山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

安芸 能美島 山野井氏由緒

2022年08月28日 08時34分24秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
安芸能美島 山野井氏を語るに当たり同家の由緒から始めたいと思います。
今から10年以上前に、能美島山野井氏の子孫の方とルーツ探しをしたのが始まりでした。
山野井家秘伝の「山野井系図」をベースに他文書、他文献から少し肉付けしてみました。

山野井系図は伊予河野家一門をあることから、元祖を当然ながら、孝霊天皇より始まります。


時代は下がり、父親は、北条太夫 越智親孝 甲成氏長者の子とされます。
長男は河野宗家跡取り北条新太夫河野親経で、次男が河野高井家祖、河野(高井太夫)兼孝、
三男が河野遠藤家祖、河野瀧口家祖、河野浅海家祖、河野山野井家祖
河野盛孝となります。河野盛孝の長男家が河野遠藤親家(宗)、次男家が河野瀧口盛長、
三男家が河野浅海家祖 浅海能長となります。浅海能長から順に辿ります。

河野浅海家祖 浅海能長
   ↓
浅海頼季 (文久2・1205/32人組)浅海太郎 同舎弟等
   ↓
浅海信季(秀)
   ↓
【能美島山野井系図】
浅海秀清      (弟)浅海山野井通重(後久枝祖)「河野山野井江田島祖」
   ↓
河野山野井能美島祖
初代   山野井源平衛清景 イ【能美城主】
     源八兵衛 後源兵衛 能美島開基 始称山野井氏 当家元祖  
   ↓
二代目  山野井八郎左馬進景親 イ【能美城主】
     八郎左馬進 源兵衛                     

   ↓
三代目  山野井三兵衛景真 イ【能美城主】
     三兵衛 後 源兵衛                     
   ↓    
四代目  山野井縫殿真氏 イ(帰農?庶人)
     縫殿 後 源兵衛                       
   ↓
五代目  山野井八郎氏重
     八郎 後 源兵衛                       
   ↓
六代目  山野井四郎若狭守重秀  イ(有大内義弘感状)
     四郎 後縫殿充 若狭守                    
   ↓
七代目  山野井縫殿充仲次 イ(秀依)
     後秀 依縫殿充 後四郎                   

   ↓
八代目  山野井加賀守四郎景頼 イ(世次)
     後賢次 又世次 称三郎 後四郎 加賀守          
   ↓
九代目  山野井四郎民部景秀  イ永禄元年(1558/8来島通康手紙有)
     万菊千寿丸又四郎民部卿丸                
      イ 永禄4年(1561)厳島真柱建立 永禄6(1563.6/10 来島通康能美島安堵 )  
   ↓
十一代目 山野井源平衛景重     イ(従朝鮮文禄ノ役1593年)
     輿三又四郎 右近之助 又源兵衛            
   ↓
十二代目 中興祖 山野井源平衛重久    イ 360石
     前景親 異本有之後改重久 三兵衛後源兵衛     ↓
     帰農 庄屋(里正) 於山野井屋敷天正16年(1588)大野直房【是水】誕生【屋代島大野系図】
     慶長17年(1607)八幡社再建 寛永5年(1628)宝持寺再興開山                    
      イ 転封により、紀州浅野家広島下向砌、海上之先達、尚、蜜柑献上ス
     慶安四年(1651)4月7日卒 法名 宝持寺殿融安宗和大居士
     重久 妻、承応二年(1653)二月十五日卒 墓 能美島大原山野井家墓地
   ↓
十二代目 山野井源平衛重吉
     右衛門又 源七郎 後源兵衛               
   ↓
十三代目 山野井源平衛重次
     庄右衛門 後源兵衛                   
    
   ↓
十四代目 山野井源平衛重也
     右衛門市 後源兵衛 輿四郎              
   ↓
十五代目 山野井源平衛重廣
     源五郎 後源兵衛                    

   ↓
十六代目 山野井源三郎重仍
     重次次男 源三郎                   
   ↓
十七代目 山野井源三郎景休
     重也次男 世之丞後右衛門七後 源兵衛三兵    
     宝暦5(1755)割庄屋 山井三兵衛景休与頭中村利七同山井要助       
   ↓
十八代目 山野井源平衛景忠
     源太後利平太 源太平衛 源兵衛 隠居号壱起 
   ↓
十九代目 山野井源平衛景箆
     豹吉 後源兵衛                    
   ↓
二十代目 山野井傳右衛門景直
     岩吉 後伝右衛門                    

   ↓
  数代ヌケ
   ↓

明治期  山野井源次郎
(山野井準平と「山野井文書」の所有権確認訴訟有)

*これは山野井分家順平が宗家源次郎宅より家宝の文書を持ち出した事により所有権確認訴訟が起こされた
 ものと思われます。訴訟費用八百円とされますので、当時は立派な家が数軒建つ価格ですので、
 現在では二億円相当程度と思われます。順平所蔵の山野井文書を謄写した、明治政府の史料編纂所
 (現東京大学史料編纂所)はこの経緯を別編で「所有権未定」としてあります。

 山野井家には、「山野井文書」の他、「山野井本予章記」「河野山野井系図」を所蔵し、
 伊予史談会会長景浦氏は乱丁ではあるが、伊予河野家研究には欠かせないとしています。

