1371 応安4年 北 1月5日 愛媛県史 藤原又四郎ら、宝珠寺へ鰐口を納める〔横峰寺鰐口銘〕
応安4年 北 1月7日 愛媛県史 越智実弘、田畠を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安4年 北 1月23日 大日本史料 征西将軍懐良親王、河野通直をして、南朝伊予守護職を領知せしめらる
【築山本河野家譜】
応安4年 北 1月23日 愛媛県史 征西将軍懐良親王、河野通直を伊予国守護職に補する〔築山本〕
1371 建徳2年 南 久万町誌 ○河野通堯は征西将軍から南朝伊予国守護職に補せられる。
応安4年 北 2月13日 愛媛県史 比丘尼浄伊、田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安4年 北 3月6日 愛媛県史 幕府、弓削島荘を河野久枝新蔵人に預け置く〔百合文書〕
応安4年 北 3月20日 大日本史料 征西将軍懐良親王、南朝伊予守護河野通直をして、同国合田本領相残分を去渡
さしめらる【築山本河野家譜】
応安4年 北 3月20日 愛媛県史 征西将軍府、合田氏の本領の残分を渡すことを河野通直に命ずる〔築山本〕
応安4年 北 閏3月16日 愛媛県史 浅海通智、越智郡桜井郷内の土地を国分寺雑掌に沙汰付ける〔国分寺文書〕
応安4年 北 7月19日 愛媛県史 小早川宗平、弓削島荘給主職を請負う〔百合文書〕
応安4年 北 7月 愛媛県史 東寺、弓削島荘領家職を河野久枝新蔵人が押領するのを止めて同寺雑掌が知行する
よう幕府に訴える〔百合文書〕
応安4年 北 10月15日 愛媛県史 聖祐、桑村郡内の田地を観念寺に売却する〔観念寺文書〕
応安4年 北 11月21日 愛媛県史 幕府、白河侍従に粟井荘などを安堵する〔早稲田大学所蔵文書〕
応安4年 北 12月 愛媛県史 越智郡奈良原神社の境内に多宝塔が建てられる〔同塔台座銘〕
応安4年 北 久万町誌 ○西側南朝軍も今川貞世九州探題になって振るわなくなる。
応安4年 北 愛媛県史 『太平記』成る。 【太平記成立】*予章記、河野家譜は多く太平記を引用す。
1372 文中 南 4月 改元・出典(ぶんちゅう)(長慶天皇-4年間)【勘申者 】
1372 応安5年 北 愛媛県史 伊予の南朝方軍、守護細川頼有と讃岐国西大野で戦う〔祇園執行日記〕
応安5年 北 5月25日 愛媛県史 揖斐祐康、浮穴郡荏原郷内の所領を浄瑠璃寺塔頭斂影庵に寄進する
〔大徳寺文書〕
応安5年 北 9月26日 愛媛県史 細川頼之が職を辞し四国下向を計る。足利義満、これを諭止する。
応安5年 北 9月28日 愛媛県史 平法家ら、桑村郡古田郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安5年 北 11月13日 愛媛県史 細川頼有、大野詮直の軍忠を賞する〔大野系図〕。
応安5年 北 11月13日 大洲大野系譜 □大野詮直(北朝) 細川右馬頭頼有より感状を得る。 【原文参照】
応安5年 北 11月13日 久万町誌 ○大野詮義(北朝)は細川方として細川右馬頭頼明より感状を受ける。
【原文参照】
於与州致忠節之條、以心神妙也
弥可抽戦功状如件
応安五年十一月十三日
細川右馬頭 頼有
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
応安5年 北 11月15日 大日本史料 南党河野通直、顕等大姉の下地々頭職并に名主職を、伊予善応寺開山塔通
玄庵に寄進す
応安5年 北 11月15日 愛媛県史 河野通直、顕等大姉所有の地頭名主職を善応寺通玄庵に寄進する
〔善応寺文書〕
1373 応安6年 北 4月8日 愛媛県史 代官上野某、浮穴郡臼杵三島神社に所領を寄進する〔臼杵三島神社文書〕
応安6年 北 8月6日 大洲大野系譜 □大野治郎安芸守繁直元服、備前守繁高の烏帽子子。
応安6年 北 8月22日 愛媛県史 善応寺士顕正堂、同寺住持職を定めて士綱南宗に嗣がせる〔善応寺文書〕
応安6年 北 10月9日 愛媛県史 幕府、鎌倉五山の住持・両班年期を定める。
応安6年 北 11月10日 愛媛県史 越智通永、田地を周敷郡長福寺に寄進する〔長福寺文書〕
1374 応安7年 北 4月3日 大日本史料 征西将軍懐良親王、伊予守護河野通直(南朝)をして、大内弘世を周防に撃た
しめ給ふ【築山本河野家譜】
1374 文中3年 南 4月3日 山口県史整理年表 ○征西府、河野通直に弘世を撃たしむ 【河野家譜】
文中3年 南 4月 東和町史 ○河野通直(通堯)は征西府の命により周防の大内弘世を討ったが戦果は上がらず。
文中3年 南 7月19日 山口県史整理年表 ○大内弘世安芸に出軍す。毛利元春これに応ず。南軍毛利親衝(四十四
代元春の父)等また弘世に党して却って元春を攻む 【毛利家文書】
応安7年 北 8月3日 大日本史料 長慶天皇、伊予荏原郷のことに就き、使者を河野通直に遣し給ふ
【築山本河野家譜】
文中3年 南 10月7日 山口県史整理年表 ○足利義満(北朝)、石見吉見頼直の赤間関において菊池氏と戦える
軍功を褒す 【閥閲録】
文中3年 南 10月22日 山口県史整理年表 ○義満周防玖珂庄等の地頭職を金剛院に安堵す 【鹿王院文書】
文中3年 南 秋 山口県史整理年表 ○大内義弘を長門豊前の守護職に補す 【京都将軍家譜】
応安7年 北 12月11日 愛媛県史 越智氏永ら、桑村郡桑村郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安7年 北 愛媛県史 征西将軍府、河野通直を土佐国守護に奏請することを約して、土佐の北朝方
を討つよう命じる〔築山本〕
応安7年 北 大日本史料 懐良親王、伊予河野通直をして、北党を討たしめ、其の勲功あらば、土佐守護に
推挙せんことを約す【築山本河野家譜】
応安7年 北 上川大野系譜 ■大野詮直(北朝)は足利義詮公より諱詮の字を賜う。
永和元 北 2月27日 改元・出典「直書」「芸文類聚」 えいわ・即位改元による(後円融天皇-5年)
永和元年 北 3月1日 愛媛県史 細川頼有、三島神社に立願状を捧げる〔大山積神社文書〕
1375 天授元年 南 3月21日 山口県史整理年表 ○長門守護大内義弘入府し、一宮二宮に参詣す 【長門国守護職次第】
天授元年 南 4月13日 愛媛県史 僧重善ら、桑村郡興隆寺本堂を再建する〔同本堂棟札銘〕
永和元年 北 5月25日 大日本史料 懐良親王、大納言円明寺某を土佐に遣し、河野通直をして、之を扶持せし
め給ふ【築山本河野家譜】
1375 天授 南 5月27日 改元・( てんじゅ)・天災改元による(長慶天皇-7年間)【勘申者 藤原長親】
永和元年 北 8月15日 愛媛県史 長慶天皇、綸旨を発して、河野通直を刑部大輔・伊予国守護職に任じ周防国
大内弘世討伐を命じる〔築山本〕。
天授元年 南 8月15日 山口県史整理年表 ○南朝、河野通直を伊予守護職に補し、大内弘世を周防に撃たしむ
【河野家譜】
永和元年 北 8月15日 大日本史料 十五日、{癸卯、}南朝、治部權少輔河野通直ヲ、刑部大輔ニ任ジ、
伊豫守護職ニ安堵ス【河野文書、河野家之譜】
永和元年 北 9月9日 愛媛県史 前讃岐守、浮穴郡臼杵三島神社に年貢を寄進する〔臼杵三島神社文書〕
天授元年 南 11月 大興寺文書 ○土岐祐康、大興寺に寄進する。
永和元年 北 11月13日 愛媛県史 細川正氏、讃岐国伊賀野領家職等を兵糧料所として忽那重氏にあてる
〔忽那家文書〕
天授元年 南 11月20日 山口県史整理年表 ○幕府、義弘に命じて、貞世を授けしむ。管領細川頼之これを益田
兼見に報じ同心尽力せしむ 【閥閲録】
天授元年 南 東和町史 ○南朝は河野通直(通堯)を伊豫守護職に補任し、大内弘世を討たしめたが失敗した
もよう。
永和元年 北 11月21日 大日本史料 伊予守護代細川頼有、同国監引村に二宮太郎左衛門跡を大野詮直
に預け置く。 【大野系図】【大野詮直】
永和元年 北 11月21日 愛媛県史 細川頼有、塩引村(所在地不明)の所領を大野氏に預け置く〔大野系図〕
永和元年 北 11月21日 大洲大野系譜 □大野詮直(北朝) 細川右馬頭頼有より伊豫国塩引村二宮太郎の跡の
安堵状を得る。
【原文参照】
為上意所領
伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
所領置也 任先例可致沙汰状如件
細川右馬頭 頼有
永和元年十一月廿一日
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
永和元年 北 11月21日 大日本史料 ○伊予守護細川頼有同国塩引村二宮太郎左衛門跡を大野詮直に預け置く。
永和元年 北 11月23日 愛媛県史 征西将軍府、新田義宗伊予入国の予定を河野通直に告げる〔築山本〕
1376 天授2年 南 1月25日 愛媛県史 宇和郡に下向した西園寺公良、歯長寺寂証に法談を行わせる〔歯長寺縁起〕
天授2年 南 4月16日 山口県史整理年表 ○弘世、毛利匡時・直元とともに毛利元春の九州出陣に乗じて、小手崎
