山口県周防大島物語

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嶋氏略系図

2022年07月24日 10時10分42秒 | 村上海賊一門 嶋家
周防大島町【伊保田嶋家系図】

曰く、

『村上義弘 長門守 三郎左衛門尉
(~)
室 大野八郎左衛門女
能島及び務司に移転 河野家に属す』

と出てきて、こちらも謎の人物とされる、村上海賊総大将 村上義弘の妻が
大野八郎左衛左衛門女とされます。

村上家一門の【嶋系図(略)】を元祖から昭和の人まで繋いでみましょう。

【屋代島嶋系図】

貞純親王皇子
①源 経基

②源 左馬頭満仲

③源 常陸介頼信

④源 陸奥守頼清

⑤源 筑後守仲宗

⑥源 駿河守顕清

⑦村上判官代為国

⑧村上判官代康国

⑨村上判官代義国

⑩村上修理亮信村

⑪村上修理亮胤信

⑫村上彦四郎信康

【伊保田嶋吉利碑文】

左馬権守
⑬村上義日(よしてる) 彦四郎

【宮方】
兵衛左 蔵人
⑭村上朝日(ともてる)彦四郎
(~)
室 得能通村女

大島町誌【伊保田嶋家系図】

【宮方】

⑮村上義武 左馬助
(~)
得能通村に養育さる
後醍醐天皇より祖父の勲功により伊予に采地
初忽那島(中島)居住

⑯村上義信  左馬助

⑰村上義弘 長門守 三郎左衛門尉
(~)
室 大野八郎左衛門女
能島及び務司に移転 河野家に属す

左近将監
⑱村上信清
(~)
村上師清猶子とす
家臣乱を成し北畠師清信濃より下向し家督を継ぐ
よりて信清沖島(魚島)に遜居

⑲村上吉信
(~)
室 来島村上次郎左衛門女
能島城東丸居住 能島家家老職
文明二年継 河野刑部大輔通直仕
拝志郷 前田野 府中鉗子松竹 芥川 田那部 英田 朝倉池田壱方
吾河 大蔵 荏原 平塚 岳田に采地

⑳村上吉兼
(~)
文亀三年河野刑部大輔通宣仕
室 因島村上備中守女

?村上吉久 (宮熊)
(~)
室 因島村上丹後守女
河野教通知行状【文明2年(1470)9月17日付】
拝志郷 前田野地頭職の内近松大隅守知行地
府中鉗子御神主職松竹名・芥川庄分等代々相続

注)森元繁氏は宮熊を信清の子吉信とする。


六郎太夫
?村上吉放(よしゆき) (六郎太)
(~)
河野通直知行状【文明6年、同11年】六郎太宛
河野通宣知行状【文亀3年10月13日付】中務少輔宛

注)三島村上とは独立した立場である。
森元繁氏は六郎太を吉兼中務少輔を吉久とする。

【萩藩閥閲録村上図書家来嶋藤三郎書出】

?嶋(村上改め) 越前守吉利
(~1602.7.8)慶長七年於屋代島森村病死
★私謚天裕院顧信尚賢居士
 室 東右近太夫吉重女
★私謚清操院順孝貞信大姉
厳島戦、第一次木津川戦 文禄の役に軍功
屋代島では隠居、2人の息の久留島仕官に激怒

嶋 助右衛門吉方
能島村上属150石

嶋 傳左衛門吉賢
室 大野直政女・ショク
(1603~1677)【屋代島大野系図】

【屋代島大野系図】
嶋伝三郎
大野直一嗣養子
大野(島)三郎右衛門直給
(1629~1698)69歳


嶋 助右衛門信賢
(~1682)

嶋 助右衛門信繁

嶋 傳左衛門信利

(長男)
嶋 藤三郎信方
(次男)
嶋 利行(浅井改姓)
(三男)
嶋 正征(伊保田嶋家再興)

  長男家
   ↓
  【屋代島大野系図】
   嶋 六三郎信行
   ↓
  嶋 藤四郎


  次男家
   ↓
  浅井 某
   ↓
  三代略
   ↓
  浅井 浦太翁(屋代)


  三男家
   ↓
  嶋 某
   ↓
  嶋 信広
   島吉利碑文 伊保田建立 文化4年2月、実、文化10年
   ↓
  (以下略)

