山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

コンビニ業界が変?

2024年02月29日 07時48分22秒 | 談論風発
「セブン&アイ/千葉県松戸市に新コンセプト店舗「SIPストア」オープン」とニュースが出ました。

SIPなどと変な単語を使っているが、7イレブンに生鮮三品を加えたミニスーパーでしか
ない。この分野の最大手はイオン系の「マイバスケット」で都心部で1100店舗を構える一大
勢力である。他に「マルエツ・プチ」「マックスバリュ・エクスプレス」など同様な形態は
沢山ある。

7&IのSIPが違うのは、コンビニの成功の源であるリスクを取らない、フランチャイズ方式を
踏襲することですね。

コンビニの加盟店主の最大のリスクは24時間365日店を開けて置かなけらばならないこと。
①人件費は加盟主の負担。②商品の廃棄ロスも加盟主負担。③売上から仕入値を引いた粗利の
60~65%は本部へ上納。とするリスクである。

現在は人件費はうなぎ上りなので加盟店主は人材確保に大童である。以前は中国人、ベトナム人、フリッピン人を雇っていたが、大幅な円安で来なくなり、現在はバングラデシュやネパール人が主流ですね。そのうちコンビニには日本人はいなくなるでしょう。

SIPも7イレブンと銘打っているので加盟店経営を7&I本部は考えているのでしょう。
生鮮三品(肉・野菜・魚)は鮮度が落ちるので必ず、値下げや廃棄は発生します。
コンビニは値下げを認めない制度なので廃棄ロスだけ加盟オーナーが被ります。

また、ロフト、赤ちゃん本舗、大創の売れ筋のみのコーナーを設置している。
これは一見便利そうであるが、売れ筋商品は毎日変化します。それを把握するために
POS(販売時点管理SYS)を導入していますが、フェイス管理(棚割)は簡単に変更できません。省力化のため自動発注SYSを導入すれば、売れない商品が自動的に入ってきますが、廃棄
しますのでDATA上はゼロとなりますのでまた、入ってきます。売れたのか万引きか廃棄したのは現在の在庫管理SYS上は判別できません。

これらのリスクは「まいばすけっと」等他のミニスーパーは直営店ですので運営会社が全部負担しています。7&Iはこれを個人事業主に負担させようとしています。美味しいところだけ本部が巻き上げ、加盟店契約と言う「奴隷契約」に近いものを個人に負わせますね。かって、大坂で「働き手の妻が死んだので24時間営業は勘弁してください、夜11時までにしてください」と強硬11時閉店した加盟店主に契約違反とし商品供給を止め、更に隣に新7イレブンを開店して旧店との間にフェンスを張り嫌がらせの限りをしたのも7イレブン本部でしたね。

7&I Hは7イレブンとイトーヨーカドーの合同会社ですが、GMSのイトーヨーカドーは次々と
閉店を繰り返し、現在の経営陣はコンビニの経験者だけです。コンビニ本部の人は加盟店担当(フィールドマン)から始まり上に登りますので、最初から上から目線で育った人たちですから加盟店主は部下としか思っていません。言うことを聞かない部下は数年毎の契約更改で切り捨てます。とても資本家にとっては都合のよいシステムです。商品開発が素晴らしいと外野が評価していますが、これは自社ではなくメーカーの社員に競争させて新製品を作らせますので
7&Iはコストはかかりません。取引先に命令(指示)すればよいだけです。これならバカでもできます。流通評論家はこれを「製販一体SYS]とほめちぎりますが、ここでも本部は取引先に負担を求めます。実際の販売者と実際の仕入先の過大な負担の中で現在のコンビニ業界があります。かっては禁止した商品配達を拡大していますが、これも加盟店の負担ですね。

日本ではコンビニ三社がシェアの90%を握る飽和状態です。先に三菱商事がコンビニリスクを
KDDIに半分渡しました。国内の7イレブンは混乱状態にはいりました。ファミリーマートを西友から買った伊藤忠ももがいています。

経済原則により田舎からはコンビニは消えていきますので限界集落は消滅集落となる日が迫っています。これは郵便局が消えていくのと同様な動きですので大変です。

せちがらい世の中になります。最大の環境変化は少子高齢化ですね。

『大島郡古城址めぐり』を考える(平知盛城) 4

2024年02月26日 09時08分35秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
大島郡の古城の中で一番の論争は『大島郡古城址めぐり』に収録される平知盛の城のことであろう。
これは、同書は⑦城山(島末城)平知盛城主(諸説有り)としています。

ただ島末城とは誰が命名したのでしょうか?

