におく【呑舟】

           *土佐名野川庄屋小野系図は直之の末娘とする
            娘が正しいのであろう。2018.8.25呑舟

    弟 【大洲系譜】
       直定
       ・一木村 田之口村 徳森村
       ・一木左馬進

         直定息 直勝

               ➡伊予 大野一ノ木系図へ繋ぐ


    弟  直周
       ・相津村 薄木村
       ・相津九郎兵衛尉

         直周息 直政
          ・大野九郎兵衛
          ・江武ニ住ス

大野家系譜(伊予大洲大野家本) 4

2024年02月01日 06時21分10秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)
大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)4

 ↓
【大洲系譜三十五代】
綱直 (~
 九郎次郎 実通繁二男、冨直依早世継家督
 宇都宮教綱烏帽子子也、久万山大乱未治
 無詮方自土岐光定召寄當家領分菩提所
 高源寺之僧、本当家興土岐 同氏也
 為當家再興荏原久万山譲 干土岐左京太夫
 成頼 乞軍勢、成頼喜 而語 細川右京太夫
 政元 以土州讃州之諸勢忽誅伐凶畢、
 其時状曰  *(1492*土岐成頼書状へ飛ぶ)

  【細川政元書状   (大野文書)】
   (端裏切封)「   ・---   」
   當國久万山事、馳向明神葛懸城敵数輩討捕
   被官三人討死之由候、尤以神妙之至候
   所詮宇都宮森山一段被相談、平岡事不日被
   相支退候者、為分國別而可喜入候、仍太刀
   一腰遣候、猶大平中務丞(國雄)可申候也
     謹言
   〔文明十二年)五月十七日 政元(花押)
    大野九郎次郎(綱直)殿
             (1489*細川政元書状)

   【大平國雄書状   (大野文書)】
    (端裏切封)「   ・---   」
   當國久万山事、被馳向明神葛懸城、敵数多被
   討取、御被官三人討死之由候条、則致披露、
   御書並御太刀一腰被遣之候、目出候、
   森山方之事、殊代々異干他候、子細令披露、
   始而被仰遣候事候、一段相動様被仰談、明神
   葛懸城不日退散候者、肝要候、一段被相動様
   被仰談、明神葛懸城不日退散候者、肝要候、
   揖斐孫太郎方へも平岡堅物お可有違變之由、
   切々可申沙汰心中候、但國之時委細示給候ハハ
   可得其意候、於京都之儀者、如御注進可申談
   候、猶可然候様國之事御調法可目出候、太刀
   一腰御馬一疋進之候、祝詞計候、猶期来信候
   恐々謹言
   〔文明十二年)五月廿一日  國雄(花押)
    大野九郎次郎(綱直)殿 御宿所

    (封紙ウハ書)
     「大平中務丞國雄
       大野九郎次郎殿 御宿所」
            (1491*大平国雄書状)

  予州荏原久万山事、先程申候処
  御懇示給候、悦着候、弥可然様願 御合力、
  早速達 本意候様被掛御心候者本望候。
  仍従 細川右京太夫土州讃州以諸勢可有
  合力之由承候。各可申合候。併御許容
  肝要候、恐惶謹言
  (文明十二年)七月廿日  (土岐)成頼
   大野九郎次郎(綱直)殿
          (1492*土岐成頼書状)

  當国荏原久万山事、忍取天神森於徳(川)城
  取攻口之由、乍是非無次第所々事、
  可致退治候。平岡競望之由一段申遣
  河野刑部太輔入道方以後攻事品々承遣候ハ
  可喜候、猶大平中務大丞(国雄)可申候
  恐々謹言
  (文明十二年)八月二八日  (細川)政元
   大野九郎次郎(綱直)殿
          (1490*細方政元書状)

  【土岐成頼書状*切紙   (大野文書)】
    (端裏切封)「   ・---   」
   就分領荏原林久万山等事、度々申候処、
   一段無等閑之儀候之条、誠難謝存候、只今
   方々江以書状申候、此時急度被廻計略、早々
   達本意候様、預調法候者、弥可為祝着候、
   仍太刀一腰兼光進之候、委曲尚等信西堂可
   申候、恐々謹言
   (文明十二年)十月十三日
           (土岐)成頼(花押)
   大野九郎次郎(綱直)殿

   (封紙ウハ書)
    「大野九郎次郎殿     成頼」   
       (1493*土岐成頼書状*切紙)

 其後久万山静謐又嫡男九郎朝直在京
 上意如本意

      *【大野文書】 十月十三日付(年代不明)
        美濃国守護(八代)土岐成頼から、
        大野九郎次郎綱直宛に、

       『分領荏原・林・久万山等につき常々配慮し感謝
        にたえない。なお計略をめぐらし、早々に本意を
        達してもらえば祝着である。』

        として兼光の太刀一腰を便僧西堂に持たせて、
        懇願におよんでいる。ここで土岐氏の所領奪おうと
        したのは誰であるか資料不足で判然としない。
          *おそらく平岡氏であろう。

     *【土岐系譜】 
       土岐成頼(1446~1497)持益嗣 饗庭義枚子一色義遠子
       饗庭宗成 土岐左京美濃入道宗安 革手城主 美濃守護

     *美濃土岐家の古来からの伊予分領が消滅したのは、
      長亨3年(1489)前後思われる。
      伊予の古文書等によると、土岐伊予分領を強奪したのは
      河野教通通直・河野通生・河野通秋3兄弟の河野宗家
      であり、先陣として平岡某となっているがこの平岡は房実か
      その父と思われる。これに対し、大野綱直や河野豫州家
      河野通春、通篤が応戦しているので、一族の内訌合戦
      ともいえる。
      遠因は応仁の乱で、予州家は西軍に属し、大野綱直・
      土岐成頼も同じ西軍で、河野宗家東軍と争った恨みと
      思われる。河野宗家も当初は細川と戦っているのに
      途中で東軍になったのであろうか? 大野綱直には
      土岐成頼や子の正房の書状が到達している。
      大野系図上田本は
     「平岡某 土岐成頼領荏原村城郭を討取り 後 通秋
      通生、平岡と一心合戦す。
      其の砌 久万山天神ケ森を落去、綱直の家臣数輩
      此の合戦に疵を蒙る。応仁の乱の恨みよって当国の
      武夫、堺地割にて争う所なり」
      と記す。
      これを境に土岐家の分領、荏原、荏原城、徳(川)城
      土岐・浄瑠璃寺は平岡家のものとなり天正13年まで続く。
                  【呑舟、2013・11・4】


【大洲系譜三十六代】
朝直 (1471~
 文明三辛卯年(1471)七月十八日誕生
 同十五年(1483)癸卯年六月廿元服 
 九郎又弥治郎 任左近将監
 従五位下安芸守
 明応元年(1492)三月十五日本領
 荏原林久万山以軍兵切取
 永正十年(1513)四月十七日当家氏神本地
 妙見大菩薩社再興 又大平下野守元国
 書状有

  【大平元国書状*切紙  (大野文書)】
    (端裏切封)「   ・---   」

   先度者以書状申入候間、定而参着候哉、御國
   弥静謐由候条大慶候、兼者津野畑之衆去十六
   日此方打出、於合戦者、毎度得勝利候条可御
   心安候、   一条殿御事以前、至悴家御進
   發之刻、一段御懇被仰出子細共候つる間、
   拙者事茂別而得御意候き、佐川邊之儀連々御望
   之由、承及候つるか共、拙夫事さり共と存候
   之處、今度中村掃部造意お相巧候砌、事お寄
   左右、悴家御取懸候、對申畑え國毛頭も越度
   無之候、定方々へ種々あらぬさまは、可被仰
   掠候哉、御家悴家之事者、数代甚深仁申合儀
   候、殊當代尚以堅翻宝印裏、致御契約候事、
   於干國無其隠候間、弥不相替可申談事、外聞
   實儀可為本望候、右衛門太夫殿被仰談、此時
   御一勢至津野堺目、急度被仰付候者、可畏入
   候、併奉憑外無他候、爰元取静候者、一段以
   使者可申入候、毎事期来音之時候、恐々謹言