城を攻む。二十八日弘世俄に兵を解きて去る 【毛利家文書】
永和2年 北 4月22日 愛媛県史 細川頼有、保国寺に禁制を掲げる〔保国寺文書〕
天授2年 南 7月14日 山口県史整理年表 ○弘世、石見守護職を解任のことにつき武家を恨み南朝に降らんとす。
管領細川頼之弘世を諭す 【益田家文書】
天授2年 南 7月16日 山口県史整理年表 ○荒川詮範を石見守護職に補す。ついでまた、義弘を石見守護職とし
【花営三代記】
天授2年 南 閏7月16日 愛媛県史 征西将軍府、新居勅旨田を南朝方料所とするよう、河野通直に命ずる
〔河野(通堯)文書〕
1376 永和2年 北 伊予中世年表 ○西園寺公良、宇和之庄の松葉城(岩瀬城)に入る。
永和2年 北 愛媛県史 細川頼之、大野義直の伊予郡出淵での軍忠を賞する〔大野系図〕。
永和2年 北 12月26日 大野系図大日本史料 伊予守護細川頼之、大野義直(北朝)の同国道後・出淵に於ける
軍忠を褒す。 【大野義直出淵に俊出】
永和2年 北 12月26日 大洲大野系譜 □大野左衛門次郎義直は細川頼之【室町幕府官領(将軍の補佐役】から
道後に於ける戦功の感状を受ける。
【原文参照】
中山町誌 義直依抽粉骨戦功為 上意感状
伊与国打出道後出渕致忠節於其事尤以
伊予国道後出淵に打ち出し 忠節を致し候
神妙 弥可抽戦功状如件 其のこと尤も以て神妙
いよいよ戦功ぬきんずべき状 くだんのごとし
永和二年十二月廿六日 武蔵守 頼之
大野左衛門次郎殿(義直)
1377 天授3年 南 1月13日 山口県史整理年表 ○今川貞世、大内大友とともに肥後千府蜷打に南軍と戦いて大勝。
菊池氏また肥後に退却す 【後愚昧記】
天授3年 南 2月17日 愛媛県史 枝松光盛、伊予郡吾川郷観仏寺へ田畠を寄進する〔大洲旧記〕
天授3年 南 2月22日 愛媛県史 細川頼有、能寂寺に禁制を掲げる〔能寂寺文書〕
天授3年 南 6月 愛媛県史 高麗、使者を派遣し倭寇禁止を要請する。
天授3年 南 8月12日 山口県史整理年表 ○南北両軍白木原に戦い、大内義弘・満弘・毛利元春等の軍奮戦す
【後愚昧記】
天授3年 南 9月 愛媛県史 高麗使鄭夢周、来国する。
天授3年 南 10月 愛媛県史 余戸田重秋、土地を興隆寺に寄進し、ついで国分寺にも去り渡す〔興隆寺文書〕
天授3年 南 11月 大野系譜上田本 ○26代大野義直(中川十郎)(北朝) 細川満元の来書有り。
【原文参照】
土刕就 御退治 細川満元状曰
上意として土州退治之事、被 仰出候間
執事を越候也、国境之事ニて候得者、
憑入候、無等閑候者悦入候、委細状
不申次第猶庄林入道可申候、
兼又宇津宮方之事、自其能々御籌策ニて
無子細候者殊本望候、将又 上意之事
連々可心得申也 恐惶謹言
八月七日 (細川) 満元
大野殿
1377 永和3年 北 12月 大日本史料 南朝、刑部大輔河野通直、禁制を伊予善應寺開山塔に掲ぐ【善応寺文書】
1378 永和4年 北 芳闋乱史 後の伊豫の平岡氏勅命により下向する。 【平岡氏下向】
永和4年 北 10月8日 愛媛県史 宇和郡高田八幡神社神主光家、その子乙熊らに所領を譲る〔高田八幡神社文書〕
1379 康暦 北 3月22日 改元・出典「唐書」 こうりゃく・疫病改元による(後円融天皇-3年間)【勘申者 菅原長嗣】
1379 康暦元年 北 2月22日 日本全史 ○将軍義満が土岐頼康の追討令を諸国に発す。3月18日土岐の罪を赦す。
康暦元年 北 伊予中世年表 ○細川頼之は高峠城を攻撃し、落城。
康暦元年 北 4月1日 大日本史料 土岐頼忠、土岐詮直、京都に入る【花営三代記】 【土岐詮直】
康暦元年 北 4月14日 日本全史 ○管領細川頼之は失脚し讃岐に帰る。斯波義将、管領に任命さる。
【康暦の政変】
康暦元年 北 閏4月1日 大日本史料 土岐直氏、上京す【花営三代記】 【土岐直氏】
康暦元年 北 6月9日 愛媛県史 足利義満、門真周清に桑村郡田野郷地頭職を安堵する〔鹿王院文書〕
康暦元年 北 7月8日 愛媛県史 足利義満、河野通直を伊予国守護職に補する〔明照寺文書〕
康暦元年 北 7月8日 大日本史料 義満、河野通直を伊予守護と為す【河野文書】
康暦元年 北 7月8日 久万町誌 ○河野通堯は足利義満から北朝方の伊予国守護職に補せられる。
河野通堯(通直)南朝→北朝
康暦元年 北 9月5日 大日本史料 義満、河野通直をして、細川頼之を討たしむ【花英三代記、長州河野文書】
康暦元年 北 9月5日 久万町誌 ○足利義満将軍から細川頼之誅罰の御教書が河野通堯に発せられて頼之軍伊予国
に侵入する。
康暦元年 北 10月5日 愛媛県史 足利義満、小早川宗平に越智郡大島地頭職を与える〔小早川家証文〕
康暦元年 北 11月 美濃諸家稲葉系図 河野通直、安芸竹原で細川頼之入道常久と戦い同6日死す。
* この本は佐志久原を安芸竹原と混乱し、通能と混乱か)
康暦元年 北 11月3日 愛媛県史 細川頼之、桜井郷内光富名を祝三郎に与える〔三島家文書〕
康暦元年 北 11月6日 大日本史料 細川頼之、河野通直を襲ふ、通直、防戦し、西園寺某等と之に死す
【迎陽記、予章記】
康暦元年 北 11月6日 久万町誌 ○河野通堯は細川頼之軍と周桑郡(東予市)佐志久原で戦い討死す。之以河野家
全く振るわず衰亡の道を辿る。 【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 久万町誌 ○佐志久原の戦いで大野義直、父直頼は通堯と討死。27代家督は細川頼有の
推挙により詮義となる。 【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 上川大野系譜 ■大野直頼、河野通堯の配下として吉岡佐志久原で討死する。
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 大野系譜上田本 ○直利の兄で直国の男、直頼(大田三郎四郎二郎、中川十郎入道)は
河野通尭に属し吉岡佐久志原の戦いで討死する。 【吉岡佐久志原の戦い】
1379 天授5年 南 11月6日 上川大野系譜 ■大野義直、河野通堯の配下として吉岡佐志久原で討死する。義直と直頼の
関係は? 【吉岡佐久志原の戦い】
天授5年 南 11月6日 大野系譜上田本 ○26代大野義直(中川十郎) 吉岡佐久志原にて討死する。
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 予陽河野家譜 ○河野家惣領 通尭 逝去。号 浄居庵桂峰道正大禅定門
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 12月3日 大日本史料 義満、山名時義、山名義幸を伊予に遣し、河野通直を援けて、細川頼之を
討たしむ【迎陽記、花英三代記】
康暦元年 北 宮窪町誌 ○小早川氏の庶家小泉宗平(北朝)は勲功の賞として足利義満から大島の地頭職を
与えられる。
1380 康暦2年 北 2月12日 愛媛県史 足利義満、河野亀王丸(通義)に対し、父通堯の忠節を賞する〔淀稲葉文書〕
康暦2年 北 2月13日 山城淀稲葉文書 ○河野亀王丸(通義・通能)【北朝】は足利義満から御書を頂く。
康暦2年 北 2月13日 大日本史料 義満、河野通直の戦死を褒し、其嗣亀王丸の軍功を奨励す【古今消息集】
1380 天授5年 南 4月28日 山口県史整理年表 ○義弘安芸平田庄の地を吉川経見に付し管理せしむ
【吉川家文書・家譜】
康暦2年 北 4月16日 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸(通義・通能)は足利義満から旧領安堵の御書を頂く。
【河野亀王丸・通義旧領安堵さる】
康暦2年 北 8月6日 愛媛県史 国内の地頭御家人に亀王丸の命に従って忠節をつくすよう命じる
〔臼杵稲葉文書〕。
康暦2年 北 9月16日 愛媛県史 西園寺家、桑村郡古田郷内得乃保公文職などを興隆寺に返す〔興隆寺文書〕
康暦2年 北 11月4日 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶
康暦2年 北 11月14日 大洲大野系譜 □大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶大居士
康暦2年 北 11月14日 別本土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去
康暦2年 北 11月14日 内務省土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 大日本史料 北朝前伊予守土岐直氏卒す【常楽記、土岐系図】 【土岐直氏】
康暦2年 北 12月29日 愛媛県史 足利義満、細川頼元に河野亀王丸の所領を侵さぬように伝える
〔臼杵稲葉文書〕。
康暦2年 北 予陽 大野軍記巻4 大野勝義(土岐詮直?)の代。河野・大野和睦の事。附、河野亀王丸へ
守護職を譲る事。
康暦2年 北 宮窪町誌 ○河野通義は足利義満から伊予守護職を安堵される。