源氏の正史「吾妻鑑」は屋代島に築城するとしか書いていません。

しかもこの城は屋代島の最中(真ん中もしくは中心地)に築城するとします。
昔は大島郡を三つに分け、島の尻尾を島末、真ん中の久賀・安下庄を島中、頭の屋代・三蒲を
島元と表現しました。庄は屋代庄、安下庄、島末庄で久賀は保でした。

平知盛が直接築城はしていません、平家の臣である、屋代源三、小田三郎に命じて築城させる
としますが、築城期間が少なく完成はしていない模様です。
屋代島の城を家来に築城させている間は知盛は下関の彦島築城に奔走していますので屋代島
大島にはいませんでした。

歴史書は
寿永3年(1184)2月 「山口県史整理年表」 ○平氏一谷城に拠る。防長の諸将これを赴援す 【御両国御蔵入諸給領田畑小村帳一件記】

とありますので、防長はすべて平家の支配地あり全員が「一の谷合戦」の応援に行ったとします。

「一の谷合戦」で敗北した、防長・伊予の平家軍は弱体化し、そこを狙って

寿永3年 4月24日 「山口県史整理年表」 ○院宣により山城国賀茂別雷社領伊保庄・竈戸関・矢島・柱島等武士の狼藉を停止す 【賀茂注進雑記】

寿永3年 4月24日 「愛媛県史」 源頼朝、上賀茂社領野間郡菊万荘・佐方保などで武士が乱暴するのを停止させる〔賀茂別雷神社文書〕。

とあるので地元の武士たちが横領を始めたので源頼朝が停止命令を出したとされます。

この時の10月まだほそぼそと平家の砦として平知盛に命ぜられた、屋代源三、小田三郎は
築城を始めます。知盛が安芸周防を回復したからでしょう。

寿永3年 10月「山口県史整理年表」 ○平知盛、安芸周防を復し 【源平盛衰記】
寿永3年 10月「吾妻鏡 」○大島郡に築城す

しかし、知盛は源範頼にすぐ周防安芸を奪い返されたので彦島に逃げます。

寿永3年 10月「吾妻鏡 」○源範頼安芸周防を従えて西下するにより、平知盛彦島を本営とす

築城を始めて半月もたたないうちの逃亡となります。
これが「吾妻鑑」の(旬月)に符合します。『大島郡古城址めぐり』は(古代に於いては一年から半年)と解釈していますが歴史書はそうは見ていません。

次に築城の場所ですが、前述のように吾妻鑑は屋代島島末とは書いていません。
しかも、築城を担当した平家の家来の屋代源三と小田三郎の居住地は旧大島町の
屋代地区と小田地区です。
今の周防大島町総合庁舎から山側を見ると、右に鳥海山の麓の屋代地区で屋代源三の支配地で
左に昔、鎌倉時代公文所があったとされる小田地区で平家時代は小田三郎の支配地とされます。
よって、今も屋代や小田から島末(旧東和町)へ行くのは車でも相当時間がかかります。
ましてや当時は船しか交通手段がありません。屋代や小田の家来が島末まで工事に行くのは
不合理です。確かに、島末の地区は正面に伊予、右に豊州、左に安芸と絶好のロケーションではありますので築城には好適です。
ただ、「吾妻鑑」が屋代島の「最中」中心地に築城であり、築城者は屋代源三、小田三郎と書いてあるので、築城場所は鎌倉時代の役所である「公文所」を設置したとする屋代地区が
正しいのでしょう。当時の地形は旧屋代小学校のあたりまで海で海をへだてて屋代源三と
小田三郎がいます。現在は埋め立てられています。

この海は源平時は大島津と「吾妻鑑」に記され、義経の全軍船が壇ノ浦の戦い前日に停泊した
と記録されます。義経軍がわざわざ安下庄を回り、現在の小松開作まで来たのは平氏の残党掃討と思われ屋代に知盛の城があったからと思われます。しかしもぬけの殻なので早々に引き上げ、当時柳井と平生は水道で舟が通れたのでこちらを抜け壇ノ浦に翌日到着できました。
このあたりのことを吾妻鑑は