尚、十数年前より能美島山野井家のルーツ研究に協力して頂いた、山野井家子孫は
広島にて山野井工務店を経営されているとか。

相次ぐブログの閉鎖で「山野井研究」はままなりませんが、広島の山野井さんご連絡下さい。

また、山野井氏の旧姓、河野浅海氏は大島郡では平郡の半分を支配し、江戸期は三田尻御船手組に属し、平郡舟子(カコ)として
殿様の参勤交代の海上輸送と警護にあたります。朝鮮通信使の時は大島郡各地から3000人の舟子を集め鞆の浦まで輸送警護
します。平郡の他の半分は鈴木氏の支配地でしたが、江戸期は同じく、平郡舟子とします。
浅海は伊予の浅海が浦に住んだ河野氏故、浅海と言います。鈴木は本貫地は和歌山県海南市で兄たちは源義経について平泉に
行きますが、弟たちは伊予河野家を頼り伊予に落延びますが、後に平郡島に移動し明治を迎えます。
大島郡の古い、浅海、鈴木家はこれらの系統の家が多いですね。

屋代島大野家と能美島山野井家

2022年08月28日 08時17分48秒 | 屋代島大野家と能美島山野井家
伊予の大野家と安芸能美島の領主山野井家との直接の関係は下記、「屋代島大野系図」に

『大野直房、天正十六(1588)戌子年 直政領地
 藝州能美島庄屋 山井源兵衛宅ニテ誕生』

とあります。これは少し説明すると、伊予大除城(現久万高原町)から安芸(広島)の毛利へ
援軍を頼みにに出かけた、大野直昌(なおしげ)の兄、直秀(なおひで)が故有って、能島村上武吉の許
に身を寄せ、そこで息子の直政(なおまさ)は元服しました。後に直秀は九州に赴きますが直政は
そのまま能島村上家に残り、村上武吉、息子の元吉に仕え家老職を務めます。

彼の職務の中で最大のターニングポイントは天正10年4月10日に行われたとされる、
能島村上を伊予河野家と毛利家と小早川家との離反を促す、秀吉による姫路会談でした。
この会談は来島村上家と能島村上家しか招待されていません。
因島村上家は口説いてもダメと最初から諦めていたのでしょう。

この会談は織田信長の先兵としての秀吉が企画したことで、備中高松攻めの直前の工作です。
会談が行われたのは姫路の浅野屋敷と伝わります。

結果はの来島村上家は河野家相続が認められない状態でしたので、秀吉の話に乗り織田信長に
付きます。能島村上家代表の直政は、能島村上家は伊予河野家とも毛利家とも切っても切れない
関係故、懐柔には応じられないとしてきっぱり断ります。

その後すぐ、明智光秀の信長暗殺により、いち早く光秀を成敗した秀吉が天下を取ります。

バランスが崩れた毛利、小早川、河野はその後、秀吉の猛攻を受けます。

村上家の能島城等の総下城を余儀なくされ、小早川の領地の竹原へ引っ越しします。
その時、大野直政は能美島大原に逗留します。この時生まれた息子が大野直房です。

逗留していた先が能美島大原の山野井源兵衛宅と記録されます。

前置きが長くなりましたが、ここでは能美島の山野井家にスポットを当ててみたいと思います。

余談ながら、能美島と江田島は地続きの同じ島です。
この島から泳いでやって来たイノシシが現在周防大島に繁殖し3万頭を超えるとか、
宮本常一氏時代にも泳いで渡ってきた記録がありますが、和田の浜にたどり着くや、ご馳走とばかりに
住民が打ち殺し「しし鍋」にして食べたそうです。
大島の猪はイノブタ系なので美味しいそうです。本土(大畠・柳井方面)の猪とは違うそうです。

皆で大島の猪を食べましょう。

周防大島 沖家室島 石崎氏

2022年08月28日 06時42分39秒 | 周防大島 沖家室島 再開基石崎氏
山口県周防大島の沖家室島は中世まで海賊島として存立していたとされます。
厳島の合戦で毛利軍が陶軍に打ち勝つまでは、大内系の海賊衆の根拠地と思われます。
宇賀島海賊支配とかが残りますがはっきりしません。
大島郡が厳島合戦の後、一時戦功として来島村上に与えられますが、来島村上が支配した形跡は見当たりません。
天正10年来島村上は主家、伊予河野家や毛利・河野家を裏切って、織田信長の手先であった秀吉の誘いに乗り織田方に
つきます。これに怒った毛利は大島の来島支配地を能島村上へ領地替えをします。
この時においても沖屋室まで能島村上が支配した形跡が見当たりません。

厳島の合戦,もしくは秀吉の「海賊禁止令」以来、沖屋室は海賊村としては打ち捨てられていたと思われます。

再度、荒れ果てた沖屋室の再開発を行ったのは、興居島にいた石崎氏であった。
柳原氏など伊予河野家滅亡後の家臣たちによる移住であった。
時に慶長11年(1606年)正月二十日沖屋室移住とされます。