1380 天授6年 南 11月15日 山口県史整理年表 ○大内弘世死す。五六 【大内氏系図】
康暦2年 北 愛媛県史 足利義満、鹿苑院を創建する。
1381 弘和 南 2月10日 改元・出典(こうわ) (長慶天皇-4年間)【勘申者 】
1381 永徳 北 2月24日 改元・出典( えいとく)・辛酉改元による(後円融天皇-4年間)【勘申者 藤原仲光】
1381 弘和元年 南 6月23日 愛媛県史 今川五郎、染城に懐良親王を攻撃する。
永徳元年 北 9月11日 愛媛県史 越智通高、観念寺に田地を寄進する〔観念寺文書〕
永徳元年 北 11月4日 愛媛県史 法円、越智本郡内の田畠を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
永徳元年 北 11月15日 愛媛県史 河野通義の弟鬼王丸、細川氏と和気郡福角で会見して和議をととのえる
〔予陽本〕
永徳元年 北 11月20日 愛媛県史 細川頼元、亀王丸に周敷郡北条郷多賀谷氏の善処を依頼する〔予陽本〕
1381 弘和元年 南 12月14日 山口県史整理年表 ○大内義弘熊谷直明に安芸国三入本庄・恒久・賀部庄料所名を安堵す
【閥閲録】
永徳元年 北 伊予中世年表 ○今川五郎は懐良親王を攻めた。河野通義の弟、河野通之は細川頼之の
養子となった。
永徳元年 北 伊予中世年表 ○河野氏、細川氏に宇摩・新居両郡を割譲で和議が成立。細川氏は高尾城に
代官石川氏を派遣。 【細川氏東予支配】
1382 永徳2年 北 2月1日 愛媛県史 北朝から宗昌寺開山大蟲宗岑に大証禅師の号が贈られる〔宗昌寺文書〕
永徳2年 北 7月17日 大洲大野系譜 □大野詮直 今川弾正通俊より 神崎庄北方、余戸村、窪田村、
安堵状を得る。
【原文参照】
伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重 *中央政府からの安堵で河野家からではないので中央被官と知れる
可有其抽賞旨、被仰下状如件
永徳二年七月十七日
弾正弼 (今川)通俊
大野十郎左衛門入道殿
永徳2年 北 9月8日 愛媛県史 伊予の僧法実、美濃国阿彌陀寺の開山となる〔立政寺文書〕
永徳2年 北 10月5日 愛媛県史 尼恵久、保国寺大海寂弘の塔頭に土地を寄進する〔保国寺文書〕
永徳2年 北 10月16日 愛媛県史 細川頼有、能寂寺に禁制を掲げる〔能寂寺文書〕
永徳2年 北 12月26日 大日本史料 善應寺僧徒等、祇園社燈油料の地を濫妨す、是日、幕府、土岐某をして、
之を禁止せしむ【八坂神社文書】
1383 永徳3年 4月3日 愛媛県史 和気郡西法寺の梵鐘が鋳造される[太山寺鐘銘]
永徳3年 7月17日 愛媛県史 宇和郡惣川興禅寺の本空没する〔本朝高僧伝〕
1383 弘和3年 南 10月29日 山口県史整理年表 ○二条良基、大内義弘の請により連歌書「十問最秘抄」を贈る
永徳3年 11月13日 愛媛県史 兼繁、田畠8反を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
永徳3年 愛媛県史 明帝、日本との通交を絶つ。 【明国断交】
1384 至徳 北 2月27日 改元・出典「老経」 しとく・甲子改元による(後小松天皇-4年間)【勘申者 藤原資康】
1384 至徳元年 北 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸は15歳にて元服、九郎通能と号す。時に君より義の字を
給わり通義と称す。
1384 元中 南 4月28日 改元
至徳元年 北 11月20日 愛媛県史 喜多郡五十崎地頭源高実、宇都宮大明神に大般若経を納める〔大洲旧記〕
1385 至徳2年 北 4月7日 郷土の歴史宮本常一 ○屋代荘北方は大内義弘の申請により、玖珂郡横山の永興寺に寄進され
た。建長2年東福寺に寄進されて135年後である。 【屋代荘北方永興寺に寄進】
至徳2年 北 4月7日 防長寺社由来7巻
足利義満公御判物写岩国領 横山
栄興寺領周防国屋代庄北方、石国本庄横山・向棚並
栄興寺足利義満判物 波野郷内佐多・生野等事
右任大内左京権太夫義弘朝臣申請、可命為当寺領之状如件
至徳二年四月七日 左大臣源朝臣 御書判有之
1386 至徳3年 北 予章記上蔵寺本 ○河野鬼王丸は15歳にて元服、通之と称する。
1386 元中3年 南 4月10日 芳闕嵐史 大野直利の息、大野直瀬(太田三郎左衛門尉入道延真)南朝方として討死?
大野家南北に離反
1387 嘉慶 北 8月23日 改元・出典「毛詩正義」 かきょう・疫病改元による(後小松天皇-3年間)【勘申者菅原秀長】
1387 嘉慶元年 北 12月25日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康 瑞巌寺で逝去七十三歳、
法名 建徳寺殿善光禄太夫右典厩高厳忠公大居士。
嘉慶元年 北 12月25日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐頼清の男頼康、美濃・尾張・伊勢国守護、
瑞巌寺で逝去七十三歳、法名建徳寺。
嘉慶元年 北 ○美濃・尾張・伊勢の守護職を土岐康行は継承するも、尾張守護職を弟満貞に代えられたことで
尾張守護代土岐詮直が満貞と翌年交戦に至る。
1388 嘉慶2年 北 大野町史 宮内少輔土岐詮直は尾張の守護となったが、応永の乱に大内義弘に応じて謀反したので
誅されれ、斯波氏にとって代わられた。 【土岐詮直尾張守護】
嘉慶2年 北 ○尾張守護代土岐詮直が満貞と交戦し、康行も詮直を援助した、之が反幕行動と看做され
康行は明徳元年幕府の追討を受く。
嘉慶2年 北 3月17日 河野一族中系図 河野刑部大輔通昌は、温泉郡の内湯之山、風早郡菅沢中村両庄其の
他和気郡の所々を二男対馬守通之に賜る。
嘉慶2年 北 3月20日 臼木稲葉侯爵家文書 河野通義は伊豫守に任命される(後小松院綸旨)
*【この文書は元禄14年江戸河野権九郎が模写分】 【河野通義伊豫守綸旨】
1388 元中5年 南 5月9日 日本全史 ○尾張・土岐詮直(あきなお)が守護土岐満貞の入部を妨げようとして、
一族同士が黒田宿で戦う。
1389 元中6年 南 3月11日 日本全史 ○安芸・厳島社参詣のため4日に京を立った将軍義満が6日讃岐の細川頼之
と会いこの日共に社参する。
元中6年 南 3月13日 山口県史整理年表 ○将軍足利義満、厳島に参詣し、なお九州へ赴かんため三田尻の松原
に着き、義弘新造の旅館に入る 【鹿苑院殿厳島詣記】
元中6年 南 3月18日 山口県史整理年表 ○義満風浪にあい九州行きを止めて東帰す。義弘これに従う
【鹿苑院殿厳島詣記】
1389 康応 北 2月9日 改元・出典「文選」 こうおう・疫病改元による(後小松天皇-2年間)【勘申者 菅原秀長】
1389 康応元年 北 3月11日 広島県文書館 足利義満、厳島神社に参詣する。
1389 康応元年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、周防の竃戸の関(上関)で将軍足利義満に拝謁する。
康応元年 北 河野姓中系図 河野対馬守通之は湯之山宿之庄に堅城に修築する。
1389 元中6年 南 九大 阿蘇物語 得能屋形は河野通貞と講和した。落髪し伊予入道慶龍
1390 元中7年 南 3月25日 日本全史 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。
(義満、土岐氏内紛に軍事介入し、領国三分割し勢力削減)
1390 明徳元年 北 1月16日 大和越智氏伝記 ○越智伊予源五卒(瑞泉院殿義山信公大禅定門)
1390 明徳 北 3月26日 改元・出典 「礼記」 めいとく・天災改元による(後小松天皇-5年間)【勘申者 藤原資康】
元中7年 南 8月17日 山口県史整理年表 ○義弘吉川経任の軍功により志路原庄を管せしめんことを幕府に請う
【吉川家文書・家譜】
1390 明徳元年 北 3月25日 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。(土岐氏の乱)
1391 明徳2年 北 ○土岐氏の乱で没落した土岐康行は明徳の乱で戦功をあげ、伊勢国守護職を
回復する。美濃国守護職は康行追討の戦功で土岐頼益継承
明徳2年 北 予章記 河野通能上洛す、義満、名を与へて通義と改めしむ【予章記】 【河野通能→通義】
1391 元中8年 南 4月3日 日本全史 ○京都・細川頼之が将軍義満の要請で上洛、弟で養子になった頼元が管領に
任ぜられ頼之は後見となる。
元中8年 南 12月30日 山口県史整理年表 ○山名氏清叛して京都に攻入る。義弘二条大宮に陣し奮戦す
【応永記(大内退治記)】
1392 元中9年 南 1月4日 山口県史整理年表 ○義満義弘の戦功を賞して紀伊和泉の守護職に補す
【応永記(大内退治記)】
元中9年 南 2月13日 山口県史整理年表 ○義弘山名義理討伐の命を受け、この日京都を発し二十五日これを
平定す 【明徳記】