寿永4年 3月22日 「吾妻鏡」 ○源義経が大島の津にあり。周防国舟船奉行船所正利、船数十艘を献ず、ついで参加す。
元暦二年(1185)三月大廿二日乙巳。廷尉數十艘の兵船を促し、壇浦を差し纜を解くと云々
昨日自り乘船を聚め計り廻らすと云々。三浦介義澄此の事を聞き、【當國大嶋津于參會す】
廷尉曰はく。汝已に門司關を見る者也。今に案内者と謂つ可し。然者、先登可し者り。
義澄命を受け、壇浦奥津邊〔平家の陣を去ること卅余町也〕于進み到る
時于平家之を聞き、船に棹さし彦嶋を出で、赤間關を過ぎ田之浦に在りと云々
【意訳】
源廷尉義經は、数十艘の軍船に命じて、壇ノ浦を目指して出航しましたとさ。昨日から船の数を確かめ乗船の分配を算段しましたとさ。
三浦介義澄はこの話を聞きつけ、この国に駐屯していた大島の津から合流してきました。源廷尉〔義經〕が云うには、あんたは門司の
海を見た経験者なので、先導者と云える。そこで先頭を受け持ってください。三浦介義澄はその命令を受けて、壇ノ浦の奥津
(干珠、満珠の島のあたり)〔平家の陣営から三十余町(3km以上)離れている〕へ進出しました。その時、平家はこの様子を知り、
船を出航させて彦島から、赤間関を通り過ぎ、田ノ浦に陣取ったんだとさ
と書きます。

今は柳井水道は埋まっていますので現状を前提とした歴史家は、吾妻鑑の大島津は室津か下松あたりでないと翌日下関(壇ノ浦)に物理的にたどりつけないと書きました。
また、ある歴史家は大島津は今の柳井であり周防大島町小松開作ではないと書いています。
源平合戦の時はもう柳井はあり大島津と違います。吾妻鑑は「義経大島津にある時、柳井の楊井氏兵舟を率いて参集し」とありますので小松開作に柳井海賊衆が応援にきたとします。
柳井水道を案内したのは柳井氏でしょう。柳井氏は後に大内や毛利の家臣団で残り、現在の
専門小売業最大手「ユニクロ」の柳井氏もこの末裔でしょうね。

平知盛の城が「島末」と勘違いする記述は

文治4年(1188)12月12日 吾妻鏡 周防國嶋末庄地主職事
右件庄者。彼國大嶋之最中也。大嶋者。平氏謀反之時。新中納言〔知盛〕搆     城居住。及旬月之間。嶋人皆以同意。自爾以降。爲二品家御下知。
件嶋被置地主職之許也。毎事守庄務之例。更無新儀之妨。被尋搜之處。定無其隱歟。但於別御定者。不及左右候。早随重仰。可進退候
【意訳】
周防国島末庄の地主職について
因幡前司大江広元の使いが、京都から到着して申し上げました。今月の三日に、法皇が熊野詣に出かけようとしました。しかし、
その禊の期間中にお気に入りの言葉をかけられました。院の御所閑院と六条殿の修理などに良く勤めてくれたので、殊勝であるとの事でした
このようなお言葉を戴き喜びの涙を押えきれません。このお言葉も、ひたすら影に働いた力量によるものでしょうかだとさ。次ぎの話題は、
大江広元の領地の周防国島末庄について、院の庁の官女三条局が、手紙で欲しいと訴えたので、師中納言吉田經房が院の命令で、
所領になった経緯を質問してきたので、事情を書き出した由緒書きを差し出しました。きっと頼朝様に直接話があるでしょうから、
大江広元が言上した内容をお知らせするために、その写しをお送りいたしましただとさ。
 右の荘園については、周防の国の大島の真ん中にあります。大島は、平家合戦のとき、新中納言平知盛が、城郭を構えで居住して
数ヶ月以上居たので、島中の武士が皆従ってしまいました。それ以来、頼朝様の命として土地の所有者としての地主の職だけを認めていました。
何事も、本来の荘園の義務である年貢の納付を守って、先例を崩すような横取りはしませんでした。調べていただければ、
ちゃんと分かるはずです。但し、新たに院から注文があれば、どうこう言わずに、早々に仰せに従いますので、ご命令ください。