是より前、慶長6年(1601)に関ケ原の戦いで負けた毛利とその支配下にあった、能島村上一統、因島村上一統は屋代島に
落ち延びてきます。能島村上家は和田を中心に、因島村上家は三蒲を中心にわずかな領地が与えられるだけでした。
能島村上家で3000石とされますが、鎌留により実質は1500石でした。元々最盛期に三万石近くあったのが千五百石では
家臣を養えないので、大リストラを余儀なくされます。暇を出されたもの、勝手に出てゆく者と大混乱でした。
この辺りのことは「給人行衛覚書」、通称、『能島家家頼分限帳』に記録されますので、そちらのスレッドにどうぞ。

領地がなくて困っていても沖屋室には手を出していません。
今もそうですが、耕地とする場所が少なく進出するに見合わない土地だったのでしょう。

興居島も住み辛くなった石崎家の次男坊が新天地を求めて隣の屋代島を物色していたのでしょうが、良い場所は殆ど無く
無人島の沖屋室であればどうぞと言われたとか。

石崎、柳原、友澤等の移住組はせいぜい数十名だったでしょう。
掘っ立て小屋を建て、狭い山を切り開いていったものとおもわれます。
遠い大水無瀬、小水無瀬までも開発にあたります。

ここでリーダーとなる、沖屋室島の再開基の石崎氏を見ていきます。

「橘町史」は初代石崎勘左衛門 慶長11年(1606年)正月二十日沖屋室移住する。とします。又、

「萩藩閥閲録④大島宰判大島郡庄屋石崎勘左衛門書出」は

初代石崎勘左衛門

右豫洲侍ニ御座候、四国兵乱落城後浪人仕、大嶋郡
八代嶋罷居候時分ニ沖家室嶋所柄見立、慶長十一年
正月廿日罷越切開奉遂御馳走、殿様御上下之節者、
御船中罷出御用等承、此者ゟ庄屋役被仰付、代々
引続所勤仕候、尤代々何廉御用ニ立申候事
二代石崎勘左衛門 勝太郎
三代石崎三郎右衛門
四代石崎勘左衛門

と書きますので「橘町史」はこれに沿ったものでしょう。しかし、
「油宇石崎系図」は
石崎顕宗(沖家室) 沖家室石﨑家・・・家紋 丸に方喰 浄土宗久賀村阿弥陀寺檀那  と書きます。

初代勘左衛門と石崎顕宗が同一人物か否か分かりません。

また友澤家なる家がありますが、この家は石崎一門で興居島時代の分家と思われます。

伊予 興居島の石崎家は長男「石崎四郎左衛門尉日為 河野殿エ随身日宗家督ス」とあり


次男が石崎二郎左衛門尉日行  能嶋殿エ随身後屋代嶋居住 (~1474・7/8)葬油宇浦浄西寺 文禄3年(1594年)カ
                ★徳孝院浄光日行居士
                       注)油宇浦浄西寺は明治4年からの名称(元浄土寺)矢代西連寺末 

と書きますので少し分かりにくくなります。

興居島の城を「伊予温故録」は
明澤城主・石崎四郎三郎日宗(日為の父)【伊予温故禄】
1606年(慶長11)に沖家室島に移住【伊予温故禄】
また
久留島村上家養子・黒瀬友澤城に移り長命【三島伝記】

と書きますので、沖家室開基が三人も四人も現れます。
ここでは城の名に注目です。伊予温故録は「明沢城」とし、(村上)三島伝記は友澤城とします。

「伊予温故録」は明治期のもので、玉石混交書とされ引用は要注意とされます。
「三島伝記」も戦記物であり伝記ものですから一次史料とはいえませんが、他に頼るものがありません。

石崎氏を囲む情勢もとても複雑ですが、絡み合った糸を少しづつほぐしていきましょう。

情報のお持ちの方の登場をお待ちします。
     
             












周防大島の小学校・中学校の消息記事作成中

2022年08月22日 09時02分38秒 | 周防大島学習館便り
周防大島町(旧四町)には多くの、小学校、中学校がかってありました。
いまは人口減少に伴い、次々と閉校し、見るも無残となりつつあります。
中学もかっての大島町立大島中学校と、現在、周防大島町立周防大島中学校が並立します。
久賀にあるので旧久賀中学を継承するのかと思いきや、新設なので、校歌も新しくなりました。
この校歌は星野哲郎氏の子息の手になるもののようです。
後数年たてば、現在屋代の大島中学校も閉校の上、久賀の周防大島中学へ生徒は引っ越しとか。
未だに、江戸時代の勘場(代官所)のイメージで久賀に引っ越すらしい。
島の玄関口小松ですら衰退しているのに、更に衰退している久賀へ移すとは明治維新が懐かしいのでしょう。
久賀の高校まで現在、なけなしの町税を使って交通費補助をしているのに時代錯誤としか言いようがない。
次の合併は貧乏な柳井市より金持ちの岩国市と囁かれる時代に無駄な投資でしょう。

そんな世間話はさておき、無くなりつつある小学校、中学校の記録を残そうと頑張っています。
各旧町の担当者の皆さま宜しくお願いします。

四境の役 基本史料と年表

2022年08月14日 06時41分17秒 | 第二次長州征伐 四境の役 大島口
1866年 第二次長州征伐 大島口 関係者

幕府軍 将軍 征長総督  徳川尾張大納言家茂公
出先先鋒総督  紀伊中納言徳川慶承侯茂承(しげつぐ)
主席閣老    小笠原長行侯(小倉口総督)、
              伊予方面総督・若年寄・丹波峰山一万千百四十石、京極主殿正高富

