山口県周防大島物語

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福井県史に見る「長州征伐」

2022年12月07日 09時45分32秒 | 福井県史に見る長州征伐
第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第一次長州出兵と福井藩
 元治元年(一八六四)の第一次長州出兵では、福井藩は薩摩・土佐・宇和島などの諸雄藩とともに、同年七月の禁門の変に対する手厳しい責任追及の挙に出た。禁門の変とは蛤御門の変とも呼ばれ、長州藩の一部尊攘激派が、文久三年(一八六三)の八月十八日の政変で失墜した藩の力を挽回するため、京都に出兵して御所を守る薩摩・会津・桑名などの諸藩兵と蛤御門周辺で戦って、敗れ去った事件である。このとき、福井藩は堺町御門を守備し、長州藩兵との戦闘は熾烈をきわめ、軍監の村田氏寿も砲弾のため重傷を負った。三万戸近くの家屋が猛火に包まれ、賀茂河原は避難民でごったがえした。
写真164 松平茂昭像

写真164 松平茂昭像

 幕府は長州藩を徹底的に制裁しようと、中国・四国・九州などの二一藩に出動命令を下し、将軍自ら「長州征伐」に当たることを声明した。総督には初め和歌山藩主徳川茂承が、のちに代わって前尾張藩主徳川慶勝が任命され、副総督に福井藩主松平茂昭が当たることになった。元治元年十月、幕府は大坂城に諸藩の重臣を集めて、長州藩攻撃についての軍議を開き、十一月十八日を総攻撃開始の日と決めた。これにより、総督慶勝は広島に、副総督茂昭は九州の小倉に出陣し、長州藩の包囲態勢は、同月上旬一応整った。
 ところが、長州藩ではすでに八月五日から、前年の文久三年五月の攘夷決行への報復として英・米・仏・蘭四国連合艦隊の猛攻をうけ、四日間の戦闘でほとんどの沿岸砲台が破壊された。さらに陸戦隊の上陸・占領を許した。このとき同藩内部では、尊攘主義の「正義派」が後退し、代わって幕府への恭順を主張する「俗論派」が藩の主導権を握った。その機に乗じた「征長総督参謀」の西郷隆盛の画策により、禁門の変の責任者として益田・国司・福原の三家老に切腹を命じ、四参謀を処刑した。さらに藩主父子の謝罪書提出、長州在留の三条実美等五卿の他藩への移出、山口城の破壊など幕府側の諸要求を一切つらぬいた。これにより幕府軍と長州藩とは戦火を交えることなく、元治元年十二月総督は全軍に撤兵令を下した。
 福井藩の出兵については、「征長出陣記」「長防征伐略記」「長州征伐小倉陣中日記録」(松平文庫)などの諸史料に詳述されている。福井藩兵は、元治元年八月二十八日城下を出発し、翌慶応元年(一八六五)三月七日帰藩するまでの前後八か月の長期にわたって軍役を負担した。しかも藩主茂昭が「征長副総督」という大任を担った。もともと同藩は、禁門の変を起こした長州藩の策動を全く不届至極だとして決起したが、兵員はもちろん糧食、軍用品の徴発・輸送などに莫大な費用がかかった。そのため、福井出発の前日には達書を出して、軍費をひねり出すため、家臣団一同に大幅の「借米」を言い渡した(「征長出陣記」)。
 第一次長州出兵で、福井藩は多大の軍費を費やし、財政面でも大きな痛手を受けた。慶応元年四月二十二日藩主茂昭は自ら福井城本丸で、出陣した将卒に対して「昨秋以来小倉表ニ永々在陣苦労大儀ニ存ずる」と労をねぎらったが、いたく辛酸をなめたのは、たんに将卒ばかりでなく、糧食を徴発され、軍用資材・物資の運搬など種々の軍役を強いられた領民であった。例えば、出兵軍の一番手に所属する「御作事方改役」に大工七人・車力三五人・御家中幕持人夫一三人が、また大砲隊所属の予備山砲車三斤熕四門の弾薬持に人夫一六〇人が徴用されたことからもうかがわれる(「征長出陣記」)。

