昭和期に「山口県大島郡ハワイ移民史」を上梓した本の中に、ハワイに行った動機を聞いた所が
あるので抜粋してみましょう。土居弥太郎氏は当時山口大学農学部部長で本職は稲の研究であるが
父親が村長をしていたので、ハワイ渡航の旅券手続きや船便の渡航手配もしていたので、
彼は「ハワイ移民」には特別な興味を抱いていたのであろう。
小生の親族でもあるので子供の頃、「難しい話をする小父さん」の記憶しかない。
尚、彼は現在の山口大学を現在地に移転させて発展させた功労者として校史に残ります。
渡航動機【帰朝者聴取】 【山口県大島郡ハワイ移民史】
山口大学教授農学部長 土井弥太郎著(大島郡戸田出身)
氏名 出身 生年月日 渡航年 渡航理由 (注)筆者但書
1 河本 スエ 山口県大島町横見 慶応元年2月25日 明治22年
【渡航理由】お上の募集があり、3年我慢すれば沢山もうかるからと夫の亀松と金儲の為渡航した。
(注)当時の雇用契約は3年間であった。砂糖キビ畑で3年頑張れば後は帰国するなり首府ホノルルに
出るなり、米本土へ行くなり自由であった。ホレホレ節に「行こか戻ろかこれが思案のしどころよ」
と歌われたのは「帰国しようか、米本土の挑戦しようか悩んだ時」の話です。
2 森村 弥九郎 山口県東和町和佐 明治3年1月29日 明治23年
【渡航理由】家業が農業で家族10人で生活が苦しく、兄がハワイに行っていたので14回船で渡航した。
(注)これも呼び寄せ移民の形です。
3 田中 久太郎 山口県東和町和佐 明治元年7月16日 明治28年
【渡航理由】村で皆が海外移住するので自分も思いつきでハワイ行を希望し神戸から出航した。
(注)当時の若者が行かない方が恥のような風潮があった。
4 堅本 市助 山口県橘町日前 明治9年12月28日 明治29年
【渡航理由】農家で煙草屋もしていた七人兄弟の長男だがとても貧しく、ハワイに行きたいが
旅費が溜まらない、借金して渡航中自炊で渡った。
(注)この人の時は渡航会社船時代なので、旅費に60~70円かかるので借金したものでしょう。
多くの人が借金して渡航しています。一等客は豪華な食事付ですが、この人は三等の自炊の船底部屋
組で経費を切り詰めて行ったのでしょう。
5 今元 重助 山口県大島町西屋代 明治6年12月10日 明治29年
【渡航理由】リューマチで調子が悪いので水が代われば治るかとハワイ行を決めた。
(注)この人の本家は元庄屋で大区小区時代は戸長でそののち西屋代村村長の家です。
この人も兄から70円借りて渡航しています。この人の親戚は今ハワイにいます。)
6 今元 正一 山口県大島町西屋代 明治14年8月14日 明治32年
【渡航理由】本家の雅助がすでにハワイにいたので同村の人の同伴で行った。
(注)この人は上記、重助の親戚で本家がハワイ島に行っていたので行っています。父親は
屋代村助役で渡航の世話もしていました。)
7 末中 清吉 山口県東和町和佐 明治13年10月23日 明治35年
【渡航理由】土地が少なく余裕のない生活であった。叔父がハワイは儲かるからと云うので行った。
8 串田 清吉 山口県東和町和佐 明治7年10月15日 明治35年
【渡航理由】既に叔母がハワイに渡航してため、金儲けのためハワイに行く。
(注)これも呼び寄せです。
9 室屋 和佐次 山口県大島町横見 明治11年7月30日 明治36年
【渡航理由】巡査をしていたが給料9円では食えぬので父、大谷菊治が一回船で行ったので私も行った。
(注)これも呼び寄せですが巡査の給料9円と出稼ぎ給料25円ではその気になります。
10 川本 正助 山口県大島町戸田 明治17年1月18日 明治36年
【渡航理由】家は呉服商であった。役場の職員が5~6円、小学校長が9~10円の時代
ハワイへ行けば24円になるから行った。郡長の給与と同じであった。
(注)日本との給与格差が原因です)
11 大恵 森吉 山口県大島町戸田 明治19年1月19日 明治36年
【渡航理由】アメリカ本土に行きたかったが駄目で大陸会社の仲介でハワイへ行った。
(注)当時は米本土に直行は難しく、一旦、ハワイへ行ってそれから本土へ行く方法が
とられました。和歌山の漁師は当初から米本土を目指していてハワイに数か月しか
いませんでした。大島では沖家室を中心にハワイ漁業を目指しています。こちらの
成功者はの一人は「大谷松次郎」氏です。
12 新宅 茂吉 山口県東和町内入 文久元年11月13日 明治37年
【渡航理由】村の人多くがハワイの出稼ぎに行くので帰国して瓦葺の家を建てたいと思い渡航した。
13 今田 宗一 山口県大島町西屋代 明治18年11月16日 明治39年