  芸州口布陣  海田 芸藩広島家家老出張

6月7日前後 草津 紀伊殿勢
廿日市 紀伊殿先陣
大野 榊原式部大輔御陣
玖波 井伊掃部助御陣
小方 井伊家家老 木俣土佐守
大竹 榊原家 原田中根、井伊兵部少輔御陣
宮島 美濃大垣 戸田采女正

御公儀様 千人隊、三兵隊、歩兵隊

他 松平越後守、松平左兵衛督、上杉弾正大弼、本田中務大輔、大久保出雲守、脇坂中務大輔、
板倉周防守、溝口伯老守、   その他 旗本本流。

大目付 永井主水正、目付役・戸川鉡三郎、
  富士山丸艦長・井出春房、大江丸・幕臣河野伊予守

          「永本本」 富士山丸艦長・望月大象

『所属 船名 原名 船形 船質・大砲 馬力 幅・長 屯数 造船国』

幕艦 富士山丸 フジヤマ 蒸気内車 12門 350 長55.8、幅9.9 1000 米国 初弾室津 8ノット134名

   長崎丸二番 ジェンリー 蒸気内車 鉄・ 120 長56.1,幅7.5 341 英国 (輸送船?)
                  乗組70名 (大分鶴崎徳応寺住職スケッチ有)

長崎丸一番 シアルツアル 蒸気外車 鉄・ 60 不詳 138 英国

大江丸(太江) ターキャン 蒸気内車 木 120 長48.6,幅7.8 不詳 米国ニューヨーク

翔鶴丸 ヤンチー 蒸気外車 木 350 長59.4、幅7.2 350 米国

朝日丸 無し 木・12門 長42.3、幅9.7 750 日本初建造軍艦石川島造船所 (水戸藩籍)

松江藩 一番八雲丸

長州軍  丙寅丸 オテントー 蒸気内車 鉄・ 30 長36.9、幅4.5 94 英国


伊予方面軍 先鋒・親藩伊予松山十五万石松平(久松)隠岐守、
     先鋒・松平式部大輔、伊達遠江守(宇和島藩)、松平阿波守(福島藩)
     二陣・土佐藩、高松藩、


松山藩 大将・老臣長沼吉兵衛、新製一番大隊・隊長吉田惣右衛門 /別手・家老 菅 良弼


長州軍 藩公 毛利
藩公名代 家老・井原主計、 、宍戸備後助(急遽、山形半蔵を家老・宍戸備前の養子)小田村素太郎、
大村益次郎


島内軍 大島宰判 代官・斎藤市郎兵衛  軍監兼参謀・石川幹之助【4/17就任】 「諸給領村寄」(大島郡大観)
島内藩士 屋代・村上亀之助(2500石)、五小隊【250名】粟屋帯刀 922石6斗5升6合志佐村・小松開作

村上亀之助砲隊(今元直人)機械方50名 村上筑後 2299石7斗8合 屋代・伊保田・油宇村
      
        注)村上亀之助隊の隊員名簿と働きは別の「村上亀之助隊陣中日記」を参照してください。

和田・村上河内守(1700石) 三小隊【150名】 村上久千代 1590石4斗2合 屋代・伊保田・小泊村

三蒲・飯田弥七郎 一小隊【50名】 平岡善兵衛 494石3斗4升5合 屋代・和佐村
【平岡譜録】平岡クリ(飯田弥七郎妻・)

三蒲・神ノ浦・村上太左衛門 一小隊【50名】 内藤常陸 303石1斗1升4合 志佐・日見村

和佐・北迫・平岡兵部甲太郎 一小隊半【75名】 御郷勘兵衛 96石3斗1升 志佐村
【平岡譜録】平岡甲太郎(実・村上太左衛門次男)通三・通義の養子 賀屋五兵衛 89石5斗7升7合

       志佐村
宍戸三丘隊(ミツオ) 二小隊【100名】 中村 一 61石6斗1升9合 笠佐

井原隊 一小隊【50名】 浦 靭負 291石2斗5升1合 三蒲村

護国団・大洲鉄然、一小隊【50名】 村上三郎助 398石5斗3升3合 三蒲村

神祇隊・平岡宮司  一小隊【50名】 飯田七郎左衛門 290石9斗3升2合 三蒲村

         注)神祇隊名簿は別に安下庄長尾八幡宮神官作成の名簿を参照してください。

西村庄兵衛組狙撃 80名程 村上次郎兵衛 205石7斗1升3合 三蒲村・神浦村

安下庄隊 狙撃  40名程 橋本八郎次 106石5斗5升8合 三蒲村

島外軍 第二奇兵隊(岩城山・軍監林半吉) 三小隊【150名】

世良修蔵、隊長国行雛次郎、斥候篠原又造、半隊長長村精右衛門、

洪武隊(旧士族隊・在花岡、総督小笠原弥右衛門) 三小隊【150名】

総督小笠原弥右衛門、軍監山形甲之進

浦隊(阿月) 一小隊【50名】
清水隊(立野) 一小隊【50名】
大野小隊(毛利隠岐) 三小隊【150名】
上関小隊   三小隊【150名】
大島小隊   一小隊【50名】
宍戸隊(三丘)
上関裁判代官、小川市右衛門