1392 明徳3年 北 10月2日 大和越智氏伝記 ○南朝・北朝和睦、亀山院と号す。吉野皇居五十年
1392 明徳3年 北 10月5日 日本全史 ○南北朝合一。後亀山天皇が後小松天皇に神器を譲る。 【南北朝合一】
1393 明徳4年 北 4月11日 大日本史料 義満、河野通義をして、伊予の軍勢を伯耆に出し、山名氏幸を援けしむ
【諸家文書纂】
1393 明徳4年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、山名氏討伐のため伯耆国へ出兵する。
明徳4年 北 9月 九大 阿蘇物語 河野豫州家領(久米・浮穴・温泉東部、及び安芸七島)を四国官領細川家に
出訴され得能通範叛く。 【豫州家領】
1394 応永 7月5日 改元・出典「会要」 おうえい・疱瘡改元による(後小松天皇-35年間)【勘申者 藤原重光】
1394 応永元年 8月2日 河野一族中系図 河野対馬守通之は得能備中守通興の女を娶る。
1394 応永元年 8月下旬 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。
応永元年 8月 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病に悩まされ家督を弟、通之に譲旨の申請をする。
1394 応永元年 11月7日 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。その安堵状
足利義満よりくる。
応永元年 11月7日 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。その安堵状
足利義満よりくる。
応永元年 11月7日 大日本史料 義満、伊予守護河野通義の請に依り、弟通之をして、同国守護職及び
本知行分を安堵せしむ【長州河野文書、築山本河野家譜】
応永元年 11月13日 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病のため舎弟六郎通之に家督を譲る旨の遣書を書く。
応永元年 11月16日 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため京都にて逝去、没後のことは久万宮内亟に
申し残した。号 温玉院殿梅岸道香大禅定門
応永元年 11月16日 大日本史料 前伊予守護河野通義、京都に卒す【築山本河野家譜】
応永元年 伊予中世年表 ○河野通之、桑原通興に鷺森城(壬生川)を築かせた。
応永元年 伊予宗教史・影浦直孝 曹洞宗の高僧祖東は喜多郡大野の人で、大鉄宗令に従い美濃妙応寺に
行き、応永元年喜多郡宇津村に渓壽寺を開き応永22年に寂す。 【喜多郡大野現出】
応永元年 宇津城と大野族・今井一行 応永元年 大野家宗家明正の頃、喜多郡大野に生まれた春厳祖東
(大伴氏の出)が渓壽寺を開く。 【喜多郡大野現出】
応永元年 渓壽寺過去帳 渓壽寺 大洲市菅田町宇津甲 ℡0893-25-5309
(渓壽寺及び大野館一帯が大野邑ならん)
応永元年 大洲旧記 渓壽寺の後見寺は中居谷邑の大野・冨永・橘・立花家の菩提寺、安楽寺となっている。
応永元年 愛媛県史
曹洞禅の展開
道元没後の永平寺教団は、かたくななまでに道元の遺風を固守しようとする義演などの旧派と、
教団の発展を強力に推進しようとする徹通などの新派が対立、徹通派は加賀大乗寺に移って独立、
能登に進出した。その法嗣□(宝のうかんむりの上部がツ)(けい)山紹瑾は能登に
永光・総持の両寺を開創(もとそれぞれ真言・律の寺院)、以上の三寺を拠点に地方進出を図り、
宗勢は永平寺を圧倒した。□(宝のうかんむりの上部がツ)山のあと峨山―通幻―石屋の法系を主流
として発展するが、特に各国守護や地方豪族の外護を得て基礎を 固め、また、旧仏教ならびに修験
の遺跡を復興して改宗、それらと習合しながら飛躍をとげた。そして、そのころ峨山派の能登総持寺
が中心になっていった。
石屋真梁(1345―1423)は、島津忠国の子で総持寺にあったが、島津元久に招かれて福昌寺を開創した
あと、大内氏の帰依を受けて周防国泰雲寺などを開き、ついで開創された同国龍文寺とあわせて、これら
三寺を拠点に九州・中国・四国へ教線を伸ばした。石屋の法弟仲翁守邦(1379―1445)は、島津元久の子、
一五歳で石屋の福昌寺に投じ、総持寺に出世した後帰郷して常珠寺などを開創、のち嘉吉三年(1443)
伊予で修行中魚成に留錫、元亨三年(1323)徳翁によって開かれた龍天寺を現在地奈良谷に移して
中興、禹門山龍沢寺とした。その後歴代住持の積極的な布教活動により、東宇和郡を中心に末寺五〇余
か寺を数える大寺になった。
御荘地方禅宗の中心寺である興禅寺は、開山直心宗白による応仁元年(1467)の開創といい、
のち龍沢寺末になった。
つぎに、石屋の開いた周防国泰雲寺の流れを汲む寺に高昌寺(現内子町城廻)がある。すなわち、
石屋の法孫大功円虫(?―1473)が、この地を巡錫中、嘉吉元年(1441)浄久寺(今その地名を浄久寺
という)に建立し、天文二年(1533)、この地方の領主曽根高昌が現在地に移築して菩提寺とし、
さらに弘治二年(1556)高昌寺と改称した。これまでこの地の寺院は願成寺を本寺とする時宗が多かった
が、願成寺を除いてほかはすべて高昌寺末となり、その数二四か寺に達する大寺になった。
同じ泰雲寺系で、安芸国勝運寺末の大仙寺(今治市本町)は、勝運寺開山以天圭穆(?―1591)の開創になる
もので、もと安芸国 豊田郡矢野村にあった新興寺を、天文初年ごろ同寺五世代に現在地へ移して大泉寺と
し、江戸時代に入って元文ごろ大仙寺に改めたという。
また、同じ泰雲寺系で、豊後安楽寺末とされる(総持寺史)大通寺は、さきに記したように、貞和年中
(1345―50)に大暁禅師によって 開創された臨済寺院であったが、明応年間(1492―1501)、中興開山
玄室守腋(備中総社華光寺)、開基河野通宣によって曹洞宗に改宗した。その後最後の鹿島城主来島康親が
豊後森に移封となるに伴い、大通寺の系統を移して安楽寺を開創した際、大通寺七世大室永廓の弟子が開山
となった。したがって、伽藍系からは大通寺を豊後安楽寺の末寺とするのはおかしい。
その大室永廓(?―1605)は、慶長元年(1596、『小松邑志』には元亀三年=1572)郷里に帰って天福寺
(小松町大頭、 現臨済宗妙心寺派)を再興して宇野氏の菩提寺とした。大室永廊は、妙口村剣山城主黒河氏
の配下宇野氏(獅子ヶ鼻城主)の嫡系家綱のことで、家督を弟為綱(識弘)に譲って出家した。この寺は
その後妙心寺派の臨済寺院になった。つぎに、同じ福昌寺末周防国龍文寺大菴須益(?―1473)を開山と
して招請、その弟子月湖契初(?―1524)を実質の開山として、 河野通直により、開創(開創年不明)
したのが龍穏寺(松山市御幸)であり、河野氏滅亡後の変遷を経、末寺一三か寺をもつこの地方の
曹洞宗の中心寺院となった。また、同じく大菴須益を開山とする寺に大雄寺(今治市室屋町)と隆慶寺(
今治市米屋町)があり、それぞれ文明五年(1473)、文明一一年(1479)の建立というが、龍穏寺と同様
おそらく招請開山であろう。なお、峨山の法系にある茂林芝繁(1393―1478)は興雲寺(小松町明穂)
の開山といい、通幻派の福島県長源寺末の寺院という。
さかのぼって、総持寺の基礎を確立した峨山は、貞治三年(1364)、「嗣法の次第を守り五筒寺住持すべし」
と遺誠した。その五箇寺とは、 峨山直嗣の太源・通幻・無端・大徹・実峰がそれぞれ総持寺山内に開創した
普蔵・妙高・洞川・伝法・如意の五院である。
さらに、各院には相ついで塔頭が建てられ、その数は二二箇寺にも達した。ここで特筆すべきは、総持寺の宗派
僧団が、総持派が全国に展開して大宗派になった根源になったことである。その秘密は開祖□(宝のうかんむりの
上部がツ)山・二祖峨山と継承された輪住制度にある。
それは、まず五院の住持が嗣法の順位によって本山に輪番で出仕することから始まった。そして、その後は五院が
三年を一期に順番に輪住者を出し、その期間は、さらに一年、半年、三か月、七五日と短縮された。これまでを
五院による輪住時代とするが、天正一五年(1578)の改革で五院それぞれに輪番地が設けられ、地方の輪番地
寺院が出仕することになった。そして、五院それぞれに設置された輪番地寺院は合計三三九箇寺に達した。
改革後の輪住任期は一年となり、輪番地からそれぞれの五院に出仕常住し、その間七五日間を本山当住とした。
すなわち、地方輪番地の住持が、短期間とはいえ本山総持寺の貌座に登る光栄に浴するわけで、ここに輪住制度の
もつ効果の秘密がある。
いま、伊予にあった輪番地をみると、五院のうち第四院(開祖大徹)の輪番地四九箇寺中に溪寿寺(現大洲市菅田町
宇津)があり、五回輪番に出仕したことがわかる。これを溪寿寺作成の年表についてみると、宝永元年(1704)以降
の五回が確認され、大洲侯の援助によって果たした輪番用の遺品を伝えている。
溪寿寺は、大徹宗令の法嗣春巌祖東(?―1414)が応永元年(1394)に開創した寺院である。祖東は大洲地方の