【渡航理由】近所の人が渡布しているので、自分も海外雄飛の為、渡航会社を通じてハワイに行った。
(注)この人の子孫は今、サンフランシスコにいます。
14 森田 和吉 山口県大島町西屋代 明治18年4月12日 明治39年
【渡航理由】大工をしていたが兄弟弟子がハワイに居り、給与が倍になるからと云うので渡航した。
(注)片山地区でハワイ御殿と後世伝えられる家を帰国後作ります。この人の台所はハワイ移民資料館の
台所と同様な和洋折衷でした。ワッフルやビスケットを細君が焼いて近所の子供に配っていました。
子供が通りかかると「ボイ、ボイ」と手招きする、和吉爺は普通の顔であるが、森田婆はおっかない
顔をしていたので近寄りにくい。恐る恐る近づくとビスケットなるものを呉れた。これが固い、饅頭か
羊羹か餅に慣れてる子供にはご馳走ではなかった。後で英語を習い始めて彼女の「ボイボイ」は
「Boy ! Boy 」(少年たちよ!)の意味であることを始めて理解した。
そういえば近所には帰朝者たちが沢山いて、日常用語の中で、ハワイで覚えた、英語とカナカ語が
混ざりあっていた。「ケーン」ナイフは皆持って帰っていた。森田氏は大工だったので、ハワイ(米国)の
大工道具を多く持って帰っており、最新鋭で且つ珍しいものであった。和鋸は「引いて切る」が米鋸は
「押して切る」ことを始めて知った。この家だけが片山地区で広い庭がすべて芝生であった。
子がいなかったのか、現在、森田邸は人手に渡っている。
同様な邸宅は「今元正一邸」「今元重助邸」「今田宗一邸」「山根邸」「小林邸」「福元邸」「小形邸」
などがあり現在も多く残っています。
15 森友 ツルヨ 山口県東和町伊保田 明治26年10月10日 大正3年
【渡航理由】夫の呼び寄せで渡航した。
(注)先に夫が渡航し生活が落ち着いてから嫁・子供を呼び寄せることが流行りました。
16 岩本 新一 山口県大島町小松 明治31年12月27日 大正4年
【渡航理由】父が明治31年に渡航し、私は日本で祖父母の育てられたが小学校を卒業したので父の許に行った。
(注)子供は行く前なら「尋常小学校・尋常高等小学校」を出てから渡航するのが殆どで、逆に布哇で生まれたら
小学校に上がる前に、帰国者に親元か国の親戚に預けて、日本で教育を受けさせて卒業したら呼び寄せて
いました。教育を受けていないと出世できないことは親たちが一番骨身にしみていたのでしょう。
あるので抜粋してみましょう。土居弥太郎氏は当時山口大学農学部部長で本職は稲の研究であるが
父親が村長をしていたので、ハワイ渡航の旅券手続きや船便の渡航手配もしていたので、
彼は「ハワイ移民」には特別な興味を抱いていたのであろう。
小生の親族でもあるので子供の頃、「難しい話をする小父さん」の記憶しかない。
尚、彼は現在の山口大学を現在地に移転させて発展させた功労者として校史に残ります。
渡航動機【帰朝者聴取】 【山口県大島郡ハワイ移民史】
山口大学教授農学部長 土井弥太郎著(大島郡戸田出身)
氏名 出身 生年月日 渡航年 渡航理由 (注)筆者但書
1 河本 スエ 山口県大島町横見 慶応元年2月25日 明治22年
【渡航理由】お上の募集があり、3年我慢すれば沢山もうかるからと夫の亀松と金儲の為渡航した。
(注)当時の雇用契約は3年間であった。砂糖キビ畑で3年頑張れば後は帰国するなり首府ホノルルに
出るなり、米本土へ行くなり自由であった。ホレホレ節に「行こか戻ろかこれが思案のしどころよ」
と歌われたのは「帰国しようか、米本土の挑戦しようか悩んだ時」の話です。
2 森村 弥九郎 山口県東和町和佐 明治3年1月29日 明治23年
【渡航理由】家業が農業で家族10人で生活が苦しく、兄がハワイに行っていたので14回船で渡航した。
(注)これも呼び寄せ移民の形です。
3 田中 久太郎 山口県東和町和佐 明治元年7月16日 明治28年
【渡航理由】村で皆が海外移住するので自分も思いつきでハワイ行を希望し神戸から出航した。
(注)当時の若者が行かない方が恥のような風潮があった。
4 堅本 市助 山口県橘町日前 明治9年12月28日 明治29年
【渡航理由】農家で煙草屋もしていた七人兄弟の長男だがとても貧しく、ハワイに行きたいが
旅費が溜まらない、借金して渡航中自炊で渡った。
(注)この人の時は渡航会社船時代なので、旅費に60~70円かかるので借金したものでしょう。
多くの人が借金して渡航しています。一等客は豪華な食事付ですが、この人は三等の自炊の船底部屋
組で経費を切り詰めて行ったのでしょう。
5 今元 重助 山口県大島町西屋代 明治6年12月10日 明治29年
【渡航理由】リューマチで調子が悪いので水が代われば治るかとハワイ行を決めた。