第二次長州征伐の動き

「藤舟本」 慶應2年 4月17日 井伊掃部助は五日市、廿日市、玖波駅に進軍し、幕府一番隊は草津駅に屯す。而して彦根侯は
  初本陣を五日市光禅寺に定め、次に廿日市に進む千数人の家中、初めは廿日市にありしが本月より
  平良村へ移れり。同日より草津駅外で関門を設けて守衛する。

「藤舟本」  慶應2年 5月15日 ●幕軍の芸州藩は国境守備と称し、寺田旅人助に兵を添え佐伯郡小方へ出張させた。(芸州口)
「藤舟本」  5月15日 ●芸藩は幕府からは助長(長州の味方)とみられた。(芸州口)

「平岡譜録」  5月17日 平岡仲之助通義(実・張内記良道次男)、石州口軍監として出張・甲之助は養子

「藤舟本」  慶應2年 5月19日 ●榊原式部大輔、己斐村へ進軍する。(芸州口)

「藤舟本」  慶應2年 5月21日 ●幕軍の芸州藩は番頭二川主税に命じ国境守備として小方へ派遣する。(芸州口)
「藤舟本」  ●芸藩は幕府からは助長(長州の味方)とみられた、小笠原長行より6月5日を進撃開始の命あるも自重する。(芸州口)

「藤舟本」 慶應2年 5月25日 ●征長総督府は四国各藩に対し征長の四国取締は京極主殿正高富侯である旨伝達し指示に従うようにとした。

「藤舟本」 慶應2年 5月26日 ●伯耆守と京極主殿正高富侯は大坂をたち広島へ向かう。

「藤舟本」 慶應2年 5月28日 ●幕軍の松平閣老(兵部大輔慶憲)来広す。(芸州口)

「藤舟本」 慶應2年 5月29日 ●幕府は長州との交渉を打ち切る。
「藤舟本」 ●芸州藩は交渉打切りの29日をもって正式に先鋒を断る建白書を閣老の小笠原長行へ差し出す。
        理由は「無名の師は進発せし むべきでない」。

「藤舟本」 広島・晴 ●長州交渉打ち切りをもって、松山藩は一軍追手大将、管五郎右衛門良弼(72歳)を興居島由良に出張させる。

「永本本」 広島・晴 ●「富士山丸艦長望月大象長州征伐日記」
  「十二時過ぎ、広島表金之助(永井金之助)より当番当てのご用状到来。右は明後二日壱岐の守殿、小倉表へ
   お越しに付き、翔鶴・長崎丸両艘差し仕えが無いよう取り計らいたいとの書状の写し、心得の為め申し越しました。」

「永本本」 慶應2年 6月2日 ●小笠原長行は2千の兵を率いて宇品を出帆する。
「藤舟本」 ●小笠原閣老、幕命により広島を去り小倉へ向かう。(芸州口)

「藤舟本」 慶應2年 6月3日 ●芸州藩は交渉打切りの29日をもって正式に先鋒を断る旨を閣老の小笠原長行へ差し出す。
       閣老から芸藩へ却下届くる。(芸州口)

「藤舟本」 慶應2年 6月3日 ●紀州徳川慶承、総軍指揮監督総督に任命され、富士山丸に乗船し大坂から広島に着く。

「永本本」 慶應2年 6月3日 ●小笠原長行は豊前沓尾に上陸しただちに小倉へ入り開善寺を旅館とした「小笠原長行伝」

「柴誠一履歴」 慶應2年 6月3日 小笠原長行は広島から小倉へは翔鶴丸に乗船し、第二長崎丸には軍事目付と小笠原家来が乗った。
         豊後沓尾届。

「藤舟本」 慶應2年 6月4日 ●広島応接主任、小笠原長行、広島を立って九州総督へ、若年寄京極主殿正は伊予方面総督へ向かう。

「藤舟本」 6月4日 ●芸州藩は先鋒却下の命に、再度、征長の名義が明らかでないから出陣出来ない旨の届出書を総督府へ出す(芸州口)。

「藤舟本」 6月4日 ●松山藩は老臣長沼吉兵衛を大将として,また新製一番大隊、隊長吉田惣右衛門を興居島由良に出張させる。
     松山藩嗣子久松定昭公(中軍大将)旗本を率い美津へ出陣する。

「藤舟本」 慶應2年 6月5日 ●追討先鋒総督紀伊中納言徳川茂承【しげつぐ】着広し、外廓茶邸をもって本営とする。(芸州口)。
  榊原式部大輔は草津へ進軍する。

「藤舟本」 慶應2年 6月5日 ●幕府目付役・石坂武兵衛、徒目付・瀧田正作が芸藩境係役・立野一郎の案内で玖珂郡新湊へ来て、
       岩国藩塩谷鼑介へ宣戦書を交付した。
       塩谷これを突き返し、宣戦される謂れはない、たってと云うなら山口へ参られよ。岩国藩は当事者ではない、と。両人怒って帰る。

「藤舟本」 6月6日 ●幕府は松山藩軍目付として荒川鉄太郎を派遣しこの日荒川は大坂から三津に着船した。
     幕府は宇和島藩にも軍目付として竹尾戸一郎を大坂から派遣し、同日郡中に到着する。
         ●幕府の四国征長軍取締、京極主殿正高富が広島から三津に着き、ただちに松山城下に入り、
            久松家菩提寺大林寺を宿舎とする。