   「宝徳三年」 卯月十八日 元國(花押)
    大野安藝守(朝直)殿 御宿所
   (封紙ウハ書)(異筆)「卯月十八日」
               大平下野守
                   元國
    大野安藝守殿 御宿所


    弥与通春令同心、毎事被申談候者
    可為本望候、恐惶謹言
               (1319*大平元國書状・切紙)

     *愛媛県史は宝徳3年(1451)の条に載せているが、大洲・
      上川村系譜とも朝直誕生を文明3年(1471)としていて合わ
      ない。屋代系譜は文安元年(1444)としており、これもわずか
      7歳にすぎない。どちらかが矛盾している。【呑舟】

   【大平元国書状 (土佐国蠧簡集竹頭)】

    急度令啓候、仍而今度池川名ノ川御家へ進置
    候所ニ名ノ川敵を引入候由相聞言語道断之儀
    ニ候条、早々御勢被差遣申候、名ノ川之儀急
    度一着被仰付候、相揃[残カ〕候百姓共事、
    對□〔御カ〕家如在有間敷候、片時も早々被
    両名之儀堅固ニ被仰付候ハハ肝要候、
    「宝徳三年」五月廿六日
             大平隠岐守  元國
    大野右衛門太夫(綱直カ〕殿

    大野安藝守(朝直カ)殿
            (1320*大平元國書状)
          ○本文書土佐国古文叢巻廿四にも載す


      *【南予史】
        【宇津城】   宇津村
         大野直家初めてこの城を築き、紀伊守利直の弟、丹波守を
         して居らしむ。丹波守、姓を尾崎と改め、その子、七郎直昌は
         天正二年閏八月廿五日 長宗我部元親の為 国境盟会に
         欺き討たる。大野家旧記に有り。

          *出典とされる「大野旧記」内容に疑義あり【呑舟】

      *【名野川大庄屋小野系図】
        安藝守直家
        惣領伊予浮穴郡小田、久萬、雀原(荏原)、三郷
        分封族部下如左
        嫡男 山城守直昌  大洲松崎より重信川迄
        二男 上総守直之  大洲若宮亀ケ城
        三男 九郎兵衛(直周) 小田郷総津城
        四男 近江守(直吉・直好)
          宇和島内北之川より三庄(御庄)に至る
        五男 東筑前守(直房)  小田郷寺村赤岩城

 ↓
【大洲系譜三十七代】
利直 (1493~1580)
 明応二(1493)癸丑誕生 童名高壽丸 
 永正二(1505)乙丑歳元服 弥二郎
 右衛門太夫 従五位下 任紀伊守
 天文四年(1535)七月十一日
 河野通直契約起請文来
 同十(1541)庚子歳六月防州
 大内義隆契約状来

  雖未啓候、以次企筆候、向後別而可申通候事
  本意候、随而太刀一腰、段子壱端進之候、
  表祝儀計候、猶坂民部入道可申候也、
  恐惶謹言
    (天文十)六月十六日 (大内)義隆

   大野右衛門太夫(利直)殿
         (1712*大内義隆書状)


  国中豊治當家繁昌 於後隠居 齢八十八歳
  逝去 號威徳寺殿 干時天正八年(1580)
  庚辰七月廿八日也

  表祝儀計候、猶坂民部入道可申候也、

     *これは坂民部入道ではなく杉民部宗長では?
             【呑舟 2013・11】

     *【予陽河野家譜】 (大野利直再び反乱し花山城を占領)

       天文二十二年八月 大野再起兵攻花山城
       在浮穴郡林郷 平岡氏所築之也

        とあるから天文二十二年三月には死んではいない。
        大洲・上川村両系図もそれを否定している。
        よって屋代系譜の利直の逝去日、及び號は
        別人の誤写と思われる。(呑舟)

     *【愛媛県編年史】
       天文廿二年(1553)八月久万山大除城主大野利直
       大熊城(川内町則之内惣田谷 標高905メートル)を
       攻め、ついで利直再び兵をおこして平岡氏の支城
       花山城を攻める(拝志郷)
       黒川通俊自殺する。


   【大洲系譜】
    直好・利直息 (~1586)
     ・近江守
      尾首城主 又為荏原東町城主 后移
     土居城 天正十四年(1586)七月一日
      於土居城戦死旨 行壽六十有七歳也
      葬 干 上川邑龍登山灮時寺
      號千壽院殿背江刕刺史直翁了元大居士

       直清(直好息)
        ・大野弥衛門
         始至江州佐和山仕干井伊掃部頭直孝
         後従干藤堂和泉守殿列近侍之格
         因而小田上川村ニ住
         法名號 心安直清居士

                    ➡彦根藩井伊家家中大野系図に繋ぐ
                    ➡津・藤堂家中・伊賀上野、大野系図に繋ぐ

         【大野家聞書】
           大野弥右衛門
           直好嫡男 父死後、橘次郎太夫養育シ
           上川村ヘ蟄居

            *上川村系譜の直昌の庶子直清とどちらかが混乱。呑舟
             直尚手記を見るにこちらが正しいかも知れない(2011.7)


     【大洲系譜】
      直勝 ・利直息(~1574)
        東筑前守
        赤巖城主
        天正二(1574)甲戌歳閏八月廿五日
        長我部元親ト義干壱町原討死

        【大野聞書】
          大野庄作
         東筑前守嫡子 内蔵ノコト直昌没落後
         芸州ニ渡ル 其後又牢人 本川村ニ住ス

                    ➡大野・東家系図に繋ぐ


    【大洲系譜】
      直安・利直息 (1505~1574)
       城戸六郎
       龍王城主
       兄直勝一所ニ討死

                    ➡大野・城戸家系図に繋ぐ

       【村上通康・平岡房實連署宛行状寫】
            (大野芳夫氏所蔵文書)

        一、所 瀬田莚田十貫文足之事
         一、〃 高山十八貫文足之事
        一、〃 出石十貫文足之事
         一、〃 福富七貫文足之事
         一、所 宮方拾貫文足之事
         申合所也
        右早任先例之旨、可有御進退之状如件
         永禄十年 二月二日
           平岡大和守 房実  (花押影)
           村上出雲守 通康  (花押影)
        上須戒 城戸孫三郎 殿
         同   城戸太郎兵衛尉 殿
        同   政所修理進 殿
        同   城戸左馬助 殿

          (県史1972 大洲旧記⑥上須戒村ニモ載ス)

      【村上通康・平岡房實連署宛行状寫】
             (大野芳夫氏所蔵文書)

         唯今為申合首尾、向後於難成御堪忍者、
         吾等於領分御案(安)座之儀可申談候、
         猶 垣生加賀守、戒能備前守可申候
        恐々謹言
         永禄十年 二月二日
           平岡大和守 房実  (花押影)
           村上出雲守 通康  (花押影)

        上須戒 城戸孫三郎 殿
        同   城戸太郎兵衛 殿
        同   政所修理進 殿
        同   城戸左馬助 殿

          (県史1973 大洲旧記⑥上須戒村ニモ載ス)

       【村上通康・平岡房實連署宛行状寫】
             (大野芳夫氏所蔵文書)

         此度於御忠節者、向一跡之事、通宣遂披露
         可申調候、聊不可有相違候、猶 戒能備前守、
         可被申候、     恐々謹言
       (永禄十年) 三月四日
             平岡大和守 房実  (花押影)
             村上出雲守 通康  (花押影)

        城戸孫三郎 殿 御宿所

            (県史1974 大洲旧記⑥上須戒村ニモ載ス)

        *【大野聞書】
         大野藤左衛門
         城戸六郎嫡子 父討死後五十崎ニ住ス

       *【豫陽大野軍談】
          本 久万  古田村 竜王城主
          一、城戸家     城戸六郎直泰
         子 城戸(初三郎)右衛門子              
           常太郎直宗
          後新左衛門中村蟄居
         子 源兵衛直俊
          古田村庄屋仰付