福井県史に見る「長州征伐」

2022年12月07日 09時43分26秒 | 福井県史に見る長州征伐
第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第二次長州出兵反対の訴え
 福井藩兵が帰城して間もなく、慶応元年四月、幕府は「征長先鋒総督」に前尾張藩主徳川茂徳を任命(翌五月和歌山藩主徳川茂承に交替)して、「長州再征」に乗り出すことになるが、その第一の理由は、「長藩に容易ならざる企あり」ということであった。
 長州藩内での高杉晋作等の下関挙兵に始まる慶応元年当初の内乱は、「正義派」の圧倒的な勝利となり、藩の主導権を従来の「俗論派」から奪取した。「正義派」の基盤は、当時いちじるしく経済的な発展をみせた瀬戸内地帯であり、とりわけ「農商を安んずる」ことを旗印とする奇兵隊以下諸隊・農兵隊の強い軍事力に支えられていた。こうした革新勢力のもとで藩の富国強兵化が強力に推し進められた。
 四月二十一日、幕府から福井藩に対しても、「長州再征」への支援と松平春嶽の上京が求められた。しかし、春嶽は「幕府方今御不都合ノ品々有之」として、上京に応じ兼ねると拒否した(『続再夢紀事』)。すでに春嶽は、三月二十七日付の一橋慶喜あての返信で、長州藩主父子等を強いて呼びよせることははなはだ困難で、もし彼等の憤激をあおって、ついに全国的な内乱を引き起こすことになると、「皇威幕権」にもさし響きはなはだ憂慮に堪えないと述べた。そして「長州再征」の不可を強調し、ぜひとも「太平ノ命脈」を維持してほしいと訴えた(同前)。ところが幕閣の強硬派は、春嶽等の慎重論者の反対意見を押しきって、四月十九日大目付よりの廻状で、将軍が江戸を進発する期日を五月十六日にすると公表した。
 福井藩では、重臣会議を開いて検討した結果、あくまでも「長州再征」を食い止める方針を確認し、四月三十日藩主茂昭の名で、建白書を幕府に提出した。その中で、第一次長州出兵は戦火にはおよばず幸いであったが、「又々大兵を被動候儀は必天下ノ乱階ニテ諸大名ノ困窮、万民ノ怨嗟誠ニ以不一方事共ニテ、此上如何成不測ノ変を可生哉も難計、乍恐御家ノ御為ニも相成間敷歟と不堪恐懼奉存候」と切々といさめた(『続再夢紀事』)。前述のように第一次長州出兵の際、同藩は莫大な軍費を費やし、また一部領民にもさまざまな軍役を課すなど厳しい負担を負わせていた。
 春嶽は、毛受洪に上京を命じ、在京の一橋慶喜・松平容保や諸藩士等との意見交換や説得工作により、事態の収拾をはかろうとした(「雲霧秘録」毛受家文書)。さらに春嶽は、朝廷への入説にも懸命となり、五月二日賀陽宮と山科宮に書翰を送っている。とくに山科宮あて書翰のなかでは、「此一挙」(「長州再征」)はたんに幕府だけの問題ではなく、我が国全体としてまさに内憂外患の政治的・社会的な危機を覚悟せねばならないと厳しく警告した(『続再夢紀事』)。この書翰のなかで強調される「皇国ノ盛衰・安危存亡ノ境」とは、一方で欧米列強の外圧に対応するための全国的統一国家の形成という目標が真剣に意識されていることで、この際、国内での幕府・藩の対立抗争こそは、絶対に避けねばならないと強く判断したものといえる。
 しかし幕府は、福井藩を初め諸雄藩の懸命な諫止にもかかわらず、「再征」の準備を進め、九月二十一日朝廷に奏請して「長州再征」の勅許を得た。これは「征長の名分」を明らかにし、反対論を押しつぶすためであった。
 慶応二年は政情激動の年であり、一月のいわゆる「薩長同盟」の成立にともない、長州藩では挙藩的な抗幕態勢ができあがった。幕府側で「長州再征」にきわめて批判的な要人の一人に勝海舟があげられる。海舟は四月二十八日付の春嶽にあてた書翰で、民心の不安定な社会情勢を憂え、武力によらずに政局をおさめることを真剣に論じている。春嶽は勝への返書のなかで、封建支配層の旧態然たる収奪政策をいたく憂慮し、さらに同年五月上旬の畿内を中心とする米騒動などの一揆についても格別の関心を示して、「下民一時ノ蜂起モ計リ難ク人心ノ離散必発、御同意申スベク憂ニ堪ヘズ候事ニ候」(『続再夢紀事』)と、海舟の情勢判断にまったく共鳴している。事実、大坂に近い摂津の西宮から起こった一揆が発火点となり、次いで兵庫・灘・池田・伊丹へと広がった。そして五月十三日には、大坂とその近郊が一揆の波に洗われ、「大坂十里四方は一揆起こらざる所なし」というきわめて不穏な有様となった。
 幕府は、春嶽等の再三の諫止にもかかわらず、「長州再征」への福井藩の協力方を要請し、慶応二年五月二十七日藩主茂昭の上京を求めたが、茂昭は病気のため出陣に堪えられないと拒否した。次いで春嶽の上京を督促したので、春嶽は六月一日やむなくその命に応ずる旨を回答するとともに、幕府に「演説案」を差し出した。このなかで、「貢租の過重な負担と物価の高騰により、士民が困窮している。将軍が征長のため大坂を出発すれば、その機に乗じ、幕府の失政を口実に、人心を扇動してどんな変乱を企てる者が出てくるかもしれない。そのため将軍は絶対に出陣してはならない」と切言した(『続再夢紀事』)。
 こうした緊迫した情勢の中で、六月七日周防で幕長間に戦端の火ぶたが切られた。幕府軍が戦艦から砲撃したことに始まり、戦火が安芸・石見・小倉の各方面に及んでいった。

