山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

ハワイ出稼帰朝者 渡布理由聴取記録

2022年12月17日 11時33分24秒 | 日本ハワイ移民資料館
昭和期に「山口県大島郡ハワイ移民史」を上梓した本の中に、ハワイに行った動機を聞いた所が
あるので抜粋してみましょう。土居弥太郎氏は当時山口大学農学部部長で本職は稲の研究であるが
父親が村長をしていたので、ハワイ渡航の旅券手続きや船便の渡航手配もしていたので、
彼は「ハワイ移民」には特別な興味を抱いていたのであろう。
小生の親族でもあるので子供の頃、「難しい話をする小父さん」の記憶しかない。
尚、彼は現在の山口大学を現在地に移転させて発展させた功労者として校史に残ります。

渡航動機【帰朝者聴取】 【山口県大島郡ハワイ移民史】
山口大学教授農学部長 土井弥太郎著(大島郡戸田出身)

氏名   出身   生年月日   渡航年   渡航理由 (注)筆者但書

1 河本 スエ 山口県大島町横見 慶応元年2月25日 明治22年
【渡航理由】お上の募集があり、3年我慢すれば沢山もうかるからと夫の亀松と金儲の為渡航した。

     (注)当時の雇用契約は3年間であった。砂糖キビ畑で3年頑張れば後は帰国するなり首府ホノルルに
        出るなり、米本土へ行くなり自由であった。ホレホレ節に「行こか戻ろかこれが思案のしどころよ」
        と歌われたのは「帰国しようか、米本土の挑戦しようか悩んだ時」の話です。

2 森村 弥九郎 山口県東和町和佐 明治3年1月29日 明治23年
【渡航理由】家業が農業で家族10人で生活が苦しく、兄がハワイに行っていたので14回船で渡航した。

     (注)これも呼び寄せ移民の形です。

3 田中 久太郎 山口県東和町和佐 明治元年7月16日 明治28年
【渡航理由】村で皆が海外移住するので自分も思いつきでハワイ行を希望し神戸から出航した。

     (注)当時の若者が行かない方が恥のような風潮があった。

4 堅本 市助 山口県橘町日前 明治9年12月28日 明治29年
【渡航理由】農家で煙草屋もしていた七人兄弟の長男だがとても貧しく、ハワイに行きたいが
旅費が溜まらない、借金して渡航中自炊で渡った。

     (注)この人の時は渡航会社船時代なので、旅費に60~70円かかるので借金したものでしょう。
      多くの人が借金して渡航しています。一等客は豪華な食事付ですが、この人は三等の自炊の船底部屋
      組で経費を切り詰めて行ったのでしょう。
 
5 今元 重助 山口県大島町西屋代 明治6年12月10日 明治29年
    【渡航理由】リューマチで調子が悪いので水が代われば治るかとハワイ行を決めた。

     (注)この人の本家は元庄屋で大区小区時代は戸長でそののち西屋代村村長の家です。
     この人も兄から70円借りて渡航しています。この人の親戚は今ハワイにいます。)

6 今元 正一 山口県大島町西屋代 明治14年8月14日 明治32年
【渡航理由】本家の雅助がすでにハワイにいたので同村の人の同伴で行った。

     (注)この人は上記、重助の親戚で本家がハワイ島に行っていたので行っています。父親は
      屋代村助役で渡航の世話もしていました。)

7 末中 清吉 山口県東和町和佐 明治13年10月23日 明治35年
【渡航理由】土地が少なく余裕のない生活であった。叔父がハワイは儲かるからと云うので行った。

8 串田 清吉 山口県東和町和佐 明治7年10月15日 明治35年
【渡航理由】既に叔母がハワイに渡航してため、金儲けのためハワイに行く。

(注)これも呼び寄せです。

9 室屋 和佐次 山口県大島町横見 明治11年7月30日 明治36年
【渡航理由】巡査をしていたが給料9円では食えぬので父、大谷菊治が一回船で行ったので私も行った。