        *【大洲旧記】二
          二.吉田村 喜多郡五十崎郷
          古城 大野六郎直安
          久万大代城の主、大野紀伊守利直弟、天正二年
          甲戊閏八月廿五日 大野直昌土州元親と合戦の
          時、小田一丁原にて討死、男子三人有、常太郎
          弥次郎 隼人、嫡男成人の後、城戸新左衛門
          直宗豊か森の城主、鎌田藤太夫婿也、父討死
          後同郷中村に居住

               *この記述屋代大野系譜に合致する。呑舟

        *【南予史】
          【神南城】   五十崎村
           神南山麓に在り、龍王城に属し
           錡左衛門佐養俊の古城なり

        *【南予史】
          【北之城】   五十崎村
           龍王城の枝城にて広瀬右馬、宇高弥十郎居る。


    女子・利直女 (1505~)
     ・宇津城代丹後守子
     ・尾崎七郎室
     ・永正二(1505)乙丑歳誕生 為家臣

                    ➡大野流尾崎系図に繋ぐ


 ↓
【大洲系譜】
 直幸 ・朝直息(1495~1562)
  明応四乙卯年(1495)八月十二日誕生
  童名徳寿丸 永正五年(1508)丙辰歳
  元服 四郎 号従五位下加賀守改直房
  永禄十一己己年(1568)嫡男直利十八歳
  之大将旧臣倉本宮内矣京都以上意
  馳向立石尾頚同木比志城以軍勢
  切取敵数輩得勝利抽戦功賜感状
  稠之城高山遥而谷合深出干谷今谷
  登事五十八町石壁雲従耳西南北
  三方険難而人跡絶矣 東一方口
  大門輙可責様無之水木不乏誠全
  城要害也 篭置究卿竟兵令守之灌
  同四辛酉年(1562)二月七日逝去
  齢六十七歳 法名
  梅岩院殿加州太守従五位下誠童大居士

     *【田渡八幡神社棟札】 (上浮穴郡小田町)
       天文3年2月10日 大野直義ら田渡神社造営す

       今輪聖皇天長地久御願円満殊者当神主
       致誠精之懇我社頭建立奉成就也
       受以現奉上棟八幡大菩薩之御社一宇
       奥見公羽井公大禅師 現当来世如意満足
       依茲当処安穏万民快楽頼所
       大旦那 大野立石加賀守直義 并
       敷地大旦那 兵頭之大蔵正助
       大工 藤原宗重 抜戸主源太藤原
       当君所願成就所如件
       夫天文三年甲午二月十日
                神主 兵衛四郎
                施主敬白

   【大洲系譜】
    直利 (直幸息)(1552~1634)
    只海村 北平村 立石村田度三箇所領分
    天文廿一壬子年(1552)四月十八日
    只海城誕生 母者 妙光大姉是也
    永禄七(1564)丁卯歳元服
    弥二郎 任蔵人尉
    元亀三壬申年(1572)九月廿日
    土刕勢久武内蔵助
    吉良左京進為籏頭推寄其日
    近辺小城七ケ所攻陥勝来勇壮其勢
    廣大時造攻懸干時直利以謀城之麓
    海蔵寺置伏勢究竟射手三十四人
    障子内篭置何敵指詰引詰射之而
    敵三十七人討取敵勢傾胄矢叫御音山
    而敗北矣 同廿三日直利廿一歳立石
    尾頚城ヘ移 切取撥楯逆茂木細作斥候
    不怠密手分而堅矣 諸軍一心而蒐引
    不乱小勢却可天敵柔剛時変可依時運
    然所翌日軍勢三百余騎尾無峰取陳
    城東者険難巌石南北者遥谷深西者
    高岸数十町之要城也
    直利重目結直垂黒糸威鎧者二引両袰
    掛登櫓上而待掛寄手聞恐急責不来然
    所 東筑前守土卒引率百五十騎自後
    襲来又自城内切岩暫戦討取首百余級
    得勝利也 賜感状
    因天正十六年(1588)戊子歳上家成
    寛永十一年(1634)甲戌歳十二月三日
    逝去 齢八十三
    願誠寺殿通山休意大居士

      [付箋] 前尾頚城主 貫主

                    ➡大野・尾首家図に繋ぐ


    直知・直利弟 (~1574) 
     左馬
     笹ケ峯土州勢合戦深入討死 廿一歳

    直昭 ・直利弟(1558~)
     城戸次郎
     大野五右衛門尉
     永禄元年(1558)戊牛歳二月十八日誕生
     賜宮谷木戸城

                    ➡大野・城戸系図に繋ぐ




大野家系譜(伊予大洲大野家本) 3

2024年02月01日 06時15分26秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)
大野家系譜(伊予大洲大野家本) 3

大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)3

【大洲系譜三十代】
義直
 ・左衛門次郎
 ・左近将監 安芸守
 ・賜 (足利)義満公諱
 ・永和二年(1376)當国道後出渕有凶賊
  義直依抽粉骨戦功為 上意感状

   伊与国打出道後出渕致忠節於其事尤以
   神妙 弥可抽戦功状如件
           武蔵守  頼之
   永和二年十二月廿六日
     大野左衛門次郎殿

 ・又 土刕就 御退治 細川満元状曰

   上意として土州退治之事、被 仰出候間、
   執事を越候也、国境之事ニて候得者、
   憑入候、無等閑候者悦入候、委細状
   不申次第猶庄林入道可申候、
   兼又宇津宮方之事、自其能々御籌策ニて
   無子細候者殊本望候、将又 上意之事
   連々可心得申也  恐惶謹言
     八月七日   (細川) 満元
   大野殿
     (1197*本文書土佐国古文叢にも載す)