「藤舟本」 10時ころ 6月7日
        ●突然、熊毛郡上関沖に軍艦富士山丸(艦長・井出春房)が現れ、大砲を発砲しながら、阿月まで侵入し、
         大島郡荷内島の瀬戸を抜け安下庄へ。

「藤舟本」 新歴 (7月18日)  安下庄、外入、島末の油宇を砲撃して午後4時に松山藩軍港興居島へ帰港する。

「谷直吉記録」 ○上筋より軍艦一艘襲来、10発ほと打ちかかる。

「藤舟本」 ●夕方、富士山丸と大江丸は相前後して由良港に入港した。大江丸には幕将河野伊予守が乗り込んでいた。
 河野は広島本営では大島攻撃の用意は済んでおり、厳島まで出陣している、明日8日、先鋒は久賀に向って進発する
        予定で前線基地を前島に置く予定であるから、松山藩も津和島まで出張って欲しい、以後は前島と津和島間で連絡を
        取り合いましょうと進言した。 この時、管の命令で雑役夫は経費がかかるとのことから総て松山へ返され、
        戦闘員1500名のみで出征する。

「藤舟本」 ●松山藩は後軍として服部正範が旗本の遊軍、御部屋備付属隊を率い三津に到着する。城の守りは藩主勝成公が
        当たり総動員体制となった。

「富士山丸日記」 ■朝五ツ半廣島表旅宿出立御船ヘ帰る。午後宇品抜錨、厳島hへ夕四ツ半過着。(富士山丸艦長望月大象 長州征伐日記)
  富士山丸艦長・肥田浜五郎説あり。(土屋重朗説)

「柴誠一履歴」 芸州表江引戻候途中、防州領上ノ関、安下ノ庄辺砲撃およひ、同日松山領奥居島之内由良之内前乗通候処、
         同処ニ大江丸御船 碇泊罷在候ニ付、同御船一同ニ相成、松山勢為乗組、同八日大島郡之内所々砲撃および、
         同日芸州宇品島江乗廻、長防所々戦争砲撃或陸軍兵運送之御用、日々相勤、同月晦日御船御修復として
         長崎表戻候処、於同所お買上相成候御軍艦回天御船江乗組、・・

「富士山丸日記」 ■宮島から富士山丸、翔鶴丸、朝日丸、八雲丸の四隻、陸軍乗り込み千石船1艘、百石、二百石積船7艘、
          小船3艘で大島へ出帆久賀着。

「藤舟本」 6月8日 ●芸州藩は出陣出来ない旨の届出書を総督府へ出すとこの日、単に国境の守備のみで良いとし
            中立の立場となる。(芸州口)。
    (7月19日)幕府は芸州藩の征長先鋒の令を解き、藩境等の守衛に任じせむ。

「谷直吉記録」○7日同様、上筋より軍艦一艘襲来、10発ほと打ちかかる。敵兵2000人程上陸。
「藤舟本」 ●興居島の海軍司令部は富士山、大江の2艦へ大島郡斥候を命じ、和船10隻を率いて油宇村に現れる。
   夕刻より雨  松山藩管五郎右衛門の船は梅鉢入りの12反帆の帆船で長沼吉兵衛の船も定紋入りの帆船であった。
   先頭は管の船で油宇到着は卯の下刻(6時)であった【従軍日記】
   富士山丸、大江丸は陸から10丁(凡そ1000M)に近づき砲撃を油宇村に加える。
   砲弾は浄光寺近くに落ち、農夫の深次郎の家内、みつと二才のおぶっていた子の傍で破裂した。
   松山兵は和船10余艘に200の兵を載せ、上陸し、内火縄をもつもの50人あまりで乱暴狼藉を働く。

「谷直吉記録」 6月9日 6月9日、10日 大雨。
   (7月20日)

「中原勲」 6月11日 朝○安下庄砲撃上陸、決戦、放火(松山兵凡1500名・被放火・690戸)【天保年間、1410戸】

「大島郡大観」(7月22日) ○安下庄危うしの報に村上河内隊は平良居村より日前の譜門寺迄行くとすでに安下庄は火の海であった。

「谷直吉記録」 ○五ツ時、軍艦2艘、小早商船取合100艘位参り、軍艦より数発撃ちかけ、三松庄の沖、洲鼻(スバナ)より
         200人位、3手で上陸する。

「中原勲 」   ○久賀砲撃上陸 決戦、放火(幕軍2000兵)

「中原勲」 ○大嶋兵遠崎へ引く(大洲、田村、三国、沓屋等活躍)

「中原勲」 戦死者 ★大谷 八郎  35才 護国団 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
「大島郡大観」 ィ ★大谷八郎秀乗 25才 戸田村照林寺僧、護国団機械方、久賀畑にt戦死。

「中原勲」 ★松岡 茂太郎 20才 三番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
「大島郡大観」 ィ ★松岡 茂太郎盛久 20才 小松庄屋松岡源兵衛の子、三番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。

「中原勲 」 ★冨山 勇記  21才 五番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀追原にて戦死。
「大島郡大観」ィ ★冨山 勇記義貞  20才 久賀農兵、大島軍六番小隊 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。