     (注)これも呼び寄せですが巡査の給料9円と出稼ぎ給料25円ではその気になります。

10 川本 正助 山口県大島町戸田 明治17年1月18日 明治36年
【渡航理由】家は呉服商であった。役場の職員が5~6円、小学校長が9~10円の時代
ハワイへ行けば24円になるから行った。郡長の給与と同じであった。

    (注)日本との給与格差が原因です)

11 大恵 森吉 山口県大島町戸田 明治19年1月19日 明治36年
【渡航理由】アメリカ本土に行きたかったが駄目で大陸会社の仲介でハワイへ行った。

     (注)当時は米本土に直行は難しく、一旦、ハワイへ行ってそれから本土へ行く方法が
        とられました。和歌山の漁師は当初から米本土を目指していてハワイに数か月しか
        いませんでした。大島では沖家室を中心にハワイ漁業を目指しています。こちらの
        成功者はの一人は「大谷松次郎」氏です。

12 新宅 茂吉 山口県東和町内入 文久元年11月13日 明治37年
【渡航理由】村の人多くがハワイの出稼ぎに行くので帰国して瓦葺の家を建てたいと思い渡航した。

13 今田 宗一 山口県大島町西屋代 明治18年11月16日 明治39年
【渡航理由】近所の人が渡布しているので、自分も海外雄飛の為、渡航会社を通じてハワイに行った。
    (注)この人の子孫は今、サンフランシスコにいます。

14 森田 和吉 山口県大島町西屋代 明治18年4月12日 明治39年
【渡航理由】大工をしていたが兄弟弟子がハワイに居り、給与が倍になるからと云うので渡航した。

    (注)片山地区でハワイ御殿と後世伝えられる家を帰国後作ります。この人の台所はハワイ移民資料館の
      台所と同様な和洋折衷でした。ワッフルやビスケットを細君が焼いて近所の子供に配っていました。
      子供が通りかかると「ボイ、ボイ」と手招きする、和吉爺は普通の顔であるが、森田婆はおっかない
      顔をしていたので近寄りにくい。恐る恐る近づくとビスケットなるものを呉れた。これが固い、饅頭か
      羊羹か餅に慣れてる子供にはご馳走ではなかった。後で英語を習い始めて彼女の「ボイボイ」は
      「Boy ! Boy 」(少年たちよ!)の意味であることを始めて理解した。
      そういえば近所には帰朝者たちが沢山いて、日常用語の中で、ハワイで覚えた、英語とカナカ語が
      混ざりあっていた。「ケーン」ナイフは皆持って帰っていた。森田氏は大工だったので、ハワイ(米国)の
      大工道具を多く持って帰っており、最新鋭で且つ珍しいものであった。和鋸は「引いて切る」が米鋸は
      「押して切る」ことを始めて知った。この家だけが片山地区で広い庭がすべて芝生であった。
      子がいなかったのか、現在、森田邸は人手に渡っている。
      同様な邸宅は「今元正一邸」「今元重助邸」「今田宗一邸」「山根邸」「小林邸」「福元邸」「小形邸」
      などがあり現在も多く残っています。

15 森友 ツルヨ 山口県東和町伊保田 明治26年10月10日 大正3年
【渡航理由】夫の呼び寄せで渡航した。

     (注)先に夫が渡航し生活が落ち着いてから嫁・子供を呼び寄せることが流行りました。

16 岩本 新一 山口県大島町小松 明治31年12月27日 大正4年
【渡航理由】父が明治31年に渡航し、私は日本で祖父母の育てられたが小学校を卒業したので父の許に行った。

    (注)子供は行く前なら「尋常小学校・尋常高等小学校」を出てから渡航するのが殆どで、逆に布哇で生まれたら
     小学校に上がる前に、帰国者に親元か国の親戚に預けて、日本で教育を受けさせて卒業したら呼び寄せて
     いました。教育を受けていないと出世できないことは親たちが一番骨身にしみていたのでしょう。