とありますので島末庄を大江毛利が鎌倉幕府から拝領したのでこの文中の島末庄とあるので
城も島末にあるだろうとしたようです。宮本常一氏もそのように解釈し東和町誌等に書いた
のでしょう。こちらが平知盛島末城の震源地のようです。

また、平知盛の命により小田三郎、屋代源三が築城したとされる根拠出典は

建久3年(1192) 6月3日 山口県文書館蔵
 ○地頭大江広元は久賀、日前、油良の公領も押えようやく大島郡全体の地頭になれた。
  宮本常一

前右大将家政所下周防国大島三箇庄并公領住人可早
前因幡守中原朝臣廣元為地頭職事
右去文治二年十月八日御下文書件島者平氏知盛卿謀反之時
構城郭所居住也 其間住人字屋代源三 小田三郎等
恠令同意始終令結構彼城事所業之旨旁竒恠也
早以廣元為地頭職任先例可令勤仕本家所役矣者而
今可成政所下文旨依仰所改如件以下
  建久三年六月三日  安主藤井 判
            知家事中原
 令民部少丞藤原 在判
 別當前因幡守中原朝臣 在判
 前下総守源朝臣
 散位中原朝臣

【書き下し文】
 前の右大将家政所下文

  前の右大将家政所下す 周防の国大島三箇庄並びに公領住人
  早く前の因幡の守中原朝臣廣元地頭職たるべき事
  右、去る文治二年十月八日の御下文に云く、件の島は平氏知盛卿謀反の時、城郭を構
  え居住する所なり。その間住人字屋代源三・小田三郎等同意せしめ、始終彼の城を結
  構せしめをはんぬ。所行の旨旁々奇怪なり。早く廣元を以て地頭職と為し、先例に任
  せ、本家の所役に勤仕せしむべきてえり。而して今政所下文を成すべきの旨、仰せに
  依って改むる所件の如し。
    建久三年六月三日   案主藤井判
  令民部少丞藤原判     知家事中原
  別当前の因幡の守中原朝臣判
  前の下総の守源朝臣
  散位中原朝臣

により明らかです。


結論的には平知盛命令の屋代島の城は屋代源三、小田三郎が居住した現在の屋代地区にあったと考えられます。「大島発祥の地 屋代村の史蹟」は吉井の城山と比定しているが筆者はまだ
発掘されていない川地の城山ではないかと思っています。この城山は昔から城があったと言われていますが発掘はされていません。




 










『大島郡古城址めぐり』を考える 3

2024年02月25日 05時47分12秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
『大島郡古城址めぐり』が所収する古城は

  城名          場所       城主

① 城ノ坂城        小松永坂     城主不詳

② 岡本城         西三蒲      城主不詳

③ 古城山         屋代三蒲境    城主不詳

④ 石見城         久保河内     久保石見守主膳
                      イ)久保主殿介維忠

⑤ 東郷山         久賀東郷     来島出雲守

⑥ 油由城                  由良左衛門九郎

⑦ 城山(島末城)              平 知盛(他諸説有)

⑧ 城山          森村       藤掛入道
                      イ)藤懸入道出城

⑨ 城山          内入穴戸     金丸園之助
                      イ)金丸團之助輝國

⑩ 城山          和田2城     城主不詳

⑪ 城山          油宇       城主不詳

⑫ 古城          小泊       城主不詳

⑬ 城ノ岡城        和佐       城主不詳

⑭ 磯兼館                  磯兼右近

⑮ 古城          安下庄      城主不詳

⑯ 清木城         塩宇       青木肥後守
                      イ)岡部和泉守貞俊居す。
                        (青木和泉守ともあり) 

⑰ 甲の山城                 城主不詳

⑱ 田中城         田中       中務左近

⑲ 古道城         川間       古道筑前守実久

⑳ 古櫛山城        秋        金丸園之助輝国

㉑ 津海木城        戸田       島崎佐渡守
                      イ)嶋崎佐渡守久國

㉒ 湯面城         戸田       城主不詳

㉓ 宗岡城         横見       宗岡右衛門
                      イ)宗岡右衛門佐俊光
                        (一本俊元とあり)
                      