福井県史に見る「長州征伐」

2022年12月07日 09時40分51秒 | 福井県史に見る長州征伐
第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      第二次長州出兵の破綻、その波紋
 春嶽のもっとも憂慮していたことが、現実となったわけで、春嶽は六月十二日老中板倉勝静に対して、手厳しい諫止を行った。それによると、昨年来将軍が大坂に滞在しているため、京畿はもちろん諸道の民力もすこぶる困弊し、とくに畿内はまったくの食料難で、兵粮を諸国から徴発せねばならなくなったが、その諸国も「連年の徭役」のためいたく疲弊している。そこで、未曾有の高価な米・粟を京都・大坂へ移出することになれば、民衆は前後をわきまえずに一揆を起こすのは必定だというのである。このとき春嶽が、「自国の形勢を以、余州も推量仕候事ニ候へハ」と述べたのは、福井藩領内では表面だった一揆こそ起きていないが、決して楽観を許さない社会情勢であったことを物語っている。
 春嶽は、断固たる決意で六月二十五日福井を出発、二十九日京都岡崎の藩邸に入り、当面の紛糾した政局の収拾に乗り出した。七月一日慶喜を訪ねて要談しており、その折の慶喜の言い分は、軍用金にひどく欠乏しており、将軍の出陣ともなれば、差し当たり一三〇万金(両)が必要だが、幕府の手持ち高はわずか二万金程度で、大坂で三〇〇万金の御用金を課したのが容易に整わないため、横浜の外商から借り入れる準備を進めているというのであった。このような深刻な財政難のなかで幕府の「征長」作戦はうまくいくはずがなかった。また、第一次長州出兵に比べて戦略態勢の足並がそろわず、しかも戦意にはなはだ乏しい諸藩の動きや大坂や交戦地域での一揆の続発におびやかされるなど、幕府軍は敗退の一途をたどった。
 一方、長州藩では、領民の力を組み入れた洋式軍制による挙藩的な反撃態勢が整い、幕府軍をいよいよ窮地に陥らせた。七月二十日の将軍家茂の病死により、幕府はようやく撤兵の機会をつかんだ。このとき、春嶽が「九州解兵」の好機であると進言したのはもちろんであり、慶喜は八月十六日「長州征伐を停止し、大名諸侯を招集して国事を議すべきこと」を朝廷に奏請して勅許を得た。
 春嶽が最も危惧したのは、幕藩支配層間の内戦によって、民衆の戦争反対・反封建闘争=百姓一揆の激発など、民衆を巻き込む全国的な動乱に拡大するおそれのあることであった。しかも厳しい外圧による緊迫した情勢下では、「幕府の御威光失墜遂に社稷如何相成るべく」と、たんに幕府の興廃にとどまるだけでなく、我が国全体の命運にかかわる非常事態を招くものと判断した。
 慶応期の段階で注目される極東情勢は、文久期以降一応保たれていたヨーロッパ列強間の協調がくずれだし、とくに英・仏間の対立関係が、「長州再征」を契機に著しく先鋭化したことである。慶応元年後半から長州藩は、薩摩藩名義でイギリス商人グラヴァーより小銃・艦船などを買い付ける便宜をうけており、グラヴァーは同国公使オールコックやその後任のパークスの強力な支持をうけていた。ことにパークスは中国で二十余年にわたり活躍し、その本格的な半植民地化の導火線となるアロー号事件の際には、広東総領事としていわば起爆剤的な役割を果たした人物である。
 これに対してフランスは、幕府との提携を進め、それがまず横須賀製鉄所の建設計画として具体化し、さらに勘定奉行小栗忠順とフランス公使ロッシュとの間に、日・仏商人の合同会社を設立する交渉が進められた。また小栗は、フランスの経済使節クーレーとの間に六〇〇万ドルの借款契約を成立させたが、これは慶喜の徳川宗家継承後間もないことである。幕府は、その借款による資金のプールから、大量の銃砲や軍需物資の提供をうけるのが可能となるが、そのかわり幕府に要求されるのは、フランスの対日生糸貿易の独占などであった。このように、長州問題をめぐり、国内の分裂的情勢を著しく醸し出し、また先進資本主義列強の内政干渉の危険性を増大させた。とくにイギリスが薩長と、フランスが幕府と提携すること自体が、当時の政局にとり最も恐るべき「外圧」であった。
 要するに、春嶽を先頭に押し立てた福井藩論は、「長州再征」の慶応期が、勝海舟をしていみじくも「払郎西は・・・・・・狼也、英は饑虎也」とまで嘆かせた厳しい外圧の迫るなかで、まさに内憂外患のピーク化した危機的情勢として、真剣にうけとめていたのである。