(注)この人の本家は元庄屋で大区小区時代は戸長でそののち西屋代村村長の家です。
この人も兄から70円借りて渡航しています。この人の親戚は今ハワイにいます。)
6 今元 正一 山口県大島町西屋代 明治14年8月14日 明治32年
【渡航理由】本家の雅助がすでにハワイにいたので同村の人の同伴で行った。
(注)この人は上記、重助の親戚で本家がハワイ島に行っていたので行っています。父親は
屋代村助役で渡航の世話もしていました。)
7 末中 清吉 山口県東和町和佐 明治13年10月23日 明治35年
【渡航理由】土地が少なく余裕のない生活であった。叔父がハワイは儲かるからと云うので行った。
8 串田 清吉 山口県東和町和佐 明治7年10月15日 明治35年
【渡航理由】既に叔母がハワイに渡航してため、金儲けのためハワイに行く。
(注)これも呼び寄せです。
9 室屋 和佐次 山口県大島町横見 明治11年7月30日 明治36年
【渡航理由】巡査をしていたが給料9円では食えぬので父、大谷菊治が一回船で行ったので私も行った。
(注)これも呼び寄せですが巡査の給料9円と出稼ぎ給料25円ではその気になります。
10 川本 正助 山口県大島町戸田 明治17年1月18日 明治36年
【渡航理由】家は呉服商であった。役場の職員が5~6円、小学校長が9~10円の時代
ハワイへ行けば24円になるから行った。郡長の給与と同じであった。
(注)日本との給与格差が原因です)
11 大恵 森吉 山口県大島町戸田 明治19年1月19日 明治36年
【渡航理由】アメリカ本土に行きたかったが駄目で大陸会社の仲介でハワイへ行った。
(注)当時は米本土に直行は難しく、一旦、ハワイへ行ってそれから本土へ行く方法が
とられました。和歌山の漁師は当初から米本土を目指していてハワイに数か月しか
いませんでした。大島では沖家室を中心にハワイ漁業を目指しています。こちらの
成功者はの一人は「大谷松次郎」氏です。
12 新宅 茂吉 山口県東和町内入 文久元年11月13日 明治37年
【渡航理由】村の人多くがハワイの出稼ぎに行くので帰国して瓦葺の家を建てたいと思い渡航した。
13 今田 宗一 山口県大島町西屋代 明治18年11月16日 明治39年
【渡航理由】近所の人が渡布しているので、自分も海外雄飛の為、渡航会社を通じてハワイに行った。
(注)この人の子孫は今、サンフランシスコにいます。
14 森田 和吉 山口県大島町西屋代 明治18年4月12日 明治39年
【渡航理由】大工をしていたが兄弟弟子がハワイに居り、給与が倍になるからと云うので渡航した。
(注)片山地区でハワイ御殿と後世伝えられる家を帰国後作ります。この人の台所はハワイ移民資料館の
台所と同様な和洋折衷でした。ワッフルやビスケットを細君が焼いて近所の子供に配っていました。
子供が通りかかると「ボイ、ボイ」と手招きする、和吉爺は普通の顔であるが、森田婆はおっかない
顔をしていたので近寄りにくい。恐る恐る近づくとビスケットなるものを呉れた。これが固い、饅頭か
羊羹か餅に慣れてる子供にはご馳走ではなかった。後で英語を習い始めて彼女の「ボイボイ」は
「Boy ! Boy 」(少年たちよ!)の意味であることを始めて理解した。
そういえば近所には帰朝者たちが沢山いて、日常用語の中で、ハワイで覚えた、英語とカナカ語が
混ざりあっていた。「ケーン」ナイフは皆持って帰っていた。森田氏は大工だったので、ハワイ(米国)の
大工道具を多く持って帰っており、最新鋭で且つ珍しいものであった。和鋸は「引いて切る」が米鋸は
「押して切る」ことを始めて知った。この家だけが片山地区で広い庭がすべて芝生であった。
子がいなかったのか、現在、森田邸は人手に渡っている。
同様な邸宅は「今元正一邸」「今元重助邸」「今田宗一邸」「山根邸」「小林邸」「福元邸」「小形邸」
などがあり現在も多く残っています。
15 森友 ツルヨ 山口県東和町伊保田 明治26年10月10日 大正3年
【渡航理由】夫の呼び寄せで渡航した。
(注)先に夫が渡航し生活が落ち着いてから嫁・子供を呼び寄せることが流行りました。
16 岩本 新一 山口県大島町小松 明治31年12月27日 大正4年
【渡航理由】父が明治31年に渡航し、私は日本で祖父母の育てられたが小学校を卒業したので父の許に行った。
(注)子供は行く前なら「尋常小学校・尋常高等小学校」を出てから渡航するのが殆どで、逆に布哇で生まれたら
小学校に上がる前に、帰国者に親元か国の親戚に預けて、日本で教育を受けさせて卒業したら呼び寄せて
いました。教育を受けていないと出世できないことは親たちが一番骨身にしみていたのでしょう。