㉔ 鳩ケ峰城        日見       城主不詳

㉕ 志佐城         ともさだの鼻   城主不詳

㉖ 吉井城         八代       吉井隠岐守光政

㉗ 吉兼城         八代       金丸若狭守冬国

㉘ 村上おすまや      川地       村上水軍別邸

㉙ 大平城         大平       城主不詳

と記載されている。

㉘の村上田屋まで古城マップにいれるのは如何かと思います。これは単なる居住
屋敷です。⑯の清木城も天正期の単なる屋敷です。青木系図は居城と書きますの
で城と勘違いしたのでしょう。⑤の東郷山も城とするのは無理があるかもしれません。
出典が軍記物で伊予の来島が出城を作る必然性はありません。彼が大島の一部を
拝領したのは、厳島合戦の褒美で毛利家からであって信長からではありませんので
出典が変です。又、異本に記されたる記事をイ)として添付しました。その出典は
下記の


私の古い記事に、

小松開作の矢田部與一氏が残したる「大島郡志」に【大島郡古城】の頁があります。
創設年は不分明なれど、今後の研究の為UPします。
尚、大島郡の範囲は最大で、現在、岩国市、柳井市に編入された、柱島、平郡島、上関、神代、大畠、
遠﨑、牛島、馬島、佐合島、八島、祝島等を含みます。

 【大島郡古城】

一、上の関城        大島郡上の関     村上刑部少輔武満居す。

一、石山の城        同郡波野村      石城判官国義出城
 (一本岩城山とあり)

一、馬島要害        同郡上の関の内    来島丹波守時季居す。
                              (一本丹後守時春とあり)

一、吉井の城        同郡八代村      吉井隠岐守光政居す。

一、吉兼の城        同郡八代村      金丸若狭助冬國居す。

一、宗岡城         同郡横見村      宗岡右衛門佐俊光居す。
                              (一本俊元とあり)

一、津海木城        同郡戸田村      嶋崎佐渡守久國居す。

一、汐干山         同郡安下庄      岡部和泉守貞俊居す。
 (塩守山、青木山とあり)              (青木和泉守ともあり)

一、古道城         同郡安下庄      古道越前守實久居す。

一、城山城         同郡内入村      金丸團之助輝國居す。

一、城山城         同郡森村       藤懸入道出城

一、久保河内城       同郡久賀村      久保主殿介維忠居す。

一、大平城         同郡

一、鳩ケ峯城        同郡日見村

一、甲の山城        同郡安下庄

一、城山城         同郡戸田村

一、内藤田城        同郡西方村

  右五ケ城不分明

 この古城は今何時の時代の城なりしか分らざれども、茲に掲げて参考に供せん。

尚、各地に古城跡と称するものあり右に付記す。

一、油田村大字油宇字西濱

一、和田村大字小泊の古城

一、同上字城山

一、同上大字内入字穴戸

一、日良居村大字油良字城

一、安下庄町大字西安下庄字正分

一、同上字田中

一、久賀町字東郷峠東郷山

一、小松町大字志佐
  (先年、字ともさだの鼻より石棺を掘出せりと云う。この辺か)

一、平郡村字東浦 城の平山            鈴木帯刀介仲光居す。

一、同上字西浦  平見山城            浅海浄空居す。

 建久三年の文書に、件の島は平家知盛謀反の時、城を構え居住し、其の間、

屋代源三 小田三郎を同意せしめた云々。

また、「もりのしげり」に


一、鹽宇山城   大島郡安下庄村         岡部和泉守貞俊居之

一、窪河内城   大島郡久賀村          久保主殿介雄忠居之

・・・・・・・・・・・・・・・・・

源平合戦持の平知盛の大島郡の城はややこしいので別途書きましょう。

周防大島「古城址めぐり」を考える 2

2024年02月24日 18時40分18秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
周防大島の古城とされるものは出典を殆ど「風土注進案」や「地下上申」等の地誌編纂時の里の伝承を元に
しているので、「何時、どこの誰が」、がはっきりしないのも事実である。

城と言うと天守閣のある立派な建物を想像しがちであるが、室町末期の戦国時代までは単なる領主の屋敷であった。
これを「館」(やかた)と呼んだので、そこの主人は「お館(屋形)様と呼ぶようになりました。
東北地方の下舘、角館、函館、等地名に残るのは領主の館があった所の名残で屋敷や街並みまで含めての範囲となります。

城(いつき・グスク)は奈良期の防衛砦のイメージに近いのでしょう。
「土が成る」と書きますので漢字上は土塁構築物ですね。

朝鮮半島から古代、異邦人が日本に攻め込んでくる可能性がありましたので、西日本に多くの砦が築かれました。
当時の日本はまだ、本格的な砦(城)を築く技術がなかったらしく、多くは朝鮮職工により朝鮮式の砦となりました。