     *【予章記(山野井本)】 *南朝方の立場
       応安元年伊予国ニ留リ居ケル一族、山方民部太郎、
       吉岡修理亮、宇和孫太郎、喜多新左衛門尉、
       大野喜四郎、同左衛門、森山伊賀守、其外宗徒
       一族郎徒等、多年蟄居ニ身ヲ潜メ、時ヲ窺ヒケル、今年
       天下ノ衰霊ニ乗シ、諸国ノ宮方蜂起スト聞テ、其勢
       三千余騎、素懐ノ旗ヲ発シ、當国高縄ノ城ニ楯籠ル、
       因茲阿波讃岐ノ注進、急波ニ告シカハ、京都又騒キ立
       是ハ大乱ノ萌ナルヘシ、其ノ故ハ河野ハ筑紫ニ在リテ、
       征西将軍ノ御方ニ與スト聞ユレハ、菊池ト謀ヲ同セン、
       早可退治トテ、誰ヲカ追手ニ可被向ト、評議区々也、
       仁木兵部大輔義尹、討手ノ大将ニ議定シケレハ、四月
       二十五日、京都ヲ打立、予州ヘ渡ル、其勢七千余騎、
       高縄ノ城ヲ打囲ミ、昼夜攻ケレトモ、城中曽テヒルマス、
       仁木攻アクシテ、徒ニ日ヲ送リ、軍ニ利ナキ由ヲ、京都ニ注進
       ス、依之又阿波讃岐土佐ノ勢ヲ催促シ、七千余騎ヲ
       加ヘラル、義尹是ニ得力而五月廿日ニ高縄ノ城ニ攻上ル
       城中是ニ向テ防戦フ、味方ノ大野左衛門尉、森山伊賀守
       討レケレハ、城中是ニ力ヲ失ヒ、弥籠城危ク軍慮已ニ尽メト
       鎮西ニ告送ル、通尭豊後国高田ニ在陣ナリシカ、此由ヲ
       聞シ召、急キ将軍ノ宮ノ御前ニ参上有テ、連枝一族ノ急難
       ヲ相助、累代ノ本国ヲ討治メ積鬱素懐ヲ聞カント、御暇ヲ被
       仰上ケレハ、宮宎モトテ、御暇下サレ、六月四日豊前根津
       浦ヨリ数百艘ノ兵船ニ取乗リ、皈国被成ケリ、御隋人々
       ニハ村上三郎左衛門尉義弘、今岡左衛門尉通任、
       大内式部少輔直弘、富岡尾張守通行、栗上兵衛延吉
       正岡十郎入道宗栄、同尾張守、舎弟中務充、太田
       四郎左衛門尉、中川十郎入道、同隼人充、純河入■、
       同兵部充、同勘解由左衛門尉、浅海重見、庄帯刀、
       同大輔房、久保十郎左衛門尉信真、舎弟弾正真行、
       尾越蔵人助、同左衛門四郎、難波弾正、池内孫太郎
       浅海兵庫助、大熊掃部助、大窪左京進、同蔵人充、
       多賀谷修理亮、小山兵庫介、高山雅樂助、同刑部
       少輔、宮崎宮内充、同孫七郎、大内大蔵少輔、同
       九郎左衛門尉、中将太郎、四郎左衛門尉、福角
       与四郎、日高六郎、須保木左近将監、高尾八郎左
       衛門尉、大籠修理、桑原刑部少輔入道、同左京、
       日吉兵部丞、上野兵部充、山越将監、垂水図書左衛門
       尉、施田左京亮、同三郎左衛門尉、同孫六、牛岡
       美作守孝家(丑岡弾正忠孝行ノ子)、白石三郎左衛門尉
       同刑部丞、中須三郎兵衛尉、宅間孫七郎、渡辺又次郎
       同孫三郎、志津川修理亮、平井左京亮、同大炊介、
       垣根河、得久久三郎、、宇野左京亮、池田兵庫、
       江戸中津兵衛九郎、其外筑紫ニテ當参ノ人々ニハ
       箱川亦六郎兄弟、伊東、湯浅、馬場、松永等也、
       廿日ニ周防国屋代島ニ御着、爰ニテ帰国ノ御計策、
       同廿六日ニ二神、呉ヨリ参ラル、久枝、正岡、能美ヨリ
       参ラル、久津那衆、畑見ヨリ参ラル、宗徒ノ一族郎徒従、
       八百余騎、都合其勢三千余騎、伊予国三津浦ニ着テ
       同晦日ニ松前ノ浦ニ推行、山野一片ニ陣ヲ取、義兵ノ
       旗ヲ揚タリケル、敵ノ大将完草入道親子、国人ニハ土居ノ
       人々三百余騎ニテ未ノ時ヨリ軍始リ、忽勝利ヲ得テ、
       山本四郎以下数輩ヲ討取、則温泉ニ陣ヲ取、敵ハ大空城
       ニ引篭リヌ、其後、西園寺、山方、吾川等馳加リ、程ナク
       七千余騎ニ成ケル、潤六月四日ニ海陸二手ニテ福角ヘ発向
       其夜久万越ニ陣取、同十三日ニ大将完草出羽入道カ篭リ
       タル、大空ノ城ヘ正岡六郎左衛門重盛、兼テ忍ヲ入、一日ニ
       攻落シ、完草親子、与力二百余騎カ首ヲ切テ、勝鬨ツクリテ
       扣ヘタリ、完走ニ隋ケル、国人六十余人、降人ニ成テ出タリ
       ケル、同七月十七日花見山ノ城モ降参、少々残リ留ル者ハ
       久枝四郎左衛門尉、道之口乞退出ス、
       八月十六日恵良ノ城モ降参ス、
       同二十九日府中ニ御出馬、佐渡ノ木梨入道カ城ヲ攻落、
       道前ニ手向、越智降参、
       ■軍勢ノ手分ヲ成ス、先村上ノ義弘、正岡六郎左衛門尉
       重盛ハ、三百余艘ノ兵船ヲ飾テ、津々浦々ニ徘徊シ、糧ヲ
       切トリ、敵ヲナヤマシケル、南山城入道、望月六郎左衛門尉
       多賀谷彦四郎、庄帯刀左衛門尉、大野八郎左衛門尉
       ■ハ国中処々ニ遮テ累代厚恩ノ国民ヲ催促ス、當国普代
       ノ主君ニ此時恩ヲ報セスンハ、何時ノ時ヲ期セント、国中一図
       ニ服従シヌ、小笠原兵庫助正長、武田陸奥守信春トモ、


        注)大野八郎左衛門尉は村上義弘の舅
           大野家の誰に当たるのか?(呑舟)


    【大洲系譜】
    直鎮(義直弟)
     ・上野介

 ↓
【大洲系譜三十一代】
繁直 (1361~)
 ・康安元(1361)辛丑年誕生
 ・到応安六(1373)癸丑年八月六日元服
 ・前備前守繁高之烏帽子子也
 ・次郎安芸守 又 称冨永為上意土佐国
  退治細川満元状曰

   土州合力之事承候、喜入候、就其御教書
   申成候処、上意如此候、目出度候、
   兼又佐川本領分之事、宇都宮方遣之候
   状内一所可然在所申遣候、
   可被得御意候、猶無御等閑候由悦喜候
                恐惶謹言
    十一月十二日     満元
     冨永 安芸守殿
      (1198*細川満元書状)

    為上意賜  所領
    御抽判
   宛行道後方々所領之事
    一所得善保地頭式(職)此内 寺社除
   名田除
    入免除
   合
    一所得善保地頭式(職)此内 寺社除
    名田除
    入免除
   早守此旨可有知行候、仍被 仰下所如件
   応永廿二年歳次丁酉 六月九日
     大野殿
     (1190*本文書検討を要す)
 ↓
【大洲系譜三十二代】
繁直     (1445~)
 ・文安二(1445)乙丑年九月九日誕生
 ・童名尼法師丸
 ・康正三(1457)丁丑年元服 四郎次郎
 ・森山兵庫助範直烏帽子子也
 ・後 任宮内少輔 河野通春御退治之時
  細川右京太夫勝元状曰

   今度於与州不慮之儀出来、併(河野)
   通春自盛基凡浅増候條々通春不義既
   露顕候上ハ加退治候、仍為無二心御方
   森山重見等一味条、尤以神妙事至候、
   殊更以親類刑部少輔心中之通具被申候
   之間、旁歓悦是非可誠憑敷候、
   然者自方々緒勢着陣候者、与州国中之
   軍勢被申合被遂戦候節、頓落居者
   可目度候、但猶可有了簡候哉、委細
   大平隠岐守可申候、恐惶謹言
  (寛正六年)八月廿五日   勝元
   大野四郎次郎(繁直)殿
       (1416*細川勝元書状)

 ・長禄二年七月廿日 森山兵庫助範直約契
  起請来、又 同三年五月十九日西園寺殿
  公高契約神文来 又 有国賊襲重見森山
  依茲當家之属幕下譲所領

    申定御領所等事
      一久万山出雲入道跡、早任先例可有知行
     候也、若三百貫相定不申候ハ、両三人
     申談相副可申候、仍為後日證状如件
     重見近江守  通熙
      寛正五年六月廿六日
           森山兵庫介  範直
           重見刑部少輔 元康
      大野殿
          (1393*重見・森山・重見連著宛行状)

 (浮穴郡)寒水西方弓箭静謐後、
  可放進候、仍為後日状如    
   寛正五年七月四日
       森山兵庫介 範直
   大野殿
          (1394*森山範直放状)

 ・為 上意武衛義廉状

  就細川右京太夫勝元、畠山尾張守政長、
  赤松次郎被下退治事、河野伊豫守通春
  干今令在京訖 仍河野形(刑)部大輔
  通秋、同兵部少輔通生彼与類等事、
  被加誅罰候、可被抽戦功候、伊豫国
  令静謐様可被廻計略之由所被、
  仰下也、仍執達如件
   応仁三年五月四日
       左兵衛佐(斯波) 義廉
   大野宮内少輔(繁直)殿

     *(1449*室町幕府御教書 応仁三年は
       四月に改元して文明元年となる)

 ・従長禄年中到応仁依抽粉骨軍忠賜地頭職
  則上洛、御感有 御對顔 御進物納次家
  請取状

   納申御料足事
   合二十貫文者
  右〆大野四郎二郎進上折紙代所納申候如件
   八月十三日      次家 在判
   大平殿
      (1451*次家請文)

 ・同時赤澤新蔵人政吉状
 
  熊御音信恐悦存候、殊弐百疋拝領申御芳志
  之至候、難申盡候、随而
  公方様懸 御目候、御面目至候、
  尚被掛御意候、無極祝着候
  毎度重而可申承候、恐惶謹言
   卯月廿三日 赤澤新蔵人  政吉
  大野殿
      (1450*赤澤政吉書状)