「大島郡大観」 ィ ★岩本 直吉敬信 27才 久賀村農兵 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。

「大島郡大観」 ィ ★赤川蔵人従者・川村 文庵方矩 72才 大島郡医 安下庄の戦いで戦死。

「大島郡大観」 ィ ★藤本 鹿之助常義 41才 久賀村農兵 幕軍侵入時、久賀にて戦死。

「大島郡大観」 ィ ★岡本 新太郎忠良 年齢不詳 村上亀之助小隊士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。

「大島郡大観」 ィ ★ 熊三 46才、椋野村農兵、幕軍侵入時、久賀国木峠にて戦死。

大島郡大観 ィ 6月12日 ★ 磯右衛門 61才、安下庄農兵、幕軍侵入時、安下庄で負傷し後、死亡。


「中原勲」 ◎回復戦 6月13日 ○久賀・前島沖の幕艦を夜襲する(高杉晋作(谷潜蔵) 丙寅丸【ヘイインマル】(オテントー号)で)
    (7月24日)

「毛利家編纂所」 6月12日 原紙は毛利家編纂所の正式な印刷用紙に書かれています。
         当時は東京・三田で使用されたものと思われます。
    (慶應2年6/12日を消し14日に直す。名称欄の「丙寅丸乗組員山田顕義報知書」を消し
         「丙寅丸幕艦砲撃事件」と改めている。
    6月14日  その後に続けて「丙寅丸乗組員山田顕義報知書」と改定しています。
    題名は「大島郡戦記全所載」の内、全所載を消している。備考欄に【毛利家編纂所所蔵】とあり
        さらに【校正済】とあるので色んな資料を纏めて編纂し正規の書とした跡が窺えます。
        よって一次史料としては扱えないこととなります。

『寅六月十四日丙寅丸乗組山田市之充報知

 過る十二日朝 丙寅丸にて大嶋郡小松沖江、停泊致候処、最早県令を始、村上一手農兵共、
 地方遠崎邊迠渡海致し応援之期に後れ、不堪憤懣、其夜月落而賊艦江乗懸、砲発七八發も
 打懸候得共、狼狽致候哉、賊艦よりハ砲発不致候処、其後追々打出候へ共、此方にハ矢留致し、
 小松沖へ乗戻候へ共、其日富士山と申、幕之大軍艦、伊予路江向け出航致候由。
 彼船立帰り出口を絶候てハ運洋難、俄に相成候故、又々賊艦より壱弐町沖通り芸洋に向け出懸々々
 七八發打押出帆致し、尤日落暗夜に付、玉付□(舟ヘンに定)と相成不申候へ共、灯火を目懸
 拾四五發打候ニ付、大小當りも有之様、相咄候事。』

「中原勲」 6月14日 ○本土兵、遠崎に集結(第二奇兵隊【世良修三・白井小介】、洪武隊【小笠原弥右衛門】、
         大野隊、浦隊、三丘隊、清水隊、上関隊)

「大島郡大観」 (7月25日) ○反撃軍を笠佐島で編成する。

 屋代進撃軍    第二奇兵隊、洪武隊、清水一小隊、大島土兵一小隊、〆て八小隊は屋代へ向かう。(約400名)

 沖浦進撃軍    大野小隊、上関小隊【小川市右衛門】、大島小隊、等七小隊は沖浦へ向かう。(約350名)

 三蒲椋野口進撃隊  浦一小隊、村上亀之助五小隊及び砲隊、村上河内三小隊、村上太左衛門、飯田孫七郎各一小隊
           平岡甲太郎一小隊半、三蒲椋野口へ向かう(約625名)

「中原勲」 6月15日 ○長州兵、大島へ入る。(本陣・西蓮寺、屯所・大元家・宮の坊、大龍寺) *大島上陸は14日とある。
  (7月26日) ○久賀木台で決戦(長州兵死5名・負傷18名)

「大島郡大観」 ○松山藩の敵牒、松本定右衛門、岩岡己之助が京屋金満(後の金満為之助宅)に滞在中を、森品蔵【大島鬼一】は松本を
   銃の台尻で打ちすえ、後、斬殺し、岩岡を生け捕りにし引き立てる。
  ○名刹譜門寺が兵火にあう。敵兵の放火によるものである。

          注)現住職永本氏はどちらが 放火したかは不明とするが、筆者は記録碑の幕軍放火を採用した。

「大島戦石碑」 ○夜、敵は前線基地の譜門寺に火を放す。
   ○沖浦口は不戦。

「中原勲」 戦死者 ★松永熊蔵  46才 椋野村軍夫  幕軍侵入時、国木峠にて戦死。
     ★岡本 新太郎 年齢不詳 村上亀之助小隊士 幕軍侵入時、国木峠にて戦死。

「中原勲」 6月16日 ○笛吹峠、源明峠、三ツ石峠で決戦。松山兵撤退(死・12名、負傷者23名)長州兵(死者4名・負傷者不明)
「大島郡大観」 (7月27日) ○16日は濃霧であり戦況を有利とした。