時代が下がって応仁の乱や南北朝の戦いが屋敷(館)を軍事施設に作り替えるようになりました。
まず、屋敷の周りに堀を作ります。初期段階は空堀です。そのレベルでは間に合わないと感じた時代から空堀に
水を入れ始めます。屋敷に入るのに揚げ橋や子舟を使うようになりますが、これらは大物の領主様だけが出来る
ものです。多くの領主に領土を守る家来を各地に配置しますので、これらが本城に対し、枝城と後世呼ばれます。
大島の多くの城と伝承されるのは、殆ど小規模な「かきあげ」と呼ばれる砦であってまともな城は見つかって
いません。「かきあげ」形式の砦は、通常は使用しませんので、見張り程度が交代で詰めるぐらいです。
場所によってはのろし台を兼ねていたのでしょう。
見晴らしのよい急峻な山の上を平に削り、木で策をめぐらせ、さらに一段と高い所に見張り台をたてている
だけの作りを後世の人「城」と呼ぶようになりましたので姫路城のような城があったと勘違いします。

通常生活する時は平地の屋敷で生活していますので、伊豫等ではこれを「里の城」と呼び、敵が攻めて来た
時は山の上の「山の城」に女子供を連れて籠城戦に入ります。山の城には武器と食料、水が備蓄されて
います。なぜか小石も沢山蓄えていて、敵が山を登ってきたら、女、子供が投げつけます。
四境の役の大島口の戦いで、源明峠に上がって来た松山兵に向かって女子供が石を投げたとされますので
近年まで踏襲していたのでしょう。

余談になりますが、「いのこ祭」の後、それぞれの部落のいのこ組が隣部落の「七夕竹」を奪いに夜襲を
かけますが、この時、当家に石を投げつけますので、当家はあらかじめ襖,障子、雨戸を全部外して被害を
最小限にしようとしました。敵の旗印に相当する短冊竹を分捕れば勝組となりますが、いまは子供が
いませんので「いのこ石」があがりません。これらもかっての戦闘訓練の一環と思っていたので大人も
物を壊されても怪我をしても大目に見たのでしょう。

と言うことで大島郡の城は殆どが「かきあげ」でしょう。
それも海近くは海賊の出城程度しか目的は無かったものと思われます。
陸のは大内時代以前の武将のものとも考えられます。
宮島合戦以降は周防、長門から大内(陶)配下の武将は殆ど放逐されたものと思われます。
海賊城も「海賊停止令」で無くなる以前に大島郡では陶配下の海賊は放逐されました。

また江戸期は幕府の「一国一城令」により毛利家も萩城以外は認めてもらえませんでした。
岩国城は吉川氏が関ケ原で裏切ってくれたので大目にみましたが、支藩の徳山、長府は
館しか作れませんでしたね。
よって、江戸以降は大島郡に城はありません。「古城址めぐり」は江戸期の萩藩給領主との関連に言及して
いる所がありますが、給領主は通常は萩城下か大島郡は船手組が多いので三田尻に本宅を構え、
田舎の給領地にはたまに帰る家として屋敷を構えます。(これを萩藩の方言で「田屋」と言います)
浮米の人たちは領地がないので田屋もなかったでしょうね。

また、「古城址めぐり」には多くの城が収録されていますが、時期的に同時に存在したわけではありません。

このような背景から「古城址めぐり」をめぐっていきましょう。


『大島郡古城址めぐり』を考える 1

2024年02月24日 09時41分40秒 | 山口県周防大島「古城址めぐり」考察
周防大島町文化振興会が発刊した「大島郡古城址めぐり」を先日外入のSKさんより頂戴した。

主に村岡只通氏、濱村治一氏の出筆になるものと思われる。
両者の相当な力作であり、大島郡古城伝承をほぼ網羅しています。
ただ、大島郡のこれらの古城はいつの年代のものかは不明で古書に書いてあるものも
時期を明言していない。唯一例外的なのは源平合戦の折の平知盛が築城を命じたとされる
島末城ぐらいであるが、この城も諸説ありはっきりしません。

徒然なるままに愚見を述べたいと思います。ご意見、ご批評、感想等はコメント欄より
投稿願います。