     *宝徳二年十月二十二日、守護代細川勝益、大平元国、並びに
      伊予大野宮内少輔、富永安芸守等、幕命により津野之高を
      討った。 (吾川郡名野川 小野宗十郎蔵 古文書)

     *(宝徳2年10月22日、幕府、大野宮内少輔に命じて
      土佐国の津野之高を討たせる【土佐国編年記略】)

        土佐国津野備前守対治事、早守護代相共
       可被致忠節之由、所被仰下也、
        仍執達如件、
        宝徳二年(1450)十月廿二日
             (畠山持国)沙弥(花押)
        大野宮内少輔殿
       (1318*室町幕府御教書【大野文書】)

     *【大洲旧記八】
       上川村 浮穴郡広奴田 本郷大田山也
        就津野対治事、被相越土州候由承候
       本望候、殊国人等振舞、無是非次第ニ候間
       近日一進可致了簡候、其間在城候ハバ
        悦入候、巨細安留民部可申候、恐惶謹言
        五月廿七日     (細川)  勝元
        大野宮内少輔殿

       去月十一日於弘岡合戦の時自身被疵之由
        注進到来畢、粉骨無比類候、弥被廻計略
        候ハバ可然候、巨細安留民部丞可申候、
                    恐惶謹言
        七月二日      (細川持賢) 道賢
        大野宮内少輔殿
         *【宝徳3年の事と考え、便宜上合致する】

     *【足利義教御内書写】(河野文書・臼杵稲葉)
        杉原紙 義教公

         森山与大野確執之事、共以可停止之由、就被仰
         請文到来之處、押寄(浮穴郡)寒水立石云々、
         大野既令違背下知之上者、不日可加治罰、次与力
         輩事、可為同罪之間、尋究實非可注進交名、
         将又於大野跡者、所充行森山也、但至給恩之地者、
         可致計沙汰也
         十二月五日          在判
          河野犬正(教通)とのへ
                       (愛媛県史資料編)

    冨直 (繁直息)
    ・童名 牛菊丸 任安芸守其身幼稚故
     荏原久万山譲干源成頼 早世 矣国
     凶賊故久万山大乱為追討深入討死

    千壽丸(繁直息)

    菊千代丸(繁直息)
     行年十一歳 (21歳の間違い?)

 ↓
【大洲系譜三十三代】
直里 (~)
 ・弥次郎
 ・於当国依抽軍忠為
  上意賜  所領

   御袖判
    宛行道後方々所領之事
     一所岡田北  名田職
    早守此旨可有知行候、但此内寺社除家内除
    并松前之次郎左衛門の分ハへち人之行候、
    此分ハ違乱有間敷候、仍為後日被
    仰下所如件
     応永廿五歳戊次戌 九月廿三日
     大野弥次郎(直里)殿
           (1196*本文書検討を要す)
   御袖判
    右森山重見當知行■者宛行候 自今以後堅
    可依致忠節候、仍後日下知状如件
     永享二年歳戊庚戌正月十一日
     大野弥次郎(直里)殿

 ↓
【大洲系譜三十四代】
通繁
 ・彦次郎
 ・河野形(刑)部大輔通春烏帽子子也
 ・任宮内少輔
 ・為 上意細川持賢入道道賢状

   就土州時義早々自身被打越候之由、大平隠岐守
   注進到来候、殊目出候、仍被成、御教書候
   弥被致粉骨候者可然候、委細赤川新蔵人可
   申候、恐惶謹言
     六月廿五日    (細川)  道賢
    大野宮内少輔(通繁)殿
            (1322*細川道賢書状)

   為上意
   河野形部大輔教通事、打入伊予国宇都宮
   遠江守同心云々 不日合力通春可在被忠節
   之由所被仰下也 
   仍執達如件
            細川右京大夫 勝元
   文安六年三月丗日 
    大野殿

   文安六年三月九日  伊豆守  通輔
   大野宮内少輔(通繁)殿
      (1292*河野氏奉行人奉書)

     *【寒水(ソウズ)は後の総津(ソウズ)?】

 抽戦功得勝利賜 感状又重見飛騨守左近
 将監之直領地戦屓干當家被譲申状

   被申定在所之事
    一所     余戸一坪分事
    一所     桑原領家職事
   一所     山越新左衛門跡
  右此所々事、早知行不可有相違由畢、仍如件
   文安六年三月十日 重見飛騨守 通実
   大野宮内少輔(通繁)殿
        (1294*河野氏奉行人奉書)

  放申在所事
    一所     寒水東方
    一所     戸部(砥部)宮内
   彼在所早々可有知行候者也、仍為後日状如件
    文安六年三月十日  左近将監 之直
    大野宮内少輔(通繁)殿
         (1293*左近将監之直放状)

  對森山兵庫助不快事、不可然之處
  既和睦之由其聞候、尤以目出候
  弥与通春令同心、毎事被申談候者
  可為本望候、恐惶謹言
  (文安六年カ)三月廿六日
        (細川)勝元
   大野宮内少輔殿
      (1295*細川勝元書状【大野文書】)

   為 上意
   河野形(刑)部大輔教通事、討入伊豫国
   宇都宮遠江守同心云々、不日合力通春
   可被致忠節由所被 仰下也、仍執達如件
   文安六年三月三十日 細川右京太夫 勝元
    大野殿
          (1296*室町幕府御教書)

     *(文安6年3月30日 幕府大野氏に教通を討たせる)
      【愛媛県編年史④ 大野系図(伊豫史談会蔵)】

   申定御領所事
   一所 志津川新左衛門    一跡
   一所 余戸一坪       一跡
   一所 桑原領家職
   一所 和気郡内十六名松(跡カ)
  右彼所之事、早任先例御知行不可有相違候由
  依 仰執達如件
   文安六年三月九日  伊豆守  通輔
   大野宮内少輔(通繁)殿
       (1292*河野氏奉行人奉書)

  【室町幕府文書集成奉行人奉書編】 狩野亨吉蒐集文書 1451年

    豫州発向時、被仰諸士率之処、今度桐河城被攻落、
    敵数輩被打取旨、守護(河野)教通註進到来、尤神妙、
    向後属教通申、弥可被致忠節之由、被仰出候也
    仍執達如件
    亨徳元年 十一月廿五日   (飯尾)為数 花押
                  (飯尾)貞元 花押
   大野宮内少輔殿
              (1452:愛媛県史資料編)


     *注)大野家再興を土岐成頼に頼むに当り
        土岐家菩提寺興源寺僧を同道すとする。
        伝光定供養塔
         (愛媛県松山市東方町興源寺跡)


大野家系譜(伊予大洲大野家本) 2

2024年01月31日 17時13分26秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)


大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)2

【大洲系譜十九代】
定武
 ・太田八郎 左京進
 ・母 源姓女
 ・今度源平之戦不省父依忠功如
   父賜当国地頭職

【大洲系譜】
武清(定武弟)
 ・於肥後国有凶徒依勅命而引率四国中国
  軍勢急而進発鎮西令凶徒追討揚威名感状
  数通帰国而先立父早世矦 壽二十一歳

 ↓
【大洲系譜二十代】
安清
  ・久万権介 実定清二男也
 ・武清同母 弟武清卒后継家督

 ↓
【大洲系譜二十一代】
成清
 ・六郎 母 源姓女
  ・於鎮西討死
 ↓
【大洲系譜二十ニ代】
成俊
  ・久万弥太郎
  ・降参者多分領大ニ治
  ・実 武清嫡男也
     *【予陽河野家譜】
       【河野通有 弘安の役出陣ス】