出身者とみられるが 俗姓は伴氏、大野村の人というだけでわからない。大徹に参じて曹洞の奥旨を極め、溪寿寺開創
後、応永一八年(1411)総持寺の首座となり、応永二一年(1414)大隅国瑞光寺(応永九年祖東による開創、
現廃寺)で没したとみられる。ちなみに、江戸時代末期の末寺は七、
この地方曹洞宗の中心寺として栄えた。
応安4年 北 1月7日 愛媛県史 越智実弘、田畠を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安4年 北 1月23日 大日本史料 征西将軍懐良親王、河野通直をして、南朝伊予守護職を領知せしめらる
【築山本河野家譜】
応安4年 北 1月23日 愛媛県史 征西将軍懐良親王、河野通直を伊予国守護職に補する〔築山本〕
1371 建徳2年 南 久万町誌 ○河野通堯は征西将軍から南朝伊予国守護職に補せられる。
応安4年 北 2月13日 愛媛県史 比丘尼浄伊、田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安4年 北 3月6日 愛媛県史 幕府、弓削島荘を河野久枝新蔵人に預け置く〔百合文書〕
応安4年 北 3月20日 大日本史料 征西将軍懐良親王、南朝伊予守護河野通直をして、同国合田本領相残分を去渡
さしめらる【築山本河野家譜】
応安4年 北 3月20日 愛媛県史 征西将軍府、合田氏の本領の残分を渡すことを河野通直に命ずる〔築山本〕
応安4年 北 閏3月16日 愛媛県史 浅海通智、越智郡桜井郷内の土地を国分寺雑掌に沙汰付ける〔国分寺文書〕
応安4年 北 7月19日 愛媛県史 小早川宗平、弓削島荘給主職を請負う〔百合文書〕
応安4年 北 7月 愛媛県史 東寺、弓削島荘領家職を河野久枝新蔵人が押領するのを止めて同寺雑掌が知行する
よう幕府に訴える〔百合文書〕
応安4年 北 10月15日 愛媛県史 聖祐、桑村郡内の田地を観念寺に売却する〔観念寺文書〕
応安4年 北 11月21日 愛媛県史 幕府、白河侍従に粟井荘などを安堵する〔早稲田大学所蔵文書〕
応安4年 北 12月 愛媛県史 越智郡奈良原神社の境内に多宝塔が建てられる〔同塔台座銘〕
応安4年 北 久万町誌 ○西側南朝軍も今川貞世九州探題になって振るわなくなる。
応安4年 北 愛媛県史 『太平記』成る。 【太平記成立】*予章記、河野家譜は多く太平記を引用す。
1372 文中 南 4月 改元・出典(ぶんちゅう)(長慶天皇-4年間)【勘申者 】
1372 応安5年 北 愛媛県史 伊予の南朝方軍、守護細川頼有と讃岐国西大野で戦う〔祇園執行日記〕
応安5年 北 5月25日 愛媛県史 揖斐祐康、浮穴郡荏原郷内の所領を浄瑠璃寺塔頭斂影庵に寄進する
〔大徳寺文書〕
応安5年 北 9月26日 愛媛県史 細川頼之が職を辞し四国下向を計る。足利義満、これを諭止する。
応安5年 北 9月28日 愛媛県史 平法家ら、桑村郡古田郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安5年 北 11月13日 愛媛県史 細川頼有、大野詮直の軍忠を賞する〔大野系図〕。
応安5年 北 11月13日 大洲大野系譜 □大野詮直(北朝) 細川右馬頭頼有より感状を得る。 【原文参照】
応安5年 北 11月13日 久万町誌 ○大野詮義(北朝)は細川方として細川右馬頭頼明より感状を受ける。
【原文参照】
於与州致忠節之條、以心神妙也
弥可抽戦功状如件
応安五年十一月十三日
細川右馬頭 頼有
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
応安5年 北 11月15日 大日本史料 南党河野通直、顕等大姉の下地々頭職并に名主職を、伊予善応寺開山塔通
玄庵に寄進す
応安5年 北 11月15日 愛媛県史 河野通直、顕等大姉所有の地頭名主職を善応寺通玄庵に寄進する
〔善応寺文書〕
1373 応安6年 北 4月8日 愛媛県史 代官上野某、浮穴郡臼杵三島神社に所領を寄進する〔臼杵三島神社文書〕
応安6年 北 8月6日 大洲大野系譜 □大野治郎安芸守繁直元服、備前守繁高の烏帽子子。
応安6年 北 8月22日 愛媛県史 善応寺士顕正堂、同寺住持職を定めて士綱南宗に嗣がせる〔善応寺文書〕
応安6年 北 10月9日 愛媛県史 幕府、鎌倉五山の住持・両班年期を定める。
応安6年 北 11月10日 愛媛県史 越智通永、田地を周敷郡長福寺に寄進する〔長福寺文書〕
1374 応安7年 北 4月3日 大日本史料 征西将軍懐良親王、伊予守護河野通直(南朝)をして、大内弘世を周防に撃た
しめ給ふ【築山本河野家譜】
1374 文中3年 南 4月3日 山口県史整理年表 ○征西府、河野通直に弘世を撃たしむ 【河野家譜】
文中3年 南 4月 東和町史 ○河野通直(通堯)は征西府の命により周防の大内弘世を討ったが戦果は上がらず。
文中3年 南 7月19日 山口県史整理年表 ○大内弘世安芸に出軍す。毛利元春これに応ず。南軍毛利親衝(四十四
代元春の父)等また弘世に党して却って元春を攻む 【毛利家文書】
応安7年 北 8月3日 大日本史料 長慶天皇、伊予荏原郷のことに就き、使者を河野通直に遣し給ふ
【築山本河野家譜】
文中3年 南 10月7日 山口県史整理年表 ○足利義満(北朝)、石見吉見頼直の赤間関において菊池氏と戦える
軍功を褒す 【閥閲録】
文中3年 南 10月22日 山口県史整理年表 ○義満周防玖珂庄等の地頭職を金剛院に安堵す 【鹿王院文書】
文中3年 南 秋 山口県史整理年表 ○大内義弘を長門豊前の守護職に補す 【京都将軍家譜】
応安7年 北 12月11日 愛媛県史 越智氏永ら、桑村郡桑村郷内の田地を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
応安7年 北 愛媛県史 征西将軍府、河野通直を土佐国守護に奏請することを約して、土佐の北朝方
を討つよう命じる〔築山本〕
応安7年 北 大日本史料 懐良親王、伊予河野通直をして、北党を討たしめ、其の勲功あらば、土佐守護に
推挙せんことを約す【築山本河野家譜】
応安7年 北 上川大野系譜 ■大野詮直(北朝)は足利義詮公より諱詮の字を賜う。
永和元 北 2月27日 改元・出典「直書」「芸文類聚」 えいわ・即位改元による(後円融天皇-5年)
永和元年 北 3月1日 愛媛県史 細川頼有、三島神社に立願状を捧げる〔大山積神社文書〕
1375 天授元年 南 3月21日 山口県史整理年表 ○長門守護大内義弘入府し、一宮二宮に参詣す 【長門国守護職次第】
天授元年 南 4月13日 愛媛県史 僧重善ら、桑村郡興隆寺本堂を再建する〔同本堂棟札銘〕
永和元年 北 5月25日 大日本史料 懐良親王、大納言円明寺某を土佐に遣し、河野通直をして、之を扶持せし
め給ふ【築山本河野家譜】
1375 天授 南 5月27日 改元・( てんじゅ)・天災改元による(長慶天皇-7年間)【勘申者 藤原長親】
永和元年 北 8月15日 愛媛県史 長慶天皇、綸旨を発して、河野通直を刑部大輔・伊予国守護職に任じ周防国
大内弘世討伐を命じる〔築山本〕。
天授元年 南 8月15日 山口県史整理年表 ○南朝、河野通直を伊予守護職に補し、大内弘世を周防に撃たしむ
【河野家譜】
永和元年 北 8月15日 大日本史料 十五日、{癸卯、}南朝、治部權少輔河野通直ヲ、刑部大輔ニ任ジ、
伊豫守護職ニ安堵ス【河野文書、河野家之譜】
永和元年 北 9月9日 愛媛県史 前讃岐守、浮穴郡臼杵三島神社に年貢を寄進する〔臼杵三島神社文書〕
天授元年 南 11月 大興寺文書 ○土岐祐康、大興寺に寄進する。
永和元年 北 11月13日 愛媛県史 細川正氏、讃岐国伊賀野領家職等を兵糧料所として忽那重氏にあてる
〔忽那家文書〕
天授元年 南 11月20日 山口県史整理年表 ○幕府、義弘に命じて、貞世を授けしむ。管領細川頼之これを益田
兼見に報じ同心尽力せしむ 【閥閲録】
天授元年 南 東和町史 ○南朝は河野通直(通堯)を伊豫守護職に補任し、大内弘世を討たしめたが失敗した
もよう。
永和元年 北 11月21日 大日本史料 伊予守護代細川頼有、同国監引村に二宮太郎左衛門跡を大野詮直
に預け置く。 【大野系図】【大野詮直】
永和元年 北 11月21日 愛媛県史 細川頼有、塩引村(所在地不明)の所領を大野氏に預け置く〔大野系図〕
永和元年 北 11月21日 大洲大野系譜 □大野詮直(北朝) 細川右馬頭頼有より伊豫国塩引村二宮太郎の跡の
安堵状を得る。
【原文参照】
為上意所領
伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
所領置也 任先例可致沙汰状如件
細川右馬頭 頼有
永和元年十一月廿一日
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
永和元年 北 11月21日 大日本史料 ○伊予守護細川頼有同国塩引村二宮太郎左衛門跡を大野詮直に預け置く。
永和元年 北 11月23日 愛媛県史 征西将軍府、新田義宗伊予入国の予定を河野通直に告げる〔築山本〕