ハワイ移民資料館紹介記事

2022年12月17日 10時15分06秒 | 日本ハワイ移民資料館
記事紹介の中で木元館長は下記のように語ったとされます。

『島とハワイの歴史を語る木元館長
「今は人口が15,000人ほどですが、明治のはじめは7万人ぐらいいました。当時は政治が混とんとして、また、台風など自然災害もあり島民は食べていけなかった。一方で島では出稼ぎの歴史もあり、船で外に出ていくのは当たり前。そんなとき政府から出稼ぎ(海外移民)の話があったので多くが応募した。島の人にとってはちょっと長い間、遠いところへ行くという感じではなかったでしょうか」と、資料館の木元真琴館長は言う。

しかし、それにしても生活に困窮して移民を希望するなかで、同じような条件にあった地域はほかにもたくさんあったのではないか。そこで周防大島からの移民が突出したのは理由はほかにもあるのと察せられるが、それについては木元館長は、長州出身の明治政府の政治家、井上馨の影響を示唆する。

「井上は明治維新の前に、周防大島の医師に世話になった恩義があり、それで周防大島をよくしてやろうという気持ちがあったと思われる」。官約移民への応募者が殺到するなかで周防大島の人間が優先して多く選ばれたのではないかというのである。』

この中で周防大島が優先されたのは井上馨の大島医師の恩義によるとしていますが、この様な話はとんと聞いたことが無い。今度館長に逢ったら聞いてみよう。

井上馨は長州の人間でありハワイ王国との「日布移民条約」を調印した人物で、第一回、二回の出稼ぎ旅券(パスポート)には外務卿井上馨の名で出されています。
条約締結は明治17年のことであり、明治政府はこれらの移民(出稼ぎ)募集に際し、全国府県を通じ人口過密にして最も生活困難なる地方を優先して募集するように指示しました。この指示に対し山口県は条件を満たし、更に困窮故不穏の動きを押さえんとして大島郡を指定しました。この事業を推し進めるべく県職員の頓野馬彦氏と山口県学務課の日野恕助氏を募集係に任じ郡内町村を回り募集講演をして歩きました。当初は遠い異国への「棄民」とされると思い込んだ島民は尻込みをしていましたが、小松町庄屋(畔頭)岡村氏の跡取り長男が「ハワイに大島の枝村を作ろう」と先頭になった為、庄屋の跡取り息子が行くと言っているから棄てられる
わけではないと、気を強くして応募したのが、第一回移民の実態でした。

契約では一か月15~25円の給料でした。これは当時の大島郡長と同じ給与でした。
おっかなびっくり送りだした方も、出国して3ケ月もたたないうちに、10円、20円と郡内唯一の金融機関、久賀郵便局に次々と送金されてきたので、郡内は大騒ぎとなり、それから我も我もとハワイ行を希望した。第一回船は貧しい人が多かったが、後になる連れ、中堅の給与を貰っていた巡査や教員や村長、助役の息子までが大挙して渡航しました。
ただ、移民の意識は毛頭なく出稼ぎの認識です。第一回の神奈川県が作成した渡航名簿は「布哇出稼人名簿」と書かれています。「移民」と言い始めたのは帰ってこなく在布した人が多くなってからでしょう。

井上肇が俗論党に襲われ重傷を負い死にかっかったことはありますが、これを援けたのは美濃浪人、所郁太郎で大島人ではありません。当時大島出身で有名な医師は青木兄弟ですが、彼らは供に萩に在住していましたし井上を援けた記録はありませんので、木元君の勘違いでしょう。