        後宇多院弘安四年五月廿一日、蒙古襲来充満干
        筑前国志賀鷹嶋鹿島等海上、此時蒙勅命、通有主
        同嫡子千宝丸、伯父伯耆守通時主、一族別府七郎
        左衛門尉通高、執事 久万弥太郎成俊以下、進発
        干彼所、日本兵者博多箱崎二三十里海岸高築 
        築地附乱杭逆茂木雖然当家陣者、海面者幕一重
        而後設築地、是輒引入敵兵、可決一戦勝負、後背
        有道則士卒必有怠慢之気、却而可失(致)利雖為
        一騎不得引退謀也、自爾謂河野後築地、望夷賊
        十万八千艘船、如向呉山蜀嶺、通有主兼志先魁
        祈念日本大小神祇別而三嶋八幡等於心中、砕丹
        誠之処、沖方白鷺一羽飛来当家陣上、所被置楼上
        百矢之中、加以山鳥之羽作征矢翔行唐船之上従
        両陣見之夷国大将之乗船楼閣重々磨金銀、旌旗
        方々飄風、落大船之上、夷賊者所天与喜、日本之
        陣者呑固唾怪之、通有主曰知是天神地祇予感
        忠貞、所教示敵将之船給也、勿疑再拝、伯州対州
        千宝丸通高 成俊己下士卒百余人乗戦舸漕入干
        夷賊陣中、日本兵者大驚、各雖可制之、曽不聞之
        異賊者下人歟怪、更不発矢見之、乗移一大船、
        対州者大太刀、伯州者長刀、士卒百余人不惜
        身命相戦、終生捕着玉冠者、放火於敵船而漕
        返本陣、被虜者異賊三将之中一人也云々、
        同七月朔日夜半暴風俄起、異賊舟船大半破損
        漂波亡命、残兵避危難漕返干本国之間、九州
        残兵避危難漕返干本国之間、九州既属無為畢、
        伯州負深手而卒干船中、対州親子 通高 成俊
        己下堅固帰国給、彼所虜之賊将者刎首使成俊
        彼所虜之賊将者刎首使成俊伝干京師、此時
        天子者為異賊征伐之御祈行幸男山八幡宮、
        被悩叡慮於九州之事之処、成俊持蒙古頸参上
        矣、乃召階下有勅問、仍九州合戦次第達叡聞、
        蒙御感賞、子孫為眉目、蓋所斬蒙古之首刀者、
        伝干久万家、重宝大和寿命之作也、
        対州此時海陸七十余度合戦、毎度依究高名蒙
        叡感、為勧賞賜肥前国神崎庄小崎郷、同加納
        郷下東、同荒野、肥後国下久々村以上三百町、
        後日拝領予州山崎郷、氏族別府通高者賜
        筑前国長渕庄
     
      *【寛永諸家譜 越智姓一柳家系図】
        ●通有
        六郎對馬守に任ず。後宇多院の御宇、弘安四年
        三韓より蒙古襲来り、大軍志賀(筑前)鷹能古等の
        海岸に充満す。夷族退治の事先例たるの故勅命を
        かうふり、大将軍となって筑前国に馳せ向ひ、伯父
        伯耆守道時と通有と二艘敵船の中に紛入、大将
        一人生捕、敵船に放火す、伯耆守疵をかうふり、
        船中にをひて死す。通有も所々疵をかうふり予州に
        帰り、蒙古が頸を通有が家人久万弥太郎成俊
        京都に持参す。此時、忠恩として肥前国神崎の庄
        の内尾崎郷・同加納下東郷をたまふ。後日又
        同庄余残、同荒野、肥後国下久々村以上三百町
        と伊豫国山崎の庄をたまふ。海陸七十余度の合戦
        に、毎度軍忠を抽で、感賞の宣旨をかうふる。
        徳治年中、西国にをひて海賊蜂起の時、関東より
        御教書を給はつて賊黨を追罰す。
 ↓
【大洲系譜二十三代】
成義
 ・大野太郎
  ・母 平氏女也
  ・分領豊治

 女子 
・養子直義之室
 ↓
【大洲系譜二十四代】
直義
 実 熊谷次郎直実八世孫丹治直頼一子也
 大剛権化人也 諸国為一見武者修行而来
 此所干時二十三歳在志於当国初而至時国民
 大恐之成義無男子故為養子付使家督継改氏
 為大伴姓 国中静謐又於小田庄勧請当家
 氏神本地妙見大菩薩宮為領分惣氏神
 祭礼八月十五日也

 ↓
【大洲系譜二十五代】
直朝
  彦次郎

     直基(直朝息)
     ・東三郎  為家臣

 【大洲系譜】
 直頼(直朝弟)
 ・四郎二郎
     
     直範(直瀬息)
     ・城戸三郎  為家臣

     直資(直瀬息)
     ・今窪四郎  為家臣

 ↓
【大洲系譜二十六代】
直国
 ・弥太郎
 ・母 当家成義女也
 ・干時後宇多院御宇蒙古船数六千余艘来
  干鎮西主上有逆鱗而西戎追討者伊予国
  之役也 任先例可致征罰之旨依綸言
  賜赤地錦直垂引率四国軍勢発向筑紫
  直国自組伏戎大将得首級武勇威名揚
  於天下凱旋而帰陸之陣風吹而山海
  動乱数万賊船悉破 蒙古無令滅亡畢直国
  一人為御注進上洛 帝大有御感而為勧賞
  賜於肥州神崎庄之内小崎郷

     *久万弥太郎成俊と大野弥太郎直国は同一人物か?
      或は直国が実際に肥前国神崎庄に移ったからか成俊の
      弥太郎と同名の為、成俊の条が混入したか?
      但し「越智系図」は通有の11男 河野九郎通時が
      肥前小崎に居る、と記録している。【呑舟】

     *【河野系譜築山本】
       河野通将 六郎 居肥前

       譲与肥前国神崎庄内小崎郷
       並余残荒野地頭職之事
       右六郎通将任先例
       可令領知之状如件
       歴応三年二月十三日 善恵
       河野六郎(通将)殿  (對馬守通春)
       進之候

     * ・康暦元年(1379) 直利の兄で直国の男、直頼
       (大田三郎四郎、中川十郎入道)は11月6日河野通暁
        に属し当国吉岡佐志久原の戦いで討死している。【南朝】

     【大洲系譜】
      直武(直国息)
      ・東 弥六  為家臣

     【大洲系譜】
      直次(直国息)
       ・尾頸次郎  為家臣

 ↓
【大洲系譜二十七代】
直仲
 ・弥次郎
 ・母 村上太郎女也
 ・今度於筑紫尽無ニ戦功其後在京
  御所中御宿直時強盗小林大膳乱入
  紫震殿直仲走出組伏御簾上
  刎頭忽誅伐武勇威名揚於天下
  帝大有御感而勅賜當家紋木瓜二引也
  前自是先紋者鳩穂屋也

 ↓
【大洲系譜二十八代】
直利
 ・土居弥次郎 左近将監 十郎左衛門尉
 ・母 平基家女也
 ・降参者多 分領大静也

 ↓
【大洲系譜二十九代】 【北朝】
直氏 (1300~1380)
 ・土居弥六
 ・宮内少輔     「付箋 土岐伯耆守頼清息」
 ・実 当国守護土岐太郎源朝臣頼清三男也
  依為当国荏原 林 久万山分領
  頼清任之未生己前有竒瑞直利無男子
  故為養子改姓為当家大伴氏継家督
  任従五位伊豫守 自正慶年中至貞治数度
  合戦依抽粉骨軍忠
  (足利)尊氏公感之賜感状并当国守護職又其后
  義詮公御書曰

   於御方致忠節者 伊豫国守護職之叓 可宛行
   之由 先度被仰出矦定令到来矦□所詮
   昨日九日立江前四十九院宿己所発向京都也
   継夜於日可責上之状如件
      観応三年 三月十日  (足利)義詮
    土居宮内少輔殿

 ・一族並国人等相催急走上尽無ニ戦功勝利
  有依茲自義詮公賜感状数通有 其后
  国土治天下泰平喜而嫡子詮直使家督
  譲於之隠居
  康暦二(1380)庚申年十一月十四日逝去也
  法名信慶大居士  齢八十歳

     *「直氏  ~1380)土岐頼清子 伊予宮内入道信慶侍所頭人」

 ↓
【大洲系譜三十代】
詮直
 ・十郎左衛門尉
 ・賜義詮公諱依義満公
  仰細川右馬頭頼有状曰

   於小田土居城連日致合戦之条、悦入候
   就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私
   難有候、當方事可得落居候間、急速陣
   可被竒候、可心安候、恐惶謹言
    卯月十三日     頼有
    大野十郎左衛門尉(詮直)殿