1376 天授2年 南 1月25日 愛媛県史 宇和郡に下向した西園寺公良、歯長寺寂証に法談を行わせる〔歯長寺縁起〕
天授2年 南 4月16日 山口県史整理年表 ○弘世、毛利匡時・直元とともに毛利元春の九州出陣に乗じて、小手崎
城を攻む。二十八日弘世俄に兵を解きて去る 【毛利家文書】
永和2年 北 4月22日 愛媛県史 細川頼有、保国寺に禁制を掲げる〔保国寺文書〕
天授2年 南 7月14日 山口県史整理年表 ○弘世、石見守護職を解任のことにつき武家を恨み南朝に降らんとす。
管領細川頼之弘世を諭す 【益田家文書】
天授2年 南 7月16日 山口県史整理年表 ○荒川詮範を石見守護職に補す。ついでまた、義弘を石見守護職とし
【花営三代記】
天授2年 南 閏7月16日 愛媛県史 征西将軍府、新居勅旨田を南朝方料所とするよう、河野通直に命ずる
〔河野(通堯)文書〕
1376 永和2年 北 伊予中世年表 ○西園寺公良、宇和之庄の松葉城(岩瀬城)に入る。
永和2年 北 愛媛県史 細川頼之、大野義直の伊予郡出淵での軍忠を賞する〔大野系図〕。
永和2年 北 12月26日 大野系図大日本史料 伊予守護細川頼之、大野義直(北朝)の同国道後・出淵に於ける
軍忠を褒す。 【大野義直出淵に俊出】
永和2年 北 12月26日 大洲大野系譜 □大野左衛門次郎義直は細川頼之【室町幕府官領(将軍の補佐役】から
道後に於ける戦功の感状を受ける。
【原文参照】
中山町誌 義直依抽粉骨戦功為 上意感状
伊与国打出道後出渕致忠節於其事尤以
伊予国道後出淵に打ち出し 忠節を致し候
神妙 弥可抽戦功状如件 其のこと尤も以て神妙
いよいよ戦功ぬきんずべき状 くだんのごとし
永和二年十二月廿六日 武蔵守 頼之
大野左衛門次郎殿(義直)
1377 天授3年 南 1月13日 山口県史整理年表 ○今川貞世、大内大友とともに肥後千府蜷打に南軍と戦いて大勝。
菊池氏また肥後に退却す 【後愚昧記】
天授3年 南 2月17日 愛媛県史 枝松光盛、伊予郡吾川郷観仏寺へ田畠を寄進する〔大洲旧記〕
天授3年 南 2月22日 愛媛県史 細川頼有、能寂寺に禁制を掲げる〔能寂寺文書〕
天授3年 南 6月 愛媛県史 高麗、使者を派遣し倭寇禁止を要請する。
天授3年 南 8月12日 山口県史整理年表 ○南北両軍白木原に戦い、大内義弘・満弘・毛利元春等の軍奮戦す
【後愚昧記】
天授3年 南 9月 愛媛県史 高麗使鄭夢周、来国する。
天授3年 南 10月 愛媛県史 余戸田重秋、土地を興隆寺に寄進し、ついで国分寺にも去り渡す〔興隆寺文書〕
天授3年 南 11月 大野系譜上田本 ○26代大野義直(中川十郎)(北朝) 細川満元の来書有り。
【原文参照】
土刕就 御退治 細川満元状曰
上意として土州退治之事、被 仰出候間
執事を越候也、国境之事ニて候得者、
憑入候、無等閑候者悦入候、委細状
不申次第猶庄林入道可申候、
兼又宇津宮方之事、自其能々御籌策ニて
無子細候者殊本望候、将又 上意之事
連々可心得申也 恐惶謹言
八月七日 (細川) 満元
大野殿
1377 永和3年 北 12月 大日本史料 南朝、刑部大輔河野通直、禁制を伊予善應寺開山塔に掲ぐ【善応寺文書】
1378 永和4年 北 芳闋乱史 後の伊豫の平岡氏勅命により下向する。 【平岡氏下向】
永和4年 北 10月8日 愛媛県史 宇和郡高田八幡神社神主光家、その子乙熊らに所領を譲る〔高田八幡神社文書〕
1379 康暦 北 3月22日 改元・出典「唐書」 こうりゃく・疫病改元による(後円融天皇-3年間)【勘申者 菅原長嗣】
1379 康暦元年 北 2月22日 日本全史 ○将軍義満が土岐頼康の追討令を諸国に発す。3月18日土岐の罪を赦す。
康暦元年 北 伊予中世年表 ○細川頼之は高峠城を攻撃し、落城。
康暦元年 北 4月1日 大日本史料 土岐頼忠、土岐詮直、京都に入る【花営三代記】 【土岐詮直】
康暦元年 北 4月14日 日本全史 ○管領細川頼之は失脚し讃岐に帰る。斯波義将、管領に任命さる。
【康暦の政変】
康暦元年 北 閏4月1日 大日本史料 土岐直氏、上京す【花営三代記】 【土岐直氏】
康暦元年 北 6月9日 愛媛県史 足利義満、門真周清に桑村郡田野郷地頭職を安堵する〔鹿王院文書〕
康暦元年 北 7月8日 愛媛県史 足利義満、河野通直を伊予国守護職に補する〔明照寺文書〕
康暦元年 北 7月8日 大日本史料 義満、河野通直を伊予守護と為す【河野文書】
康暦元年 北 7月8日 久万町誌 ○河野通堯は足利義満から北朝方の伊予国守護職に補せられる。
河野通堯(通直)南朝→北朝
康暦元年 北 9月5日 大日本史料 義満、河野通直をして、細川頼之を討たしむ【花英三代記、長州河野文書】
康暦元年 北 9月5日 久万町誌 ○足利義満将軍から細川頼之誅罰の御教書が河野通堯に発せられて頼之軍伊予国
に侵入する。
康暦元年 北 10月5日 愛媛県史 足利義満、小早川宗平に越智郡大島地頭職を与える〔小早川家証文〕
康暦元年 北 11月 美濃諸家稲葉系図 河野通直、安芸竹原で細川頼之入道常久と戦い同6日死す。
* この本は佐志久原を安芸竹原と混乱し、通能と混乱か)
康暦元年 北 11月3日 愛媛県史 細川頼之、桜井郷内光富名を祝三郎に与える〔三島家文書〕
康暦元年 北 11月6日 大日本史料 細川頼之、河野通直を襲ふ、通直、防戦し、西園寺某等と之に死す
【迎陽記、予章記】
康暦元年 北 11月6日 久万町誌 ○河野通堯は細川頼之軍と周桑郡(東予市)佐志久原で戦い討死す。之以河野家
全く振るわず衰亡の道を辿る。 【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 久万町誌 ○佐志久原の戦いで大野義直、父直頼は通堯と討死。27代家督は細川頼有の
推挙により詮義となる。 【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 上川大野系譜 ■大野直頼、河野通堯の配下として吉岡佐志久原で討死する。
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 大野系譜上田本 ○直利の兄で直国の男、直頼(大田三郎四郎二郎、中川十郎入道)は
河野通尭に属し吉岡佐久志原の戦いで討死する。 【吉岡佐久志原の戦い】
1379 天授5年 南 11月6日 上川大野系譜 ■大野義直、河野通堯の配下として吉岡佐志久原で討死する。義直と直頼の
関係は? 【吉岡佐久志原の戦い】
天授5年 南 11月6日 大野系譜上田本 ○26代大野義直(中川十郎) 吉岡佐久志原にて討死する。
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 11月6日 予陽河野家譜 ○河野家惣領 通尭 逝去。号 浄居庵桂峰道正大禅定門
【吉岡佐久志原の戦い】
康暦元年 北 12月3日 大日本史料 義満、山名時義、山名義幸を伊予に遣し、河野通直を援けて、細川頼之を
討たしむ【迎陽記、花英三代記】
康暦元年 北 宮窪町誌 ○小早川氏の庶家小泉宗平(北朝)は勲功の賞として足利義満から大島の地頭職を
与えられる。
1380 康暦2年 北 2月12日 愛媛県史 足利義満、河野亀王丸(通義)に対し、父通堯の忠節を賞する〔淀稲葉文書〕
康暦2年 北 2月13日 山城淀稲葉文書 ○河野亀王丸(通義・通能)【北朝】は足利義満から御書を頂く。
康暦2年 北 2月13日 大日本史料 義満、河野通直の戦死を褒し、其嗣亀王丸の軍功を奨励す【古今消息集】
1380 天授5年 南 4月28日 山口県史整理年表 ○義弘安芸平田庄の地を吉川経見に付し管理せしむ
【吉川家文書・家譜】
康暦2年 北 4月16日 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸(通義・通能)は足利義満から旧領安堵の御書を頂く。
【河野亀王丸・通義旧領安堵さる】
康暦2年 北 8月6日 愛媛県史 国内の地頭御家人に亀王丸の命に従って忠節をつくすよう命じる
〔臼杵稲葉文書〕。
康暦2年 北 9月16日 愛媛県史 西園寺家、桑村郡古田郷内得乃保公文職などを興隆寺に返す〔興隆寺文書〕
康暦2年 北 11月4日 上川大野系譜 ■大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶
康暦2年 北 11月14日 大洲大野系譜 □大野宮内少輔直氏逝去 齢80歳 法名 信慶大居士
康暦2年 北 11月14日 別本土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去
康暦2年 北 11月14日 内務省土岐系図 ○土岐直氏、伊予守、宮内少輔 知行尾張国 出家法名信慶 卒去。
康暦2年 北 11月14日 大日本史料 北朝前伊予守土岐直氏卒す【常楽記、土岐系図】 【土岐直氏】
康暦2年 北 12月29日 愛媛県史 足利義満、細川頼元に河野亀王丸の所領を侵さぬように伝える
〔臼杵稲葉文書〕。