小松の枝村を作るとした岡村氏はハワイで成功し後に一家で小松に帰ります。
ただ一人だけ娘が彼氏とホノルルに残りたいと希望したので父親はやむなく娘一人に幾ばくかの財産を残し帰国しました。ホノルルに残った娘は亭主フレッド牧野と一緒に日系紙「ハワイ報知」を創刊します。小松の親族は宮ノ下の「岡村印刷所」「岡村百貨店」などを開いた町会議員の岡村佐八氏である。かっての「岡村百貨店」跡地には現在、周防大島町会計監査役の公認会計士の大原氏の所有であるが、細君は岡村の出である。

ハワイ移民資料館寄付者 福元長右衛門

2022年12月14日 14時10分00秒 | 日本ハワイ移民資料館
「この資料館は、もとは明治時代にこの島からアメリカに渡って成功した福元長右衛門という人が、
1924(大正13)年に帰国したのちに建築した住居で、それをそのまま利用したためこの場所となったのだった。
いまの金額に換算すれば推定およそ3億円をかけたとされる建物は、伝統的な日本家屋に洋式の
意匠を取り入れた和洋折衷の趣がある。」

という主旨でよくハワイ移民資料館元所有者「福元長右衛門」は語られる。
ただ、実態は大成功者と言われるほどのことはないのが実情でしょう。

氏はカルホルニアで商売を始め、二度失敗している。困った氏はある白人家の召使となり
信用を得て行った。同郷の小形氏とともに雇われており、日本人らしく真面目に奉公しました。
白人家の婦人が亡くなるにあたり、遺産の6万ドルのを三人の召使に分与すると遺言しました。
この三人の一人が福元長右衛門であり、もう一人が同じ片山部落の小形氏で、もう一人は白人で
した。
二万ドルを手にした二人はすぐさま帰国しました。
この6万ドル遺言とそのうち4万ドルが日本人に与えられたことは、今でも人種差別のアメリカで
センセーショナルとなり現地の新聞は報道し、多くの日系人はよだれをたらしました。

福元、小形、両氏とも帰国にあたり、現地の日系紙にわざわざ「帰国報告」の案内文を
掲載しています。帰国したのち、両氏は競って大豪邸を建てます。福元邸の畔道一つ挟んで
小形邸が建設され、現在の福元旧邸に劣らぬ豪邸をたてました。
現在、この家は朽ち果てて風呂場の一部が無残に残るばかりです。
資料館が毎日、ハワイ国旗を掲揚している側の裏門の前に見えます。

小形氏(近所の小形本家の分家)は後、無尽(金融業)に手を出し破産したとされます。

福元邸は現在の価値で3億円程度とするのは、「保険法」で云う「再調達価格」ではそうなる
でしょう。否、もっとかけないと出来ないかもしれません。

ただ、彼らが造った大正時代はドルの価格が大幅に下がり、1ドル=1円程度になっています。
遺産の三万ドルと自己貯金500ドルを足すと二万五百円程度を持ち帰ったと思われます。
当時の屋代の家は普通の家で200円、豪勢にして600~800円が相場でした。
屋代地区にはハワイ御殿、朝鮮御殿と噂される豪邸が立ち並びましたが、だいたい建設費
は600円から1200円でした。現在、片山地区に残るハワイ御殿は福元邸を含め六軒あまり
残ります。ハワイでも大工だった森田氏邸以外は地元の名大工、長尾棟梁が手掛けています。
福元邸を建てた棟梁は小松の人で片山では他にS氏邸を建てています。

ただこの人物はタチが悪く、当時カルフォルニアにいたS氏から帰国するので家を建てて
置いて欲しいと頼まれ、当時日本円で3000円を預かり現在の家を建てましたが、
S氏が帰国してみると1000円にも満たない家であり、究明すると、好きな女二人に家を一軒
づつ1000円づつで建ててやったとのことでした。金も返されていません。