福井県史に見る「長州征伐」

2022年12月07日 09時37分47秒 | 福井県史に見る長州征伐
第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    二 長州出兵と諸藩の動向
      諸藩の動向
 前述の福井藩を除く丸岡・大野・勝山・小浜など若越諸藩の動向に触れることにする。丸岡藩は、藩主有馬道純が元治元年四月十二日老中を退くと、間もなく京都の伏見街道稲荷山辺の黒門口の警衛を命ぜられ、同年六月には、江戸表の麻布善福寺のフランス軍隊屯所の警衛に当たった。第一次長州出兵では、同元年十一月、出雲意宇郡竹屋(矢)村に出兵し、安楽寺を本陣とした。作事小屋を武具置場にあて、番所を四戸、四間に一〇間の夫人足部屋も二つ設けた。出陣の際は、丸岡近辺の村方から夫人足を集め、兵粮や武器の輸送を行った。また別の一隊は、出雲郷村宗淵寺に陣取り、山田兵部の統率する総勢七五〇人をそれぞれ部署につけ、ゲベール銃など新鋭銃器で装備した。しかし、長州軍と戦火を交えることなく、翌慶応元年一月四日出雲をたち、同月二十七日丸岡城下に戻った。
 次いで第二次長州出兵では、慶応二年三月、藩主道純が藩兵を率い、摂津兵庫に出向いて警備に当たった。家老は皆吉民部、御用人は林田三平、足軽支配は高木主税で、本陣を真光寺におき、五か所に分宿した。将軍家茂の大坂進発を前にして、同二年五月八日夜、兵庫一帯に百姓一揆が勃発した。とりわけ「湊川先へ多人数屯集し、貝・太鼓を打ち交わし鯨波相発る」有様で、「凡そ千人余も竹槍・棒様の物相携え、湊川総門へ競い来る」(『有馬家世譜』)という猛勢をみせたため、丸岡藩兵はその鎮圧に当たった。この時、一揆勢の死者は三〇人、負傷者は五、六〇人に上ったが、藩兵には被害がなかった。一揆勢が四散したのちも、その再発に備えて警備をいっそう厳しくした。その後「長州再征」の停止にともない、同年十月には警備の任が解かれた。
 大野藩は、第二次長州出兵に当たり、慶応元年十一月十八日、京都所司代松平定敬より「京師へ胡乱の者入込候も計りがたく候につき、御警衛仰付られ候間、嵯峨・太秦辺へ人数差出し置、改方厳重に致すべく候、尤も時々見廻として、御目付差遣すべく候間、その意を得べし」との通達をうけたので、直ちに藩兵を京都に差し出した(土井家文書)。すでに内山介輔・服部与右衛門の両人が在京し、御目付兼勤についていたが、差し当たり、二小隊ほどの藩兵が嵯峨・太秦方面の警衛に当たった。
 勝山藩も、第一次長州出兵では藩兵を京都に出動させるにとどまり、第二次長州出兵では大野藩と同じく京都所司代の統轄下に入り、慶応元年十二月から嵯峨・太秦方面の守備に当たった。勝山藩兵は、直接戦闘に加わらなかったが、「征長」終結後幕命で大坂に転進し、同三年四月再び京都に出て、竹田街道を警備した。
 小浜藩は、第二次長州出兵の際、長州からの軍船の来襲に備え、船手二五〇人分と川崎町浜台場一一三人分の炊き出し方を、町方の有力町人に命じている(『小浜市史』通史編上巻)。なお同藩では、藩主酒井忠義の京都所司代勤務中の出費、京都・山崎辺の警備や相次ぐ不時の出兵などで、著しい財政難に見舞われ、しばしば御用金を領内に課さざるをえなかった。慶応元年八月には、「一統ニも略承知之通り、近年世上甚不穏、所々戦争も有之候ニ付、京都御警衛者不及申、八幡山崎辺俄ニ出張、殊ニ御警衛ハ永々之事ニ相成」るとの趣意書を出した(団嘉次家文書)。領内の町在に計二万両の軍用金を課しており、幕末の厳しい政治社会情勢にあって、同藩では極度に逼迫した財政難をかこったのである。