康暦2年 北 予陽 大野軍記巻4 大野勝義(土岐詮直?)の代。河野・大野和睦の事。附、河野亀王丸へ
守護職を譲る事。
康暦2年 北 宮窪町誌 ○河野通義は足利義満から伊予守護職を安堵される。
1380 天授6年 南 11月15日 山口県史整理年表 ○大内弘世死す。五六 【大内氏系図】
康暦2年 北 愛媛県史 足利義満、鹿苑院を創建する。
1381 弘和 南 2月10日 改元・出典(こうわ) (長慶天皇-4年間)【勘申者 】
1381 永徳 北 2月24日 改元・出典( えいとく)・辛酉改元による(後円融天皇-4年間)【勘申者 藤原仲光】
1381 弘和元年 南 6月23日 愛媛県史 今川五郎、染城に懐良親王を攻撃する。
永徳元年 北 9月11日 愛媛県史 越智通高、観念寺に田地を寄進する〔観念寺文書〕
永徳元年 北 11月4日 愛媛県史 法円、越智本郡内の田畠を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
永徳元年 北 11月15日 愛媛県史 河野通義の弟鬼王丸、細川氏と和気郡福角で会見して和議をととのえる
〔予陽本〕
永徳元年 北 11月20日 愛媛県史 細川頼元、亀王丸に周敷郡北条郷多賀谷氏の善処を依頼する〔予陽本〕
1381 弘和元年 南 12月14日 山口県史整理年表 ○大内義弘熊谷直明に安芸国三入本庄・恒久・賀部庄料所名を安堵す
【閥閲録】
永徳元年 北 伊予中世年表 ○今川五郎は懐良親王を攻めた。河野通義の弟、河野通之は細川頼之の
養子となった。
永徳元年 北 伊予中世年表 ○河野氏、細川氏に宇摩・新居両郡を割譲で和議が成立。細川氏は高尾城に
代官石川氏を派遣。 【細川氏東予支配】
1382 永徳2年 北 2月1日 愛媛県史 北朝から宗昌寺開山大蟲宗岑に大証禅師の号が贈られる〔宗昌寺文書〕
永徳2年 北 7月17日 大洲大野系譜 □大野詮直 今川弾正通俊より 神崎庄北方、余戸村、窪田村、
安堵状を得る。
【原文参照】
伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重 *中央政府からの安堵で河野家からではないので中央被官と知れる
可有其抽賞旨、被仰下状如件
永徳二年七月十七日
弾正弼 (今川)通俊
大野十郎左衛門入道殿
永徳2年 北 9月8日 愛媛県史 伊予の僧法実、美濃国阿彌陀寺の開山となる〔立政寺文書〕
永徳2年 北 10月5日 愛媛県史 尼恵久、保国寺大海寂弘の塔頭に土地を寄進する〔保国寺文書〕
永徳2年 北 10月16日 愛媛県史 細川頼有、能寂寺に禁制を掲げる〔能寂寺文書〕
永徳2年 北 12月26日 大日本史料 善應寺僧徒等、祇園社燈油料の地を濫妨す、是日、幕府、土岐某をして、
之を禁止せしむ【八坂神社文書】
1383 永徳3年 4月3日 愛媛県史 和気郡西法寺の梵鐘が鋳造される[太山寺鐘銘]
永徳3年 7月17日 愛媛県史 宇和郡惣川興禅寺の本空没する〔本朝高僧伝〕
1383 弘和3年 南 10月29日 山口県史整理年表 ○二条良基、大内義弘の請により連歌書「十問最秘抄」を贈る
永徳3年 11月13日 愛媛県史 兼繁、田畠8反を観念寺に寄進する〔観念寺文書〕
永徳3年 愛媛県史 明帝、日本との通交を絶つ。 【明国断交】
1384 至徳 北 2月27日 改元・出典「老経」 しとく・甲子改元による(後小松天皇-4年間)【勘申者 藤原資康】
1384 至徳元年 北 予章記上蔵寺本 ○河野亀王丸は15歳にて元服、九郎通能と号す。時に君より義の字を
給わり通義と称す。
1384 元中 南 4月28日 改元
至徳元年 北 11月20日 愛媛県史 喜多郡五十崎地頭源高実、宇都宮大明神に大般若経を納める〔大洲旧記〕
1385 至徳2年 北 4月7日 郷土の歴史宮本常一 ○屋代荘北方は大内義弘の申請により、玖珂郡横山の永興寺に寄進され
た。建長2年東福寺に寄進されて135年後である。 【屋代荘北方永興寺に寄進】
至徳2年 北 4月7日 防長寺社由来7巻
足利義満公御判物写岩国領 横山
栄興寺領周防国屋代庄北方、石国本庄横山・向棚並
栄興寺足利義満判物 波野郷内佐多・生野等事
右任大内左京権太夫義弘朝臣申請、可命為当寺領之状如件
至徳二年四月七日 左大臣源朝臣 御書判有之
1386 至徳3年 北 予章記上蔵寺本 ○河野鬼王丸は15歳にて元服、通之と称する。
1386 元中3年 南 4月10日 芳闕嵐史 大野直利の息、大野直瀬(太田三郎左衛門尉入道延真)南朝方として討死?
大野家南北に離反
1387 嘉慶 北 8月23日 改元・出典「毛詩正義」 かきょう・疫病改元による(後小松天皇-3年間)【勘申者菅原秀長】
1387 嘉慶元年 北 12月25日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康 瑞巌寺で逝去七十三歳、
法名 建徳寺殿善光禄太夫右典厩高厳忠公大居士。
嘉慶元年 北 12月25日 徳山本土岐家伝系図 ○土岐頼清の男頼康、美濃・尾張・伊勢国守護、
瑞巌寺で逝去七十三歳、法名建徳寺。
嘉慶元年 北 ○美濃・尾張・伊勢の守護職を土岐康行は継承するも、尾張守護職を弟満貞に代えられたことで
尾張守護代土岐詮直が満貞と翌年交戦に至る。
1388 嘉慶2年 北 大野町史 宮内少輔土岐詮直は尾張の守護となったが、応永の乱に大内義弘に応じて謀反したので
誅されれ、斯波氏にとって代わられた。 【土岐詮直尾張守護】
嘉慶2年 北 ○尾張守護代土岐詮直が満貞と交戦し、康行も詮直を援助した、之が反幕行動と看做され
康行は明徳元年幕府の追討を受く。
嘉慶2年 北 3月17日 河野一族中系図 河野刑部大輔通昌は、温泉郡の内湯之山、風早郡菅沢中村両庄其の
他和気郡の所々を二男対馬守通之に賜る。
嘉慶2年 北 3月20日 臼木稲葉侯爵家文書 河野通義は伊豫守に任命される(後小松院綸旨)
*【この文書は元禄14年江戸河野権九郎が模写分】 【河野通義伊豫守綸旨】
1388 元中5年 南 5月9日 日本全史 ○尾張・土岐詮直(あきなお)が守護土岐満貞の入部を妨げようとして、
一族同士が黒田宿で戦う。
1389 元中6年 南 3月11日 日本全史 ○安芸・厳島社参詣のため4日に京を立った将軍義満が6日讃岐の細川頼之
と会いこの日共に社参する。
元中6年 南 3月13日 山口県史整理年表 ○将軍足利義満、厳島に参詣し、なお九州へ赴かんため三田尻の松原
に着き、義弘新造の旅館に入る 【鹿苑院殿厳島詣記】
元中6年 南 3月18日 山口県史整理年表 ○義満風浪にあい九州行きを止めて東帰す。義弘これに従う
【鹿苑院殿厳島詣記】
1389 康応 北 2月9日 改元・出典「文選」 こうおう・疫病改元による(後小松天皇-2年間)【勘申者 菅原秀長】
1389 康応元年 北 3月11日 広島県文書館 足利義満、厳島神社に参詣する。
1389 康応元年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、周防の竃戸の関(上関)で将軍足利義満に拝謁する。
康応元年 北 河野姓中系図 河野対馬守通之は湯之山宿之庄に堅城に修築する。
1389 元中6年 南 九大 阿蘇物語 得能屋形は河野通貞と講和した。落髪し伊予入道慶龍
1390 元中7年 南 3月25日 日本全史 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。
(義満、土岐氏内紛に軍事介入し、領国三分割し勢力削減)
1390 明徳元年 北 1月16日 大和越智氏伝記 ○越智伊予源五卒(瑞泉院殿義山信公大禅定門)
1390 明徳 北 3月26日 改元・出典 「礼記」 めいとく・天災改元による(後小松天皇-5年間)【勘申者 藤原資康】
元中7年 南 8月17日 山口県史整理年表 ○義弘吉川経任の軍功により志路原庄を管せしめんことを幕府に請う
【吉川家文書・家譜】
1390 明徳元年 北 3月25日 ○尾張・幕府が美濃守護、土岐康行を滅ぼす。(土岐氏の乱)
1391 明徳2年 北 ○土岐氏の乱で没落した土岐康行は明徳の乱で戦功をあげ、伊勢国守護職を
回復する。美濃国守護職は康行追討の戦功で土岐頼益継承
明徳2年 北 予章記 河野通能上洛す、義満、名を与へて通義と改めしむ【予章記】 【河野通能→通義】
1391 元中8年 南 4月3日 日本全史 ○京都・細川頼之が将軍義満の要請で上洛、弟で養子になった頼元が管領に
任ぜられ頼之は後見となる。
元中8年 南 12月30日 山口県史整理年表 ○山名氏清叛して京都に攻入る。義弘二条大宮に陣し奮戦す
【応永記(大内退治記)】
1392 元中9年 南 1月4日 山口県史整理年表 ○義満義弘の戦功を賞して紀伊和泉の守護職に補す
【応永記(大内退治記)】
元中9年 南 2月13日 山口県史整理年表 ○義弘山名義理討伐の命を受け、この日京都を発し二十五日これを
平定す 【明徳記】
1392 明徳3年 北 10月2日 大和越智氏伝記 ○南朝・北朝和睦、亀山院と号す。吉野皇居五十年
1392 明徳3年 北 10月5日 日本全史 ○南北朝合一。後亀山天皇が後小松天皇に神器を譲る。 【南北朝合一】