このような人物が福元邸を造っているので、相当吹っ掛けてサヤ抜きをしているでしょう。
当時の金で福元邸は1200~2000円程度でできる代物ですが、3000円から5000円吹っ掛けられたと思われます。
当時の台湾材を使用しているから高かったと今の人が説明しますが、
当時の台湾は日本です。一級の秋田杉よりは安いのです。ただ、風呂場や台所は一流の
左官が造作したと思われ立派です。
5000円棟梁に取られたとしてもあと15000円あまり残っていましたので、近所の人が
家に全財産をつぎ込んだのかと問うと、まだ一杯残っているとうそぶいたとか(現地古老談)
福元氏は残りの金の多くを寄付しており、志駄岸八幡宮や屋代川にかかる架橋の寄付や多くの
ことをしています。大判振る舞いかと言えばそうではなく、地元の葬儀の香典は地元人と
同じ程度で奮発はしていません。

屋代地区で御殿と言われる家を建てた帰国者の多くは800円から1200円程度持ち帰った程度の
金持ちです。

20000円以上持ちかえった、福元氏と小形氏は破格です。

上記の事情を勘案して「ハワイ移民資料館」の謂れは書かれるべきでしょうね。

福元氏



小形氏


福元邸(ハワイ移民資料館)と左に小形邸が確認できる大正期の写真(写真下・龍心寺あたりからのショット)

日本ハワイ移民資料館紹介記事

2022年12月14日 13時27分51秒 | 日本ハワイ移民資料館
紹介記事がうまく見れないとのクレームがあったのでその全文をこちらに移します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

MIGRATIONJA
日系(ニッケイ)—をめぐって
第19回 瀬戸内の日本ハワイ移民資料館
川井 龍介 / 2022年12月9日



大小約700もの島が点在する瀬戸内海で、山口県南東部に位置する周防大島(正式には屋代島)は3番目に大きな島だが、ここに日本ハワイ移民資料館(Museum of Japanese Emigration to Hawaii)がある。観光的には「瀬戸内のハワイ」とも呼ばれる島の資料館とはどんなものなのか、なぜここに資料館ができたのか、中国地方への旅の途中で訪ねてみた。


資料館は成功者の家


アメリカ帰りの成功者の民家を利用した資料館
国道188号から車で大島大橋を渡り島に入り、海岸沿いをしばらくすすんでから内陸に入ると案内が出ている。これを頼りにさらに長閑な田園地帯の細い道を右に左に行くと、ようやく木造二階建ての資料館にたどり着く。 

どうして、こうした入り組んだところにあるのかというと、この資料館は、もとは明治時代にこの島からアメリカに渡って成功した福元長右衛門という人が、1924(大正13)年に帰国したのちに建築した住居で、それをそのまま利用したためこの場所となったのだった。いまの金額に換算すれば推定およそ3億円をかけたとされる建物は、伝統的な日本家屋に洋式の意匠を取り入れた和洋折衷の趣がある。

周防大島からは明治時代に島をあげて多くの人がハワイへ移民、その歴史を後世に残しておくため、1999年、地元周防大島町(山口県周防大島郡)によって開館したのがこの資料館だ。

日本のアメリカ、ハワイへの移民の歴史を踏まえて、周防大島からハワイへの移民の歴史やその背景についての資料や解説をはじめ、ハワイから帰国した人たちが持ち帰った生活用品やハワイでの労働の実態を示す写真や資料が、展示の中心になっている。


移民が持ち帰った生活用具などが展示
そのほか、福元家や移民として活躍した人の功績、ハワイとの交流、現地での日本語教育について展示されている。また、映像で移民を振り返るシアタールームやペルー・ブラジルへの移民についてもコーナーが設けられている。

さらに検索コーナーがある。ここでは官約移民と私約移民とを合わせて、かつて日本からハワイに渡った約13万人分の渡航記録を調べられる。

建物のなかには、住宅として使われていた時代のタイル張りの風呂場などが保存されていて、物自体も観賞に値する。この建物と敷地内の建造物は2022年国の登録有形文化財に登録されたほどだ。