福井県史に見る「長州征伐」

2022年12月07日 09時32分41秒 | 福井県史に見る長州征伐
第六章 幕末の動向
   第三節 水戸浪士と長州出兵
    三 幕府倒壊と地域の対応
      高まる社会不安
「長州再征」の幕長交戦を間近にひかえた慶応二年(一八六六)五月、一揆・打毀しが江戸時代を通じて最大の高揚をみせる。一揆・打毀し勢の主体は、貧農・都市下層市民に広汎な中層農を糾合したもので、その特徴はまさしく「農村から農村へ、農村から都市へ、都市から農村へと、自然発生的ではあるが、きわめて早い速度で波及する様相が著しく見られたこと」である。
 こうした深刻な社会不安の実相は、さきに春嶽が指摘したとおり、とくに第二次長州出兵による物価騰貴と、農民や都市民に対する幕藩領主層による貢租や軍役などの過酷な賦課によるものである。とくに米価の値上がりが目立ち、例えば大坂での肥後米の石当たり値段は、中沢弁次郎によると、十数年前の嘉永(一八四八~五四)年間までは、銀一〇〇匁を超えることがほとんどなかったが、慶応元年一月には二〇七・五匁、二月は二三九・九匁、さらに将軍が江戸を進発した五月には六四六匁、次いで幕長間に戦端の開かれる翌二年六月には八九五匁と、平時の約九倍にも急騰している。
 このような異常な社会不安の情勢は、「征長軍」による糧秣の需要や、諸藩が戦乱の拡大を予想して糧米を貯蔵したこと、それに長州藩の下関閉鎖によって諸国物産の大坂輸送が中絶したことなどによるとみられる。そのため、とくに大消費地の大坂や江戸で米の在庫が欠乏し、その機をねらった米商人の買占めなどがさらに値上がりに拍車をかけた。
 「長州再征」が停止されたあとでも、一揆の余波が各地でみられた。慶応二年九月下旬、江戸では下層民を中心に、老中水野忠精と出兵を強引に推し進めた勘定奉行小栗忠順の屋敷への襲撃が呼びかけられ、これは町奉行の手でようやく鎮圧された。江戸市民の下積み層にまで、幕政担当者に対して、「征長」の責任を厳しく追及する意識が働いたものとみられる。
 春嶽は、「征長」停止後の慶応二年九月十四日の建白書のなかで、「畢竟幕政ノ御失体より起候義にて、上奉悩宸襟、下士民を困究ニ為陥候ハ、全ク幕府ノ御失策」(「松平大蔵大輔建言」『松平春嶽全集』)によるものと、少しもはばかるところなく幕府を糾弾している。
 小浜藩領でも、米価はもちろん諸物価高騰により領民が生活苦にあえいでいるため、藩は慶応二年十二月十六日、銀三〇〇貫を与えて窮民の救恤を図った(大和田みえ子家文書)。これより前の八月二十六日には、従来の米穀の津留措置にもかかわらず「竊ニ津出シ致候様之風聞も有之」とし、改めて津出し厳禁の布達を行っている(同前)。また「米穀格段高価」に加え払底する窮状から、八月酒造業者に対し、当年は「関八州之通り銘々株高之四ケ三相減、四ケ一酒造可致候、若シ隠造過造致シ候者於有之者、酒株取上ケ厳敷可申付候」と、大幅な酒造制限の措置をとった(熊川区有文書)。このように、「長州再征」後も依然として続く米価高騰による深刻な社会情勢は、小浜藩領民にまで波及していた。
 大野城下でも、慶応二年十月、町庄屋が連名で藩に対して用捨米(八〇〇俵)の願書を差し出しており、そのなかで「前代未聞之米直段」に加え凶作のため、百姓は難渋の極に達し、「御百姓相続之程如何可相成哉」の窮状にあえいでいると訴えている(宮澤秀和家文書)。