「中原勲」 戦死者 ★野村 吉蔵 23才 奇兵隊小隊戦士 久賀三ツ石にて重傷、8月10日病死。
「大島郡大観」 ィ ★野村 吉蔵 都濃郡須々万村農兵 久賀清水峠にて重傷、8月10日死亡。

    ★国行 雛次郎  33才 奇兵隊司令士  幕軍侵入時、久賀にて戦死。  」
「大島郡大観」 ィ ★国行 雛次郎寛政  23才 第二奇兵隊小隊司令  幕軍侵入時、久賀にて戦死。 

    ★波多野 五郎  30才 毛利隠岐司令士 幕軍侵入時、久賀清水峠にて戦死。
「大島郡大観」 ィ ★波多 五郎忠政  30才 大野毛利の臣、小隊司令 幕軍侵入時、清水峠にて戦死。

    ★竹中 甚之助 19才 洪武隊戦士 久賀三ツ石にて戦死。
「大島郡大観」 ィ ★竹中 甚之助直行 19才 洪武隊戦士 久賀清水峠にて戦死。

    ★山脇 種蔵  19才 九番小隊戦士 幕軍侵入時、笛吹峠にて銃の暴発により即死。
    ★大波野 市蔵 年齢不詳 上関大波村軍夫 幕軍侵入時、笛吹峠にて戦死。

「大島郡大観」 ィ ★田村 国松  西屋代農兵 村上亀之助の砲兵、発砲訓練の際負傷し後死亡。

「大島郡大観」 戦死日不明で別に、村上手の小物・兵左衛門、東蒲野農兵 常次郎 傷死、あり

「大島郡大観」 松田 作右衛門 地方組、卒日不明、用務にて駆けまわる中、敵の間者と間違われ屋代村において殺害さる。

「精忠不朽ノ碑 」   同碑に他の戦死者はあるが、★川村文葊の墓や名が洩れている。

「中原勲」  6月17日 ○久賀総攻撃、幕軍撤退(長州兵死者9名、幕軍死70名、負傷30名)
「中原勲」    戦死者 (7月28日) ★金谷 磯右衛門 46才 安下庄軍夫  幕軍侵入時、国木峠にて戦死。
「中原勲 」 ★久行 丈之助 年齢不詳 宍戸備前小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて戦死。
「中原勲 」 ★泉 徳太郎 20才 毛利隠岐の臣 幕軍侵入時、久賀地区において戦士。
「大島郡大観」 ィ ★泉 徳太郎純成 20才 第二奇兵隊 幕軍侵入時、久賀地区において戦士。

「中原勲」 ★仲木 直太郎 39才 洪武隊戦士 幕軍侵入時、久賀地区で戦死。
「大島郡大観」 ィ ★仲木 直太郎近明 39才 洪武隊戦士 幕軍侵入時、久賀地区で戦死。

「中原勲」 ★山本 与吉郎 23才 六番小隊戦士 幕軍侵入時、久賀にて重傷、後、病死。
「大島郡大観」 ィ ★山本 与吉良久 31才 久賀農兵 六番小隊戦 久賀にて重傷、後、病死。八月

「中原勲」 ★藤本 鹿之助 42才 久賀村軍夫 幕軍侵入時、久賀地区にて戦死。
「中原勲」 ★岩本 直吉 25才 久賀村軍夫 幕軍侵入時、久賀畑にて戦死。  
「大島郡大観」 ィ ★山脇種蔵重秋 19才 遠崎村農兵 六番小隊、久賀にて戦死。
「大島郡大観」 ィ ★久行 丈之助定信 三丘宍戸隊、銃卒 久賀にて戦死。

「大島郡大観」 6月18日 ○久賀及び安下庄からは敵軍を放逐したが、以前沖の軍艦留まりて
         (7月29日)に睨みあいが継くが戦闘はなし。

「中原勲」 6月19日 ○幕府兵再び久賀へ上陸。略奪・放火(1000戸)【天保年間1600戸在り】
         (7月30日)

「中原勲」   戦後始末 6月20日 幕軍残兵斬首  14名  小者7人は返還、後、大島の村人15人返還
  理由制札
         「皇国の大道を乱し、妄りに正義の国へ立入り、乱暴を致したるその罪をもって、誅伐を加うるものなり」

「大島郡大観」 ○大嶋口の戦利品はフランス式砲2門、臼砲2門、、小銃、和銃、鎧等数知れず。
     生け捕りの14名を斬首【小松手崎大川】松山藩士岩岡己之助以下11名、
          長沼吉助、田中某、松本定右衛門以下14名)

         注)このことを町教育委員会は小松手崎の「首切地蔵」の所の説明文を掲載しているが、手崎のこの
           場所はそれ以前より処刑場として使われているので、江戸期の一揆の時も多くの百姓代表が処刑
           された場所でもある。「大島町誌」松山藩士分格の人達は瀬戸の墓所に丁寧に葬られ、現在も一部
           の墓が残っています。

「中原勲」 10月29日  安下庄焼き払い賠償金返還(150両)
               「小銭を持って来たので突き返す」【なめんなよ 松山藩!】

             注)この家は現在取り壊されています。和睦はせずに、代表がいる山口へ行けとします。

「中原勲」 11月15日  松山藩士、開作にて相対、(謝罪、和睦?)
        「兵士の罪ばかりとは申されぬ、その点は合見外のこと、寛大に処置されるがよかろう」