村上海賊一門 嶋家

2022年07月24日 10時07分50秒 | 村上海賊一門 嶋家
村上海賊一門 嶋家のスレッドです

嶋家子孫の嶋 信広は親族三名で遠祖島吉利の碑を大島郡伊保田(現周防大島町)
へ建立しました。

探してもわかりにくく、地元の人に聞いても「知らん!」とのこと、
仕方ないので地元出身のS君に電話して聞いたら、「分かりにくいけど」と
して電話で道案内してくれた。

 現在の姿が下記の通りです。

 【島吉利碑文 伊保田建立 文化4年2月、実、文化10年】

(正面) 越前守島君碑

左側
君諱吉利、称越前守、村上氏清和之源也、共先左馬 灌頭義日興子朝日共死王事、
純忠大節柄柄、千史乗朝日娶得能通村女有身是為義武、育於舅氏、延元帝思父祖之勲、
賜栄干豫、居忽那島、子義弘移居能島及務司、属河野氏、以永軍顕、卒子信清甫二歳、
家臣為乱、北畠師清村上之源也、来自信濃治之、因承其家襲氏、村上信清遜居沖島、
玄孫吉放生君、君剛勇練武事、初為島氏、従其宗武吉撃族名於水戦、助毛利侯、軍

意訳変換しておくと

君の諱は古利、称は越前守で、村上氏清和の子孫である。先祖の先左馬灌頭義日とその子・朝日は
共に王事のために命を投げ出しす忠信ぶりであった。朝日は能通村の女を娶り義武をもうけたが、
これは母親の舅宅で育てられた。延元帝は義日・朝日の父祖の功績を讃え、忽那島を義信に与えた。
 その子義弘は能島に移り、河野氏に従うようになった。以後は、多くの軍功を挙げた。
義弘亡き後、その子信清は2歳だったため、家臣をまとめることは出来ずに、乱を招いた。
信清は、能島を去って沖島(魚島)に移り住んだ。玄孫の吉放は剛勇で武事にもすぐれ、初めて島氏を名乗った。
そして、吉利の時に、村上武吉に従うようになり、毛利水軍として活躍するようになった。

   (裏側)
厳島之役有功、児島之役獲阿将香西、小早川侯賞賜剣及金、喩武吉與児島城、即徒干備、
石山納根之役及朝鮮之役亦有勢焉、後移周防大島、慶長七年壬寅七月八日病卒干森邑、
娶東氏、生四男、曰吉知、曰吉氏、並事来島侯、曰吉方嗣、曰吉繁、出為族、吉中後並事村上氏、
一女適村上義季、君九世之孫信弘為長藩大夫村上之室老、名為南豊杵築藩臣、
倶念其祖跡、恐或湮滅莫聞焉、乃相興合議、刻石表之、鳴呼君之功烈

意訳変換しておくと

吉利は厳島の戦いで武功を挙げ、備中児島の戦いでは阿波(讃岐)の香西を撃ち破り、小早川侯から剣や金を賜り、
村上武吉からは児島城を与えられた。また石山本願寺戦争や朝鮮の役にも従軍し活躍した。その後、周防大島に移り、
慶長七年七月八日に病で亡くなり森村に葬られた。
 吉利は東氏の娘を娶り、長男吉知、次男吉氏、三男吉方 四男吉繁の4人の男子をもうけた。彼らは、それぞれ一族を為し、
村上氏を名乗った。吉利の九世後の孫にあたる信弘は、長州藩周防大島の大夫で村上の室老で、南豊杵築藩の島永胤と、
ともにその祖跡が消えて亡くなるのを怖れて、協議した結果、石碑として残すことにした。祖君吉利の功は

  (右側)
足自顕干一時也、而況上有殉忠之二祖下有追孝之両孫、功烈忠孝燥映上下、宜乎其能得不朽於後世実、
長之於永胤為婦兄、是以應其需、誌家譜之略、又係之銘、銘曰、王朝遺臣南海名族、先歴家難、猶克保禄、
世博武毅、舟師精熟、晨立奇功、州人依服、

文化四年卯春二月 肥後前文学脇長之撰
周防   島信弘 建
豊後   島永胤

  意訳変換しておくと

(右側)
偉大である。況や殉忠の二祖に続く両孫たちも功烈忠孝に遜色はない。その名を不朽のものとして後世に伝えるために
永胤が婦兄に諮り、誌家に残された家譜を調べ、各家の関係を明らかにした。