    愛媛県編年史(947*本文書大洲随筆にも載す)

 ・又貞治六年(1366)山名退治仁木為大将被向
  宇和喜多両郡詮直尽粉骨軍忠 四月七日
  小田陣半落着註進其辺状為 
  上意 今川弾正俊通

   今月七日状一九日たうらい(到来)、
   いさひ(委細)きこし(聞食)めされ候、
   抑此方事、ミきち山はた(繁多)寺の上の
   あわちかもりのふる城を御ちん(陣)に
   めされ候て、てきほうハミなミな山へおい
   こまれ候へしほとに、とうこ(道後)のほう
   のハ、のこる物なくなりて、それニつき候てハ
   うわこうり(宇和郡)のせひ出候ハ、そのとき
   ハとう時に参らせくれ候へし、まつそのへん
   の事かつせん(合戦)をととめられ候て
   うわへん(宇和辺)のせひも不存出候やう
   にれうけん候ハ、たうほうのためしるへく
   候へし、兼而又このはた寺の御ちんハ、
   一日夜 御所方はかりにてまつめされ候て
   つきの日につきのする大しやうにて、二百
   よきはせはせくわわり申されて、このちん
   めされ候てのちいさのてきちんハ、ひらきて
   山こへひき入候へし、此ほうの事ハ、いまわ
   のこる所なくしてめてたく候、なをなをその
   へんのかつせんをととめられ、うわせひの
   ふひに参候やうにれうけん候ハンか、
   御忠せつにて候へし、又今月三日
   さわまつ殿へ御つかひをたてられかし。
   それともかさねて御しよをしんせ、それより
   つき申され候ハ、返々めてたく候へし、
   かまへてかまへてとくとくつけ申され候へし
   よし被仰下也、あなかしこ
     四月十九日     俊通 奉
    大野十郎左衛門(詮直)入道殿

       愛媛県編年史(1040*本文書検討を要す)

 如上意依抽忠節為勧賞賜感状又其后
 凶賊依御退治為上意

  於与州致忠節之條、以心神妙也、
  弥可抽戦功状如件
   応安五年十一月十三日
       細川右馬頭 頼有
  大野十郎左衛門尉(詮直)殿
      (946*本文書大洲随筆にも載す)

   為上意所領
  伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
  所領置也 任先例可致沙汰状如件
       細川右馬頭頼有
   永和元年十一月廿一日
    大野十郎左衛門尉(詮直)殿

  伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
  分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重
  可有其抽賞旨、被仰下状如件
   永徳二年七月十七日
          弾正弼  通俊
   大野十郎左衛門入道殿
     (1039*本文書検討を要す)

大野家系譜(伊予大洲大野家本) 1

2024年01月31日 08時52分55秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)

大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)1

【大野直利嫡流】伊予史談会蔵(伊予系譜【オー34】)

(はしがき)

大野系図、大野略系図(分家)大野傳書之系
大野家聞書の四本は、大洲大野某の所蔵にして
今越智郡書記たる、小笠原珍丸の保管に属す。
仝人は大野家所出にして而して大野家には
着実の主人なく、亡失の處あるを以って、
仝人の監督に移したるものなり。
大野家の系譜記録多しと雖も、本書の如く詳悉に
して、且つ要領を得たるものは、未だ曽て
見ざる所なり。今回伊予資料展覧会に提出し
たるに因り、特に謄写して之を蔵置す。
大野家には本書の外、陣貝(螺貝)一箇を
珍襲す。伝えて、長宗我部氏と戦いたる時
分捕りたるものなりと云う。
此の四書を合本して假に大野系譜と題称す。
右 装幀に臨み事由を叙し 以って参考に
資すと云うなり。

大正八年五月上旬    西園寺富水識

(伊豫史談会)


筆者 考証するに此の系譜 底本を直澄流
より派生したるものと考察する。
来書の内容の記録等が詳細である為である。
尾首大野家伝来の書ならん
但し、伊豫に残る数多の大野系図の中でも
最古に属するものと思われます。
書簡等の一次史料の写しの多くを所収している
のはこの系図であり、「愛媛県編年史」が所収する
大野家文書の多くの出典はこの系図からである。
ただ、何度かの書き写しの為か、兄弟か親子か
不明な記述も多く代数は適時付けただけであてにならない。
(呑舟)


【大洲大野系図 『直利流』】

大伴氏

天智天皇之御子 (*間違いの始まり)
 ↓
大友皇子    (*大伴と大友を錯誤)
  ・太政大臣初
 ↓
【大洲系譜初代】
與多王
  ・従三位大納言
  ・初賜大友氏
 ↓
【大洲系譜二代】
牟磨
  ・従三位中納言
 ↓
【大洲系譜三代】
安麿     (*ここで大伴系図に戻る)
  ・正三位大納言

    *【日本書記】
     朱鳥元年(686)9月28日
      ○次直広参大伴宿禰安麻呂誄大蔵事。
     持統2年(688)8月10日
       ○大伴宿禰安麻呂誄焉。
     大宝元年(701)3月21日
       ○為 直大壱大伴宿禰安麻呂従三位
     大宝2年(702)1月17日
       ○以 従三位大伴宿禰安麻呂為式部卿
     大宝2年(702)5月21日
       ○勅従三位大伴宿禰安麻呂、令参議朝政。
     大宝2年(702)6月24日
       ○以 従三位大伴宿禰安麻呂為兵部卿。
     慶雲2年(705)11月28日
       ○以 大納言従三位大伴宿禰安麻呂、為兼大宰帥
     和銅元年(708)3月13日
      ○為 正三位大伴宿禰安麻呂為大納言。
     和銅元年(708)7月15日
      ○召 大納言大伴宿禰安麻呂 於御前 勅曰、
     和銅7年(714)5月1日
       ○大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂薨。
       帝深悼之、 詔贈従二位。安麻呂、
       難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。
 ↓

【大洲系譜四代】
旅人  (大伴)
  ・任従三位中納言
  ・春宮大夫 大納言

 ↓
【大洲系譜五代】
高多磨

 ↓
【大洲系譜六代】
正磨
  ・従五位下

 ↓
【大洲系譜七代】
壽兄
  ・伊勢守
 ↓
【大洲系譜八代】
吉兄
・伊勢守
 ↓
【大洲系譜九代】 (*実質伊予大野家初代)
●吉良喜
  ・母 藤原姓女
  ・喜多郡大洲領
  ・廻国赴於当国長濱初下向於八多喜休到
   於喜多郡 大野 宇津 森山 宇和川 鳥坂
   立花 小屋 北平 只海蔵川 以上九ケ里
   之民降参 此所無主従他郷依伐九ケ里為
   主自称大野伊勢守於干鎮西有逆臣有
   帝大逆鱗而以四国中国軍兵可令退治之由
   蒙勅命賜赤地錦直垂四国中国之勢引率
   進発干筑紫而逆臣伏誅得首級而致
   太平乎 自是以後為西戎静謐仍賜
   国司而下向当国喜多郡則住之

      *【予陽河野家譜】
      (越智好方純友討伐に出征)
       人皇六十一代朱雀院御宇天慶年中伊予掾純友
       反逆掠領九州、好方蒙宣旨賜赤地錦直垂鎧、
       引率中西國武者、乗兵船二百余艘、進発於備前
       籠島、大闘被官奴田新藤次忠勝終得純友首、
       忽揚武勇威名、忝蒙御感綸旨訖、好峰子安国
       風早大領 三嶋大祝 其子安躬
       喜多郡司 相伝父職 益男次男元興
       温泉郡司執行道後七郡 其子元家 久米大領
       其子家時 和介太夫、
       自益躬至干家時中間十有余代称之地霊、如曰地神五代、
       水里玄義曰地霊者実而雖成象、 頃人皇五十二代
       嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
       造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、
       越智家時成婿君、有三子、越智為時  浮穴太夫
       次男今治為頼 中太夫別宮祖 経与
       新居氏祖 是也