当時としてはモダンな風呂場

突出した周防大島

日本からハワイへの移民、島からの移民の歴史、そして現地の様子をとらえた移民生活の記録などを学ぶのにふさわしい、実際に移民で成功した人の住居を利用した資料館は、資料も整理され、管理も行き届いている。

山口県は広島県などとならんで、移民県として知られるが、それにしても充実した資料館がどうしてこの島の中に誕生したのか。

日本のハワイへの移民を振り返れば、ハワイと日本の二国間による制度から始まる。ハワイでは砂糖プランテーションで働く海外からの労働者を必要とし、ハワイ政府は、日本政府に対して農場労働者としての移住者を募ってほしいと強く要望していた。これに対して、農村の疲弊と人口調整の必要から日本政府はこれを受け入れ、両国間のとりきめのもとに1885年、「官約移民」というものが始まった。

同資料館によれば、この官約移民時代の1885年から1894年まで間に日本全国で約29,000人が送り出されたなかで、このうち周防大島からの移民は3913人と、全体の約13.5%にものぼった。ひとつの小さな島としては突出した数だ。


島とハワイの歴史を語る木元館長
「今は人口が15,000人ほどですが、明治のはじめは7万人ぐらいいました。当時は政治が混とんとして、また、台風など自然災害もあり島民は食べていけなかった。一方で島では出稼ぎの歴史もあり、船で外に出ていくのは当たり前。そんなとき政府から出稼ぎ(海外移民)の話があったので多くが応募した。島の人にとってはちょっと長い間、遠いところへ行くという感じではなかったでしょうか」と、資料館の木元真琴館長は言う。

しかし、それにしても生活に困窮して移民を希望するなかで、同じような条件にあった地域はほかにもたくさんあったのではないか。そこで周防大島からの移民が突出したのは理由はほかにもあるのと察せられるが、それについては木元館長は、長州出身の明治政府の政治家、井上馨の影響を示唆する。

「井上は明治維新の前に、周防大島の医師に世話になった恩義があり、それで周防大島をよくしてやろうという気持ちがあったと思われる」。官約移民への応募者が殺到するなかで周防大島の人間が優先して多く選ばれたのではないかというのである。


ハワイとの交流も

周防大島は、かつて4つの町からなっていたが、4つの町がそれぞれハワイと交流していた。こうした関係から1963(昭和38)年にはカウアイ島との間で姉妹島として縁組が締結された。その後、交換留学生の制度ができたり農業研修として若者が周防大島からカウアイ島に行ったりして、さらに交流が深まる中で移民の資料を残しておくべきだという意見が高まり、資料館の建設が実現した。

この10年ほどは3500人から4000人が訪れ、なかにはハワイから年間400人ほどが訪ねてきたこともあった。ハワイから来て自分のルーツについて興味のある人には、祖先のハワイへのかつての渡航記録をスタッフが調べて渡すと、喜んで持って帰ったという。

一方、観光のついでに訪れた人の中には、「なんでここにハワイ移民資料館なの」と、不思議に思う人も多いという。一般には「瀬戸内のハワイ」と、南国ムードに惹かれて観光目的で訪れる人が多いようだが、あらためて、島とハワイとの関係、そして日本の移民の歴史を知ることに、資料館は大きな役割を果たしている。

* * * * *

★日本ハワイ移民資料館★

開館 午前9時半から午後4時半 月曜休館(月曜が祝日の時はその翌日)
入館料 大人 400円、小人200円
詳しくは同資料館(0820‐74‐4082)まで。
URL:www.towatown.jp/hawaii

日本ハワイ移民資料館紹介記事

2022年12月11日 10時54分07秒 | 日本ハワイ移民資料館
周防大島町西屋代の「日本ハワイ移民資料館」の紹介記事が届きました。
内容についてはいささか疑問点がありますが、それは後程。

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/12/9/nikkei-wo-megutte-19/