1393 明徳4年 北 4月11日 大日本史料 義満、河野通義をして、伊予の軍勢を伯耆に出し、山名氏幸を援けしむ
【諸家文書纂】
1393 明徳4年 北 河野氏の歴史 ○河野通義、山名氏討伐のため伯耆国へ出兵する。
明徳4年 北 9月 九大 阿蘇物語 河野豫州家領(久米・浮穴・温泉東部、及び安芸七島)を四国官領細川家に
出訴され得能通範叛く。 【豫州家領】
1394 応永 7月5日 改元・出典「会要」 おうえい・疱瘡改元による(後小松天皇-35年間)【勘申者 藤原重光】
1394 応永元年 8月2日 河野一族中系図 河野対馬守通之は得能備中守通興の女を娶る。
1394 応永元年 8月下旬 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。
応永元年 8月 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病に悩まされ家督を弟、通之に譲旨の申請をする。
1394 応永元年 11月7日 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。その安堵状
足利義満よりくる。
応永元年 11月7日 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病のため舎弟通之に家督を譲る。その安堵状
足利義満よりくる。
応永元年 11月7日 大日本史料 義満、伊予守護河野通義の請に依り、弟通之をして、同国守護職及び
本知行分を安堵せしむ【長州河野文書、築山本河野家譜】
応永元年 11月13日 予章記上蔵寺本 △河野通能(通義)病のため舎弟六郎通之に家督を譲る旨の遣書を書く。
応永元年 11月16日 予陽河野家譜 △河野通能(通義)病のため京都にて逝去、没後のことは久万宮内亟に
申し残した。号 温玉院殿梅岸道香大禅定門
応永元年 11月16日 大日本史料 前伊予守護河野通義、京都に卒す【築山本河野家譜】
応永元年 伊予中世年表 ○河野通之、桑原通興に鷺森城(壬生川)を築かせた。
応永元年 伊予宗教史・影浦直孝 曹洞宗の高僧祖東は喜多郡大野の人で、大鉄宗令に従い美濃妙応寺に
行き、応永元年喜多郡宇津村に渓壽寺を開き応永22年に寂す。 【喜多郡大野現出】
応永元年 宇津城と大野族・今井一行 応永元年 大野家宗家明正の頃、喜多郡大野に生まれた春厳祖東
(大伴氏の出)が渓壽寺を開く。 【喜多郡大野現出】
応永元年 渓壽寺過去帳 渓壽寺 大洲市菅田町宇津甲 ℡0893-25-5309
(渓壽寺及び大野館一帯が大野邑ならん)
応永元年 大洲旧記 渓壽寺の後見寺は中居谷邑の大野・冨永・橘・立花家の菩提寺、安楽寺となっている。
応永元年 愛媛県史
曹洞禅の展開
道元没後の永平寺教団は、かたくななまでに道元の遺風を固守しようとする義演などの旧派と、
教団の発展を強力に推進しようとする徹通などの新派が対立、徹通派は加賀大乗寺に移って独立、
能登に進出した。その法嗣□(宝のうかんむりの上部がツ)(けい)山紹瑾は能登に
永光・総持の両寺を開創(もとそれぞれ真言・律の寺院)、以上の三寺を拠点に地方進出を図り、
宗勢は永平寺を圧倒した。□(宝のうかんむりの上部がツ)山のあと峨山―通幻―石屋の法系を主流
として発展するが、特に各国守護や地方豪族の外護を得て基礎を 固め、また、旧仏教ならびに修験
の遺跡を復興して改宗、それらと習合しながら飛躍をとげた。そして、そのころ峨山派の能登総持寺
が中心になっていった。
石屋真梁(1345―1423)は、島津忠国の子で総持寺にあったが、島津元久に招かれて福昌寺を開創した
あと、大内氏の帰依を受けて周防国泰雲寺などを開き、ついで開創された同国龍文寺とあわせて、これら
三寺を拠点に九州・中国・四国へ教線を伸ばした。石屋の法弟仲翁守邦(1379―1445)は、島津元久の子、
一五歳で石屋の福昌寺に投じ、総持寺に出世した後帰郷して常珠寺などを開創、のち嘉吉三年(1443)
伊予で修行中魚成に留錫、元亨三年(1323)徳翁によって開かれた龍天寺を現在地奈良谷に移して
中興、禹門山龍沢寺とした。その後歴代住持の積極的な布教活動により、東宇和郡を中心に末寺五〇余
か寺を数える大寺になった。
御荘地方禅宗の中心寺である興禅寺は、開山直心宗白による応仁元年(1467)の開創といい、
のち龍沢寺末になった。
つぎに、石屋の開いた周防国泰雲寺の流れを汲む寺に高昌寺(現内子町城廻)がある。すなわち、
石屋の法孫大功円虫(?―1473)が、この地を巡錫中、嘉吉元年(1441)浄久寺(今その地名を浄久寺
という)に建立し、天文二年(1533)、この地方の領主曽根高昌が現在地に移築して菩提寺とし、
さらに弘治二年(1556)高昌寺と改称した。これまでこの地の寺院は願成寺を本寺とする時宗が多かった
が、願成寺を除いてほかはすべて高昌寺末となり、その数二四か寺に達する大寺になった。
同じ泰雲寺系で、安芸国勝運寺末の大仙寺(今治市本町)は、勝運寺開山以天圭穆(?―1591)の開創になる
もので、もと安芸国 豊田郡矢野村にあった新興寺を、天文初年ごろ同寺五世代に現在地へ移して大泉寺と
し、江戸時代に入って元文ごろ大仙寺に改めたという。
また、同じ泰雲寺系で、豊後安楽寺末とされる(総持寺史)大通寺は、さきに記したように、貞和年中
(1345―50)に大暁禅師によって 開創された臨済寺院であったが、明応年間(1492―1501)、中興開山
玄室守腋(備中総社華光寺)、開基河野通宣によって曹洞宗に改宗した。その後最後の鹿島城主来島康親が
豊後森に移封となるに伴い、大通寺の系統を移して安楽寺を開創した際、大通寺七世大室永廓の弟子が開山
となった。したがって、伽藍系からは大通寺を豊後安楽寺の末寺とするのはおかしい。
その大室永廓(?―1605)は、慶長元年(1596、『小松邑志』には元亀三年=1572)郷里に帰って天福寺
(小松町大頭、 現臨済宗妙心寺派)を再興して宇野氏の菩提寺とした。大室永廊は、妙口村剣山城主黒河氏
の配下宇野氏(獅子ヶ鼻城主)の嫡系家綱のことで、家督を弟為綱(識弘)に譲って出家した。この寺は
その後妙心寺派の臨済寺院になった。つぎに、同じ福昌寺末周防国龍文寺大菴須益(?―1473)を開山と
して招請、その弟子月湖契初(?―1524)を実質の開山として、 河野通直により、開創(開創年不明)
したのが龍穏寺(松山市御幸)であり、河野氏滅亡後の変遷を経、末寺一三か寺をもつこの地方の
曹洞宗の中心寺院となった。また、同じく大菴須益を開山とする寺に大雄寺(今治市室屋町)と隆慶寺(
今治市米屋町)があり、それぞれ文明五年(1473)、文明一一年(1479)の建立というが、龍穏寺と同様
おそらく招請開山であろう。なお、峨山の法系にある茂林芝繁(1393―1478)は興雲寺(小松町明穂)
の開山といい、通幻派の福島県長源寺末の寺院という。
さかのぼって、総持寺の基礎を確立した峨山は、貞治三年(1364)、「嗣法の次第を守り五筒寺住持すべし」
と遺誠した。その五箇寺とは、 峨山直嗣の太源・通幻・無端・大徹・実峰がそれぞれ総持寺山内に開創した
普蔵・妙高・洞川・伝法・如意の五院である。
さらに、各院には相ついで塔頭が建てられ、その数は二二箇寺にも達した。ここで特筆すべきは、総持寺の宗派
僧団が、総持派が全国に展開して大宗派になった根源になったことである。その秘密は開祖□(宝のうかんむりの
上部がツ)山・二祖峨山と継承された輪住制度にある。
それは、まず五院の住持が嗣法の順位によって本山に輪番で出仕することから始まった。そして、その後は五院が
三年を一期に順番に輪住者を出し、その期間は、さらに一年、半年、三か月、七五日と短縮された。これまでを
五院による輪住時代とするが、天正一五年(1578)の改革で五院それぞれに輪番地が設けられ、地方の輪番地
寺院が出仕することになった。そして、五院それぞれに設置された輪番地寺院は合計三三九箇寺に達した。
改革後の輪住任期は一年となり、輪番地からそれぞれの五院に出仕常住し、その間七五日間を本山当住とした。
すなわち、地方輪番地の住持が、短期間とはいえ本山総持寺の貌座に登る光栄に浴するわけで、ここに輪住制度の
もつ効果の秘密がある。
いま、伊予にあった輪番地をみると、五院のうち第四院(開祖大徹)の輪番地四九箇寺中に溪寿寺(現大洲市菅田町
宇津)があり、五回輪番に出仕したことがわかる。これを溪寿寺作成の年表についてみると、宝永元年(1704)以降
の五回が確認され、大洲侯の援助によって果たした輪番用の遺品を伝えている。
溪寿寺は、大徹宗令の法嗣春巌祖東(?―1414)が応永元年(1394)に開創した寺院である。祖東は大洲地方の
出身者とみられるが 俗姓は伴氏、大野村の人というだけでわからない。大徹に参じて曹洞の奥旨を極め、溪寿寺開創
後、応永一八年(1411)総持寺の首座となり、応永二一年(1414)大隅国瑞光寺(応永九年祖東による開創、
現廃寺)で没したとみられる。ちなみに、江戸時代末期の末寺は七、
この地方曹洞宗の中心寺として栄えた。