      *【祇園神社】
       (由来沿革等)
       天慶二年(939年)伊豫掾藤原純友が平将門と
       ともに反乱した時に、朝廷は大伴吉良喜を喜多郡
       の大領に任じて暴徒を追捕したという。
       吉良喜は京都を出発する際に信仰していた祇園社
       (八坂神社)の御分霊を奉持し、粟津ノ森に社殿
       を造営し奉斉、「祇園社」と称したという。
       後に吉良喜夫妻の御霊を合祀した。大洲藩代々
       の崇敬を受け、参勤交代の時にはこの神社で
       海上安全諸祈願をして出発したと言う。
       明治元年に「粟津森神社」と改称されたが、
       昭和25年には再び「祇園神社」に改称された。

       神 社 名  祇園神社
        主 祭 神    素盞鳴尊 奇稲田媛命
        所 在 地  大洲市八多喜
        配 神    大国主命  神矢楯媛命
              吉良喜命  吉良喜比命
             (吉良喜夫妻)
        本殿の様式  流造 (銅版葺)
        社 格    旧郷社

      *【純友追討記】 (底本: 群書類従 第二十 東京 続群書類従完成会)
       伊予掾藤原純友居住彼国為海賊之首。唯所受性、狼戻為宗。不拘礼法。多率人集。
       常行南海山陽等国。濫吹為事。暴悪之類聞彼威猛。追従稍多。押取官物、
       焼亡官舎。以之為其朝暮之勤。遥聞将門謀反之由。亦企乱逆、漸擬上道。
       此比東西二京連夜放火。依之男送夜於屋上。女運水於庭中。純友士卒、
       交京洛所致也。於是、備前介藤原子高風聞其事。為奏聞其旨。
       天慶二年十二月下旬、相具妻子。自陸路を上道。純友、聞之将為害子高。
       令郎等文元等追及摂津国兎原郡須岐駅。同十二月二十六日壬戌寅剋、
       純友の郎等、放矢如雨。遂獲子高。即截耳割鼻。奪妻将去也。
       子息等為賊被殺畢。公家大驚。下固関使於諸国。且於純友給教喩官符。
       兼預栄爵。叙従五位下。而純友野心未改。猾賊弥倍。讃岐国與彼賊軍合戦、
       大破。中矢死者数百人。介藤原国風軍敗。招警固使坂上敏基。窃逃向阿波国也。
       純友、入国府放火焼亡。取公私財物也。介国風、更向淡路国。
       注於具状飛駅言上。経二箇月招集武勇人。帰讃岐国相待官軍之到来。
       于時公家、遣追捕使。左近衛小将小野好古為長官。以源経基為次官。
       以右衛門尉藤原慶幸為判官。以右衛門志大蔵春実為主典。即向播磨・讃岐等二国。
       作二百余艘船。指賊地伊予国艤向。於是純友所儲船號千五百艘。
       官使未到以前。純友次将藤原恒利、脱賊陣窃逃来着国風処。
       件恒利能知賊徒宿所隠家并海陸両道通塞案内者也。仍国風置為指南。副勇捏者令撃賊。
       大敗散如葉浮海上。且防陸路絶其便道且追海上認其泊処。遭風波難共失賊所向。
       相求之間。賊徒到太宰府。更所儲軍士、出壁防戦。為賊徒被敗。于時賊、
       奪取太宰府累代財物。放火焼府畢。寇賊部内之間。官使好古、引率武勇、自陸路行向。
       慶幸・春実等鼓棹自海上赴向筑前国博多津。賊、即待戦。
       一挙欲決死生。春実、戦酣裸袒乱髪。取短兵振呼入賊中。恒利・遠方等亦相随。
       遂入截得数多賊。賊陣更乗船戦之時。官軍、入賊船、着火、焼船。
       凶等遂破。悉就擒殺。所取得賊船八百余艘。中箭死傷者数百人。恐官軍威、
       入海男女不可勝計。賊徒主伴、相共各離散。或亡、或降。分散如雲。
       純友、乗扁舟逃帰伊予国。為警固使橘遠保被擒。次将等皆国々処々被捕。
       純友得捕。禁固其身。於獄中死。



 ↓
【大洲系譜十代】
武虎
 ・大野太郎
 ・母 大伴姓女
  ・久米押領使
 ・右兵衛尉
 ↓
【大洲系譜十一代】
国兄
 ・大野又太郎 大井御舘
  ・母 越智宿禰久米権介元家女也
 ↓
【大洲系譜十二代】
良国
  ・次郎 右兵衛尉
  ・越智押領使
  ・実武虎二男国兄同母弟也
 ↓
【大洲系譜十三代】
時泰
  ・又太郎
 ・西条御舘
  ・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘 
  ・母 越智宿禰和気太夫家時女也
 ・良国無男子故為養子当家大伴氏令継
 ↓
【大洲系譜十四代】
時武
  ・母 大伴姓女
  ・伊豫大領

【大洲系譜】
行泰
 ・母 藤原氏女也

【大洲系譜】
泰衡
 ・太郎右衛門太夫
  ・周敷押領使
 ・母 橘氏女也

【大洲系譜】
純衡
  ・伊豫守 従五位下

【大洲系譜】
武衡
 ・浮穴押領使

【大洲系譜】
泰行
 ・太郎 民部少輔
 ・母 藤原氏女也
 ・芸州沙田郡有凶賊
  依勅命而発向干沙田安々誅伐
  有御感為勧賞賜沙田

      (注)安藝(広島県)
        「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
         豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
         平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した

【大洲系譜】
純行
 ・次郎 称富永 太田押領使
 ・母 大伴姓女也
 ・干時天慶二己亥(丑カ)年(939) 
  筑紫有逆乱当国八家士
  依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
  天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
  八家同前也

【大洲系譜】
純宗
・雅楽 伊豫大領
・母 越智氏女也

【大洲系譜】
宗成
・母 橘氏女也
・大井大領

【大洲系譜】
吉雅
・久米御舘
・母大伴氏女

【大洲系譜】
純頼
・宮内少輔

【大洲系譜】
安雅
・久万太夫
・母 越智氏女也
 ↓

【大洲系譜十五代】
安綱 (久万祖)
・五郎太夫
     *【予陽河野家譜】
       河野通信相共候後家人三十二名の中に
       久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
       (景浦氏曰く後世の加筆カ)と
 ↓
【大洲系譜十六代】
安仲
・八郎太夫
・母 源義夏女
     *【予陽河野家譜】
       河野通信相共候後家人三十二名の中に
       久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
       と注記あり
       (伊予史談会景浦氏曰く後世の加筆カ)と断ず

 ↓
【大洲系譜十七代】
安行
・久米太夫
・母 大江氏女
     *【予陽河野家譜】
       河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
       なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
       同一人物カ

【大洲系譜】
宗行
・太郎 冨永八郎
・母 大江良元女也 任右兵衛尉

     *大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
      実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
      として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
      はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟

【大洲系譜】
藤行
・太田六郎太夫
・母 当女房 織部左衛門尉

【大洲系譜】
定雅
・久万七郎
・降参者多而領分広大得長者号

【大洲系譜】
藤元
・三郎 宮内少輔

【大洲系譜】
元有
・二郎 右兵衛尉

【大洲系譜】
貞有(具?)
・三郎 左京進

【大洲系譜】
有頼
・太郎 左京進

【大洲系譜】
綱頼
・十郎

有藤
・五郎 左衛門尉

経武
・又太郎


【大洲系譜十八代】
義有
・太田十郎
・母 源姓女也
 干時元暦元申辰年(1184)二月三日九郎太夫
 判官義経公着岸干勝浦義有聞之従士数百人
 召倶兵船百余艘取乗為御方走参抽無二軍忠
 武勇威名揚天下依茲自義(経)公賜感状数通
 并当国地頭職又其後自頼朝公安堵御状曰

  伊豫国御本領 并家人等 御進退不可有相違者也
  遠国之間 上下向其煩矦欽然者子息若近親一人
  可下給矦 且委旨實平申含矦也
       文治元己己年 三月二日   頼朝
  太田十郎殿

  (元歴元年ではなく元歴二年の伊豫史談会の
    転記間違いと思われる。)【呑舟】